冷聲院 (京都市西京区)
Ryosho-in Temple
冷聲院 冷聲院 
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「孝子儀兵衛翁菩提寺」の石標


本堂


本堂


地蔵堂
 西京区川島の冷聲院(りょうしょういん)は、山号は知足山という。
 近代、国定教科書「修身」で紹介され「孝子儀兵衛」と称えられた農民・儀兵衛の墓がある。
 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1582年、領主・革島一宣が、秀誉上人を開山として創建した。
 近代、1898年、川島校校長・鈴木岩人は冷聲院境内に草生した儀兵衛の墓を発見する。
 1923年、文部省は儀兵衛の逸話を国定教科書に掲載する。以後、全国より軍人、各種団体などが墓参に押し寄せた。
 1927年、本堂が失火焼失している。
 現代、1966年、現在の本堂が再建された。
◆革島一宣 室町時代の武士・革島一宣(かわしま かずのぶ、1509?-1581)。革島就宣の子。越前守。革島氏18代。1534年、父の死により家督相続した。1565年、三好三人衆の一人・岩成友通に敗れ丹波に逐われ、本領は三好氏臣鶏冠井氏が奪う。1568年、織田信長上洛戦で山城に復帰。1570年、越前で兵船集結の功により信長に本領・西岡革島の知行還付された。1572年、信長により細川藤孝の寄騎衆に配された。1573年、淀城の戦いに加わる。1578年、藤孝の丹波入封には同行せず、明智光秀に従う。
◆儀兵衛 江戸時代の農民・儀兵衛(ぎへい、1724-1779)。四条堀川西入の商人・紙屋市兵衛の子。生後すぐに川島村二丁縄手(右京区川島粟田町)の貧農・半右衛門の養子に出される。7歳で養母が乳母奉公した北野上七軒富田屋に、母とともに奉公に出る。1733年、10歳で養父が没した。16歳で母と川島に戻る。家計苦しく農業手伝、油しぼり、荷持ち、駕篭かき、普請手伝、小料理、襖張替え、小間使などで働く。30歳の頃実母でないことを伝えられ、生家に戻ることを勧められるが断る。36歳で結婚したものの1カ月で離婚した。病気がちの養母の看病を40年間も続けた。養母に好きな食事をさせ、自らは牛馬餌のような屑米の雑炊を啜っていたという。
 革島家に出入りした関係で、同家親類筋の漢学者・中井竹山(1730-1804)が儀兵衛を紹介する冊子を出した。以後、孝子として評判になり、各地より儀兵衛のもとに救済金が寄せられた。親子の暮らし向きは楽になる。1770年、鷹司家より褒美を贈られた。第118代・後桃園天皇も表彰した。1772年、母は82歳で亡くなる。1779年、儀兵衛は56歳で没している。
 1898年、川島校校長・鈴木岩人は儀兵衛の墓を冷聲院で発見した。以来、各地で講演活動を続けた。文部省にも出向く。1923年文部省は儀兵衛の逸話を教育勅語の権化とし、国定教科書「修身」に掲載された。以後、全国より軍人、各種団体などが墓参に押し寄せた。戦後、一転して忘れ去られる。旧居跡の石標(西京区川島粟田町)も立てられている。
◆山口直 江戸時代後期の郷士・山口直(やまぐち なおし、1816-1873)。山城葛野郡生まれ。家は仙洞御所御領の庄家で、西の岡の郷士と呼ばれた。幼少より春日潜庵に学び、水戸・鵜飼吉左衛門、小浜・梅田雲浜、京都・頼三樹三郎、長州・吉田松陰、高杉晋作らと交る。私塾を郷里、京都に開く。安政の大獄(1858-1859)により丹波潜伏、1863年、七卿落ちに従う。1864年、禁門の変で長州のために尽力した。維新後、長州より里に帰る。すでに妻は亡く、一族離散しており東京に移った。
◆墓 孝子儀兵衛、山口直の墓がある。
◆川島 地名の川島は、荘園革島庄に因る。かつて藤原道長(966-1027)の所領であり、土豪・革島氏が管理した。初代は義季になる。後に明智光秀(1528-1582)に加担し没落する。河島城も構築されていたという。  
◆年間行事 孝子祭(儀兵衛の命日に菩提を弔う)(10月5日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 案内板、『京都隠れた史跡100選』『洛西歴史探訪』


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 冷聲院 〒615-8193 京都市西京区川島玉頭町78   075-381-4028
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