猿丸神社 (宇治田原町) 
Sarumaru-jinja Shrine
猿丸神社 猿丸神社 
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一ノ鳥居と杉林




猿丸大夫の歌碑、「おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき」(『古今和歌集』215、『小倉百人一首』5)



表参道


 宇治田原の大津市との県境近く、旧田原道(府道783号線)沿いに、猿丸神社(さるまる じんじゃ)はある。瘤(こぶ)取りの神で知られ、「猿丸さん」とも呼ばれている。 
 祭神は猿丸大神(猿丸大夫)を祀る。
 病気平癒、こぶ取り、癌封じの篤い信仰を集める。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 かつて、現在地の北、山城国綴喜郡曾束荘(そつかしょう、現在の大津市大石曾束)に、猿丸大夫の墓があった。後にその霊廟上に祀られたものという。曾束山の峰にあったともいう。
 平安時代末期、この地は猿丸大夫の隠棲地として知られた。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)以後、瘤取りの神としての信仰を集める。
 江戸時代、1645年、永年にわたる禅定寺との境界論争後、現在地付近に社地が遷された。禅定寺村の氏子中により社殿が再建されたという。(『山城綴喜郡誌』、1908、江戸時代奉納の小絵馬)
◆祭神 祭神・猿丸大神は、猿丸大夫の霊廟の上に奉祀されているという。以来、猿丸大神は、歌道の神として文人墨客に崇敬されてきた。
 近世以降、瘤、できもの、癌腫などの病平癒の霊験があるとして信仰を集めた。本殿脇に、木瘤の山が積み上げられており、病治癒した人々が御礼に奉納したものという。
◆猿丸大夫 平安時代以前の歌人・猿丸大夫(さるまる の たいふ/さるまる だゆう、生没年不明)。詳細不明。実在したかについても不明。猿丸は名、大夫は五位以上の官位をいう。平安時代中期の歌人・藤原公任(ふじわら の きんとう、966-1041)が撰した三十六歌仙の一人とされ、歌道の神として崇敬された。曾束(そつか)の地に隠棲し亡くなったという。
 平安時代初期、『古今和歌集』が撰ばれた頃、少なくとも歌人としては認識されていた。「おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき」(『古今和歌集』215、『小倉百人一首」5)は、猿丸大夫が詠んだという。ただ、『古今和歌集』では「よみ人しらず」とされている。
◆猿丸大夫・社の記述 鎌倉時代、日野に草庵を結んだ鴨長明(1155-1216)は、「田上のしもの曽束といふ所に、 猿丸大夫の墓があり、庄のさかひにて、そこの券に書きのせたれば、みな知るところなり」(『無名抄』、1211-1216?)と記した。
 また、「気分が良く遠出をもよおすときは、炭山・笠取を経て岩間寺や石山寺に詣で、 蝉丸の旧跡や『田上河(大戸川)をわたりて猿丸大夫が墓をたづぬ』」(『方丈記』、1212)と記した。
 江戸時代、深草の元政上人(1623-1668)は、「有猿丸祠。此亦大夫遊慮之地。 而村民奉祠也」(『扶桑隠逸伝』、江戸時代前期)と記す。
 近代、「往古猿丸太夫、近江粟太郡田上川を遡り、 隣村小田原村を経て、本村字猿丸の北麓に当る、渓間経路を西に上り、怪砦奇石多き、絶佳の風光を嘆賞せられしとて、人此岩を呼びて、猿丸太夫腰掛岩と云ぶ、数年前、曾束村ご本村との境界諭争ありしより、社殿を今の処に遷せり。」(『山城綴喜郡誌』、1908)とある。
◆文化財 本殿に、猿丸大夫を描いた小絵馬が納められている。「正保二年(1645年)六月一日」に、禅定寺村の氏子中により社殿を造営の記述がある。
◆楓 境内は近年、楓が植栽され、紅葉の名所になっている。
◆猿丸大夫遺跡 字猿丸に猿丸大夫の墓という祠が祀られている。また、付近に猿丸大夫の腰掛岩がある。近くの峠の名は猿丸峠という。
◆年間行事 初猿丸祭(1月13日)、春季大祭(4月13日)、火焚き祭・猿丸市(6月13日)、秋季大祭(9月13日)、終い猿丸・猿丸市(12月13日)。
 月次祭(毎月13日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 当社由緒、『京都府の地名』『京都のご利益手帖』


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手水舎

手水


神使の猿

拝所

本社

奉納された病平癒御礼の木瘤

夫婦猿

猿丸大夫故址の碑

「茶どころの 禅定寺村の 小春かな」の句碑、買驢(猿丸買驢?)
 猿丸神社 〒610-0201 綴喜郡宇治田原町禅定寺小字粽谷44  0774-88-3782(昼)、0774-88-2362(夜)
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