大蓮寺 (京都市伏見区)
Dairen-ji Temple
大蓮寺 大蓮寺 
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本堂



本堂









濠川
 濠川の南にある大蓮寺(だいれん-じ)は、山号、院号を寶池山功徳院(ほうち-さん-くどく-いん)という。
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 平安時代、1181年、東大寺再建勧進職を命じられた重源は、宋より請来の3体の阿弥陀像を前に、3日3晩、所願成就の加護を祈願した。伏見に小像・五劫思惟阿弥陀像を安置する一宇を建立したことに始まるという。
 江戸時代、1634年、廣譽の時、現在の本堂が建てられた。西浜の加藤清正邸下屋敷(建物の用材)を譲り受けて再建された。廣譽は中興開山とされる。
 1868年、鳥羽・伏見の戦いで、幸いに兵火を免れた。
◆重源 平安時代後期-鎌倉時代前期の浄土宗の僧・重源(ちょうげん/じゅうげん、1121-1206)。男性。俗名は刑部左衛門尉重定、字は俊乗坊、号は南無阿弥陀仏。京都の生まれ。父・紀季重(きの-すえしげ)/季良。1133年、13歳で醍醐寺に入り出家し、金剛王院・源運に学ぶ。上醍醐の円明房に止住した。高野山に登り、後に法然に浄土教を学ぶ。大峯、熊野、御嶽、葛城などで修行した。下醍醐に栢杜堂を建て、上醍醐の一乗院、慈心院塔に結縁する。1167年-1176年、宋に3回留学し浄土教、建築法を学んだという。異説もある。現地で栄西に遭う。1168年、栄西とともに帰国した。1180年、兵火により東大寺が炎上し、源頼朝の寄進、再建に際し、1181年、重源は造東大寺大勧進職に就く。1185年、大仏開眼会を催した。1186年、周防国が東大寺造営料国になり、国司になり、材の巨木を東大寺まで運ぶ。1190年、大仏殿が上棟した。1191年、法然を東大寺に招き、浄土三部経の講義を開いたという。1195年、大仏殿落慶法要を行う。宋の鋳物師・陳和卿(ちん-なけい)の協力を得て、天竺様(大仏様)を輸入し造立した。大和尚位に叙せられる。1196年、脇侍、四天王などの木像、石像を造立させる。 1203年、総供養を終えた。著『南無阿弥陀仏作善集』。86歳。
 周防・阿弥陀寺など各地に寺院を建立する。備前・船坂山を開き、播磨・魚住泊(うおずみ-の-とまり)の改修、架橋、池の改修も行う。東大寺俊乗堂に、重源上人坐像が安置されている。
◆廣譽 江戸時代の浄土宗の僧・廣譽(?-? )。詳細不明。男性。1634年、大蓮寺の中興開山になる。
◆仏像 ◈本堂に安置されている秘仏「阿弥陀仏坐像」は、頭部が大きな螺髪(らほつ)であり、眼を閉じ、胸前で合掌印を結ぶ。
 逸話がある。平安時代後期、1167年に、浄土宗の開祖・法然(1133-1212)の命により、弟子・重源は宋に渡ったという。翌1168年に、「浄土の五祖図」1幅、唐の浄土教の大成者・善導大師(613-681)作という大像・中像・小像の五劫思惟(ごこうしい)阿弥陀像3体を携えて帰国した。
 1180年に、奈良・東大寺が炎上し、1181年、重源は再建勧進職を命じられた。3体の阿弥陀像を前に、3日3晩、所願成就の加護を祈願する。夢告に従い小像・五劫思惟阿弥陀像1体を伏見の地に留めた。一宇を建立し安置したという。 
 3体のうち、大像1体は奈良・五劫院に、中像1体は奈良・東大寺にそれぞれ安置されたという。
 ◈脇仏は南天(難転)地蔵菩薩を安置する。
◆建築 本堂は、江戸時代前期、1634年に、西浜の加藤清正邸下屋敷の建物の用材を譲り受けて再建された。鳥羽・伏見の戦いの兵火を逃れている。


*年間行事(拝観)などは、中止、日時・内容変更の場合があります。
*参考文献・資料 大蓮寺縁起、『京都市の地名』 、ウェブサイト「ふしみ昔紀行-伏見区老人クラブ連合会」、ウェブサイト「コトバンク」


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大蓮寺 〒 612-8218 京都市伏見区北浜町592  075-611-2450
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