大炊御門万里小路殿跡(白河天皇内裏跡) (京都市中京区)
ruins of the residence of Oinomikado-madenokoji-dono
大炊御門万里小路殿跡 大炊御門万里小路殿跡
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 富小路通夷川上る西側に「大炊御門万里小路殿址(おおいの みかど までのこうじどの あと)」の石標が立つ。
 大炊御門万里小路殿は、平安京左京二条四坊十一町にあった。石標の位置は敷地の南東よりになる。白河天皇の内裏としても使われた。
◆歴史年表 平安時代、この地(平安京左京二条四坊十一町)には、但馬守・源高房(?-1077)の邸宅「大炊御門万里小路殿」があった。
 1073年、第71代・後三条天皇(1034-1073)は、病により邸に行幸し、屋敷で亡くなる。
 後に、中納言・源能俊(1071-1137)の領となる。
 1104年、白河法皇(第72代)は仮の御所とした。
 鎌倉時代末期、里内裏として度々利用された。
◆源高房 平安時代の源高房(?-1077)。詳細不明。但馬守。妻は大江定経の娘。子に高実。
◆源能俊  平安時代後期の公卿・源能俊(みなもと の よしとし、1071-1138)。大納言・源俊明(としあきら)の長男。母は藤原師基の娘。1100年、参議。108年、左兵衛督・使庁別当を兼帯。1111年、権中納言。1117年、治部卿を兼帯。1122年、権大納言、1131年、大納言。正二位。
後三条天皇 平安時代中期の第71代・後三条天皇(ごさんじょう てんのう、1034-1073)。第69代・後朱雀天皇の第2皇子。母は第67代・三条天皇の皇女・禎子内親王(陽明門院)。母は170年ぶりに藤原氏出身ではなかった。3歳で親王宣下を受け、1045年、義兄の第70代・後冷泉天皇即位により12歳で皇太弟になる。1046年、元服、大納言・藤原能信の養女・茂子(中納言・藤原公成の娘)を妃とした。1068年、即位。外戚関係のない藤原教通(のりみち)を関白とした。大江匡房(おおえ の まさふさ)を頼り親政を行う。荘園整理令を出し、摂関家に打撃を与えた。公定枡を制定(延久の宣旨枡)した。1069年、記録荘園券契所を設ける。1072年、子の第72代・白河天皇に譲位、出家し金剛行と号した。1073年、大炊御門万里小路殿で亡くなる。石清水八幡宮の放生会を勅祭とし、祇園社、稲荷社に初参詣、円宗寺を営む。
 遺骸は神楽岡で荼毘に付された。永観堂に御骨堂がある。墓は円宗寺陵にある。
◆白河天皇 平安時代の第72代・白河天皇(しらかわ てんのう、1053-1129)。 第71代・後三条天皇の第1皇子、母は中納言・藤原公成の娘・茂子。1072年、20歳で即位した。1075年、法勝寺の創建に着手する。父の遺言に背 き、1086年、8歳の子・善仁親王(第73代・堀河天皇)に譲位後、自らは白河院として院政を行った。1087年、別業の鳥羽殿(南殿)を建立する。1107年、5歳の孫・第74代・鳥羽天皇、1123年、曾孫・第75代・崇徳天皇と、3代にわたり43年間の強権的な執政を行う。「治天の君」といわれた。院御所は主に六条院とした。200か所以上の倉を有し、1077年、六勝寺の初めである法勝寺、1095年頃、白河に白河殿を建立した。熊野参詣は9度行う。延暦寺衆徒の嗷訴(強訴)に苦慮し、源平の武士を登用しその台頭を促す。
 西三条殿内裏で亡くなる。衣笠山山麓で荼毘に付され、香隆寺に埋葬される。その後、1131年、成菩提院(成菩提院陵)に改葬された。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都 歴史案内』『京都大事典』『京都史跡事典』


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map 大炊御門万里小路殿 〒604-0972 京都市中京区大炊町351,富有自治会館,富小路通夷川上る西側
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