






割拝殿



割拝殿

渡廊

渡廊

本殿

本殿

天満天神社

天満天神社



カシの巨木 |
宇治、近鉄大久保駅の南西、府道15号線の南に旦椋神社(あさくら-じんじゃ)はある。近世には、栗隈(くりくま)天神とも呼ばれた。胄(かぶと)神社とも呼ばれたという。当社は、旧大久保村の産土神として崇敬されてきた。
祭神は、高皇産霊命(たかみむすびのみこと) 、神皇産霊命(かみむすびのみこと)、天満天神(菅原道真) 。
式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中、「久世郡 二十四座 大十一座 小十三座」の「旦椋神社」に比定されている。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
奈良時代、旦椋(あさくら)神社は、現在地の西方、栗隈県(くりくまあがた)(宇冶市大久保町旦椋)の地にあったという。(『日本書記』)。栗隈県(くりくまあがた)の屯倉跡(みやけ)跡に穀霊を祀ったことに始まるという。栗隈大神とも呼ばれた。また、浅食(あさくい)に鎮座していたともいう。
平安時代、972年、『延喜式神名帳』に旦椋神社と記されている。
室町時代、1550年、旦椋神社は現在地に遷座した。同時期、天満天神を合祀した。
また、1550年、旦椋神社は焼失したともいう。(社伝)。現在地に遷されたともいう。
1566年、現在地にあった天満天神が20余年断絶していた。天満天神を再興し、旦椋神社と天満天神を合祀したという。本殿が造営され、京都吉田神社神官・吉田兼右が再興に尽力したという。(日記『兼右郷記』(社伝)。
近世(安土・桃山時代-江戸時代)、栗隈天神社、天神社、栗隈天満宮などと呼ばれたともいう。
近代、1877年、式内旦掠神社と認定された。
現代、1983年、京都府の「旦椋神社文化財環境保全地区」に指定された。
1989年-1990年、本殿の極彩色の復原が行われる。
◆吉田 兼右 室町時代後期-安土・桃山時代の神道家・吉田 兼右(よしだ-かねみぎ、1516-1573)。男性。父・清原宣賢(のぶかた)の次男。従兄吉田兼満の養子。1525年、10歳で吉田家の8代当主(卜部氏24代)となる。従二位、神祇大副に進む。周防の大内義隆、越前朝倉、若狭武田ら戦国大名にまねかれ神道伝授をおこなう。全国の神社に吉田家の勢力を拡大した。日記に「兼右卿記」。
◆栗隈 この付近の地名にある大久保は、古くは栗隈(くりくま)と呼ばれた。当社も栗隈大神とも呼ばれた。
この地の栗隈郷(くりくまごう)は、宇治市大久保、広野を中心とし、久御山、城陽まで広がっていた。栗隈県(くりくまあがた)の屯倉跡(みやけ、大和政権の行政組織)に穀霊を祀ったことに始まるという。
さらに、旦椋(あさくら)とは、校倉(あぜくら)の古語になり後に転訛したともいう。(『京都大辞典』)。
◆天満天神 創建の詳細は不明。かつて現在地、旧大久保の産土神として祀られていた。室町時代後期、天文年間(1532-1555)、20年余にわたり断絶した。1556年に再興され、旦椋神社と合祀されたという。この時、助力した京都吉田神社の神官・吉田兼右の『兼右郷記』中、永禄9年(1556年)8月23日の条には、「山城国玖世郡大窪村天神社、及廿年余断絶、今度造立致新社、神躰奉造立之、供養事申候間遣了、座像タ力サー尺余」と記されているという。(社伝)
◆建築 南より門、割拝殿、渡廊、拝所、瑞垣内に本殿が建つ。
◈「本殿」(京都府登録有形文化財)は、江戸時代初期建立による。組物は、三斗組中備(なかぞなえ、三斗間に入れるもの)として四面に蟇股。木鼻、懸魚が見られる。妻飾りは松、梅など。狛犬、狛獅子の極彩色の画が描かれている。たち高い一間神流造、檜皮葺。
正面扉廻り、脇格子廻りに後年の改造がある。
◆文化財 ◈本殿と共に、7枚の本殿棟札が、現代、1984年に京都府登録有形文化財に指定された。
このうちの最古の棟礼は、室町時代後期、「造営、永禄九年八月吉日」(1566年)、ほかに江戸時代前期、「慶安三年」(1650年)、「明暦三年」(1637年)、「延宝二年」(1627年)、江戸時代中期、「宝暦八年」(1753年)、「寛政六年」(1794年)、江戸時代後期、「嘉永五年」(1852年)がある。
◆年間行事 元旦祭(1月1日)、秋季大祭 (10月8日)、新嘗祭(12月10日前後)。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 説明板、『京都の地名検証』、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」
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