徳正寺 (京都市下京区)
 
Tokusho-ji Temple
徳正寺 徳正寺
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 繁華街の富小路四条を下がった徳正寺町に、地名の由来になった徳正寺(とくしょうじ)がある。独創的な茶室「矩庵」が開かれている。
 真宗大谷派。本尊は釈迦如来像。 
◆歴史年表 室町時代、1486年、越前荒井城主・井上遠仲(願知)は、蓮如に帰依した。後に子孫により、当初は勝久寺(しょうきゅうじ)として創建された。東山大谷(東山区)にあり、井上遠仲(願知)が開山になる。
 その後(年代不詳)、徳正寺と寺号を改め、二条猪熊(中京区)に移転する。
 安土・桃山時代、1602年、徳川家康の二条城築造に伴い、二条猪熊より現在地に移る。
 その後、度々、禍火に遭う。
 現代、2003年、茶室「矩庵」が完成する。
◆願知 室町時代の浄土真宗の僧・願知(がんち、1439-1527)。俗名は井上遠仲。かつて越前荒井の武士、越前荒井城主。蓮如に帰依した。1465年、比叡山衆徒による大谷廟堂の襲撃に際し、親鸞墓、蓮如を守ったという。また、祖墳を守護し大谷道場と称した。のち子孫により徳正寺の開山となる。
◆秋野不矩 近現代の画家・秋野不矩(あきの ふく、1908-2001)。浜松市の生まれ。1927年、千葉・石井林響に師事。1929年、京都・西山翠嶂塾「青甲社」に入門。1936年、文展鑑査展で「砂上」が選奨受賞。1938年、第2回新文展で「紅裳」が特選受賞。1948年、上村松篁、広田多津らと日展を離れ「創造美術」を結成。1949年、京都市立美術専門学校助教授就任。1951年、「少年群像」が第1回上村松園賞受賞。1962年-1963年、インド・シャンチニケータンのビスバ-バラティ大学(現・タゴール国際大学)客員教授。1966年、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)教授。1974年、京都市立芸術大学美術学部退職、名誉教授。「創画会」結成し会員となる。1991年、文化功労者顕彰。1993年、第25回日本芸術大賞受賞。1998年、天竜市立秋野不矩美術館(現・浜松市秋野不矩美術館)開館。1999年、文化勲章受章。
 インドに魅せられ、モチーフとした。ネパール、アフガニスタン、カンボジア、アフリカも描く。
◆秋野等 現代の陶芸家・秋野等(あきの ひとし、1945-)。日本画家・秋野不矩の5男。京都芸術大学陶磁器科卒。師は七代清水六兵衛。徳正寺住職。木工、金工も行う。
◆藤森照信 現代の建築史家、建築家・藤森照信(ふじもり てるのぶ、1946- )。長野県生まれ。1971年、東北大学工学部建築学科卒、東京大学大学院を経て、東京大学生産技術研究所で近代日本建築史を研究。1974年、堀勇良らと建築探偵団を結成し、近代洋風建築の調査を行う。1985年、東京大学生産技術研究所助教授、1986年、赤瀬川原平、南伸坊らと路上観察学会を結成。1991年、神長官守矢史料館を初設計する。1998年、東京大学生産技術研究所教授。2001年、日本建築学会賞を受賞。
◆鶴見俊輔 近現代の哲学者・鶴見俊輔(つるみ しゅんすけ、1922-2015) 。東京生れ。政治家・作家・鶴見祐輔の長男。1942年、アメリカ・ハーバード大で哲学を学ぶ。移民法違反容疑によりFBIに逮捕、留置中に卒業論文「ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズム」を書く。1943年、捕虜交換船で日本へ帰国。海軍嘱託、病により内地還、1945年、敗戦。1946年、京都人文学園講師、都留重人、丸山真男、武田清子らと「思想の科学」を創刊。1949年、京都大学人文科学研究所助教授、1954年、東京工業大学助教授、1960年、日米安全保障条約調印に抗議し辞職。1961年-1970年、同志社大学教授、1965年、小田実らとベ平連を結成、ベトナム反戦運動を組織した。1970年以降、評論活動に入る。
 知識人の戦争加担への視座は、限界芸術(非専門的芸術家により作られ大衆に享受される芸術)を、大衆文化・生活・意識まで含めて展開しその可能性に注視し続けた。著『共同研究転向』など。徳正寺に墓がある。
◆仏像 鎌倉時代の仏師・安阿弥(快慶)(生没年不詳)作という「阿弥陀如来」がある。
◆縄文建築団 縄文建築団は前衛美術家・作家の赤瀬川原平(あかせがわ げんぺい、1937- 2014)が命名した。業者が行わないような施工作業を素人が行う。2003年の徳正寺茶室「矩庵」の施工では、施主・秋野等を中心に、設計者・藤森の知人の赤瀬川、イラストレーター・南伸坊、ライター・杜氏・谷口英久らが加わった。2004年には高過庵(長野県茅野市)の施工がある。
 なお、徳正寺には、1986年に赤瀬川、藤森らが結成した「路上観察学会」の京都支部が置かれ、活動の拠点になっていた。
◆茶室 境内に高床式、褐色壁の茶室「矩庵(くあん)」(5.38㎡)がある。設計は藤森照信により、「超茶室」とも呼ばれる。2002年に施工着手し、13カ月を経て2003年に完成した。秋野等、「縄文建築団」も作業に加わった。
 庵名の矩庵とは、日本画家・秋野不矩の「矩」と、「規矩準縄(きくじゅんじょう)」に由来する。「規」とは円形を測る器具であり、「矩」は直角定規のことであり方形、直角を測る。「準」は水平を測る水準器、「縄」は下げ振り縄を意味し垂直、鉛直を計測する。古代中国では物事の標準、天下治平の規範を表し、物事の基準を正すことも含む。
 茶室は境内の南西、二面の塀の隅を利用して建てられており、塀壁を背に庭側に迫り出している。茶室と瓦葺の塀壁は褐色で一体化する。銅板葺き(銅版円形一文字葺)の三角の屋根を載せ、屋根も壁面も外部に膨らむ。(円弧半径、R20m)。この外観の緩やかな2つの曲線は、秋野の提言による。壁は、ツーバイフォーの木製パネルに、ラス網(金網)モルタル下地、色モルタル塗り。軒下には自然木の垂木が突き出し、銅板の2つの個性的な樋も付けられ、庭に雨水を落している。茶室の外観はアフリカの伝統的、土俗的な民家、また、イスラム教の礼拝施設・モスク建築にも着想を得ているという。
 茶室は白砂敷の庭園に建てられ、湿気を嫌い高床にしてある。床下には、樹齢20年ほどの三つ又の栗の木による掘立柱が立つ。この栗の部材は、藤森邸にあったもので伐採後、移された。茶室は、実際には栗の柱ではなく、二つの壁の側面に支持される形になる。変形五角形のにじり口は床に開けられ、床下の栗の木の梯子を伝って上り下りする。
 茶室内部は三角形をしており、3畳ほどある。床、床柱はなく、白い壁、床の内装は5度塗りの土佐漆喰壁による。これは稲藁のスサを醗酵させ、カキ殻粉(石灰)と練り合わせている。開口部は三角形の底辺部分にあたり、秋野自作のステンドグラスの窓になる。窓枠はほぼ正方形で、縦二本の桟で仕切られ、ガラスと鉛桟は正方形、長方形の組み合わせによる。
 煎茶のため不要な炉には、水が張られ四季折々の花が生けられている。これは、小川流煎茶家元・小川後楽の提言による。日本画家・秋野不矩は渡印を重ねたことで知られる。亡くなる前年、2000年に92歳で初めて西アフリカを取材旅行している。正面壁にはその際の写生帳、茶室内に持ち帰ったサハラの砂なども飾られている。
◆庭園 作庭は藤森照信による。白砂敷きで、細い筒に芝生を生やした「緑の彫刻」、応接座敷の縁より茶室に向かう飛石、蹲踞、燈籠などもある。
 芝生の「緑の彫刻」といわれる造形は、茶室に向かう飛び石を跨ぐ形のアーチと、それに交差した地を這い、小枝にしな垂れる波のような芝生を張った筒状の造型をいう。
 前者はフランスの建築家ル・コルビュジエ(1887-1965)が、1932年にソビエト政府の依頼を受け設計したものの実現しなかった複合施設「ソヴィエト・パレス」の大屋根を吊るためのアーチに着想を得た。
 後者はスペインの画家・サルバドール・ダリ(1904-1989)の、1931年の代表作「記憶の固執(柔らかな時計)」中、枯木に架けられしな垂れた時計に連想を得たともいう。
◆文化財 本堂に秋野不矩の絵画、秋野等の青白磁作品などを展示する。
◆細川の井 境内は室町時代-戦国時代の武将・細川勝久(生没年不詳)の邸宅跡という。応仁・文明の乱(1467-1477)で、勝久は東軍の有力武将として戦う。邸は、1467年に西軍により火をかけられ焼失した。
 境内に「題徳正寺細川井」と記された碑が残されている。
◆墓 近現代の哲学者・鶴見俊輔の墓がある。


*普段は非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都市の地名』『京都美術の新・古・今』


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