瑞泉寺 (京都市中京区) 
Zuisen-ji Temple

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「漸到確境」黙雷印




本堂


本堂扁額「慈舟山」


フジ




地蔵殿


地蔵殿


地蔵殿、引導地蔵尊


地蔵殿、妻子、殉職した家臣らの人形が奉られている。
 瑞泉寺(ずいせんじ)は、鴨川の西、三条小橋東詰南、高瀬川沿いに建つ。かつてこの地は、鴨川にあった大きな中州だったという。中州は中之島、中島と呼ばれた。豊臣秀次ゆかりの寺として知られている。
 山号は慈舟山(じせんざん)という。鴨川、高瀬川の二川を運行する高瀬舟に因み、慈悲の舟に見立てたものという。
 浄土宗西山禅林寺派、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 
江戸時代、1611年、角倉了以による運河・高瀬川掘削の際に、「秀次悪逆塚」と刻まれた石塔が発見される。現在の本堂の位置は、豊臣秀次の塚の位置に当たっていたという。了以は開山・立空(三空とも)桂叔とともに、秀次らの菩提を弔うために創建した。散乱していた遺骨が集められ、塚に碑を立て、大仏殿、聚楽第の余材、旧材を用いて堂宇が建てられた。また、了以の子・与一(素庵、1571-1632)が、父の名において創建したともいう。また、了以の実弟・ 吉田宗恂(1558-1610)は、かつて秀次に仕えた医者であり、了以による当寺の創建は、弟・宗恂の一周忌に当たっていたともいう。寺号は豊臣秀次の法名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」による。了以は、誓願寺教山に講い秀次らに法名を授けたという。本願は秀次の母・瑞竜院(日秀、1534-1625)という。以後、角倉家代々が寺の管理を行った。
 1788年、天明の大火で焼失した。
 1805年、現在の建物が再建されている。
 近代、1942年、大阪豊公会により49基の五輪塔婆が立てられた。
◆豊臣秀次  安土・桃山時代の武将・豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ、1568-1595)。父は三好吉房、母は豊臣秀吉の姉・瑞竜院日秀。初め宮部継潤の養子、後に三好康長(笑厳)の養子となる。1584年、小牧・長久手の戦で、指揮を誤り戦死者を多く出す。1585年、羽柴の名字を許され、秀吉の諱の一字より秀次と名乗り、近江八幡山の城主となる。1591年、秀吉は淀殿との間に生まれた鶴松を3歳で失う。秀吉は秀次を養子とし、関白職を秀次に譲り、豊臣家を継がせる。秀吉自らは太閤と称した。1593年、淀殿が秀頼を産む。秀吉は秀次に関白職を譲ったことを悔やむ。秀頼と秀次の娘との婚約を進めたものの、次第に秀吉と秀頼の間に亀裂が入る。1595年、秀吉は秀次に反逆の疑いをかけ、高野山・青厳寺へ追放、さらに切腹の命を下した。秀次は柳の間で自害して果てる。28歳。
 秀次の五家臣も殉職した。なお、秀次の死については暗殺説もある。秀次は多才な人物で剣術や歌道をよくし、名筆や古典籍を収集するなど文化的趣味も豊かであったという。 
◆立空桂叔 江戸時代の僧・立空桂叔(生没年不詳)。詳細不明。桂叔(けいしゅく)。永観堂の僧という。1611年、瑞泉寺の開山。
◆角倉了以 室町時代-江戸時代の豪商・角倉了以(すみのくら りょうい、1554-1614)。京都に生まれた。父の吉田宗桂は、家業の医者を営むとともに、勘合貿易により薬も扱っていた。了以も家業を行う。1603年頃より朱印船貿易を行う。1605年、1606年、大堰川開削工事を完成させた。1607年、富士川の疏通を完成させている。同年、天竜川の開疏は失敗した。1611年、高瀬川の開鑿を完成させる。了以は、朱印船(角倉船、800t)を使った御朱印船貿易(1603-1634)によるアジア諸国との交易で富をなした。豊臣秀吉の命により、大堰川を改修し保津峡に船を渡し、1606年、亀岡と京都間の木材輸送を拓いた。幕府の命により富士川、天竜川の改修なども行う。
 豊臣秀頼による方広寺大仏殿再建の際には、一時期(1585、1610)、鴨川運河(疎通)を利用して三条橋付近まで用材を運んだ。墓は二尊院にある。
◆貞安 室町時代-江戸時代前期の浄土宗の僧・貞安(ていあん、1539-1615)。聖誉貞安。相模国に生まれた。父は後北条氏の一族・北条能登守満教、母は大江正時の娘。4歳で母、5歳で父と死別し、姨母に養育された。7歳で小田原・大蓮寺の一蓮社堯誉上人還魯文宗の室に入り、11歳で剃髪。14歳で師に従い下総・飯沼の弘経寺へ移る。同寺7世・見誉善悦の法を継ぐ。1572年、香衣綸旨拝載のために上京。1573年、弘経寺の首座。1575年、能登七尾・西光寺にあり、上杉謙信の穴水城攻より逃れ、1576年、近江・妙金剛寺へ移る。織田信長の帰依を受けた。1579年、貞安の斡旋により、知恩院は信長より寺領100石の加増を受ける。貞安は信長より安土田中に寺領を得る。能登七尾・西光寺に倣い、龍亀山西光寺を建立した。 1579年、信長の命により、安土・浄厳院(じょうごん)での宗論に参加し、霊誉玉念らと法華経の日晄らを論破する。以後、信長の信任を得る。1582年、本能寺の変で信長没後、1583年、上洛して淨教寺に入る。1585年、第106代・正親町天皇の勅請で御所参内し「選擇集」を講じ、僧伽梨大衣を贈られる。1586年、紫宸殿で陽光院親書の「阿弥陀経」を贈られる。1587年、正親町天皇の勅命により、信長、信忠父子の菩提を弔うために、大雲院、伏見・勝念寺を創建した。1594年、石川五右衛門の処刑前に引導を渡す。1595年、豊臣秀次の切腹に伴い、妻妾、幼児などは三条河原で打首になる。貞安は刑場の一隅に地蔵尊を運び、子女らに引導を授けた。1599年、大雲院移転により、「百瓶華会」を催す。1615年、二条城で徳川家康に謁した。大雲院・栖養院に隠棲した。
◆吉田宗恂 安土・桃山時代の医者・吉田宗恂(よしだ そうじゅん、1558-1610)。宗桂の次男。医業を継ぐ。兄は角倉了以 。初め豊臣秀次に仕え、第107代・後陽成天皇の病気に献薬、勅により意安と改め、法印に叙せられた。徳川家康にも召される。墓は二尊院にある。
◆秀次と一族の塚 安土・桃山時代、1595年7月15日に自害した秀次の首は、秀吉自らが伏見城で実見したという。首は三条河原に運ばれた。河原に20間四方の堀、鹿垣が回らされ、橋下南3間のところに塚を築き、秀次の首はその上に西向きに置かれ晒された。7月11日より、丹波亀山城に幽閉されていた秀次の一族は京都に戻され、7月29日、美濃松木・徳永寿昌の屋敷に禁固になる。8月2日、一族に秀次の首を拝ませると偽り、死装束の秀次の妻、側室、子ら39人は牛馬に乗せられた。市中引き回しの後、塚に置かれた秀次の首と対面させられる。四条大雲院の僧・貞安上人は、刑場の隅に木像(秀次一族引導地蔵)を運び込み、処刑される人々に引導を授けたという。最初に男児4人、女児1人、34人の愛妾たちが続いた。12歳から68歳までの全国から集められた秀麗な人たちだったという。
 子女らは次々に刺殺され、首が落とされ遺体は刑場脇の大穴に、まだ息があるうちに放り込まれた。遺骸は縁者に引き取られることを禁じられた。土石で四角垂に築かれた塚の上には、秀次の首が納められた石びつが置かれ、人々に晒されたという。「秀次悪逆塚文禄七月十五日」と刻まれていた。墓は畜生塚、関白塚、摂政塚、殺生塚ともいわれ、秀吉を恐れて花を手向ける者もなかったという。(「甫庵太閤記」)
 その後、草庵が結ばれ、僧・慶順により弔われた。後に庵も朽ち、いつしか塚も鴨川の洪水で流される。
 江戸時代、1611年、角倉了以は、秀次らの遺骸を拾い集め、死を悼み「秀次悪逆塚」の「悪逆」を削り塚を立て寺を建立したという。
◆仏像・木像 「秀次引導仏」といわれる地蔵尊が安置されている。大雲院住職貞安は、刑場に地蔵尊を持ち込み、妻子一人一人に、次々と引導を授けたという。十念を授け念した地蔵という。いまは、死者を極楽浄土に導く引導地蔵尊として知られている。定朝(?-1057)作という。等身大の木彫の立像で右手に錫状棒、左手に宝珠を掲げる。翻羽式衣文。
 法然、善導像、角倉了以木像、素庵木像がある。
◆建築 堂宇の創建に際しては、豊臣秀吉ゆかりの方広寺大仏殿の残木、聚楽第旧材が用いられたという。ただ、江戸時代、1788年の天明の大火で焼失しており、現在の堂宇はその後の再建による。
◆文化財 「瑞泉寺縁起」は、江戸時代中期の作。伝・大森素雲斎筆とされる。秀次の切腹、一族の処刑、高瀬川開削、寺の縁起を記す。
 縁起絵巻「秀次公縁起」は、江戸時代初期の作であり、「秀次事件」を描く、京都国立博物館寄託。
 豊臣秀吉の遺愛品として、「佩刀(はいとう)」、「冠」、「茶壷」、「扇面」、ほかに側室遺品の「緋の袴」が伝わる。
 「秀次公一族の肖像画」3幅は、秀次、家臣、処刑された一族39人を描く。京都国立博物館寄託。
 「伝来表具裂」23幅(京都府指定有形文化財)は、「瑞泉寺裂」とも呼ばれている。三条河原で処刑された女性たちの辞世の句(懐紙)を、最後に身に付けていた着物「裂(きれ)」で表装したものという。安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)の染色、刺繍が見られる。「辻ヶ花」も含まれている。これは、絞り染めの技法であり、「幻の染物」と称されている。現在は京都国立博物館寄託。
◆瑞泉寺裂 処刑された女性たちの辞世の句を、最後に身に付けていた着物で表装したという「瑞泉寺裂」が伝わる。
 絶世の美女と謳われた秀次の正室・上﨟一の台(みだい)の御局(31歳、右大臣今出川春季の娘)は、大人として最初に斬首されている。辞世の句「ながらへて ありつるほどの 浮世ぞと 思へばのこる 言の葉もなし」。
 その娘・於美屋(13歳)は、「おもはずも君の御ともに候するにつけて あきといへばまだいろならぬ うらはまでさそひゆくらん しでのやまみち」。
 直前に入京し、淀殿の助命嘆願が寸でのところで間に合わなかった出羽最上家の於伊万の前(15歳)は、「罪なき身を世の曇りにさへられて共に冥途に赴くは五常のつみもはらひなんと思ひてつみをきる みだのつるぎにかかる身の なにかいつつのさわりあるべき」。
◆墓・五輪卒塔婆 境内の西南隅に墓がある。奥の3基の墓は寺の創建時、江戸時代、1611年に立てられた。六角の塔身の正面に秀次、両側面に5人の子女のそれぞれ法名が刻まれている。
 その下に、三条河原で秀次の首を納めたという「中空の石櫃」があり、右下に「文禄七月十五日」の文字が刻まれている。この日に秀次は自刃に追い込まれた。石にはかつて「秀次悪逆」と刻まれていたという。この4文字は角倉了以、桂叔により削られたという。
 さらに、処刑された妻子、殉職した家臣ら49の五輪卒塔婆が、秀次の墓を囲むように両脇に立つ。これらの石塔は、1942年に立てられた。
 子女で処刑されたのは次の人々になる。正室・一の台(36歳)、その娘・お美屋の前(13歳)、今出川右大臣・菊亭晴季の娘(31歳)、お和子の前(18歳)、その子・仙千代(6歳)、お辰の前(19歳)、その子・百丸(4歳)、お千屋の前(18歳)、その子・士丸(1歳)、お佐子の前(19歳)その子・十丸(3歳)、お亀の前(38歳/33歳)、その子・槿姫(9歳)、お伊万前・駒姫(15歳)、お菊の前(14歳)、お竹(18歳)、お阿屋(31歳)、阿子の前(30歳)、右衛門の後(35歳)、お仮名(17歳)、お須儀(19歳)、およめの前(30歳)、左衛門の後(38歳)、お古保(15歳)、お国の前(22歳)、お満の前(23歳)、小少将の前(24歳)、お佐伊前(15歳)、お牧の前(16歳)、於妻の前(16歳)、按察使(あぜち、35歳)、お松の前(12歳)、お藤の前(21歳)、妙心前老尼(68歳)、東の前(61歳)、お参の前、津保美の前、お知保。39人。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『洛中洛外』『京都 歴史案内』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』『昭和京都名所図会 5 洛中』『平成28年第52回 京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』『京都大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『新版 京のお地蔵さん』


  三条大橋            豊国神社      高瀬川      聚楽第      善正寺      瑞雲院       大雲院(祇園閣)       勝念寺               

庫裏

大日如来

中島町の「お地蔵さん」

前関白豊臣秀次公之墓の石標

奥の3基の墓は寺の創建時、江戸時代、1611年に築かれた。

秀次墓といわれる六角石塔。

三条河原で秀次の首を納めたという「中空の石櫃」、右下に「文禄七月十五日」の文字が刻まれている。この日に秀次は自刃に追い込まれた。石にはかつて「秀次悪逆」と刻まれていたが、その4文字は角倉了以、桂叔により削られたという。

処刑された妻子、殉職した家臣ら49の五輪卒塔婆が、秀次の墓を囲むように建っている。これらの石塔は後世に立てられたものという。
 子女で処刑された人々 正室・一の台(36歳)、その娘・お美屋の前(13歳)、今出川右大臣・菊亭晴季の娘(31歳)、お和子の前(18歳)、その子・仙千代(6歳)、お辰の前(19歳)、その子・百丸(4歳)、お千屋の前(18歳)、その子・士丸(1歳)、お佐子の前(19歳)
その子・十丸(3歳)、お亀の前(38歳/33歳)、その子・槿姫(9歳)、お伊万前・駒姫(15歳)、お菊の前(14歳)、お竹(18歳)、お阿屋(31歳)、阿子の前(30歳)、右衛門の後(35歳)、お仮名(17歳)、お須儀(19歳)、およめの前(30歳)、左衛門の後(38歳)、お古保(15歳)、お国の前(22歳)、お満の前(23歳)、小少将の前(24歳)、お佐伊前(15歳)、お牧の前(16歳)、於妻の前(16歳)、按察使(あぜち、35歳)、お松の前(12歳)、お藤の前(21歳)、妙心前老尼(68歳)、東の前(61歳)、お参の前、津保美の前、お知保。39名。

石仏

寶筐印塔、江戸時代、1704年

千鳥碑、かつて鴨川に棲息していたという鴨川千鳥(イカルチドリ)

境内には四季折々の花が開花する.。これはムクゲの「祇園守」。祇園祭の頃開花し、八坂神社の「梅鉢紋」に似ることから名づけられたという白ムクゲ。
 瑞泉寺 〒604-8002 京都市中京区石屋町114-1,木屋町通三条下る  075-221-5741
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