甘南備寺跡(元甘南備寺) (京都府京田辺市) 
ruins of Kannabi-dera Temple
甘南備寺跡  甘南備寺跡
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甘南備山


「甘南備寺跡」の石標


 甘南備山(かんなびやま)の山頂に祀られている甘南備神社の東、100mほど崖下一角、清浄堂(ちんちんどう、薬師谷)に甘南備寺(かんなびでら/かんなびじ)跡が残されている。江戸時代までこの地に、神社の神宮寺だった甘南備寺があった。
 真言宗、本尊は薬師瑠璃光如来だった。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 飛鳥時代、7-8世紀(601-800)、役行者が、甘南備山で柴灯護摩(さいとうごま)の秘法を修していたという。
 奈良時代、天平年間(729-749)、行基により、甘南備山の中腹に開創されたという。当初は、真言宗だった。霊山守護の寺院であり、平安京のほぼ真南に位置し、護国のための寺院だったとみられる。最盛期には七堂伽藍が建てられていた。
 平安時代、1040年頃、比叡山の首楞巌院(しゅりょう-ごんいん)の僧・鎮源の書いた『本朝法華験記(ほんちょうほっけげんき)』にも寺院は記されている。
 平安時代末期、説話集『今昔物語集』には、「加美奈井寺」「神奈比寺」と記され「聖人」の話が登場する。天台宗であり、本尊は薬師如来だった。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、荒廃した。
 室町時代、1429年、一休は、大応国師開山の妙勝寺に入り、甘南備山に登った。子どもらと問答したという。
 江戸時代、1689年、伽藍の腐朽、交通不便なため、この地の吉川政信(宗顕)らが麓の現在地(京田辺市薪)に移し、黄檗宗に改宗した。
 現代、1985年、薪区文化委員会により寺跡地の整備が行われた。
◆役行者 飛鳥時代の山岳呪術者・役行者(えん-の-ぎょうじゃ、634?-?)。役小角(えん-の-おづぬ/しょうかく)、役の優婆塞(えん-の-うばそく)、役君(えのきみ)。大和国に生まれた。賀茂一族(高賀茂朝臣)の出身ともいう。生駒山、葛城山、大峰、熊野で修行した。吉野金峰山を開く。32歳の時、葛城山で孔雀明王の像を岩窟に安置し、持呪観法したという。699年、弟子・韓国広足(からくに-の-ひろたり)は、役行者が妖言を吐いたと密告し、伊豆国に流罪にされる。701年、赦された。数多くの呪術的な伝承が残された。富士山、九州の山々で苦行し、前鬼、後鬼の二鬼を従えたという。神仏調和を唱え、真言密教の呪法を使う仏道修行者、呪術に優れた神仙、道教の医術方術に習熟した行者とさる。修験道の開祖になる。
 平安時代初期-中期以降、山岳信仰、密教と結びつき伝説が生まれた。江戸時代、1799年、朝廷より神変大菩薩の勅諡号が贈られた。
行基 飛鳥時代-奈良時代の僧・行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668/667-749)。百済系の渡来人・高志(こし)氏。河内国の生まれ。父は高志才智、母は蜂田古爾比売。681年/682年、出家、官大寺で法相宗などを学ぶ。691年、高宮寺で具足戒を受けた。畿内に道場、寺を建立し、溜池、溝・堀、架橋、困窮者の布施屋建設などの社会事業を行う。704年、生家を家原寺とし住した。717年、民衆煽動と僧尼令に反した寺外活動の咎で、詔により弾圧を受ける。731年、弾圧を解かれた。732年、河内国狭山下池の築造に関わる。734年、東大寺大仏建立の詔が発布、勧進の任を務めた。736年、インド出身の僧・菩提僊那一行来日に際し太宰府で迎えた。738年、朝廷より行基大徳の称号が授与される。740年以降、東大寺大仏建立に協力する。741年、聖武天皇と恭仁京郊外の泉橋院で会見した。743年、東大寺大仏造営の勧進になった。745年、朝廷より日本初の大僧正位を授けられる。菅原寺(喜光寺)で亡くなる。地図の行基図を作成したという。東大寺「四聖」の一人。 80/82歳。
◆仏像 本尊は平安時代の慈覚大師(円仁、794 -864)作の薬師瑠璃光如来像とされた。
◆建築 かつて、最盛期には現在地、清浄堂(薬師谷)の上下東西に、七堂伽藍が建てられていたという。
 現在、桂石、土盛、瓦片、近くに円筒形の古井戸(直径1m、深さ1m)が残る。建物があったという平坦面は、周辺に多数残されている。現在、「甘南備寺跡」の石標が立てられている地点より、もう少し下が中心地だったともいう。
◆神奈比寺の聖人 平安時代末期に成立したという説話集『今昔物語』巻14第25に、甘南備寺は「加美奈井寺」「神奈比寺」と記されている。平安時代、1040年頃、比叡山の首楞巌院(しゅりょう ごんいん)の僧・鎮源が記した『本朝法華験記(ほんちょうほっけげんき)』にある説話を基にしている。
 「山城国神奈比寺の聖人、法華を誦し前世の報を知る語」の題がある。綴喜郡の飯岡(飯ノ岳)の西北、山寺の甘奈比寺に一人の僧が住んでいた。僧は日頃より寺を出て、都の大寺に移りたいと願っていた。僧が寺を出ようと決心した夜、夢に本尊の薬師如来が現れた。
 薬師如来は老僧が化身したものであり、僧に告げた。僧の前世は、この寺の土中に棲んでいたミミズだったという。だが、土中で法華経を毎日聞いていた功徳により、現世に人間として生まれ代ることができた。薬師如来は、この縁ある寺を去ってはいけないと僧に諭した。
 以後、僧は寺に留まった。生涯にわたり法華経を読誦し、菩提を弔ったという。 
◆薪猿楽 かつて甘南備寺のあった付近は、「薬師谷」とも呼ばれている。伽藍が建つ平坦面の三段を「竹の段」と呼んだ。能楽の金春座(こんぱるざ)の前身は「竹田座」であり、この竹の段に由来するという。
 麓の薪神社では、祭日の前に、神主は甘南備山を拝伏し、甘南備寺の薬師谷で神楽を奏した。さらに、麓の古宮に榊を納めて神楽を奉納した。この神楽は猿楽であり、後に能楽に発展する。
 奈良時代、俳優(わざおぎ)の子孫・薩摩の阿多隼人(あたのはやと)は、薪村に移り住む。作曲は「竹の段」と称された。隼人は、この曲舞(くせまい)により、山の月読神を招き猿楽奉納した。金春能とは、この曲舞と猿楽の合したものであり、薪猿楽に発展する。
 室町時代、能楽の名手・金春禅竹(1405-1468)は、一休寺の門前に屋敷を構え、晩年を過ごした。一休寺門前に「薪能金春芝跡」の碑が立つ。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 
*参考文献 京田辺市教育委員会・京田辺市文化財保護委員会の説明板、『田辺町史』、『田辺郷土史 社寺篇』、『薪誌』、『京都府の地名』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都の地名検証』、『甘南備山マップ』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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