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 玉蔵院 (京都市上京区)
Gyokuzo-in Temple
玉蔵院 玉蔵院 
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【参照】「七番町」の町名
 上京区七番町(しちばん-ちょう)に玉蔵(藏)院(ぎょくぞう-いん)がある。山号は万(萬)福山という。
 臨済宗妙心寺派。法常寺(亀岡市千ケ畑)を本寺にする。本尊は釈迦牟尼を安置する。
◆歴史年表 江戸時代、寛永年間(1624-1645)/1634年、後水尾上皇(第108代)の勅願により、亀岡市千ケ畑に建立された。仏頂(一絲文守)が開山した。(寺伝、『坊目誌』)
 1671年、真言宗として創建される。
 1693年、「玉蔵(藏)院」と命名し禅宗に改宗した。
 1761年、浄土宗へ改宗する。
 1830年、法常寺第10世・大観文珠が90両で譲り受け、再び禅宗に転宗し中興した。大観は中興開山になる。
 1835年、560余人の菩薩戒会を行う。
 1837年、光格上皇(第119代)より白銀を賜る大般若法要を開催した。
◆一絲 文守 江戸時代前期の臨済宗の僧・一絲 文守(いっし-もんじゅ/ぶんしゅ、1608-1646)。男性。号は桐江・耕閑など、諡号は定慧明光仏頂国師。山城国(京都府)の生まれ。父・公卿・岩倉具堯(いわくら-ともたか)、母・藤原基継の娘の第3子。8歳で皇太后・中和門院に召され、禁中に奉仕する。14歳で相国寺・雪岑梵崟、堺・南宗寺・沢庵宗彭(たくあん-そうほう)に参じた。1626年、槙尾山・賢俊により出家し、再び沢庵に参じたが印可は許されなかった。1629年、沢庵の紫衣事件に伴う出羽流罪に従う。その後、幕府に近付く沢庵と袂を分かち、洛西岡村(樫原)に閑夢庵(後の洞雲寺)を結ぶ。1631年、丹波山国に庵を結ぶ。別に桐江庵(とうこう-あん)を開いた。後水尾上皇(第108代)の帰依を受け、禅学を進講することもあった。1638年、西賀茂・霊源禅院を開き持戒禅を唱えた。明に渡ることを果たせず、妙心寺・愚堂東寔(ぐどう-とうしょく)、雲居希膺(うんご-きよう)に就き愚堂の法嗣になる。1641年、桐江庵の北に法常寺を開く。1643年、近江・永源寺80世になり中興した。日野・法明寺も再興する。著『大梅山夜話』。39歳。
 詩・書画に優れ、18歳で詩人として名を知られた。烏丸光広、小堀遠州、松花堂昭乗らと親交があった。6尺(1.8m)近い長身で眉目秀麗、禁中では女官たちの憧れの的になり、わざと無愛想な顔をして「仏頂面」の語源とされる。後水尾天皇の第1皇女・梅宮(文智禅尼)と淡い交遊があったともいう。没後の1666年、宸筆「法常寺」の勅願が下賜され、1678年、諡号「定慧明光仏頂国師」が贈られた。
◆大観 文珠 江戸時代中期-後期の臨済宗の僧・大観 文珠(だいかん-もんじゅ、1766-1842)。詳細不明。男性。姓は佐藤、大観は字。美濃(岐阜県)の生まれ。9歳で越前(福井)東光寺の泰崇康について得度した。のちに東嶺から印可を受けた。42歳で紫衣を賜わり、近江(滋賀県)・大円寺に法席を開く。のち南禅寺僧堂(薝蔔林)幹事になった。『白隠年譜』を刊行した。77歳。
 法常寺第10世。没後の1849年、第121代・孝明天皇より「普照慧燈禅師号」が勅諡された。
◆吉山 明兆 南北朝時代-室町時代中期の画僧・吉山 明兆(きちざん/きっさん-みんちょう/みょうちょう、1352-1431)。男性。号は破草鞋(はそうあい)、俗称は兆殿司(ちょうでんす)。淡路島(兵庫県)の生まれ。幼くして淡路安国寺の開山・大道一以(だいどう-いちい)に師事した。画事に熱中し、破門しかけ・破草鞋と自戒し号した。その後、画才が認められる。1356年、東福寺28世として住した大道に従い入寺する。終生雑役の殿司になり、兆殿司と呼ばれた。1383年/1386年、代表作「五百羅漢図」50幅(東福寺蔵・根津美術館蔵)を制作する。この間、郷里の母親が病になり、帰郷果たせず自画像を送り、早い作例になる。1394年、「大道一以像」(奈良国立博物館蔵)、1404年、「普明国師像」(光源院蔵)、1408年、代表作「大涅槃図」(東福寺蔵)、1413年、伝・詩画軸「渓陰小築図」 (南禅寺金地院) 、1427年、「四十祖像」(東福寺蔵)などがある。80歳。
 宋・元の仏画、道釈画を研究し、強い墨線・濃い色彩に特徴がある。東福寺で多くの仏画・道釈画(人物画)、頂相を制作した。独自画風により「東福寺派」形成の基礎を作る。東福寺に残る作品としては、「大涅槃図」、「四十祖像」、「聖一国師岩上像」、「白衣観音図」、「達磨・蝦蟇鉄拐図」などがあり、三門楼上内の「迦陵頻迦」も一門とともに手掛けた。塔頭・光源院に「春屋妙葩像」がある。弟子に霊彩・赤脚子らがある。明兆以後、東福寺は他寺の禅宗系仏画も請負い、その中心的存在になる。
 塔頭・南明院(東山区)2世になり、同院で亡くなった。
◆固山 一鞏 鎌倉時代後期-南北朝時代の臨済宗の僧・固山 一鞏(こざん-いっきょう、1284-1360)。詳細不明。男性。肥前(佐賀県)の生まれ。郷里の高城(こうじょう)寺・蔵山(ぞうざん)順空に師事した。博多で南宋の西澗子曇(せいかん-しどん)より無中の号を受ける。京都で無為昭元、南山士雲らに学ぶ。東福寺に移った順空の法嗣になる。東福寺、天竜寺の住持を歴任した。77歳。
◆建築 本堂、書院、地蔵を祀る蔵堂がある。
◆庭園  日本庭園がある。
◆文化財 南北朝時代の絹本著色「芦葉達磨図」(重文)がある。画・明兆、賛・固山一鞏による。道釈人物画であり、道教・仏教に関係のある人物画になる。日本では鎌倉時代-室町時代に盛行した。
 達磨大師が一枚の芦の葉に乗り、長江を渡る伝説的な場面を描いている。数少ない東福寺住持・固山一鞏(こざん-いっきょう)の賛があることで知られる。固山が東福寺に住した1345年-1347年に著賛したという。遺例は少なく、禅画の傑作とされている。京都国立博物館寄託。
◆七番町
 一番町より七番町までの町名は、安土・桃山時代、1587年に豊臣秀吉(1537-1598)が聚楽第を築くにあたり、大内裏址の内野に、一番から七番の組屋敷を置いたことによるという。1595年の聚楽第の廃絶後には荒地が寺地になったという。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)には五番町という遊廓が栄えた。近代、付近には映画館が数多く営業する。西陣織工の憩の場になり一大歓楽街になった。
◆年間行事 涅槃会(2月15日)、冬の特別拝観(2月21日-23日)、春季彼岸施餓鬼会(3月18日)、開山忌(3月28日)、降誕会(4月12日)、棚経(7月25日-8月15日)、地蔵盆(8月23日)、秋季彼岸施餓鬼会(9月21日)。


普段は非公開
年間行事(拝観)は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。
年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都市の地名』 、ウェブサイト「玉蔵院」、ウェブサイト「上京区役所」、ウェブサイト「コトバンク」


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玉蔵院 〒 602-8359 京都市上京区七番町326,出水通六軒町東入ル   075-811-3954 Opening time 7:00-17:00(年中無休)
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