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粟嶋堂宗徳寺(粟嶋堂) (京都市下京区) Awashimado-sotoku-ji Temple |
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粟嶋堂宗徳寺(粟嶋堂) | 粟嶋堂宗徳寺(粟嶋堂) |
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![]() ![]() 「粟嶋堂宗徳寺 粟嶋大明神」とある。 ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 賓頭盧(びんづる)さん ![]() 芭蕉紋 ![]() 咲分稲荷社 ![]() 咲分稲荷社 ![]() 咲分稲荷社、咲分大明神を祀る。 ![]() ![]() ![]() 人形が納められる小堂 ![]() 供養される人形 ![]() ![]() 地蔵尊 ![]() 人形癒やしの石碑 |
宗徳寺(そうとく-じ)の東隣に粟嶋堂宗徳寺(あわしまどう-そうとく-じ)はある。粟嶋明神を祀ることから「粟嶋堂」といわれた。「あわしま-さん」とも呼ばれる。女人守護の寺として知られ、山号は福智山という。 西山浄土宗、本尊は阿弥陀如来。 粟嶋大明神には、少彦名命(すくなひこなのかみ)の本地仏・虚空蔵菩薩を安置する。 京の通称寺霊場第20番、「粟嶋堂」。 女人一生の守護、下半身の病・婦人病平癒、安産・子授け、良縁結び、諸病平癒、不老長寿、老後の無病息災、悩み事解消、人形供養、水子供養などの篤い信仰がある。かつて玄人衆女性の信仰を集めた。御朱印が授けられる。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 室町時代、応永年間(1394-1427)、宗徳寺は僧・行阿(ぎょうあ)が開山したともいう。 宝徳年間(1449-1451)/1421年、宗徳寺は僧・南慶が創建したともいう。当初は西洞院七条の南にあった。粟嶋堂は南慶が紀伊の国淡島で虚空蔵菩薩像を感得し、鎮守の粟(淡)嶋明神として祀ったことに始まるという。以来、宗徳寺の鎮守社として粟嶋神社と称した。 安土・桃山時代、1602年、僧・繁空が中興し、現在地に移したという。 江戸時代、粟嶋明神の霊験は広く伝わる。第119代・光格天皇(1771-1840)、第121代・孝明天皇(1831-1867)も度々代参した。歴代后妃の篤い信仰も得る。 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、粟嶋神社は廃された。粟嶋堂と改称し、寺の一宇になる。 ◆行阿 室町時代前期の僧・行阿(ぎょうあ、?-?)。詳細不明。応永年間(1394-1427)、宗徳寺を開山したともいう。 ◆南慶 室町時代前期の僧・南慶(?-?)。詳細不明。宝徳年間(1449-1451)/1421年、宗徳寺を創建したともいう。 ◆繁空 安土・桃山時代-江戸時代の僧・繁空(?-?)。詳細不明。1602年、宗徳寺を中興し、現在地に移したという。 ◆与謝蕪村 江戸時代中期の俳人・画家・与謝蕪村(よさ-ぶそん、1716-1784)。本姓は谷口、初号も谷口、のち与謝氏。別号は夜半亭、夜半亭二世、夜半翁、宰鳥、宰町、落日庵、紫狐庵など。画号は長庚、春星、謝寅(しゃいん) 、東成、朝滄(ちょうさそう)、謝長庚、謝春星、四明など多数。摂津国(大阪府)の生まれ。家は豊かな農家で、父が急逝し家産を失う。俳画家を目指し、1737年、江戸に出て、内田沾山(せんざん)に俳諧を学ぶ。京都から江戸に戻った夜半亭(早野)巴人(はじん)に師事した。1742年、巴人の没後、下総結城の友人・砂岡雁宕(いさおか-がんとう) 方に身を寄せる。常陸・下総地方を遊歴し、憧れの松尾芭蕉の足跡を辿り東北地方を遊歴した。1744年、蕪村と改号した。1745年、和詩『北寿老仙をいたむ』を書く。1751年/1752年、京都に上る。知恩院山内でも起伏した。1754年、生母の出身地、丹後与謝加悦(かや)に立ち寄り、讃岐などを旅した。1757年、京都に戻る。1758年、漁師の娘・ともと結婚する。この頃、京都の四条烏丸付近に移り、与謝を名乗った。1761年、娘・くのが生まれる。1766年、蕪村を中心に結社「三葉社」が生まれた。1769年、『平安人物志』の画家の部に登録される。1770年、巴人の夜半亭2世を継ぎ、京都俳壇の中心になる。1771年、尾張国の下郷学海の依頼により、池野大雅との合作「十便十宜帳」を描く。1773年、『あけ烏』を刊行し、俳諧新風を提唱した。1774年、釘隠町に移転する。1776年、金福寺(左京区)に芭蕉庵を再興した。1778年、几董との兵庫への小旅行を果たした。1779年、『奥の細道屏風図』を描く。晩年、蕉風(しょうふう)復興を提唱した。1784年、京都で亡くなった。68歳。 江戸俳諧の中興の祖、俳画の創始者とされる。俳風は写実性、浪漫性、叙情性を有し、絵画的とされ、中興期俳壇の中心存在になる。芭蕉とは異なる俳諧を打ち出した。俳諧よりも早く、文人画の大家として大雅と並び称せられた。画風は南画の大成者とされ、日本の自然観を加味する。山水画、花鳥画、俳画も残している。芝居好きで、役者・作者とも付き合う。芸妓・小糸と関わった。著は新体詩『春風馬堤曲』、句日記『新花摘』、『夜半楽』、『玉藻集』、句集『蕪村七部集』、俳画『奥の細道図屛風』など。 墓は金福寺(左京区)にある。芭蕉と親交があり、芭蕉庵と芭蕉句碑の傍らに葬られることを望んだという。蕪村忌(12月25日)。 ◆粟嶋明神 室町時代、宝徳年間(1449-1451)に、南慶和尚は紀伊の国、淡島で虚空蔵菩薩像を感得した。菩薩像を持参し、上洛の途上、現在地(下京区)辺りで急に重くなったという。このため、神意として鎮守粟嶋明神を祀ったことに始まるという。 ◆文人 江戸時代の俳人・与謝蕪村(1716-1784)、文人画家・富岡鉄斎(1837-1924)も当寺に参詣した。 ◈蕪村は、娘・くの(1761-?)の病気平癒祈願のために当寺を訪れた。くのは15歳で嫁ぎ、家風が合わないとして出戻りしている。蕪村は一句を詠んだ。「粟嶋へ はだしまゐりや 春の雨」。春雨に濡れ、裸足で百度詣りをする女性の姿を描写した。境内にその句碑が立つ。 ◆建築 「本堂」は、南北朝時代、1330年頃の建立という。かつて、伏見にあり、安土・桃山時代に、豊臣秀吉の伏見城築城に際して移されたという。 ◆弥陀板碑 庭内の石灯籠は「弥陀板碑」といわれている。板碑に半肉彫りの阿弥陀坐像がある。定印を結ぶ。頭部の左右に観音、勢至の種子を陰刻する。下方に室町時代、「応永二十八年(1421年)」の刻銘がある。花崗岩製。 ◆芭蕉 下半身の病に効能があるという芭蕉薬湯が当寺でも使われてきた。芭蕉はバショウ科の多年草であり、江戸時代、シーボルトらは「ムサ・バショウ」の学名を付けた。 葉を乾燥させたものは生薬になり、利尿、解熱作用もある。境内にも植えられており、寺紋も芭蕉の葉に因んでいる。 ◆安産祈願 安産祈願すると、お札、御符を授かる。産気づいたら御符を水、ぬるま湯に浮かべて飲む。安産が楽になるとされる。お守りの腹帯も授与される。 ◆人形供養 境内には、ガラスケース内に全国から寄せられた人形が納められている。これらは、毎月のお火焚きにより供養されている。 ◆年間行事 祭日(3月3日)、お火焚き祭・柴燈大護摩供(5月5日)。 月例祈祷会(毎月1日、3日、第1日曜日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都 歴史案内』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都史跡事典』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都のお寺神社 謎とき散歩』、『京都大事典』、『京都の地名検証 3』、『京都のご利益手帖』、『願いごと聞いて京のご利益さん』、『京都の隠れた御朱印ブック』、案内板、ウェブサイト「ネットミュージアム兵庫文学館」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() 与謝蕪村句碑「粟嶋へはだしまいりや春の雨」 |
![]() 弥陀板碑 |
![]() 石灯籠 |
![]() 宝篋印塔 |
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