退蔵院 〔妙心寺〕 (京都市右京区) 
Taizo-in Temple

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延段












庫裏
 退蔵院 (たいぞういん)は、妙心寺の塔頭のひとつで、「屈指の古刹」といわれる。室町時代作庭の庭と、新たに作庭された現代の庭が知られている。
 臨済宗妙心寺派。 
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 室町時代、1395年、妙心寺3世・無因宗因は越前の豪族・波多野出雲守屋敷内(下京区、千本松原)に退蔵院を建立したという。(「寺院明細帳」)
 また、1404年、波多野出雲守重通が、無因を開山として同家下屋敷に創建したともいう。(寺伝)。同年、日峰宗舜は霊雲院の東に移転したともいう。(「退蔵院文書」)
 1459年までに、長禄年間(1457-1460)、15世紀(1401-1500)前半とも、妙心寺7世・日峰宗舜が妙心寺塔頭・霊雲院の東に移す。「臥雲日件録」には「花園退蔵院」の名がある。後、さらに妙心寺塔頭・東林院の東に移される。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。 
 永正年間(1504-1521)、1509年以降とも、中興の祖・亀年禅愉(照鑑祖鑑)により現在地に移されたという。
 1509年、利貞尼の妙心寺拡張に伴い、現在地に移るともいう。境内は、現在の退蔵院境内南すべてを含むものだったという。(「妙心寺史」)
 1522年頃、亀年禅愉が山内東林院の東に無明院を創建する。千本大宮より庵を移し退蔵院としたともいう。
 その後、霊雲院が現在地に創建され、無明院が合併される。その所領も有する。利貞尼(1455?-1536/1537)により現在地が寄進された。退蔵院を移転し、その後、亀年禅愉によって中興された。この頃、「元信の庭」も作庭される。
 近世初頭(安土・桃山時代)、檀越の豪商・比喜多宗味、その子で5世・千山玄松により整備される。玄松は大岩庵(だいがんあん)、艮庵(ごんあん)を併合する。以後、比喜多家の菩提寺になる。
 1602年、現在の方丈が建立される。
 現代、1966年、中根金作により庭園「余香苑」が作庭される。
 2011年、「方丈襖絵プロジェクト」が始まる。
◆無因宗因 鎌倉時代-室町時代の僧・無因宗因(むいん そういん、1326-1401)。興文圓慧。尾張の平氏、荒尾一族に生まれる。9歳で建仁寺塔頭・可翁宗然の室に入り、出家した。1361年、妙心寺2世・授翁宗粥の室に入り、1371年、印可を受ける。1381年、妙心寺3世。1395年、千本松原の波多野出雲守屋敷内に退蔵院を建立した。大徳寺への誘いを断り、1396年、西宮天海清寺を創建する。同寺光澤庵に住し没した。同寺と退蔵院の光沢塔にも分骨された。
◆波多野重通 室町時代の武将・波多野重通(はたの しげみち、生没年不詳)。詳細不明。道元の外護者の波多野義重の一族。退蔵院の外護者。
◆日峰宗舜 室町時代前期の僧・日峰宗舜(にっぽう そうしゅん、1368-1448)。禅源大済禅師、霊鑵慈光。山城に生まれた。1376年、9歳で天竜寺本源庵の岳雲周登の弟子。1387年、伊勢・光讃寺で修行。1388年、遠州方広寺・無文元選、1391年、美濃大円寺・南山勲、1398年、摂津海清寺・無因宗因のもとで修行。1406年、無因より印可を得る。1411年、美濃の無著庵、1412年、伊勢の金剛証寺、尾張の八葉蓮台寺で修行、1415年、犬山の瑞泉寺を開き無因を開山とした。1429年、妙心寺を細川勝元の支援により中興再建する。1432年、妙心寺中興のため養源院を建てる。1447年、関山派として初めて大徳寺に入寺。養源院で亡くなる。妙心寺中興開山。
◆亀年禅愉 室町時代の僧・亀年禅愉(きねん ぜんゆ、1486-1561)。照天祖鑑国師。但馬国の遠山一族に生まれる。1502年、16歳で龍安寺の特芳禅傑の下で出家した。後に霊雲院大休の室に入り印証を密付された。1522年、山内に無明院を創建する。妙心寺34世・住持10余年の間に、梵鐘「黄鐘調」を嵯峨浄金剛院より求める。
◆如拙 室町時代の画僧・如拙(じょせつ、生没年不詳)。詳細不明。相国寺の僧、周文の師という。足利将軍家と密接な関係にあった。代表作「瓢鮎図」「王羲之書扇図」など少ない。南宋院体画、梁楷の影響を受け、初期水墨画の基本になり、雪舟にも影響を与えた。
◆狩野元信 室町時代後期の画家・狩野元信(かのう もとのぶ、1476?-1559)。狩野派始祖・正信の子として山城国に生まれた。大炊助、越前守、法眼に叙せられる。「鞍馬寺縁起」(1513)、同年頃、大徳寺大仙院客殿障壁画を一門と相阿弥とともに制作した。石山本願寺(大坂本願寺)障壁画(1539-1553)、妙心寺霊雲院旧方丈障壁画(1543)がある。分業による制作を確立し、中国絵画、室町水墨画、やまと絵の技法も取り入れ、狩野派の基礎を築いた。
◆千山玄松 近世の僧・千山玄松(せんざん げんしょう、生没年不詳)。京都の人。豪商・大文字屋比喜田宗味居士(雪岩)の二男。霊雲派の亀年禅愉の法孫。退蔵院5世。1656年、妙心寺・龍華院の勧請開祖。
◆退蔵 退蔵院の「退」とは、陰徳とされる。人知れない隠れた善行を「蔵」のように積重ねるの意味になる。退蔵院とは、退蔵を目指した行の場としてある。
◆木像 「開山像」は、江戸時代、1757年に新造された。
◆建築 近世、檀越の大文字屋比喜田宗味居士により大玄関、茶室、廊下などが寄進された。千山玄松の頃、桂昌院(盛岳院、その後廃寺)と退蔵院の間に大岩庵があり、霊雲院北隅に艮庵(ごんあん、種徳庵)、属院の鳳台院があった。
 現在の「方丈」(重文)は、安土・桃山時代-江戸時代の慶長年間(1596-1615)に建立されている。化粧裏板の釘書により1602年建立ともいう。伝承として、1569年、織田信長が足利義昭のために建立した将軍邸を移築したともいう。六間取、室中は2間四方。方丈の「大玄関」(重文)は、唐破風造りの変容で珍しい様式になる。袴腰造と呼ばれている。破風の曲線が直線的で、袴の腰のように見えることから名付けられた。一重、入母屋造、こけら葺。桁行16.9m、梁行10.9m。六間取型方丈様式、仏間背面に長5畳眠蔵がある。西の鞘の間は江戸時代中期に改造された。
 「薬医門」は、親柱二本、控え柱二本により、当時、高貴な薬医にしか与えられなかった御屋敷門の様式をとる。江戸時代中期に建立された。
◆庭園 「元信の庭」と「余香苑」の新旧二つの庭がある。
 方丈西から南にかけた庭園「元信の庭」(名勝・史跡)は、室町時代の絵師・狩野元信(1476-1559)作庭とされている。70歳近くの時に関わり、立体的な山水画表現が遺作になった。庭は、江戸時代、「都林泉名勝図会」(1799)にも「画聖古法眼元信の作なり。他にこのたぐい少し」と紹介されている。
 観賞式枯山水庭園は、50坪(80坪とも)ほどの広さがあり、方丈の鞘の間、檀那の間から鑑賞した。石組と小石、白砂、小さく丸く刈り込まれたツツジなどの植栽、鶴島の羽石を利用したといわれる蹲踞などにより構成されている。造庭当時は、双ヶ丘を借景としたという。中央奥の滝組・蓬莱石、蓬莱連山を中心に、曲線を主流にした。一段低い枯池の手前中央に亀島(南に亀頭石、亀手石)があり、右に青石自然石の石橋が架かる。その右手奥に低い枯滝があり小石が敷かれている。正面奥の蓬莱石左奥に石橋が架かる。左手手前に鶴出島がある。枯流れは庭面の南西隅へ向かう。
 背景には、ヤブ椿、松、槇、モッコク、カナメモチ、椎、樫、青木などの常緑樹が植えられている。
 「余香苑」は現代の造園家、作庭家の中根金作(1917-1995)の1961年の作庭による。「昭和の名園」といわれ、800坪(2664.6㎡)の回遊式山水庭園は、東から西へ水の流れがある。大小の刈込と滝の石組、北に楓、東屋などの植栽が見られる。石は紀州石、小豆島石、但馬石もある。西付近は一番低くな造られ池泉があり、東側の空全体を借景として取り入れている。
 薬医門の中門の北と南には、対照的な枯山水式の庭園、「陽の庭」と「陰の庭」がある。独特の曲線を描く低い垣内の庭面に、砂紋とわずかな石、苔地だけで構成されている。それぞれ砂に白川砂(南、左手)と、黒色(北、右手)の安曇川の砂を用いており、白と黒が対比されている。両庭の中央に枝垂桜が植えられ、春には新たな趣向を見せる。
 
大休庵の前庭には、枝垂桜と楓が植栽されており、季節ごとの変化を愉しむことができる。
◆茶室 非公開の茶室「囲いの席」がある。外からは見えないため「かくれ茶室」といわれている。
 妙心寺では、かつて修行の妨げになるとして茶の道が禁じられていた。だが、第6世・千山和尚は、密かに茶席を建て、茶の湯を嗜んだという。
◆水琴窟 水琴窟がある。蹲踞の落ちる水滴を利用して、金属音のような微かな高い音がする。素焼きで、江戸時代中期より書院中庭にあったものを1975年頃現在地に移した。土中には、底に穴を開けた甕が逆さに埋めてあり、水滴が落ちる際にその音が甕内に反響する仕組みになっている。
◆瓢鮎図 室町時代、1410年、また1415年前後の作とみられる紙本墨画淡彩「瓢鮎図(ひょうねんず)」(国宝)(京都国立博物館寄託)がある。水墨画の祖といわれた絵師・如拙(じょせつ、生没年不詳)作という。絵は、室町幕府4代将軍・足利義持(1386-1428)(大相公)の命を受けて描かれた。南宋院体画の影響があるという。111.5×75.8cm。
 禅の悟りの契機を描いた絵「禅機画」になる。義持は、京都五山の禅僧31人に賛語を書かせ、瓢箪で鯰を押さえるという禅の公案(試験問題)を師家(しけ)が与えた。上半分に大岳周崇の「序」と玉えん(田+宛)梵芳など五山文学の禅僧による画賛がある。下半分に水の中を泳ぐ鯰と、それを瓢箪で捕らえようとする髭面の人物が描かれている。かつて屏風として作られ、表に絵が裏に賛があった。その後、一面に表装された。これは、当時の梁楷、馬遠などの南宋院体画の様式に倣ったとみられている。如拙はかつて禅僧であり、宋元画を学び、雪舟も私淑したという。
 江戸時代初期の剣豪・宮本武蔵(1584-1645)が愚堂禅師を訪ねて参禅したという。武蔵は、この瓢鮎図を前に自問自答した。武蔵自作の刀の鍔にも、瓢鮎の意匠があるという。
 なお、「瓢鮎図」の「鮎」は「あゆ」ではなく、「なまず」の意味になる。「鮎」「鯰」の漢字の混乱があり、「鮎」は、本来の漢字で「なまず」の意、だが日本では訓読みで「あゆ」と読む。また、日本で作られた漢字・国字には、「鯰」があり「なまず」と読む。ちなみに漢字では「あゆ」を「香魚」と書く。
◆文化財 方丈内に桃山時代後期の襖絵「えん渓訪戴図」は、「世説新語」の故事による。雪の夜、王子猷(王徽之)が、曹娥江上流のえん渓に戴逵(たいき)を訪ねる。だが、門前で引き返してしまう。人にその理由を尋ねられると興が尽きたので引き返したと答えたという。「楼閣山水図」も飾られ、いずれも狩野光信の高弟・狩野了慶(?-1645)の筆による。
 周徳筆「竹雀図」、1398年の無因自賛像「無因禅師画像」、「亀年禅師像」、亀年禅師筆「偈頌」、愚堂東寔筆「法話」、龍華道忠が庭園をうたった無著道忠筆「題退蔵院假山水偈」。
 「花園天皇宸翰消息」(重文)、「後奈良天皇宸翰徽号」(重文)。
 2011年、「方丈襖絵プロジェクト」が始まる。現代の絵師・村林由貴が方丈襖絵を描いている。
◆花暦 季節の花木60種が咲き誇る花の寺でもある。春の枝垂れ桜(4月)に始まり、皐月(5月)、蓮(6月-8月)、秋には楓(200本)が庭を彩る。
◆精進料理 精進料理が頂ける。


*方丈内から庭園を鑑賞することはできません。
*参考文献 『妙心寺』『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』『京都・山城寺院神社大事典』『妙心寺 650年の歩み』『古寺巡礼 京都 31 妙心寺』『京都古社寺辞典』『禅僧とめぐる京都の名庭』『京都で日本美術をみる』『週刊 日本庭園をゆく 16 京都洛西の名庭 2 妙心寺』『週刊 日本の美をめぐる 34 竜安寺石庭と禅の文化』「こころのおみやげ」


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聖観世音菩薩

方丈の大玄関(重文)、唐破風造、袴腰造と呼ばれている。

南側にある大玄関は、江戸初期の富豪・比喜多宗味居士より寄進され、法要儀式、貴人々の出入り以外は使用されなかった。

方丈、桁行16.9m、梁間10.9m、一重、入母屋造、こけら葺、六間取型方丈様式、仏間背面に長5畳眠蔵がある。西の鞘の間は江戸時代中期に改造された。

方丈

杉戸絵

「瓢鮎図」の一部、説明版より

杉戸絵

「元信の庭」、手水鉢

「元信の庭」、絵画的な手法が取り入れられているという。


水子地蔵尊

薬医門


薬医門


余香苑、枝垂桜

余香苑

余香苑、陽の庭、白川砂を用いている。


余香苑、陰の庭、黒色の安曇川の砂を用いている。




ミヤマキリシマ


ツツジ

蹲、水琴窟



余香苑




余香苑、東西に広がりのある石組、池泉の配置となっている。



フジ

大休庵

無余苑

大休庵、枝垂桜



大休庵

ミツバツツジ

中興の祖、亀年塔

開山・光澤塔
退蔵院 グーグルマッブ・ストリートビュー
 退蔵院 〒616-8035 京都市右京区花園妙心寺町35  075-463-2855  9:00-17:00

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