


キョウチクトウ




本堂


シダレウメ

ウメ |
東の寺町と呼ばれる長門町に、祐正寺(ゆうしょう-じ)がある。町名は、安土・桃山時代、聚楽第があり、木村長門守重高、また長門毛利氏の邸が置かれたことに因むものという。山号院号は大應山慈光院という。
浄土宗、百万遍知恩寺の末寺、本尊は阿弥陀如来。
江戸時代、洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第9番札所、札所本尊は妻娶地蔵(妻取地蔵、つまとりじぞう)。縁結び、家庭円満、家運隆盛の信仰がある。京の通称寺霊場12番、妻取地蔵。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1602年、僧・雲白により法然ゆかりの念仏道場として創建されたという。
江戸時代、寛文年間(1661-1673)、第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。
1797年、焼失する。
その後、再建された。
◆百々俊悦 江戸時代の医者・百々俊悦(どど-しゅんえつ、?-1755)。男性。津山の生まれ。百々家は典薬寮医師を務めた。京都の見龍院法印不破に医学を学ぶ。御医、法印に叙せられた。見寿院を贈られる。俊悦は薬礼の額により、診療に厚薄が出ることを避けるため、包みを一度水桶に入れ紙が溶け、誰からの礼か判別できなくなってから回収していたという。
◆百々俊徳 江戸時代の医者・百々俊徳(どど-しゅんとく、1776-1839)。男性。父・俊亮の2子。父に医を学ぶ。1802年、分家、開業した。皆川淇園に儒学を学ぶ。太田錦城、梅辻春樵、頼山陽らと交流した。『江戸下向記録』を著す。
◆本尊 本尊の阿弥陀如来立像は、平安時代の僧・恵心僧都(源信、942-1017)作ともいう。
◆妻娶地蔵 地蔵堂安置の延命地蔵尊は、妻娶地蔵(つまとりじぞう、妻娶結地蔵、妻取地蔵)と呼ばれている。彩色され蓮華座に坐り、左足を下げた半跏像、右手斜めに錫杖、左手に宝珠を載せる。像高1m。
◆墓 江戸時代の医者・百々俊悦、南百々家の俊亮、俊道、俊徳などの墓がある。
◆修行体験 写経会(毎月5日)。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都市の地名』、『新版 京のお地蔵さん』、『旧版 京のお地蔵さん』、『京都市姓氏歴史人物大辞典』、『増補版 京都の医史跡探訪』
、ウェブサイト「コトバンク」
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