出雲路橋 (京都市北区-左京区)
Izumoji-bashi Bridge

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出雲路橋、橋の背後に見えるのは冠雪した比叡山




出雲路から南方向、左は大文字山


出雲路鞍馬口の石標、出雲路橋西詰北
室町時代には、ここに関所が置かれていた。


出雲路橋西詰南にある賀茂御祖神社(下鴨神社)の碑、下鴨神社は鴨川を渡った東方向


志波む桜碑、出雲路橋西詰北
 鴨川に架かる出雲路橋(いずもじ ばし)は、北大路通りの南、鞍馬口通りにある。橋の上からは、北に北山、東に比叡山、南東に大文字山などを望むことができる。
 出雲路橋は、鞍馬街道の出入口にあたり、「京の七口」のひとつになる。鞍馬口、出雲路口ともいわれた。 
◆歴史年表 南北朝時代、1336年、足利尊氏と南朝方との戦において、近江国本からの軍勢により、出雲路に火が放たれた。
 室町時代、1441年、土一揆が起こり、出雲路の土蔵に押し寄せた一揆勢との間で合戦が起きている。
 江戸時代、1654年、出雲路橋(鞍馬口)の記載が鴨川に架かる11の橋の一つとしてある。(「新版平安城東西南北町井洛外之図」)。ただ、仮橋だったという。
 江戸時代、橋の西口付近に鞍馬口村が開かれた。
 現代、1983年、現在の出雲路橋が架けられている。
◆出雲路橋 現在の出雲路橋の架設年は1983年になる。橋種は3径間連続鋼プレートガーターになる。橋長80m、幅員9.8m。
◆出雲臣安麻呂 奈良時代の下級役人・出雲臣安麻呂(いずも おみ やすまろ、684?-?)。山背国愛宕郡雲下里生まれ。父は大初位上(だいそいじょう)の出雲臣筆(ふで)。北宮(ほくぐう、長屋王の妻・吉備内親王の宮)に仕え、帳内(ちょうない、雑用係)を務めた。位は大初位上。
 1988年、奈良市の平城京長屋王邸跡から出土した木簡には「安麻呂」の名があった。
◆京の七口 出雲路橋は、鞍馬街道の出入口にあたり、「京の七口」のひとつ、「鞍馬口」、「出雲路口」ともいわれた。室町時代には「艮口(うしとら)」ともいわれた。
 鞍馬街道は、鞍馬口から深泥池、檜峠、幡枝、市原を経由する東街道、清蔵口から千本・大宮、上賀茂、朝露、柊野、原峠、市原へいたる西街道があった。道は丹波へと通じた。
 「京の七口」について「七口」とは定まらず「十口」ともいう。実際にはそれら以外の複数の間道もあったという。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉の御土居築造の際に七口は、「粟田口(東)、東寺口(坤)、丹波口(西)、清蔵口(北)、鞍馬口(艮)、大原口(北)、荒神口(東)」とされた。
 江戸時代には、「山陽道(摂津道)東寺口、東海道(伊賀伊勢道)五条橋口、西海道(九州道)四条大宮口、南海道(紀州道)竹田口、東山道(近江道)三条 橋口、北陸道(若狭道)大原口、山陰道(丹波道)清蔵口」の呼称があった。また「鳥羽口、伏見口、丹波口、粟田口、八瀬口、若狭口、長坂口」、「東寺口、 竹田口、五条橋口、大原口、三条橋口、千本口、七条口」ともされた。
◆出雲郷 弥生時代の終わり頃、この地の上出雲郷(雲上里)では、出雲国意宇(おう、現在の島根県東部)から移り住んだ集団が稲作を始めた。出雲氏は、出雲国造の天穂日命を祖神とした。
 飛鳥時代-奈良時代、8世紀(701-800)前半、洛北は山背国愛宕郡に属した。律令制下、「里」、「郡」、「国」が整備され、この地には行政村落の「出雲里」(50戸)が置かれた。奈良時代、717年、行政区域の再編が行われ、「里」は「郷」になり、その下に「雲上里」、「雲下里」が新たに置かれる。出雲路橋西岸と東岸(下鴨)には、山背国愛宕郡出雲郷(雲上里、雲下里)があった。以後、鞍馬口通を挟んだ南北の地域は出雲路と呼ばれるようになる。
 奈良時代、726年、「愛宕郡出雲郷計帳」(奈良・正倉院蔵)には、一戸が10人-30人の家族による50戸ほどの世帯があったと記されている。さらに奴婢(奴隷としての賎民)がいた。雲上里では、「出雲臣真足(いずも の おみ またり)」、雲下里では「出雲臣麻呂」が戸主になった。人々は、農耕、鴨川や高野川での漁、鋳物銭、木工、紙作り(出雲里の出雲臣冠<かがぶり>の紙戸<かみへ>)、園池作りなどの技術も持っていた。隷属する出雲部も住んでいた。
 出雲氏は、賀茂氏とともに北山城盆地の開拓に関わる。平安京の貴族や政府の下級役人としても仕えた。それ以前の奈良時代、出雲氏一族には文字が書け、計算能力のある者も居り、多数の下級官人を輩出する。たとえば、「出雲臣安麻呂(いずも の おみ やすまろ)」という人物は、吉備内親王の従者として平城京に出仕した。1988年、奈良市の平城京長屋王邸跡から出土した木簡には、安麻呂の名があった。720年の蝦夷地の征討軍に加わった者もあった。
 後に、天候不順による不作、祖の負担、庸などの雑役に耐えかね、他所への流出などにより次第に衰微していった。720-750年、出雲郷にも賀茂氏が進出してきたとみられている。やがて、賀茂川の西、現在の下鴨付近は、出雲郷から蓼倉(たでくら)郷と名が変わった。
◆出雲社・出雲寺 出雲郷には二つの出雲寺があり、雲上里に上出雲寺があった。
 現存している上御霊神社(上京区)は、出雲族の氏寺・上出雲寺の鎮守社(出雲社)として創建されたともいわれ、 創建年代は奈良時代前期と考えられている。瓦窯は、西賀茂蟹ヶ坂町にあった。平安時代後期にはすでに寺は荒廃する。
 現在、下鴨神社(左京区)に祀られている出雲井於(いのへの)神社(比良木社)も、出雲氏の祖神として信仰されたとみられている。これらは、雲下里の人々によって祀られ、元は一つの出雲井於神社であり、分祀されたという。さらに、高野の崇道神社(左京区)境内に祀られている出雲高野神社は、かつて雲上里の人々により祀られていた。「幸神社(さいのかみのやしろ)」(上京区)は、古名を出雲路道祖神(いずもじ さいのかみ)という。(『延喜式』神名帳)。
 また、毘沙門堂(毘沙門堂門跡)(山科区)の寺号は護法山出雲寺という。平安時代、延暦年間(782-805)、伝教大師は、下出雲路で自刻した毘沙門天を安置し、下出雲路寺と名づけた。やがて、毘沙門堂と呼ばれるようになったという。さらに、かつて、平等寺(右京区)、尊重(そんじゅう)寺(上京区)、護法寺(伏見区)の三寺だったという。いずれも平家ゆかりの寺であり、鎌倉時代、平親範(1137-1220)により三寺は、出雲寺(上京区)に統一され建立されたともいう。
◆御霊会 平安時代初期、疫病の流行の際には、船岡、紫野などともに、出雲路でも御霊会が行われていた。当初、社殿は建てられず、その後、御霊堂、上下御霊神社などが建立された。
◆関所 15世紀(1401-1500)、この地には内蔵寮、御厨子所の「率分関」という関所が置かれ、率分関代官が就いた。公家の山科家、万里(までの)小路家が管理していた。
◆中川 かつて出雲路橋付近より、鴨川から分流した「中川」(京極川、今出川)があった。寺町通を下り、六条近くまで流れた。近世には、高瀬川に注いでいた。
◆阿国 安土・桃山時代の女性芸能者で歌舞伎創始者とされる出雲阿国(1572?-?)は、この出雲路あたりに生まれたともいう。また、一時期、出雲路道祖神の稚児、巫女としても奉仕していたともいう。
◆出雲路女 一帯には、出雲路女がおり、「ぎーすいらんかえー。ぎーす」の掛け声とともに、キリギリス(ギス)を売り歩いていたという。
 下鴨の農家の加茂女(かもめ)は、野菜を売り歩いた。
◆志波む桜 近代、1905年、日露戦争戦勝記念に京都府師範学校の教職員、学生、付属小学校の生徒らにより、北は上賀茂神社から南は出町柳までの賀茂川堤に、5000本の桜と楓の苗木が10日で植えられた。
 以来、師範桜(志波む桜)として、堤一帯は桜の名所になっている。
◆千日回峯行 比叡山延暦寺の千日回峯行者は、京都大廻りの際に出雲路橋橋の西詰から上賀茂神社を遥拝し、その後、下鴨神社へ向かう。
◆映画 映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 」(監督・山田洋次、第29作、1982年、松竹)では、三角州で寅(渥美清)が露天を開く場面がある。鴨川畔の葵橋、出雲橋の間の堤で陶芸家の老人(13世・片岡仁左衛門)に出会う。映画中で葵祭も紹介されている。
◆京響 橋の西詰北には、京都市交響楽団(京響)がある。京響は、1956年に日本で唯一の自治体直営のオーケストラとして創立された。
 現在、京都コンサートホール(1995)を公演の本拠地にしている。


*参考文献 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『京をわたる 橋がつなぐ人と暮らし』『洛北探訪 京郊の自然と文化』『シネマの京都をたどる』『史跡探訪 京の七口』『京都の地名検証』『京都水ものがたり 平安京一二〇〇年を歩く』


  上御霊神社     出雲寺     出雲路幸神社     下鴨神社     鞍馬寺     崇道神社   四条大橋     毘沙門堂    出雲大神宮・御影山(亀岡市)      

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出雲路橋 京都市北区出雲路立テ本町付近
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