誓祐寺(苅萱堂),Seiyu-ji Temple,Kyotofukoh



誓祐寺(苅萱堂) (京都市南区)
Seiyu-ji Temple
誓祐寺(苅萱堂)  誓祐寺(苅萱堂)
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 誓祐寺(せいゆうじ)は、平安京の推定されている鳥羽作道(現在の千本通)の沿道に建つ。苅萱堂(かやんどう)とも呼ばれている。山号を苅萱山という。
 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。 
◆歴史年表 鎌倉時代、建暦年間(1321-1313)、苅萱道心(かるかや どうしん)の開創によるとされる。道心は、高野山参詣の際に、この地でしばしば足を留めたという。
 江戸時代、苅萱堂と称された。
◆苅萱道心 平安時代-鎌倉時代の伝説的な僧・苅萱道心(?-1214?、かるかや どうしん)。加藤左衛門繁氏。筑前刈萱荘博多の武士、後に出家する。子に石堂丸(いしどうまる、石童丸)とされる。
◆仏像 本堂に本尊、念持仏の阿弥陀如来を安置している。円空作という。
 脇檀に室町時代の地蔵菩薩を安置する。小石仏であり、石堂丸の面影があるという。
◆説話 苅萱道心、石堂丸(石童丸)の説話がある。話には多少の変化がある。
 平安時代後期、博多の守護職・加藤左衛門繁昌は、苅萱の関守も兼ねた。世継ぎなく、香椎宮に祈願すると満願成就の日にお告げがあった。石堂口に行くと、地蔵尊の左手に光り輝く石がある。その後、妻は身籠もり、男児が産まれた。石堂口に因み名を石堂丸と付けた。
 石堂丸は後に繁氏と名乗り、父を継ぎ苅萱の関守となる。繁氏には妻(桂子御前)と若い側室(千里)があった。両人は親しげに見えて反目し、あたかも二匹の蛇が絡み戦うような様だった。やがて妻は側室を殺めようとする。だが、家来のはからいにより他の者が身代わりになる。側室は家から逃れた。
 繁氏は自らの罪と人の業の深さを悟り、東山黒谷の法然に従い出家、高野山の安養寺円慶を頼り登りる。萱庵を結び修行に励み、円空(刈萱道心)と称した。残された妻は男児を産み、父と同じ幼名・石堂丸と名付けた。また、播磨国の大山寺に逃れ、観海上人に身を寄せた側室が子を産み、石堂丸と名付けたともいう。
 後に、石堂丸は父を慕い、母とともに高野山に赴いた。山は女人禁制であり、石堂丸は一人で山に入り父を探す。だが、父と再会することはかなわなかった。最後に一人の僧に出遭う。石堂丸が僧に父のことを尋ねると、僧はその人はすでに亡くなったという。石堂丸と母は落胆し下山した。
 その後、母も姉も急死し、石堂丸は一人残される。石堂丸は再び高野山に登り、あの時の僧を尋ね、師弟の契りを結ぶ。石堂丸は修行に励み道念坊と称した。師とは父・刈萱道心だった。道心は、石堂丸がわが子と知りつつ、生涯にわたり石堂丸に告げなかったという。
 後に、石堂丸は高野山、父・道心は信濃・善光寺に離れ、同時に往生したという。また、ともに苅萱堂で修行を行ったともいう。
 説話は、中世、高野山の蓮華谷、往生院谷の萱堂の高野聖が語り、説教師により説教(唱導)として流布した。『善光寺親子地蔵縁起』より、謡曲「苅萱」、説経浄瑠璃、浄瑠璃、歌舞伎などに展開する。江戸時代、1806年の曲亭馬琴の読本『石堂丸苅萱物語』がある。
 善光寺には二人の親子地蔵が安置されている。道心は善光寺に赴き、御堂を構え地蔵菩薩を刻み没した。追って石堂丸も信州に移り、父と同じく地蔵菩薩を彫ったという。高野山往生院谷には、密厳院に属する苅萱堂があり、いまも道心と石堂丸について唱導している。和歌山県新高野街道(長坂)にかつて観音寺刈萱堂が存在した。そのほか、和歌山県橋本市に学文路刈萱堂(仁徳寺)、長野市に刈萱堂往生寺、愛知県稲沢市に刈萱堂刈萱寺なども残されている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
 

*参考文献 『京都市の地名』『京都大事典』『史跡探訪 京の七口』、九州国立博物館のサイト、高野山霊宝館のサイト


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誓祐寺 〒601-8172 京都市南区上鳥羽鍋ケ淵町30  075-691-3322 
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