四条大橋・四条河原 (京都市中京区-東山区)
Shijo-ohashi Bridge・Shijokawara
四条大橋・四条河原 四条大橋・四条河原 
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四条大橋












四条大橋から北方向、三条大橋、北山


冠雪した北山「ま、綺麗やおへんかどうえ/このたそがれの明るさや暗さや/どうどっしゃろ紫の空の色/空中に女の毛がからまる‥」(村山槐多「四条大橋」より)


西岸南右は中華料理レストラン東華菜館、ヴォーリズが設計したスペイン風バロック建築。


西岸、先斗町


北方向、先斗町、西岸の納涼床


南方向、西岸


南座と鴨川南座(国登録有形文化財)


現在唯一残る「芝居小屋」南座の正面。四条大橋東側、 この建物は、1929年に建てられている。日本最古の劇場。


屋根の最上階には官許の証である櫓がある。


「まねき上げ(揚げ)」


欄干のデザイン


四条大橋東詰北、阿国像
「かぶき踊の祖 出雲の阿国 都に来たりて その踊を披露し 都人を酔わせる」の碑文
刀脇差、ロザリオの傾き姿。
「此比、かぶき踊りと云事有、是は出雲国神子女名は国、但非好女、仕出、京都へ上る、縦(たとえ)ハ異風なる男のまねをして、刀脇指衣装以下殊異相、彼男茶屋女と戯る体有難くしたり、京中の上下賞翫(しょうがん)する事不斜、伏見城江へも参上し、度々踊る、その後学之、かぶきの座いくらも有て諸国へ下る、但江戸右大将秀忠公は終不見給」(『当代記』)



「阿国歌舞伎発祥乃地」の碑、四条大橋東側、
南座の西入り口
1953年に建立。鞍馬石。


前進座の「出雲阿国」南座公演


7月10日、鴨川にかかる四条大橋の上での神輿洗


初来日400周年に再現された朝鮮通信使の行列、四条大橋を渡る(2007.11.3)、朝鮮通信使は1607年から1811年まで12回、400~500人の一行が漢城(ソウル)から対馬、京都、江戸(時に対馬止まり、京都止まり、また日光まで行くこともあった)へと向かった。往路は三条大橋、三条小橋、復路は五条大橋(現松原橋)を渡った。


「北座跡」の碑、川端通四条上ル東側



四条大橋北、西岸の「みそそぎ川」に組まれた納涼床、遠景は四条大橋


車石跡、四条大橋上流東岸かつて牛荷車はここから鴨川を渡った。


【参照】行願寺(革堂)にある車石の遺構、溝に沿って荷車が川に出入りしていた。


【参照】1875年頃の荒神橋付近の牛荷車、京都府の鴨川の掲示板より

車石、御香宮神社


与謝野晶子の歌碑、川端四条上ル東
「四条橋 おしろい厚き 舞姫の 額ささやかに 打つ夕あられ」
 かつて鴨川の東岸は、いまよりも広く、仲源寺の辺りまで、西岸は柳馬場辺りまで河原が広がり、普段は何本かの小川が流れていた。四条大橋は、公儀橋ではなく、庶民の手によって架橋された仮橋だった。
 四条大橋は、四条通の東にある祇園社(八坂神社)と、西の元祇園梛(なぎ)神社という二つの社が鎮座する間にあり、四条通は祇園社の門前町として発展し、祇園会との関わりが深い。 
◆歴史年表 平安時代、1142年、祇園社参詣のために、勧進聖の寄付活動により板橋が架けられた。架橋の最も古い記録になる。(祇園社「社家記録」)。
 1154年、僧妙という勧進聖が橋を新造、供養する。(「濫觴抄」)
 中世(鎌倉時代-室町時代)、橋の東に祇園社の朱塗りの鳥居が建てられていた。
 鎌倉時代、橋は太鼓橋になり、擬宝珠はなかった。(『一遍上人絵詞伝』)
 鎌倉時代、四条橋下に乞食僧・綴(つづれ)法師という「天下の悪党」が住し、六波羅探題の後藤某がこれを捕え、首を撥ねたという。(『蔭涼軒日録』)
 1228年、風雨洪水により、四条大橋、五条大橋が流された。(『百錬抄』)
 1284年、一遍が釈迦堂で踊り念仏を興行した際に、桁橋の四条橋が描かれている。(『一遍上人絵伝』)
 南北朝時代、1347年、架橋のための勧進田楽が催される。
 1349年、四条河原で架橋寄進(勧進)のために行われた「能くらべ」を足利尊氏も観覧している。だが、桟敷60余間が壊れ、100人ほどの死者、多くの傷者が出たため「桟敷崩れの田楽」といわれた。(『師守記』『太平記』)
 1374年、勧進僧の祇園感神院・十穀聖により架橋されている。(『師守記』)
 1427年、洪水により四条橋、五条橋が落ち、周辺の河原在家といわれる庶民の家が流された。
 1441年、洪水により橋が落ちる。
 1450年、九州の正領(等)入道により36間(70m)の大橋が架橋され、祇園会で祇園神輿が御渡した。10月、相国寺、南禅寺、建仁寺の僧による供養が行われた。(『東寺執行日記』『祇園社記』)。その後も鴨川の洪水で幾度も流出し、その度に、氏子の寄進で架け替えられた。
 室町時代、四条大橋は二重になっていた。(「町田家旧蔵本」「洛中洛外図上杉本」)。
 室町時代、四条橋東側の大和大路角には、鴨川の治水の神・禹王社があったという。
 1461年、「寛正の大飢饉」(山城大飢饉)の際、飢饉と疫病、戦乱により、京中で8万2000人もの餓死者が出ている。時宗の僧・勧進聖の願阿弥は、四条橋の河原、五条橋河原、油小路の空地で多くの餓死者を葬り塚を作った。(『碧山日録』『大乗院寺社雑事記』)。鴨川にも遺体が溢れ、川の流れを塞いだという。この後、四条橋で相国寺、東福寺、南禅寺の五山の僧による施餓鬼も相次いで行なわれた。
 1517年頃、勧進聖・智源が本願となり、橋の再興が行われることになる。(「祇園古文書」『祇園社記』)
 1519年、四条橋再興のため、山国より筏に組まれた材木が運ばれる。(「八坂神社文書」上)
 1533年、四条橋が流失する。
 1544年、大風、洪水により四条大橋、五条大橋が落ちる。京中でも被害がある。(「言継卿記』) 
 1547年頃、板橋の四条橋が描かれている。(『洛中洛外図屏風』上杉本)
 安土・桃山時代、1576年、鴨川の洪水後、織田信長の命により橋は修復されている。
 1574年、四条河原には、中州を挟んで橋が二つ架かっていた。いずれも、祇園会のために造られたもので、一つは粗末な船の上に板を渡した浮橋(船橋)だった。(『洛中洛外図屏風』)
 1578年、洪水により村井長門守の架けた四条橋は流失する。織田信長は洪水を押して播州に出陣する。(『信長公記』)
 1581年、洪水により四条橋は流れる。
 1591年、豊臣秀吉は京を囲むお土居を築造している。
 江戸時代、元和-寛永年間(1615-1645)、板橋として描かれている。(『洛中洛外図』) 
 1654年、三条大橋は鴨川に架かる11橋の一つとして記されている。(『新板平安城東西南北町並洛外之図』)
 1669年-1670年、鴨川新堤(車坂-五条橋)の工事が始まる。
 1857年(1856年とも)、4月、それまでの浮橋といわれる仮橋が、本格的な石橋(構造橋)に替わった。これには下京の町衆、祇園社の氏子、祇園町新地の人々による募金と労力奉仕があり、石柱42本の板橋(長さ90m、5.5m)が完成した。大間渡り式が行われた。四条橋近くにも牛車の通る車道があった。橋を渡ることが出来ない荷車は、大和橋の南詰から白川に沿って鴨川に入っていた。
 近代、1873年、京都初の錬鉄桁「くろがね橋」(長さ98.2m、幅7.3m)に架け替えられる。石柱鉄橋の材には、廃仏毀釈によって生じた寺院の銅製仏具類が使われた。京都府の補助を受けたが、工費の半分は芸舞妓らが負担している。橋の欄干には、祇園の串団子と桜花散らしの意匠が施された。
 1874年、架橋が完成し、京都初の鉄橋になる。渡り初めには祇園の芸妓が400人参加し盛大に祝う。経費の回収のために橋に番所を設け通行料を徴収した。人は一銭、車馬は二銭で、このため「ゼニ取り橋」と評判が悪かった。
 1881年、橋は無料開放された。
 1897年、2月、四条河原で、染色技術者の稲畑勝太郎は、フランス留学から帰国後、仏人リュミエール兄弟の発明した「シネマトグラフ」の試写会を行った。この日本初の活動写真上映は失敗しているが、その後、島津製作所に変圧器の製作を依頼し、新京極東向座で公開映写を成功させている。
 なお、かつて「竹村家橋」という細い木造橋が四条大橋の北一町ほどのところに架かっていた。橋の西詰めにあった料亭「竹村家」が私費で架けたことからこの名が生まれた。
 1912年、鉄筋コンクリート製、ブロンズ製の高欄の橋に架け替えられた。新しく開通した市電が通る軌道敷の橋であり、幅員も広げられた。
 1913年、橋全体の工事が完了した。設計は、東大教授柴田畦作、意匠は森山松之助、山口孝吉による。「セセッション(ゼツェッシヨン)式欧風意匠」といわれる直線的、実用的で斬新なものだった。七条大橋もこの三人の手による。京阪電車四条駅ホームも橋のアーチに合わせた意匠だった。
 1935年、鴨川大洪水の際に、橋は流出はしなかった。基部の河積が大きな被害を受けた。流木が橋桁を塞ぎ、周辺の冠水被害が拡大している。橋は解体され、河床は1.5m掘り下げられた。
 1937年、鋼板桁に架け替えられている。
 1942年、下部工の橋脚、橋桁が建設される。上部工は仮設のままになる。
 太平洋戦争(1941-1945)中、欄干などの鉄材は金属供出になる。 
 現代、1964年、高欄意匠が全国公募される。
 1965年、全国公募により田村浩意匠の現在の橋に修景された。
 1972年、日本初の営業運転した市電廃止に伴い、市電は四条大橋を最後に渡る。
 1996年、三条と四条間の鴨川に、フランス様式の芸術橋(ポン・デ・ザール)を架ける市の計画が表明され、以後景観論争に発展した。(第二次景観問題)。その後計画は凍結される。
◆四条大橋 現在の四条大橋の架設年は1942年であり、橋種は3径間連続鋼(非合成)プレートガーター、橋長64.8m、幅員24mになる。当初は下部工の橋脚、橋桁が建設された。上部工は戦時中のため仮設のままに置かれた。太平洋戦争(1941-1945)中に、欄干などの鉄材は金属供出されている。戦後になり、1964年、高欄の意匠が全国公募される。1965年、全国公募(460点)により、京都市内の田村浩の意匠が選ばれ修景された。
 土台の地覆は花崗岩に黒い那智玉石を貼り、逆V字型のコンクリート躯体を渡した。手摺は金色の青銅鋳物製(12×10㎝)、ボルト隠し(130個)は、金鍍金青銅鋳物製であり、御所車を模っている。欄干のコンクリート内部に、自動点滅式水銀灯(180個)が埋め込まれていた。さらに、早朝に自動的に橋面を洗う「洗浄装置」が備えられていたという。(『夕刊京都』)
 橋台には、1874年のアーチ橋当時のものが残されている。基礎杭(木杭)も残る。
◆出雲阿国 安土・桃山時代の女性芸能者・出雲阿国(いずも の おくに、1572?- ?)。詳細不明。於国、国など。出雲国杵築中村の里・鍛冶中村三右衛門の娘ともいう。出雲大社の巫女(アルキ巫女)となり、文禄年間(1558-1570)出雲大社勧進のため神楽舞をして諸国を巡回し、美貌もあり評判になる。1582年、奈良・春日大社で上演された「ややこ(稚児)踊り」は8歳の加賀と演じた。1600年、京都で公家に招かれ近江殿、御所で菊とともに演じ、人気を博した。1603年、北野神社で男装した阿国の「歌舞伎踊」が披露された。1604年、伊勢国桑名、1607年、江戸城で興行した。その後の消息は不明。歌舞伎の創始者とされている。
◆阿国・歌舞伎 四条河原は、南北朝以来の市民の歓楽地だった。勧進田楽や猿楽を行う市民の遊散所でもあった。当時の鴨川の東岸は、現在の大和大路まで、西岸は現在の河原町辺りまであり、一帯は広大な広場であり、芝居小屋なども建ち並ぶ遊興地だった。
 安土・桃山時代、1582年、10歳の出雲阿国は、奈良春日若宮で「ややこ踊り」という少女踊りを舞う。1600年、京の公家の前でも踊る。1603年、北野神社で男装した阿国の「歌舞伎踊」が披露され人気を博した。その後、四条祇園社の近くでも興行した。ただ、四条河原での阿国による興行はなかったといわれている。四条河原町の小屋掛けで行われたのは、阿国の踊りを真似た六条柳町(六条三筋町)の遊女による総踊り、遊女歌舞伎だったという。
 阿国は出雲国松江に生まれ、出雲大社の巫女(アルキ神子、歩き巫女)となり、諸国を巡業したともいう。ただ、諸説ある。阿国、名古屋山三(名護屋山三郎)らは、歌舞伎(傾奇が語源)の創始者とされている。阿国は派手な衣装をまとい、黄金の太刀に、首には十字架を掛けていた。若衆に扮した阿国は、女装した若者相手に恋のさまを踊るという趣向だった。当時の世相や風俗、事件なども踊りに取り入れ、都人の「天下一の女」との評判を取る。阿国は、五条大橋(いまの松原橋付近)の河原で小屋掛けしていたともいう。その後、豊臣秀吉は伏見城への通行の邪魔になるとして、大村梅庵により四条河原に移させた。1604年阿国は京都を去り、地方巡業を続けた。1607年江戸城に招かれて踊った後の消息は分かっていない。
 1608年、四条河原で遊女による女歌舞伎が初めて披露された。(遊里は1589年に二条柳町に開設され、1602年に六条三筋町へ移転、1640年には島原へ移転させられる)。その後も、遊女歌舞伎(1629年禁止)、若衆歌舞伎(1652年禁止)、野郎歌舞伎などが次々に現れ人気を集めたが、幕府により「風紀を乱す」として度々禁止され、野郎歌舞伎を元にした女形による現在の歌舞伎につながる。
 1615年頃、京都所司代は七つの櫓(芝居小屋)を許可した。四条通南に三座、北にニ座、大和大路西にニ座、それに現在の南の芝居(南座)だった。この頃から、四条河原は賑わいを増し、さまざまな遊興が繰り広げられる。遊女歌舞伎、操り人形浄瑠璃、能、楽器演奏、弓技場、動物などの見世物、犬の曲芸、軽業(放下、蜘蛛舞、蓮飛び、枕返、輪脱)、相撲の小屋掛けも見られた。その後、それぞれの櫓が火災などで焼失し、近代、1893年、「北座」(北の芝居)も火災に遭った。北座は、四条通の拡幅工事でついに廃止され、南座だけが今に残ることになる。
 顔見世は、17世紀の末に始まったという。大正期以来、東西の役者が揃うようになる。以後、興行は一度も絶えることなく続き、太平洋戦争中の1944年に高級享楽停止令が出されたが、翌年には除外され、戦時下でも300年以上の歴史を持つ顔見世興行は続けられた。1906年、南座は松竹の経営になった。現在の建物は、1929年に新築されている。
◆祇園 祇園が祇園社参詣人相手の遊興地となったのは、江戸時代の元和年間(1615-1623)で、1665年には幕府により茶屋の営業が認められている。寛文の鴨川新堤工事(1670)以後、三条から四条にかけて「新地」の開発が進んだ。それまであった西岸の茶屋が東岸に移され、芝居小屋は東岸、見世物小屋は西岸に分けられた。四条河原に「ホタル茶屋」(1681)も店を出している。宮川町に「陰間茶屋」(1751)が店を開いた。
◆戦場・梟首 かつての鴨川は、いまよりも河川敷が広く中洲もあった。そのため、鴨の河原は数々の戦場になる。保元・平治の乱(1156、1159)や、幕末には、勤皇佐幕入れ乱れた抗争の舞台になった。戦になると見物人が出たという。見物人は、逃げ出した武将に対しては追い剥ぎに早代わりしたという。
 四条河原でもまた梟首がおこなわれた。幕末の天誅第一号となった島田左近(1862)、本間精一郎(1862)も晒し首になった。
◆積塔会 近代以前まで、四条河原の西岸では積塔会(しゃくとうえ)が行なわれていた。目の不自由な人々が集まり、河原に石を積み上げ、祖先の報恩供養を行なっていた。
 14世紀から、目を患い琵琶の名手といわれた仁明天皇第四皇子・人康親王(さねやす/ひとやす しんのう)を祖神とした、総検校以下の人々が、四条河原で「積会」(旧暦2月16日)、「涼みの塔」(旧暦6月19日)を行った。職屋敷での琵琶演奏後、四条河原で石を積み上げ、香華を手向けていた。
◆納涼床 納涼床(のうりょうゆか)については、室町時代にすでに河原での夕涼みが行われていたという。豊臣時代(1580-1590)、裕福な商人が夏に遠来の客をもてなすのに、四条、五条河原付近の浅瀬に床几を置いたのが始まりともいう。中洲に板の小橋を渡し、浅瀬にも床几が置かれた。寛文年間(1661-1672)以降、護岸工事により生まれた東西両岸にも店が出た。最盛期は元禄年間(1688-1704)で、三条より松原間の河原に設けられ大いに賑わった。
 納涼床は近代も引継がれた。明治期(1868-1912)には、現在の高床式ばかりではなく、床机形式の低い床もあり、川の上に直接置かれていた。だが、増水時に被害があり、その後中止になった。琵琶湖疏水(1894)の完成後、高床式も東岸は中止になり、中州も1911年に四条大橋に市電が開通した後は中止になった。
 昭和10年大洪水(1935)の後は、鴨川の補修工事により造られた水路の「みそそぎ川」(「禊川」、みそぎがわ、賀茂川の別称でもある)の上に納涼床を設けるようになる。「みそそぎ川」は鴨川の水を取り入れ、鴨川の分流になる。床は、府の許可が必要で、鴨涯保勝会により管理されている。床開きは5月1日から9月30日まで。
◆親鸞 親鸞(1173-1263)と聖覚(1167-1235).は四条大橋の上で出合ったという。
 親鸞が比叡山より六角堂への百日参籠を行った際に、満願の100日目に四条大橋の上で聖覚に会う。親鸞はいまだ悟りに至らない心中を打ち明けた。聖覚は、いま吉水の法然の処へ伺うところだといい、法然の他力念仏について述べた。その後、親鸞は法然を訪ね、悟りを開いたという。
◆祇園祭 祇園祭の神幸路として、神輿の渡御、神輿洗の神事などの際には、「きよめの水」が鴨川から汲み上げられる。7月10日の夜、四条大橋で神輿洗のお祓いが行われる。
 四条から五条(現在の松原橋)にかけての鴨川は「宮川」といわれている。現在も、「宮川町」「宮川筋」の名が残っている。
◆車石 東海道の起点は三条大橋になっている。荷を積んだ牛車の迅速な街道往来のために、道筋には車石という石が敷かれていた。いわば舗装道路で、竹田街道、鳥羽街道などにも見られた。石の規格は一定ではなく、長さは60-70㎝、幅30-40㎝、厚さ15-20㎝あり、上に幅15㎝、深さ10㎝の溝が開けられていた。この車石が牛車の車幅140㎝に合わせて二列に敷かれた。ただ、単線であり、午前は東行き、午後は西行きと分けられていた。重い牛車は橋を渡ることは許可されておらず、車道を使って川を渡った。
◆南座 南座(国登録有形文化財)は、近代以降に3度建替えられている。現在の「南座」は、近代、1929年に工期11か月で完成した。1990-1991年、舞台、客席などの改修が行われている。白波瀬直次郎の設計による。幾重もの破風による桃山風。屋根の最上階には官許の証である櫓がある。櫓は、5本の毛槍と一対の梵天からなる。鉄筋コンクリート造四階建、一部は鉄骨造、地階付、瓦葺。
 1-3階に客席、4階に楽屋、地階の舞台下に奈落などの設備がある。設計・安立建築事務所(足立糺)、施工・白波瀬工務店。
 
例年11月30日-12月26日に行われる顔見世(かおみせ)興行にむけ、11月24日深夜から25日に「まねき看板」が南座にかけられる。25日午前中に「まねき揚げ」が行なわれ、最後の大看板2枚が揚げられる。劇場正面には竹矢来が組まれ、役者の名を書いた独特の太字・勘亭流の招き看板(180cm×30cmの桧板)が掲げられる。上部の庵形は「入」の字になっている。勘亭流の独特の字体も大入りの縁起を担いでいる。向かって右が関西、左が東京の役者の名で総勢40、50人になる。この顔見世、役者の披露興行は、元禄時代に定着したとされる。10月の名古屋御園座、11月の東京歌舞伎座に続く、12月の南座興行は京の師走の風物詩になっている。
 鴨の河原を舞台とした芝居は「近頃河原達引」「九十九折」「鳥辺山心中」などがある。
◆文学 島崎藤村(1872-1943)の『新生』には、四条大橋界隈の描写がある。フランスから帰国した藤村は、京都にしばらく滞在している。有吉佐和子(1931-1984)には『出雲の阿国』がある。
◆景観論争 現在の四条大橋(1913)が架けられた際に、近代的なデザインに対し、景観に関して様々な批判が起きている。
 四条大橋と三条大橋の間(新門前町通付近)の鴨川に、パリのポン・デ・ザール(芸術橋)風の橋を新設するという計画をめぐり、景観論争(1996-1998)が起きた。 シラク仏大統領の提言を受け、京都市は、1999年の「鴨川人道橋」完成を目指した。しかし、市民の広範な反対運動が起こり、その後白紙撤回されている。
◆花の回廊  鴨川三条から七条にかけて、京都府と京都市により、三条・七条間の「花の回廊」整備事業(1999)が完成し、枝垂桜、山吹などが植栽された。
 毎年4月初旬(4月6日-7日)には、「鴨川さくらまつり」が催される。鴨川河川敷(四条大橋-三条大橋間)のサクラ50本の並木がライトアップされ、鴨川右岸には「花灯路」が灯される。
◆シネマトグラフ映画 1895年、フランスのオーギュストとルイのリュミエール兄弟は、「シネマトグラフ」を発明した。撮影機であり映写することも可能な機械だった。1896年、渡欧していた稲畑勝太郎は、リヨン工業学校の級友であるオーギュストに再会した。稲畑は、シネマトグラフのことを知り、映写会にも出かけている。
 1897年、稲畑は、日本への帰国に際して、シネマトグラフの東洋での興行権を得て、技師ジレールも伴っていた。京都での試写実験に際して、京都電灯会社の長谷川技師の考案により、島津製作所に変電器を製作させた。2月、安全確保のため、四条河原の野外において試写会が行われたという。日本初の映写になる。
 2月15-28日、大阪・南地演舞場で上映され大盛況となる。3月1日-6月3日、京都の新京極元東向演舞場(京極座)でも上映され、連日の大入りになった。広告には「仏国シネマトグラフ 自動幻画」と紹介されている。上映作品は白布(1.8m四方)に映し出された。無声映画の「フランス士官学生の騎馬演習」「ミラノの水泳」など約10本の作品があり、40分ほどの上映時間だっ
た。
 7月、アメリカのエジソンが発明した「バイタスコープ」という新型の活動写真が導入され京都でも上映されている。
◆映画 四条大橋で撮影が行われた。時代劇映画「殺陣師段平」(監督・マキノ雅弘、1950年、東横映画)では、沢田正二郎(市川右太衛門)は老殺陣師の段平(月形龍之助)の身を案じながら床で酒を飲む。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京の橋ものがたり』『京都の近代化遺産』『京都の映画80年の歩み』『京都絵になる風景』『京都隠れた史跡100選』 『おんなの史跡を歩く』『女たちの京都』『京都はじまり物語』『あなたの知らない京都の歴史』『京都の自然ふしぎ見聞録』『鴨川・まちと川のあゆみ』


  壇王法林寺       八坂神社      三条大橋       花の回廊      シネマトグラフ上映地・日本映画発祥の地(旧立誠小学校)        祇園祭       関連車石・車道(日ノ岡)           

東詰南にある「京 ゆたかもの 雅」の碑

【参照】かつて四条大橋を渡っていた市電
 四条大橋

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