即宗院 〔東福寺〕 (京都市東山区)  
Sokushu-in Temple
即宗院 即宗院 
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山門








山門、仁王像


山門、仁王像










本尊は宝冠釈迦如来坐像



開山の剛中玄柔木像



東福寺大仏台座蓮弁



「元版一切経(大蔵経)」
 東山三十六峰のひとつ慧日(えにち)山の麓に、臥雲山即宗院(がうんざん そくしゅいん)はある。薩摩藩ゆかりの寺として知られている。
 東福寺塔頭の一つで、境内の東端にある。正式には即宗院という。
 臨済宗東福寺派。本尊は宝冠釈迦如来坐像。
◆歴史年表 南北朝時代、1387年、薩摩藩6代当主・島津氏久の菩提のために、東福寺54世・剛中玄柔(ごうちゅう げんじゅう)を開山として建立された。氏久の法名「齢岳立久即宗院」に因み即宗院とされた。当初は、現在地の南、成就院南に位置していた。以後、薩摩藩の菩提寺になる。
 室町時代、1569年、焼失している。
 江戸時代、1613年頃、島津氏第16代当主・島津義久により、現在地に移転、再建された。以来、薩摩藩の畿内菩提所になり、藩より70石が施入された。
 江戸時代末期、政治家で軍人・西郷隆盛と僧・月照は、境内の茶室「採薪亭(さいしんてい)」で倒幕の密談を行う。
 近代、1868年、鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩の屯営になる。庭園の樹石を取り払い境内も荒廃する。
 現代、1945年、太平洋戦争後、庭園は荒廃した。
 1977年、庭園は庭園文化研究所・森薀の指導により復元される。
◆剛中玄柔 室町時代(南北朝時代)の臨済宗僧・剛中玄柔(ごうちゅう げんじゅう、1318‐1388)。薩摩藩士の猶子として豊後に生まれた。崇祥寺の玉山玄提に師事、その法嗣。南禅寺・東福寺住持の無徳至孝、虎関師錬に学ぶ。元に6年間渡り、仏教、儒教を学び、朱子学の権威になる。帰国時、仏教経典の総集『大蔵経』(一切経)2部を持ち帰り、住持となった日向・大慈寺、東福寺に納めた。
◆島津氏久
 室町時代の島津氏久(1328-1387)。薩摩の島津氏6代当主、越後守、陸奥守などを歴任した。 1351年、室町幕府の幕政の主導権を争った観応の擾乱では、佐殿方・畠山直顕の軍勢と戦う。その後宮方に転じた。1363年、大隅国守護職を父から継ぐ。馬術に優れた。
◆島津義久
 室町時代(戦国時代)-安土・桃山時代の、薩摩の守護大名・戦国大名、島津義久(1533-1611)。修理大夫、1566年、家督を継承し島津氏の第16代当主となる。1587年、豊臣秀吉の九州平定に屈し、出家して竜伯と号した。
◆月照 江戸時代末期の僧・月照(げっしょう、1813-1858)。大坂に生まれた。1827年、清水寺成就院の蔵海に学ぶ。1835年、15歳で成就院の第24世。寺の改革が成功せず、北越へ出奔、1854年境外隠居の処分の身となる。1858年、薩摩藩の政治家・軍人の西郷隆盛、薩摩藩士で政治家の海江田信義らの倒幕の挙兵に加わる。だが、幕府の捕史の手が伸び、京都から逃れ鹿児島へ向った。薩摩藩は、幕府の責任追及を回避するため、東目(日向)へ追放する。前途悲観した西郷と月照は入水し、月照のみが死亡した。
◆西郷隆盛 江戸時代末期-近代の政治家・軍人・西郷隆盛(1827-1877)。薩摩藩の下級武士の家に生まれた。「維新の三傑」のひとり。大久保利通とともに、薩摩藩を公武合体から倒幕へと導いた。土佐の坂本竜馬の仲介により、1866年、薩長同盟を成立させる。王政復古(1868)の権力奪取を指導し、戊辰戦争(1868-1869)では政府軍の総参謀として、幕府全権陸軍総裁・勝海舟と和平交渉に当たり、1868年、江戸城の無血開城を実現した。明治新政府では参議となる。1873年、征韓論をめぐる政変により鹿児島に退き、私学校を開く。1877年、西南戦争の盟主に推される。だが、新政府軍に敗れ、鹿児島の城山で自刃した。
◆月輪殿 現在の境内は、平安時代後期、関白・藤原忠道が御所の東御堂を建立した。
 鎌倉時代、1196年、その子で九条家始祖になった兼実(九条兼実、1149-1207)は、関白職を辞し、自らの別称「月輪殿(つきのわどの)」に因み、別荘を月輪殿と改称し、営んだ。
◆仁王 江戸時代の山門(1613)には、砂石造りの小像・仁王像が安置されている。塔頭寺院の山門仁王としては稀有という。また、像は、本山のある西を向けられず、南北に互いに向き合って安置されている。
◆庭園 庭園は、かつて「東福寺中第一」と讃えられた。鎌倉時代の九条兼実の別荘「月輪殿」の跡地に作庭されている。庭は、室町時代後期としては珍しく、公家寝殿造系の造りといい、鈎(かぎ)の手(「心」)の池の地割、滝の位置などに特徴がある。東山の深い森を背景とし、池泉、苔、石組、植栽などにより構成されている。手水鉢付近に、かつては茶室「採薪亭」があった。
 鎌倉時代末期の『法然上人絵伝』(国宝)の巻8段5では、池泉と松の植えられた庭が、建物に沿うように描かれている。滝口から水が流れ落ち、池に注ぎ、朱塗りの橋が架けられている。頭光を冠した法然が、その橋上に描かれている。江戸時代の『都林泉名勝図絵』(1799)にも、池泉、中島に架けられた橋、松林などが描かれている。
 庭は、太平洋戦争後(1945)に荒廃した。玄之により復興され、1977年、庭園文化研究所・森薀の指導により復元された。その後、京都市史跡に指定された。
 赤千両、黄千両、紅葉の庭で知られている。
◆茶室「採薪亭」
 江戸時代、1796年、第13世・龍河は、草庵を建立した。鎌倉時代後期の禅宗系の説教師・勧進聖だった自然居士(じねんこじ)を偲んで建てたという。建物は方三間、二階建て、階下に茶室「採薪亭(さいしんてい)」が造られていた。
 江戸時代後期、西郷隆盛と僧・月照は、新撰組、幕史の追手から逃れ、倒幕の謀議をこの「採薪亭」で練ったという。現在、「採薪亭址」の石碑が立つ。
◆文化財 「元版一切経(大蔵経)」は、元時代(1271-1368)のものという。鎌倉時代、東福寺には二つの一切経があったという。その後の火災で失われた。室町時代、1373年、54世・剛中玄柔により元よりもたらされた。経函、一蔵分、5000余帖が残されている。現存している元時代の一切経は数少ないという。
 
「東福寺大仏台座蓮弁」が残る。創建時の東福寺仏殿には、釈迦如来坐像(5尺、15m)、観音・弥勒菩薩(2丈5尺、7.6m)、四天王像(1尺5寸)が安置されていた。その後、度重なる火災により焼失した。南北朝時代、1356年に復興された仏殿、仏像は、近代、1881年に焼失している。その後、1934年に仏殿は再建された。現在、室町時代の仏像の大部分は失われている。この台座蓮弁のほかには、手首先、光背の化仏しかないという。
 
「島津牡丹文様四足火鉢」(付けたり火箸)には、「丸十紋」「島津牡丹紋文様」が描かれている。島津家紋としては「丸十紋」が知られている。牡丹紋は近衛家より贈られ、家紋の一つとして使われた。また、桐紋も使われた。火鉢には、江戸時代末期に訪れた篤姫(1836-1883)も火鉢に手をかざしたという。篤姫は、江戸幕府13代将軍・徳川家定の正室であり、薩摩藩から徳川家に嫁いだ。家定没後は天璋院と号した。幕府崩壊時の大奥の責任者でもあった。1868年の江戸城無血開城には、篤姫が東征大総督府下参謀・西郷隆盛に送った手紙の功が大きかったという。
 
「朱漆塗琉球漆器」は、江戸時代、1740年、薩摩の山川正龍寺より、当院に寄進された。かつて、琉球の識名親方与力・喜納某より、薩摩山川代官・佐々木左衛門を経て、正龍寺に移されている。正龍寺は、室町時代、1390年、虎林により再興され、島津氏の庇護を受けた。薩南学派の祖・東福寺波の桂庵玄樹などの僧を輩出し、「薩摩の文教の府」といわれた。また、山川港に入る外国船の外交文書の授受に当たっていた。近代、神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈により廃寺になる。
◆薩摩藩士戦亡の碑 境内東の慧日山に、西郷隆盛自筆の「薩摩藩士東征戦亡之碑」が立てられている。
 隆盛は、幕末の鳥羽・伏見の戦い(1868)では、当山に薩摩軍の屯営を構えている。裏山山頂に砲列を敷き、淀より進軍していた幕軍をこの地から砲撃した。鳥羽・伏見の戦いにより、薩摩藩士ら524人が犠牲になる。その霊を弔うために、隆盛は斎戒沐浴し碑文を書きしたため、1869年に碑を建立したという。
◆墓 江戸時代末期の、生麦事件(1862)の首謀者、江戸時代末期の薩摩藩士・奈良原喜左衛門(1831-1865)の墓がある。
 喜左衛門は、1858年、一橋慶喜擁立工作の失敗により帰藩。薩摩藩尊攘派の誠(精)忠組に参加した。1862年、島津久光の率兵上洛に随い、江戸からの帰路、生麦(横浜市鶴見区)で、騎乗した英国人4人と遭遇する。喜左衛門は、行列に入り込んだ英国人リチャードソンを斬殺、そのほか2人を負傷させた。事件は、薩英戦争(1863)に発展し、英国艦隊7隻の砲撃により薩摩藩は完敗、以後、薩摩藩は攘夷から開国へと転換した。薩英戦争で、海江田信義と共に英艦奪取を計り失敗している。京都二本松の薩摩藩邸で病没した。
 江戸時代末期の尊攘派の薩摩藩藩士・田中新兵衛(1841-1863)の墓がある。「人斬り新兵衛」と呼ばれ、1862年、前関白・九条尚忠の家士・島田左近を殺害している。これは、京都で尊攘派による天誅の初例になる。1863年、御所内姉小路公知暗殺事件の嫌疑により捕縛され、京都町奉行所内で切腹した。
 江戸時代末期から近代の薩摩藩士、政治家の中井弘(桜洲山人、1838‐1894)の墓がある。脱藩して土佐高知にゆく。1866年渡英した。維新後、外国官判事、駐イギリス公使館一等書記生、滋賀県知事、京都府知事に就く。元老院議官、貴族院議員。


*普段は非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『旧版 古寺巡礼 京都 18 東福寺』『京都府の歴史散歩 中』『京都の寺社505を歩く 上』

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「島津牡丹文様四足火鉢」(付けたり火箸)

黒漆島津紋(丸十紋)

朱漆塗琉球漆器

庭園、手水前に茶室「採薪亭」があったという。

庭園

庭の東端の滝組

「薩摩藩士東征戦亡之碑」

「薩摩藩士東征戦亡之碑」

「薩摩藩士東征戦亡之碑」、薩摩軍の戦没者墓碑、524人の氏名が刻まれている。

境内東、慧日(えにち)山に通じている「西国街道」の石標。

寺の手前にある、東福寺三名橋のひとつで三ノ橋渓谷に架かる偃月橋(えんげつきょう)(重文)、江戸時代、1603年建築。この橋を渡って龍吟院、即宗院にいたる。単層切妻造り・桟瓦葺きの木造橋廊。

偃月橋の扁額「偃月」

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