山紫水明処・東山 (京都市上京区)
Residence of Sanshisuimei-sho

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山紫水明処




昭和の初め頃までは、欄干の下には、5m幅の鴨川の水が流れていたという。




「降り井」


「申上刻」頃の鴨川東岸の眺望、鴨川越しに見える左は比叡山、右は大文字山。かつては鴨川の対岸(川端通)に柳並木が続き、比叡山、大文字山、吉田山などの東山の山々と、聖護院の森、知恩院、長楽寺なども見渡せたという。
 江戸時代の儒学者・頼山陽(らい さんよう)が開いた山紫水明処(さんしすいめいしょ)は、東三本木にある。鴨川丸太町橋の西岸にあり、川を隔てて東山、比叡山を望む地になる。
 江戸時代中期に生まれた三本木は、賑やかな歓楽街でもあった。桂小五郎ゆかりの吉田屋、大岩楼、月波楼、信楽楼などが建ち並んでいた。 
◆歴史年表 江戸時代末、1811年、儒学者・頼山陽は、京都に移る。私塾を開き漢学を教えた。その後、京都の各所、車屋町通御池上ル、両替町、三本木など6所に移る。
 1822年、三本木に移り、私塾「水西荘(すいせいそう)」を建てる。名は鴨川の西を意味し、新居を「三都第一景勝」と自賛した。
 1828年、山陽は平屋建の離れ「山紫水明処」を建てる。
 1830年、文人画家・菅井梅関が訪れ「水西荘の図」を描く。絵には大小7棟が描かれている。
 1832年、山陽はこの地で亡くなる。
 1834年、「水西荘」は福井藩医師・安藤精軒(あんどう せいかん)が購入し、山陽の妻・梨影は子供を連れて富小路の邸に移る。
 1890年、頼龍三は、「水西荘」を安藤精軒より買い戻す。
 近代、明治期(1868-1912)中期まで、「水西荘」が存在していた。その後、解体される。
 1912年頃、龍三は、「山紫水明処」の屋根を現在の一文字に葺替えた。
◆頼山陽 江戸時代末期の儒学者・頼(賴)山陽(らい さんよう、1780-1832)。名を襄(のぼる)。東山に因み「三十六峯外史」とも号した。大坂に生まれた。父・春水(彌太郎)、母は静子(梅し、*「し」は風+思)。父は朱子学を修め、私塾「青山社」を開く。6歳の山陽は、安芸国広島藩儒官となった父とともに広島に移る。幼少期に朱子学に親しみ、叔父・杏坪(きょうへい)、柴野栗山に学ぶ。1797年、叔父に従い江戸に出て尾藤二洲に学ぶ。江戸・昌平黌に学ぶ。20歳で淳子と結婚する。1800年、21歳で脱藩し、禁を犯し京都へ向かう。広島に連れ戻され、狂とされ、5年近く座敷牢に幽閉の身になる。この時、『日本外史』の構想を練る。24歳で廃嫡となる。1811年、許され京都に戻り、塾を開く。1815年、後妻・梨影と結婚する。1818年-1819年、九州旅行に出る。1822年、三本木に移った。1826年、『日本外史新稿本』が完成する。1830年、『日本政記』大半が完成する。
 山陽は、一君万民の「平等」による王政復古を唱え、明治維新の原動力になった。尊皇攘夷志士に多大の影響を与え、著書の『日本外史』20巻は、松平定信に献呈され題言も与えられている。山陽の「勤皇」「尊王」に、幕藩体制を否定する意図はなく、近藤勇も愛読したという。大坂町奉行所与力・大塩平八郎、梁川 星巌と親交した。
 19歳の時に作詩した「蒙古来」、川中島の合戦を題材にした「鞭声粛々」「天草洋に泊す」なども知られる。地唄「東山」の作詞もした。「東山三十六峰」、漢語をつないだ「山紫水明」は山陽の造語による。『題春琴画』中の詩に、「水明山紫是君家」とある。江戸、九州など各所を訪ねた。書家、画家としても知られた。武家時代史『日本外史』(1826)、絶筆の『日本政記』などを著す。
 夫妻の墓は長楽寺にある。
◆頼梨影 江戸時代の女性・頼梨影(らい りえ、?-1855)。彦根三津屋生まれ。疋田藤右衛門(械屋喜兵衛とも)の娘。12歳で京都の蘭医・小石元瑞(山陽の主治医)に奉公に出る。1814年、18歳で元瑞を仮親として山陽と入籍する。1823年長男・支峰(儒学者)、1825年、三樹三郎(儒学者)を生む。山陽没後、1834年、子とともに富小路へ移る。
 梨影は、夫・山陽が弟子に講義しているのを襖の陰より聞いて学んだ。夫妻、子・三樹三郎の墓は長楽寺にある。53歳。
◆江馬細香 江戸時代の女性漢詩人・画家・江馬細香(えま さいこう、1787-1861)。多保。美濃大垣藩の蘭学者・江馬蘭斎の長女。絵を画僧・玉りん、浦上春琴、漢詩を頼山陽に学ぶ。山陽が細香(竹林を渡る風音)と名付けたという。山陽の恋人だったが、父・蘭斎が反対した。京都には7度訪れ、山陽により詩の添削を受けた。最後は1830年に訪れた。「湘夢遺稿」を著す。
◆頼龍三 近代の頼龍三(らい りゅうぞう、生没年不詳)。潔。号は庫山(こざん)。頼山陽の孫、頼家3代。山陽物の鑑定を行う。1890年、「水西荘」を医師・安藤精軒より買い戻す。
◆建築 現在の敷地は66坪(198㎡)ある。「水西荘」とは、山陽が自ら指示し建てた建物の総称になる。また、かつての主屋「水西荘」も意味する。現在の「山紫水明処」の北に「水西荘」が建てられ、2棟は東端を廊下で繋がれていた。「水西荘」の棟は西に繋がり、南西にも独立した棟が建てられていたという。間口11間(20m)、奥行13間(23.6m)、143坪(472㎡)あった。建物は、明治期(1868-1912)中期まで存在していた。現在は失われている。
 草堂風の平屋建「山紫水明処」は、江戸時代、1828年に建てられた。建物は当初、鴨川の川岸にあった。これは、現在よりも川の水位が高かったことによる。山陽は、「一小草堂ヲ鴨川ニ臨ミ東山ニ対シ山紫水明ノ処ト称ス」とし、離屋を「山紫水明処」と名付けた。部屋は書斎として用いられたともいう。また、山陽の休息のため、客人の応接、母など親しい人の宿泊にも使用されたとみられている。鴨川沿いの湿気、京都の夏の暑さ、防寒対策も施されている。
 南に四畳半(主室)、北に二畳(次の間)、3代・頼龍三により増築された水屋(板間、流し)、東に縁側があり、鴨川に接していた。屋根の棟はかつて丁字形であり、四畳半の上は東西に棟のある入母屋、二畳の上はこれと直角にあり、やや低く独立していた。軒先はともに桟瓦葺になっていた。明治期(1868-1912)末、1912年とも、現在の一文字形に変えられ、一つの屋根として葺かれた。入母屋造、葛屋葺(茅葺)、軒先は桟瓦葺。
 四畳半は東に鴨川、東山の眺望がある。内部は、赤松皮付丸太の節のある柱、天井は寄棟の化粧屋根裏で葦を貼った四注天井、壁の腰、障子の腰も竹網代貼、西の床の間は、浅い踏込床であり、床地板が床の間に留まらず、右手の床脇まで床柱を抜けて長く延びる。この床脇は、三段になり、上段は袋戸棚、中段は出窓(外は南天の格子)がある。下段の内は網代戸になっており、外に雨戸がある。この下段は開放して西の庭を見ることができる。この床地板の延びた処は道庫のようにして使用された。東の縁に中国風栗の欄干、ギヤマンの障子などが見られる。横額「山紫水明処」は大名・政治家・浅野長勲(1842-1937)筆による。
◆庭園 南西の中門を潜り飛石を伝う。敷地のほぼ中央に石積みの降り井がある。降り井の周囲を飛石が二方向に挟む形で「山紫水明処」に至る。
 山紫水明処の南にも飛石、孫・頼龍三による蹲踞がある。シュロ、モミ、ヒバ、スギ、ナツメ、カエデ、アオギリ、モミジ、マツ、マサキ、シュウカイドウ、シダなどの植栽がある。
◆降り井 降り井は庭の中央部に掘られている。深さ2m、広さ1.5坪(5㎡)、下は小石敷になる。東より石段で下る。現在、湧水はない。
 降り井は山陽当時にはなく、孫・頼龍三により造られたという。山陽が硯の水として用いたともいう。かつては鴨川の水位の変化に応じて井戸の水位が上下していた。
◆会所 山紫水明処は、当時の文人の会所になり、しばしば煎茶会が催されていた。集ったのは、蘭医・小石元瑞(1784-1849)、文人画家の田能村竹田(1777-1835)、歌人の香川景樹(1768-1843)、画人・詩人の浦上春琴(1779-1846)、儒者・詩人の北条霞亭(1780-1823)、書家・詩人の武元登々庵(1767-1818)、儒者・猪飼敬所(1761-1845)、蘭医・儒学者の新宮涼庭(1787-1854)、江戸の書家・漢詩人の市河米庵(1779-1858)、経世家・文人の斎藤拙堂(1797-1865)、儒者の野田笛浦(1799-1859)、弟子で画家・詩人の江馬細香(1787-1861)、漢詩人で梁川星厳の妻の張紅蘭(1804-1879)、梁川星巌(1789-1858)、儒者・書家の篠崎小竹(1781-1851)、儒学者・漢詩人の菅茶山(1748-1827)、儒学者・教育者・漢詩人の広瀬淡窓(1782-1856)、陶工・南画家の青木木米(1767-1833)など数多い。
◆家族 山陽の先妻・淳子は、長男・一餘を生む前に、実家に引き取られた。
 妻・梨影(1796-1855)は、結婚後、二子を育てながら読み書きを覚え、山陽の弟子への講義を聞いて漢詩を習得した。
 息子の兄・支峰は儒学者に、弟の三樹三郎(1825-1859)も、儒学者となり、勤皇志士として活動した。三樹三郎は、梁川星厳とも親交があり、安政の大獄(1858)で捕らえられ、江戸へ送られた。獄中でも幕政批判を貫いたため、小塚原で斬首されている。
◆三本木 三本木には数多くの文人が住んだ。儒学者の中島棕隠(1779-1855)、幕末、文人画家・儒者の富岡鉄斎(1837-1924)なども一時期住んでいる。
◆景観 かつて鴨川の川幅は現在よりも広く、山紫水明処の目前に川の流れがあった。山陽は部屋より釣り糸を垂れたという。対岸には柳が植えられ、東山の峰、聖護院の森も見渡しせた。
 山陽はこの景色をこよなく愛し、「京都は三都のうち第一の景勝地だが、この水西荘は京都でもまた最も景勝地だ」とし、「関白我也」と称した。
 山陽は、夕刻を「山紫水明の刻」(午後4時半-5時頃)と称し、この頃に客を招き入れ、酒を交わした。対岸に居を構えた詩人・梁川星厳には、山紫水明処から声をかけていたという。二条新地には儒学者・中島棕隠(1779-1855)の「銅駝余霞楼(どうだよかろう)」が建てられていた。夕日、東山は紫色に染まり、鴨川の水面はより一層、明るく輝いたという。
◆東山
 京都の景観、庭園の借景を形作ってきた比叡山、御生山、大文字山などの東山の峰について、文献の初出は平安時代初期の『文華秀麗集』上巻という。室町時代前期、建仁寺の宋の僧・清拙正澄は、「東山十境」を定め、「清水山」「鴨川水」「第五橋」なども入れた。東山三十六峰については、江戸時代の『翰林五鳳集』(1623)に、五山禅僧により「東山六々峯」の記載がある。「六々峯」は、中国大明時代地理書一統志にある「嵩山(すうざん)三十六峯」の模倣という。ここから、頼山陽らが「東山三十六峰」と名づけたという。
 東山三十六峰の定説はなく、近年では北から次のようになる。比叡山、御生山、赤山、修学院山、葉山、一乗寺山、茶山、瓜生山、北白川山、月待山、如意ヶ嶽、吉田山、紫雲山、善気山、椿ヶ峰、若王子山、南禅寺山、大日山、神明山、粟田山、華頂山、円山、長楽寺山、双林寺山、東大谷山、高台寺山、霊鷲山、鳥辺山、清水山、清閑寺山、阿弥陀ヶ峰、今熊野山、泉山、恵日山、光明峰、稲荷山。
 東山も平安時代以降、さまざまな文学、絵画作品に描かれてきた。清少納言の『枕草子』では、「春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」「月は有明の、東の山ぎわにはほそく出るほどに、いとあわれなり」と、東山の情景を巧みに描写している。歌枕にもなっており、「山はるけ霞の中の桜花散るも散らぬも見えぬ今日かな」(『安法法師集』八一)などがある。
 室町時代-明治期、さまざまな「洛中洛外図」に描かれてきた。東山の植生景観に大きな変化はなかった。高木の林は清水山、社寺周辺など一部の山に見られ、それも孤立したスギ、ヒノキなどの針葉樹の林だった。東山の多くは、低い植生か、または植生がほとんどなく、木々もアカマツなど人為的な影響を受けた林だった。明治以降の「保護」の下、人の手が入らなくなった周辺の山では、それまでの常緑針葉樹のアカマツ、コナラ、クヌギなどの落葉広葉樹の雑木林から、シイ、カシなどの照葉樹林の森へ移行しつつある。
◆加茂石 山陽は鴨川で産した「加茂石」の水石愛石家としても知られる趣味人だった。庭には、多くの銘石が集められた。だが、鴨川洪水の際に、「芝舟」「三十六峰選」などの銘を持つ石は流出したという。


*見学は2週間前までに事前申込みが必要。往復はがきに見学日時(第2希望)、人数、電話番号、代表者住所、氏名を明記。宛先 〒605-0063 東山区新門前松原町289 頼山陽旧跡保存会 
*参考文献 『京都府の歴史散歩 上』『京都隠れた史跡100選』『京の茶室 東山編』『おんなの史跡を歩く』『女たちの京都』『新選組と幕末の京都』『京都大事典』『京都歴史案内』『週刊 京都を歩く 27 比叡山』『人と景観の歴史』『京都の地名検証』
 

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 山紫水明処 〒602-0865 京都市上京区南町,東三本木通丸太町上る 
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