長円寺(長圓寺) (京都市下京区)
Choen-ji Temple
長円寺  長円寺
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 長円寺(ちょうえんじ)は、京都所司代・板倉勝重のゆかりの寺になっている。院号は無量壽院という。
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
 観音堂の聖観音菩薩は、洛陽三十三所観音霊場第24番札所。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1587年、三河国・永安寺住職の大誉(超蓮社大誉上人浄阿清厳)が、応仁・文明の乱(1467-1477)後の京都の荒廃を嘆き入京した。清水観音の霊告により、比叡山より聖観音菩薩をこの地に遷す。空地に小庵を建立して安置したことに始まるという。
 江戸時代、1608年、板倉勝重が清巌に帰依し、800坪の土地を寄進した。円仁作といわれる阿弥陀三尊を安置する本堂、庫裡、客殿を建立する。
 1624年、板倉勝重没後、その法諱「長圓院」に因み長圓寺と称された。
 1788年、天明の大火により焼失する。15世・ 瑞誉はすぐに再建した。
 伏見宮邦家親王第12王子・華頂宮尊頂法親王(185-1876)から「長圓寺」の額を贈られる。
 近代、1931年、焼失する。本尊、観音堂、山門は類焼を免れる。
 1932年、現在の伽藍が再建された。
◆源信 平安時代中期の天台宗の僧・源信(げんしん、942-1017)。恵心僧都、横川僧都。大和国に生まれた。950年/956年9歳で比叡山の良源に学ぶともいう。955年得度した。956年15歳で『称讃浄土経』を講じ、第62代・村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。だが、名声より聖人になるという母の諫言を守り横川の恵心院に隠棲し続けた。1004年公卿・藤原道長の帰依により権少僧都となる。1005年権少僧都を辞する。恵心院で亡くなる。臨終にあたり、阿弥陀如来像の手に結んだ糸を手にし、合掌しながら入滅したという。
浄土宗の基礎となり、地獄極楽観を説いた『往生要集』(985)の編者。『源氏物語 宇治十帖』中、宇治川に入水した浮舟を助けた「横川の僧都」といわれている。(良源弟子の覚超ともいう)。絵、彫刻に優れたという。源信作の和讃「極楽六時讃」がある。
◆大誉 安土・桃山時代-江戸時代の僧・大誉(生没年不詳)。詳細不明。超蓮社大誉上人浄阿清厳。三河国・永安寺住持。1587年、入京する。比叡山の聖観音を当寺に遷す。1608年、長円寺を創建する。
◆板倉勝重 江戸時代前期の幕臣・板倉勝重(いたくら かつしげ、1545-1624)。三河国に生まれる。板倉好重の次男。母は本多光次の娘。浄土真宗・永安寺の僧となる。1561年、父・好重が討死、1581年、弟も戦死し、徳川家康の命で還俗、家を継ぐ。家康に従い、1586年、駿府の町奉行、1590年、関東の代官、小田原の地奉行、江戸の町奉行を兼任。1601年京都の町奉行となり、治安維持とともに朝廷、大坂城の豊臣家の動静を監視した。1603年、家康が江戸幕府を開くと伊賀守に叙任、京都所司代になる。1609年、加増、大名に列した。同年猪熊事件以後、朝廷統制を強化した。1614年、方広寺鐘銘事件で強硬策を上奏。1612年より、公家諸法度、勅許紫衣・諸寺入院法度の制定に参与した。秀忠の娘・東福門院和子の入内に伴い、1618年、内裏造営の総責任者を務めた。1620年、長男・重宗に京都所司代の職を譲る。勝重父子裁定は『板倉政要』にある。
◆仏像 本堂安置の阿弥陀三尊は、慈覚大師円仁(794-864)の作といわれる。
 観音堂に安置されている聖観音(重文)は、平安時代、972年、また第66代・一条天皇の頃(在位986-1011)、平安京に疱瘡(ほうそう/とうそう)が流行した際に、大納言・藤原親衡が憂い、恵心僧都(942- 1017、源信)に造立させたものという。観音像を宮中に奉安し、21日間の祈願法要を修すると疱瘡流行が治まったという。以来、厄病除けの霊験ある観音といわれている。痘瘡(天然痘)は天然痘ウイルスを病原体とする感染症で、人から人へ極めて強い感染力があり、全身に膿疱を生じた。致命率の高い感染症として人々に恐れられていた。安土・桃山時代、霊告により大誉が叡山から当寺に遷したという。木像、漆箔、像高102㎝。
◆建築 本堂、観音堂、庫裡、客殿など。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『洛陽三十三所観音巡礼』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『日本の名僧』


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 長円寺 〒600-8801 京都市下京区中堂寺西寺町33,松原通大宮西入南側   075-841-2903
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