毘沙門堂(毘沙門堂門跡) (京都市山科区)
Bishamon-do Temple

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仁王門江戸時代、1665年建立、阿吽の二天像(金剛力士像)が控える。


仁王門、阿形金剛力士像


仁王門、吽形金剛力士像






勅使門、江戸時代、1693年建立、第111代・後西天皇より贈られた。檜皮葺の総門、普段は開かずの門となっており、門主の晋山式以外は開かれない。


勅使門、龍の彫りもの


勅使門にいたる参道、秋は紅葉の名所にとなる。












唐門


本堂


本堂扁額

 毘沙門堂 (びしゃもんどう)は、毘沙門堂門跡ともいう。山科盆地の最北部の山腹、安祥寺山と柳山を背にして建つ。
 号は護法山出雲寺、正式には安国院出雲寺という。かつて、出雲寺とも呼ばれた。天台宗京都五箇室門跡(ほかに青蓮院門跡、妙法院門跡、三千院門跡、曼殊院門跡)の一つに数えられる。
 天台宗、本尊は伝教大師(最澄)自作という毘沙門天で七福神の一つ。
 神仏霊場会第127番、京都第47番。
 毘沙門天は武神であり、宮殿には財宝が溢れているとされ商売繁盛とともに、厄除、家内安全などの信仰も集める。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 飛鳥時代、703年、第42代・文武天皇の勅願により行基が創建したという。当初は出雲路(上京区)にあった。(「宇治郡名勝誌」)
 平安時代、延暦年間(782-805)、794年とも、伝教大師最澄は、出雲路で自ら刻んだという毘沙門天を安置した。出雲路寺と名づけられ、やがて毘沙門堂と呼ばれるようになったという。
 1159年、平治の乱により焼失した。
 平安時代末期、平範家(1114-1161)が紀伊郡伏見里(伏見区)に天台宗寺門派の護法寺を建立する。
 1161年、護法寺は北石蔵(きたいわくら、左京区)に移る。
 1163年、護法寺は比叡山山徒により焼かれる。
 1165年、護法寺は大原来迎院(左京区)近くに移り、遷した多聞天像を奉じた。
 平安時代末期、護法寺は荒廃した。
 鎌倉時代、1195年、平親範(圓智)が廃絶していた平家ゆかりの三寺(平等寺、尊重寺、護法寺)を合せ、出雲路(上京区)の旧出雲寺境内に精舎(仏堂)を再興した。5間の三棟が建立され、延暦寺根本中堂に倣い、西に平等寺、中に護法寺、東に尊重寺を建てた。毘沙門天を本尊とし、以後、毘沙門堂と呼ばれるようになったという。
 鎌倉時代末期、公豪(左大臣・三条実房の子)が天台座主89世に就く。(「雍州府志」)
 室町時代初期、實圓(内大臣・三条公忠の子)が、天台151世座主となる。(「雍州府志」)
 応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失したともいう。
 安土・桃山時代、1571年、織田信長の元亀の乱(元亀の法難)で焼失している。
 江戸時代、1661年頃、第107代・後陽成天皇の勅命により、天台宗の天海により現在地(山科区安朱)の安祥寺旧地に再興が始まる。
 1665年、天海の遺志を継いだ高弟・公海により再興が完成した。門跡寺院「毘沙門堂門跡」となり、天台宗五箇室門跡のひとつになる。
 1666年、4代将軍・徳川家綱の寄進により現在の本堂が建立される。材は尾張、紀伊徳川家より寄せられた。最澄自刻という毘沙門天像を遷し、落慶供養が執り行われる。
 元禄・宝永年間(1688-1711)、第11代・後西天皇皇子・公弁(こうべん)法親王以来、代々法親王が住持となり、毘沙門堂門跡と呼ばれるようになったともいう。
 近代、1871年、幕府の定めた三門跡制(宮門跡、摂家門跡、准門跡)は廃止になり、門跡の称号も廃された。
 1885年、旧門跡は復称をゆるされている。
行基 奈良時代の僧・行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668/667-749)。河内国の人。父は高志才智、母は蜂田古爾比売。681年/682年、出家、官大寺で法相宗などを学ぶ。691年、高宮寺で具足戒を受ける。畿内に道場、寺を建立、溜池、溝・堀、架橋、困窮者の布施屋建設などの社会事業を行う。704年、生家を家原寺とし住した。717年、民衆煽動と僧尼令に反した寺外活動の咎で詔により弾圧を受ける。731年、弾圧を解かれる。732年、河内国狭山下池の築造に関わる。734年、東大寺大仏建立の詔が発布、勧進の任を務めた。736年、インド出身の僧・菩提僊那一行来日に際し大宰府で迎えた。738年、朝廷より行基大徳の称号が授与される。740年以降、東大寺大仏建立に協力する。741年、聖武天皇と恭仁京郊外の泉橋院で会見する。743年、東大寺大仏造営の勧進になる。745年、朝廷より日本初の大僧正位を授けられる。菅原寺(喜光寺)で亡くなる。地図の行基図を作成したという。東大寺「四聖」の一人。
◆最澄 平安時代前期の僧・最澄(さいちょう、767/766‐822)。幼名は広野。近江(坂本の生源寺付近)に生まれた。父は中国からの渡来系豪族の子孫で三津首百枝(おびとももえ、浄足)、母は藤原藤子(妙徳)という。778年、12歳の時、出家、近江・国分寺で行表(ぎょうほう)に師事、780年、国分寺で得度し最澄と名乗る。785年、19歳で東大寺で受戒(具足戒・小乗戒)するが、同年、比叡山大嶺山中(本願堂付近)に草庵を結び、願文を作る。禅を修め、12年間にわたり修行を積んだ。天台三大部摩訶止観、法華玄義、法華文句を修めた。788年草庵の近くに小堂「一乗止観院」を建て、薬師如来を祀る。797年、内供奉十禅師に任命される。798年、比叡山で法華十講を修する。801年、比叡山に奈良十大徳を招き法華十講を修した。802年、和気弘世主催により、神護寺で5か月にわたる天台の教え「天台三部」を説いた。第50代・桓武天皇の信任、帰依を受ける。803年、短期の還学生(げんがくしょう)として、唐に渡航することが認められた。804年、遣唐使として義真を伴い、留学僧・空海(774-835)らと唐に渡る。霊地・天台山で、天台大師智顗(ちぎ)直系の天台山修禅寺・道邃(どうずい、?-805)より天台教学と大乗菩薩戒、仏ろう寺・行満座主より天台教学を、越州(紹興)の龍興寺で、順暁阿闍梨より密教を、しゅく然禅師より牛頭禅を学び、天台、密教、禅、戒を修した。805年、帰国し、多数の天台典籍、密教の教えを唐より持ち帰る。高雄山寺で日本初の灌頂を行う。宮中で日本初の護摩供を行う。請来された天台密教経疏500巻、護摩の器具を桓武天皇に献上した。天皇は、双林寺を建立し、最澄は開山になる。806年日本天台宗が公認される。811年、弟子・泰範が空海の弟子となる。最澄は空海から経本を借り密教を学ぶ。812年空海により灌頂を授けられた。その後、空海とは決別する。814年、九州巡化、815年、東国巡化、817年、徳一との論争が始まる。818年、小乗戒廃棄宣言、六条・八条天台宗年分学生式を制定、819年、四条の学生式上奏、822年、中道院で亡くなる。天台宗の祖。
◆平親範 平安時代末期-鎌倉時代前期の公卿・僧の平親範(たいら の ちかのり、1137-1220)。蔵人頭、参議、左中弁、民部卿・正三位となる。1174年、大原極楽院で出家し、出雲寺を再興した。平家の平等寺・尊重寺・護法寺の3寺を併せ、毘沙門堂を建立した。圓智、出雲路入道、毘沙門堂民部入道とも号された。
◆天海 室町時代-江戸時代前期の僧・天海(てんかい、1536?-1643)。詳細不明。諡号は慈眼大師。陸奥に生まれた。1546年、11歳で天台宗・龍興寺に入る。1549年、天台の高僧・皇舜の弟子になる。1553年、比叡山に上り学僧になる。三井寺、興福寺で学んだという。上野・長楽寺、1566年、上野・善昌院住持。1571年、各地を旅する。1590年、武蔵国・無量寿寺北院(後の喜多院)住持、この頃徳川家康と会う。1599年、仙波喜多院に入る。1600年、関ヶ原の戦い後、江戸幕府成立に関わる。1607年、家康の命により比叡山探題執行として南光坊に住し、延暦寺を再興し天台宗中興の祖とされる。1613年、無量寿寺が家康により喜多院に改められ住持に就く。大坂の役(1614-1615)の発端になった1614年、方広寺鐘銘事件にも関与した。1616年家康没後、1617年、家康の遺体を久能山から日光山に改葬した際に、崇伝が吉田神道により家康を「大明神」とした葬儀に対し、天海は山王一実神道形式により「東照大権現」とした祭儀に決めさせ以後勢力を伸張させた。1625年、忍岡・東叡山寛永寺を創建した。寛永寺で亡くなる。紫衣事件(1627-1629)の特赦を数多く嘆願し、沢庵宗彭の赦免にも奔走した。1637年より天海が関わった日本初の版本『寛永寺版(天海版)大蔵経』6323巻は没後の1648年に完成した。家康、秀忠、家光の3代にわたり政治に関与し「黒衣の宰相」と呼ばれた。
 毘沙門堂を再興した天海は、この地に住することはほとんどなく、実質的な再興は養子の公海(花山院忠長の子)に由った。この地に再興されたのは、東海道の要衝地であり、知恩院、金戒光明寺に並ぶ軍事的拠点の意味があったともみられている。
◆公海 江戸時代前期の天台僧・公海(こうかい、1607-1695)。父は花山院忠長、母は東本願寺教如長女。1620年、天海に師事、その没後、寛永寺を継ぐ。比叡山、日光山を兼領、管掌した。師・天海の遺志を継ぎ、毘沙門堂を復興し、この地で没した。
◆公弁法親王 江戸時代の天台宗僧侶・公弁法親王(こうべん ほっしんのう、1669-1716)。第111代・後西天皇の第6皇子。毘沙門堂門跡、日光山(東照宮、輪王寺門跡)、天台座主などを兼任した。1698年、邪教として真言立川流を弾圧した。元禄年間(1688-1704)、日光山興隆のため地域産業振興を進める。1703年、元禄赤穂事件では、将軍徳川綱吉に赤穂浪士に切腹を命ずる決断を促したともいう。
 その命により編集の教学書『台宗二百題』(1714)がある。狩野常信に付き能筆家として知られた。毘沙門堂に葬られる。
◆行法 伝教大師が唐より伝えた「鎮将夜叉法」という行法は、天台五箇大法の一つとして当院にのみ残るという。
◆平等寺・尊重寺 平等寺は、平安時代、第50代・桓武天皇皇子・葛原親王(786-853)が、太秦広隆寺(右京区)近くに建立した。その後、焼失し廃寺となる。本尊は残る。
 尊重(そんじゅう)寺は、平安時代の公卿・平親信(946-1017)が五辻(上京区)に建立した。その後、廃絶された。本尊は大原(左京区)に遷された。
 護法寺は、平親信の父・親範(1137-1220)が創建した。1163年に焼失し、毘沙門像は大原に遷り、1195年に出雲に遷された。
 いずれも平家ゆかりの寺で、鎌倉時代、平親範により護法寺とともに出雲路(上京区)に統一されたという。以後、平氏の氏寺となり、毘沙門堂の前身になった。
◆仏像 本堂に安置されている本尊の「毘沙門天坐像」は、平安時代の最澄(767-822)作とされる。秘仏であり、普段は宝塔形の厨子内に納められている。平安時代、802年に、最澄が出雲路の出雲寺で自刻したという。比叡山延暦寺根本中堂の本尊・薬師如来を刻んだ余材を用いたという。「小像」は、2寸2分(6.7㎝)ある。左手に宝塔、右手に武器を持つ。像は第50代・桓武天皇に贈られ、念持仏として天皇は冠の中に納めた。後に皇子・葛原(かつらばら親王に授けられた。親王は髻(もとどり)に納めていたという。その後、戦乱を避けて北岩倉、大原・来迎院内に極楽院を建立し遷されたという。鎌倉時代、1195年、圓智が出雲路に出雲寺毘沙門堂を建立した。その際に、丈六(4.85m)の毘沙門像を新たに造立し、その胎内に納めたという。江戸時代、天海は当山の復興に当たり、本尊が七福神のひとつとして信仰されていたことから、家康を七福神にたとえ再興の道を開いたという。本尊は、12年毎の寅年に開帳される。当初、寺は禁裏の寅(東北東)にあったため、その名残として北の守護神である毘沙門天が祀られた。
 本尊前立には、江戸時代初期作の「毘沙門天立像」が立つ。「万暦八年」(1580年)の中国の暦が書かれていたという。左に「不動明王」、右に「東照神君坐像(徳川家康)」が安置されている。
 弁天堂に、江戸時代、1690年、高台寺から遷された「不老弁才天(高台弁才天)」を祀る。豊臣秀吉の生母の大政所高台尼(大政所、1513-1592)といい、大坂城内に祀っていたものを遷したともいう。
 霊殿に本尊・「阿弥陀三尊」、皇室歴代の位牌を安置する。
◆建築 「本堂(本殿)」は、江戸時代、1666年(1665年とも)に、徳川家綱により建立された。和様と禅宗様の折衷で梁行6間、桁行5間、単層入母屋造。全体に朱塗りとなっており、かつては生彩色(金箔地に彩色)されていた。向拝の木鼻に象、手挟(たばさみ)に雲の彫刻がある。軒下組物間は黒枠の木瓜型枠内に胡粉下地、薄緑と茶の霊獣の犀・波で飾られている。これらの彫刻は「万年祝い」と呼ばれている。
 
「唐門」は、江戸時代、1665年に建立された。唐破風造、こけら葺、朱塗り。木鼻に、象の彫刻が施されている。中央上の大瓶束両脇の菊水の笈形、牡丹の蟇股がある。
 「宸殿」は、江戸時代、1693年(1702年-1707年とも)に御所の後西天皇旧殿を公弁法親王により移築再建した。かつては檜皮葺で現在は瓦葺。書院造、東、西、南に広縁がつく。出家した皇族が居住していた。
 「霊殿」は、江戸時代、1693年(1702年-1707年とも)に公弁法親王により建立された。御成之間、四愛堂之間、九老之間、曲水之間、白鷺之間、梅之間の6室がある。阿弥陀如来、歴代の天皇影像、徳川将軍の位牌が安置されている。
 
「玄関」は、江戸時代、1693年に建立による。檜皮葺、軒唐破風の車寄になっている。
 「一切経蔵」は、江戸時代、1682年の建立という。
 「鐘楼」は、江戸時代、1666年に建立された。二階建、下層は袴腰になる。
◆庭園 江戸時代初期作庭の池泉回遊式庭園「晩翠園」には、心字の裏文字を形取った池、亀石、千鳥石、座禅石などが据えられている。庭園の山が深く、翠が夜目に浮かぶようであるということから晩翠園と名付けられた。
 紅葉で知られている。池の正面に観音堂があり、毎月18日に開帳されている。
◆文化財 南北朝時代の紙本墨書「洞院公定日記」(重文)、奈良時代の「注大般涅槃経巻」(重文)、「篆隷文体」(重文)など。
 宸殿内部には、江戸時代の狩野洞雲益信(どううんますのぶ、1625-1694)筆による。6室に障壁画116面が描かれている。益信は、狩野探幽の弟子で、駿河台狩野派の始祖。「九老之間襖絵(九老之図)」は、中国の故事に由来する人物画であり、「逆遠近法」の手法が用いられている。書を広げている老人の机は、どの位置から見ても絵の正面であるように見える。たとえば、斜めを向いていた老人の絵が、移動しながら見ると正対している。「動く襖絵」ともいわれている。
 宸殿の御成之間上段の間に「帝鑑図」、「梅花禽鳥図」には、梅に山鳥、竹林に島ヒヨドリが描かれ、「梅に鶯、竹に雀」の常識から外されている。これは、「鳥合わず(取りあわず)」の意があり、住職が会いたくない客人が通される間だったという。
 霊殿の天井には、江戸時代前期の狩野永叔主信(えいしゅくもりのぶ、1675-1724)による天井龍が描かれている。「八方にらみの龍」といわれ、見る角度により、眼や顔が変化する。また、雲の色彩を変えているという。
 江戸時代中期の円山応挙(1733-1795)筆という「衝立」には、一匹の鯉が描かれている。逆遠近法により描かれ、鯉は移動しながら見ると正面を向いている。また、泳いでいるように見える。応挙は、洞雲の画法に学んだという。
 「唐三彩の弁財天」は、江戸時代の後陽成天皇が天海に贈ったもので、弁財天が貝殻の中に座している。同じく十六重弁菊の紋が天目台に入った「金銀大天目」。天皇愛用の「香合」は、寺に入った公弁(こうべん)法親王に贈られた。蛤の貝殻に蒔絵で菊華紋が描かれている。
 本堂に「出雲寺」の山号額がある。
 「常香盤(香時計)」は、灰の上に型押しの抹香を線状にいくつも繋ぎ焚く台で、かつてはその燃え方で時間を計っていたという。
◆龍図 狩野永叔主信筆の天井龍は、八方睨みの龍という。伝承がある。
 龍が描かれた間の畳は、いつも水に濡れていたという。不審に思って夜中に見張ると、龍が天井画より抜け、水を飲みに外へ出ていた。龍が部屋に戻った際に、口から水が零れ落ちて濡らした。
 龍が水を欲しがっているとして、龍の周りを水を示す青絵具で囲んだ。以後、畳が濡れる事もなくなったという。
◆ムカデ 毘沙門堂の神使であるムカデは、鉱山でよく見られることから金の神とされる。また、「おあし(金、客)が付く」として商売繁盛の信仰も生まれた。
◆極楽橋 参道手前の小川に極楽橋という小さな石橋が架かる。江戸時代の第111代・後西天皇行幸の際に、橋より上はさながら極楽浄土のようであると感嘆し、以後、この名がついたという。
◆花暦・樹木 出雲路の毘沙門堂は、古くより桜の名所として知られていたという。平安時代末期-鎌倉時代の藤原定家の『明月記』(1180-1235)に「毘沙門堂花半ば開く」と記されている。鎌倉時代中期の仏教説話集『沙石集』には連歌会のこと、室町時代の世阿弥の謡曲『西行桜』にも記されている。
 いまも境内には、樹齢150年のシダレザクラ「般若桜」がある。枝張りは30mほどある。そのほかに、ヤマザクラ、ソメイヨシノなど多くの桜が植えられている。観桜会は4月8日に近い日曜日に催されている。
 また、境内には200本のカエデが植えられ、秋には紅葉の名所にもなる。晩翠園も紅葉で知られている。
 石段近くにヒノキ、ヤマモモ(区民の誇りの木)がある。
◆年間行事 初詣(1月1日-3日)、初寅祭(福笹が授与される)(初寅の日、その前後3日間)、節分会(2月3日)、観桜会(4月10日前後)、納参り(12月28日)、除夜の鐘(鐘が撞ける。)(12月31日)。
 観音堂開帳(毎月18日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*参考文献 『古建築の装飾』『京都を歩く 21 山科』『京都・山城寺院神社大事典』『日本の名僧』『事典 日本の名僧』『京都古社寺辞典』『京の福神めぐり』『京都の寺社505を歩く 下』『京の寺 不思議見聞録』『京都の地名検証』『京都 神社と寺院の森』『週刊 古社名刹巡礼の旅 39 山科・醍醐』


  関連・周辺双林院(聖天双林院)     周辺安祥寺     関連出雲路橋     関連延暦寺・東塔(大津市)    関連延暦寺・西塔(大津市)     関連延暦寺・横川(大津市)     関連延暦寺・東塔(大津市)          

本堂、木鼻の象

本堂、木瓜型の枠内の犀と雲

本堂、手挟の花

本堂、軒丸瓦


霊殿

宸殿

玄関

庫裏



弁財天


弁財天、弁天堂。



一切経蔵

鐘楼

龍華院

庭園「晩翠園」、観音堂

弁天堂脇の池泉

稲荷社

山王社

地蔵堂、仁王門前にある。

宸殿前の枝垂桜「般若桜」、樹齢100数年、全幅30m。

本堂脇の桜

【参照】琵琶湖疏水
毘沙門堂 グーグルマッブ・ストリートビュー
・毘沙門堂 〒607-8003 京都市山科区安朱稲荷山町18   075-581-0328   8:30-17:00(12-1月9:00-16:30)

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