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霊洞院 〔建仁寺〕 (京都市東山区) Reito-in Temple |
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霊洞院 | 霊洞院 |
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![]() ![]() ![]() 参道 ![]() ![]() ![]() ![]() 庫裡 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 隠寮「左辺亭」 ![]() ![]() ![]() ![]() |
建仁寺境内の南東に塔頭・霊洞院(れいとう-いん/れいどう-いん)がある。山門に「専門僧堂」と掲げられており、多くの建仁寺管長、老師を輩出してきた。 臨済宗建仁寺派。本尊は観音菩薩。 ◆歴史年表 南北朝時代、1334年、建仁寺26世・高山慈照(こうざん-じしょう)の没後、弟子・海雲禅慧らがその塔所として創建した。高山は追請開山とする。 1352年、延暦寺と宮辻子の敷地を巡り争う。 1355年、霊洞庵など6塔頭が焼失した。 1357年、延暦寺が霊洞庵の宮辻子の領有を認める。 室町時代、1552年、兵火により焼失する。 1555年、希三宗燦(きさん-そうざん)により再建された。 江戸時代、1853年、妙心寺63世・全室慈保(ぜんしつ-じほ)により現在の建物が再建される。(『坊目誌』) 1859年、全室慈保が再興するともいう。 近代、1891年、僧堂常住になり、護国院を禅堂にする。 1898年、建仁寺派の専門道場を併置している。 1925年、竹田黙雷(たけだ-もくらい)が退隠し、「左辺亭」が建てられる。以後、本派の専門道場が置かれた。 現代、1974年、庭園が国の名勝に指定された。 ◆高山 慈照 鎌倉時代中期-南北朝時代の臨済宗の僧・高山 慈照(こうざん-じしょう、1266-1344)。男性。俗姓は菅原、法名は心鏡、諡号は広済禅師。天台学、律を学ぶ。無本覚心(むほん-かくしん)の法嗣になる。南浦紹明(なんぽ-じょうみん)、高峰顕日(こうほう-けんにち)らに師事した。紀伊・大慈寺の住持、万寿寺、建仁寺26世。建仁寺・霊洞院に移る。1346年、堆雲軒の勧請開山になった。1340年、足利直義の求めにより祈雨し、2日目に降雨させたという。菅原道真の命日に自らの死を予言し果たした。78歳。 法灯系。 ◆海雲 禅慧 鎌倉時代後期-南北朝時代の臨済宗の僧・海雲 禅慧(?-?)。詳細不明。男性。高山慈照の弟子。1334年、建仁寺・霊洞院を創建する。 ◆希三 宗燦 室町時代後期の臨済宗の僧・希三 宗燦(きさん-そうざん、?-?)。詳細不明。男性。宗璨。1555年、建仁寺・霊洞院を再建した。 ◆全室 慈保 江戸時代後期の臨済宗の僧・全室 慈保(ぜんしつ-じほ、?-?)。詳細不明。男性。妙光寺63世、建仁寺348世。文化年間(1804-1818)、建仁寺・大中院の堂宇を再建した。 ◆竹田 黙雷 江戸時代後期-近代の臨済宗の僧・竹田 黙雷(たけだ-もくらい、1854-1930)。男性。名は宗淵(そうえん)、別号は左辺亭(さへんてい)、黙雷禅師。壱岐(長崎県)の生まれ。大陽庵の良堂について出家し、国分寺の洪堂、博多・崇福寺の蘭陵に師事した。亀井南溟に漢学を学ぶ。上洛し、妙心寺の越渓守謙(えっけい-しゅけん)、美濃・正眼寺の泰竜に学ぶ。福岡・梅林寺の東海猷禅(とうかい-ゆうぜん)の印可を受けた。建仁寺・石窓紹球(せきそう-じょうきゅう)の法嗣になる。荻野独園(おぎの-どくおん)の信任を得て建仁寺の僧堂を開創した。1892年、建仁寺派管長になる。高台寺本堂、建仁寺山門などを建立した。1925年、霊洞院に退隠し、「左辺亭」が建てられる。著『黙雷禅話』、『暗号密令』など。76歳。 ◆建築 隠寮「左辺亭(さへんてい)」は、近代、1925年に竹田黙雷が退隠し、境内に信者の寄進により建てられる。二階建、四畳半、一畳台目の茶室がある。 ◆文化財 ◈紙本墨書「読漢書詩」1幅(重文)がある。鎌倉時代、13-14世紀の第92代・伏見天皇(1265-1317)の宸翰になる。東京国立博物館寄託。 ◈紙本墨書「村庵霊彦墨跡 尺牘」は、室町時代後期、1474年作。紙本墨書「石室善玖墨跡 道号偈」は、南北朝時代、1386年作。紙本墨書「高山慈照墨跡 福成寺条々規式事」は南北朝時代、1338年作。紙本墨書「中巌祖稜墨跡 盆石記」は南北朝時代、1372年作。紙本墨書「伯師祖稜墨跡 秉払上堂謝語」は、室町時代中期、1436年作。紙本墨書「天隠龍澤墨跡 希三号」は、室町時代後期、1483年作。紙本墨書「常庵龍崇墨跡 玉成号」は、室町時代後期、1522年作。紙本墨書「道旧疏」は、室町時代後期、1528年。紙本墨書「希三宗燦墨跡 秉払上堂謝語」は、室町時代後期、1549年作。紙本墨画「達磨図 白隠自画賛」は、江戸時代(18世紀)作。 ◈絹本墨画淡彩「山水図」は明時代、15世紀の鶴亭筆。絹本墨画淡彩「三鷹図」は、明時代、15世紀作。絹本墨画「二老観泉図」は清時代、17世紀の周震筆。紙本墨画淡彩「山水図」は、清時代、1856年の彪新錦筆。 ◈紙本墨書「朝鮮国書契」は、江戸時代前期、1643年作。 ◈紙本著色「三教図」は、江戸時代前期、1670年、狩野探幽画による。岳南の賛がある。孔子・釈迦・老子が描かれている。 ◈「青磁陰刻牡丹唐草三足香炉」は、元、14世紀作。 ◈紙本淡彩「琴棋書画図」6曲1双(重文)は、安土・桃山時代、16世紀の海北友松筆による。京都国立博物館寄託。 ◈紙本墨書「唐人物花鳥押絵貼屏風」6曲1隻は、安土・桃山時代、16世紀の海北友松筆による。 ◆障壁画 安土・桃山時代、16世紀の海北友松筆、絹本著色「花鳥図襖」4面がある。 ◆庭園 書院の南、東に観賞式庭園(国の名勝)がある。矩形で800㎡の広さがあり、江戸時代中期、享保年間(1716-1735)に作庭されたとみられる。作庭者は不明。江戸時代の『都林泉名勝図会』(1799)に記されている。 東山を借景にして、池の背後に苔の低い築山、その外に植込がある。書院前の狭い苔地に飛石、その先に横に広がる池がある。南正面の対岸池畔には青石の蓬莱石(1.5m)を立てる。その前に横長い切石6枚の橋が架かる。橋の四隅に橋添石がある。池中には亀石を置き、織部風の寄せ灯籠、対岸に十重石造層塔、小祠なども立つ。 近代、明治期(1867-1912)、土橋が石橋に変えられている。昭和期(1925-1989)、重森三玲(1896-1975)により修復された。 *非公開 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『建仁寺』、『京都の禅寺散歩』、『建仁寺 建仁寺と栄西禅師』、『京都・山城寺院神社大事典』、『旧版 古寺巡礼京都 6 建仁寺』、『京都古社寺辞典』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都秘蔵の庭』、『京の茶室 東山編』 、『朝鮮通信使と京都』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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