白川 (京都市東山区) 
Shirakawa River

  

白川と「知恩院の橋」


一本橋(行者橋)、と柳並木。「白川のしらずともいはじ底清み流れて世々にすまむと思へば」 (『古今和歌集』、恋三、666、平貞文)、「春といへばさえゆく風に立つ波の花にうづめる 白川の里」 (『拾遺愚草員外』、上、藤原定家)






琵琶湖疏水(上)と白川の合流点、白川の語源になった白砂が川底に沈殿している。


白川砂






白川と白川橋
 白川は、川底に白川砂が堆積し、白く輝いたことから名づけられた。美しさを称えられ、旧白川は藤原定家、紀貫之などの和歌にも詠まれた。後に流路が変わっている。 
 琵琶湖疏水の開通後は、白川は南禅寺舟溜で疏水に合流するようになる。さらに、神宮道に架かる慶流橋下、仁王門橋下流で、再び疏水を離れて白川となり、鴨川に併流する鴨東運河(疏水)に合流する。
◆歴史年表 古代、扇状地に人が住むようになる。
 平安時代、872年、右大臣・藤原氏宗が別業「東山白河第」で亡くなり、妻・淑子が住し、養子・源定省(第59代・宇多天皇)が育つ。
 872年、藤原良房が亡くなり、自らの別業「白河院」近くに葬られる。
 888年、淑子は山荘を円成寺(えんじょうじ)に改める。
 935年、紀貫之は左大臣・忠平の「白河殿」にお供した。
 11世紀(1001-1100)後半、旧白川沿い岡崎には、六勝寺(白河天皇の法勝寺、堀川天皇の尊勝寺、祟徳天皇の成勝寺、近衛天皇の延勝寺、鳥羽天皇中宮・待賢門院の円勝寺)などの別邸が相次いで造営され、後に白河上皇は院御所での院政を敷いた。
 中世、それまでの本流は北白川、今出川から西へ流れ、鴨川に注いでいた。洪水により流路が変わり、現在の支流への流れに代わる。白川は、たびたび氾濫を起こす川だった。
 江戸時代、川幅はいまよりも広く水量もあったという。
 1691年、「白川橋」「大和橋」が記されている。 (『京大図絵』)
 1762年、「石橋町」「知恩院古門前町」などが記されている。 (『京町鑑』)
 1829年、巽橋が架設された。 (『京都坊目誌』)
 近代、1890年、琵琶湖疎水事業が終わる。
 明治期(1882-1912)、急流の白川筋には多くの水車が見られた。
 現代、2008年、治水対策のため今出川分水路(地下)が今出川に建設される。
◆白川 白川は、比叡山南麓、大文字山、如意ヶ岳の東山の谷を水源としている。花崗岩の砂礫の浸食、降雨時の増水により土石流が発生し、氾濫を繰り返してきた。縄文、弥生遺跡、白鳳期の寺院も埋没している。
 かつて、白川本流は南禅寺西より三条通の北裏を西へ流れ、鴨川に合流していた。三条大橋の架橋以後、天井川になる。洪水により支流だった小川(こがわ)が氾濫し、現在の白川の流れになったという。
 流路は、北白川より南行し、岡崎で琵琶湖疏水と合流する。西行し、仁王門橋で疏水と分流、祇園白川を経て鴨川に合流する。全長は7.3km、流域面積12.5kmであり、一級河川(淀川水系3次支川)になる。
◆白川砂 白川砂は、北白川扇状地を形成する花崗岩の砂礫であり、石英砂は色が白く、水はけがよく、箒目を美しく描くことができるという特徴がある。雨水を含むと雲母が黒く変色し、乾くと白く輝く。このため、京都の枯山水の庭園、灯篭、石碑などに重宝されてきた。
 最盛期には、北白川周辺に200、300軒の石工、石材関連業者が軒を並べていたという。
◆粟田焼 江戸時代、元和年間(1651-1624)、瀬戸の陶工・三文屋九右衛門により、粟田口三条通に窯が開かれた。粟田焼と呼ばれ、色絵陶器を生産し、後の京焼になった。
◆白川女 白川には、「白川口商人」という商いの拠点になっていた。白川一帯(北白川仕伏町、下池田町)には、平安時代から花畑が広がり、花、番茶を頭の藤箕に載せて売る白川女(しらかわめ)がいた。
 頭には白い手拭を被り、紺木綿の着物、三巾前垂、縞帯、白の腰布、黒の手甲、白脚絆、わらじ履きというもので、「花はいらんかえー」と声を出して売り歩いた。
 現在でも、大八車に季節の花々を載せて売り歩く白川女がわずかにいる。時代祭(10月22日)の白川女献花列で往時の姿を偲ぶことができる。
◆印地 平安時代末、北白川には白川印地の一団が住んだ。彼らは、祇園社門前で京印地との間で争い、死者を出す騒ぎになったという。
 印地は、二手に分かれて石を投げ合い(印地投げ)により勝敗を決した。しばしば死者、負傷者が出たことから禁止になっている。 
◆白川橋 白川橋は、江戸時代に架橋された公儀橋になる。江戸時代、1662年に石橋に架け替えられたのは、この年に起きた大地震で壊れた五条大橋の石材が使われたためという。現在の橋は1932年に架けられている。
 三条大橋の東に位置するこの橋の東は、「京の七口」のひとつ粟田口(大津口)にあたり、東海道、大津、伊勢方面の出入り口になっていた。付近には、かつて、茶器・粟田焼窯元が多くあり、また、刀鍛冶の盛んな土地だった。
 江戸時代、毎年12月20日(果の二十日)に行われていた罪人の市中引き回しの際には、六角獄を出され、三条、一条と市中を回り、一条戻り橋を経て、再び三条へ戻り、粟田口にあった刑場へ送られていた。
 
白川橋の東詰南のたもとにある道標(石標)は、江戸時代、1678年に立てられた。京都で最も古いとされている。「京都為無案内旅人立之」と彫られている。
◆白河夜船一本橋 白川に架かる一本橋は、行者橋、古川町橋、阿闍梨橋、たぬき橋とも呼ばれた。架橋年については不明だが、18世紀末(1786年)の文献には記載があるという。現在の橋は、1907年に架け替えられた。京都市は市道認定している。全長12m、幅67㎝、御影石の石橋が2列6枚並ぶ。切石の石橋の橋脚は2本立つ。
 江戸時代には、粟田祭の剣矛が夜半に渡る曲渡り(曲差し)が行われていた。(『橘窓自話』)。現在では、祇園祭のお稚児さん、粟田神社の祭礼でも氏子が松明を持って渡る。
 比叡山の回峰行の行者が75日目に行う「京都切廻り」の際に、この橋を渡って八坂神社へ向かう。阿闍利になった行者は、粟田口・尊勝院元三大師に報告し、最初に入洛する時に渡る。橋の脇には、行者の加持を受ける人たちが待つ。
◆白河夜船 「白河(川)夜舟」という表現がある。京を知らない人が白川のことを聞かれ、「夜船で通って寝ていたのでわからない」と答えた。白川は狭く浅い川であり、船は通ることが出来ない。知ったかぶりをする人を揶揄する際に使われた。(江戸時代の俳諧作法集『毛吹草』)
◆水車
 近代、明治期(1882-1912)、急流の白川筋には多くの水車が見られた。最盛期には30基が稼動し、金箔、精米、製粉、圧延、伸銅、織物の艶出、陶器原料の泥粉の製造工場が稼動していた。その後、動力が電力に替わると姿を消した。
◆将軍地蔵山 北白川は交通の要衝地だったため、将軍地蔵山(瓜生山)には勝軍山城が置かれた。室町時代の足利義輝、室町時代-戦国時代の細川晴元、戦国時代の三好長慶、安土・桃山時代の六角義賢、明智光秀などの武将が籠城したという。
◆京津線 1912年に開業した京津電気軌道は、当初、東山三条駅から白川を渡り、神宮道を通って、蹴上、大津へ向かっていた。
◆映画 現代劇映画「いちげんさん」(監督・森本功、1999年、スカイプランニング、ホリプロ)の撮影が行者橋で行われた。視覚障がい者の京子(鈴木保奈美)は恋人(エドワード・アタートン)と石橋に座り涼む。
◆環境 1960年半ば頃まで、友禅工場が反物を川で洗い川が汚染されていた。東山区の白川小学校では、2003年より年に一度の白川の清掃活動を続けている。これは、前身となる粟田、有済小学校の取り組みを引き継いだものという。また、生徒による「白川キッズキレイ隊」が結成され、毎月放課後のゴミ拾いも行っている。


*参考文献 『京の橋ものがたり』『京都絵になる風景』『京都大事典』『琵琶湖・淀川 里の川をめぐる 白川』『京都の地名検証 3』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』

 
   祇園白川       三条大橋 粟田神社     白河院跡・法勝寺跡・白河院庭園     明智光秀首塚              

白川橋

道標

「知恩院の橋」(新門前橋)

一本橋

唐戸鼻橋

梅宮橋(青屋橋)、桁橋3本、橋脚2本。
 かつて二本の石橋だった。近代になって、橋のたもとにあった左官屋の寄進によって、三本の石橋に架け替えられたらしい。

【参照】白川女
平安京オーバレイマップ
 白川  

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