三十三間堂 (蓮華王院)・法住寺殿 (京都市東山区)
Sanjusangen-do Temple 
三十三間堂 (蓮華王院) 三十三間堂 (蓮華王院)
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南大門(重文)


南大門、鬼瓦


南大門、二重虹梁


南大門、蟇股



東大門


東大門


東大門



回廊


回廊、総延長は28m。





北門


西門



西門


西門


西門、軒丸瓦



本堂(国宝)


本堂


本堂


本堂、向拝


本堂


本堂、連子窓



本堂、明障子、幣軸板扉、一間


丸瓦



本堂、軒丸瓦


本堂、蟇股


本堂、出三斗組、間斗束


本堂、垂木




本堂、広縁下の亀腹


礎石、ほぞ石


本堂南、妻


本堂南、妻飾りは豕扠首(いのこさす)に猪目懸魚


本堂南、猪目懸魚


本堂南、軒丸瓦「慶安三年(1650年)」


本堂南、鬼瓦


本堂西、かつては通し矢は西の縁に坐してこの位置より、南から北へ向けて射た。


本堂西、柱に鉄板が張られ、矢による損傷を防いでいる。


本堂西、鎧板などに弓筈痕(矢疵)が残る。


本堂西、垂木にも防護のための鉄板が施されている。


本堂西、垂木に刺さったままの矢。


浮世絵版画「浮絵和国景跡京都三拾三軒堂之図」、歌川豊春に見る通し矢の様子、右下に縁端に坐った射手が見える。説明板より。




「此附近 法住寺殿址」の碑、かつて後白河上皇の御所が営まれた。



「写経奉納塔」



「写経奉納塔」


「法然上人礼讃勤行の碑(名号)」




手水舎


手水舎、夜泣地蔵


手水舎


手水舎、柳


鐘楼


池泉、1961年に造られた。ツツジの植栽がある。


太閤椿


太閤椿


「太閤塀天正一四年 豊臣秀吉築造」の石標


丸瓦に太閤桐の文様がある




太閤塀


久勢稲荷大明神
 三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の境内は、総延長524mの築地塀に囲まれ、25073㎡の敷地を有している。平安時代、後白河法皇が法住寺殿内に建立した堂宇のうち、唯一残るものが三十三間堂になる。
 正式には蓮華王院(れんげおういん)という。蓮華王とは千手観音を意味する。頭痛山平癒寺ともいわれ、浄瑠璃話より楊枝加持で頭痛から免れるという信仰が生まれた。 
 天台宗妙法院門跡の境外仏堂になる。本尊は十一面千手千眼観世音菩薩(千手観音坐像)を安置している。
 洛陽七観音の一つ。洛陽三十三観音巡礼第17番札所。
 後白河法皇に因み頭痛平癒の信仰がある。夜泣泉近くの夜泣き地蔵は、子どもの夜泣きを治すとの信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、988年、右大臣・藤原為光の私邸「法住寺」を造営、円融上皇(第64代)が列して落慶法要を営む。本堂には金色丈六釈迦如来、薬師如来、観音、延命、如意輪観音菩薩などを安置していた。その東西に普賢菩薩を安置した法華三昧堂、阿弥陀世尊を安置した常行三昧堂が建ち並んだ。(『日本紀略』『扶桑略記』)
 989年、為光は亡き夫人、985年に急逝した息女・き子の菩提を弔うために法住寺を建立した。
 992年、為光の死にあたり封戸100戸が寺に寄進された。為光没後、寺は子孫によって守られる。(『日本紀略』)
 1032年、九条邸よりの火の手により焼失する。(『日本紀略』) 
 1156年、中納言入道(清隆とも)による法住寺堂が営まれていた。(『兵範記』)。第77代・後白河天皇が方違いにより当地に行幸する。(『山槐記』)。寺の跡地に隠棲の庁、法住寺殿を造営する。御所内に仏堂である蓮華王院を設け、その本堂である三十三間堂を建てた。この頃、楊枝浄水供が初めて修法される。
 1160年、法住寺殿に新熊野・新日吉両社が鎮守社として建立される。後白河上皇は御所に常住し、「蓮華王院御所」とも呼ばれた。昌雲が別当になる。法住寺殿に新熊野・新日吉両社が鎮守社として建立される。上皇は御所に常住し、「蓮華王院御所」とも呼ばれた。
 1161年、後白河上皇によって東山御所(法住寺御所、七条御所)が造営された。西殿、北殿も記されている。(『山槐記』同年条)。法皇は藤原顕長邸(八条堀川)より移り住する。新日吉社荘園の一つが昌雲に下賜される。
 1164年、後白河上皇の発願により、平清盛の寄進で、南殿北に鎮守寺の蓮華王院仏堂が建てられた。長大な建物で当初は、「法住寺千体観音堂」と呼ばれる。上皇が出家した懺法堂も建立される。千体像も完成する。この頃、宝蔵も建立されたという。300人の僧により落慶供養が営まれる。導師は興福寺別当・尋範、咒(しゅ)願は天台座主・俊円が務めた。僧・聖賢が鐘楼を寄進する。清盛は、私財を投じた功により備前守に任じられた。(『愚管抄』)
 1165年、諸堂が建てられた。僧・承仕が夢告により境内築山に、醴泉(れいせん)を発見する。 
 1167年、1166年とも、後白河上皇は、法住寺南殿に移る。新御堂、不動堂が落慶になる。また、1167年、南殿に周防守季盛が改造し移る。(『兵範記』)
 1169年、後白河上皇は、園城寺長吏・覚忠により受戒し、法皇となり法住寺の仏堂に住した。不動堂が建立されたともいう。
 1172年、法住寺殿内に法皇の妃・建春門院(平滋子)のために、最勝光院(東山区新熊野)が建立された。
 1173年、蓮華王院は観音霊所十か寺のひとつに挙げられる。建春門院(平慈子)の願により、園地の西に最勝光院、法華堂が建てられた。北殿が焼失した。
 1174年、15夜にわたって法住寺御所南殿で「今様合」開催された。高倉天皇は法住寺殿に方違の行幸をした。
 1175年、八幡以下全国21大社を勧請した蓮華王院総鎮守社(蓮華王院惣社)が勧請されている。
 1176年、1175年とも、法住寺南殿南東の山上に美作守雅隆の寄進により千手観音堂(小千手堂、9間3面)が建てられる。千体の観音仏が安置されたという。第80代・高倉天皇が行幸する。後白河上皇の女御・建春門院(平滋子)が亡くなり、女御の御陵として法華堂が建てられた。(『玉葉』)。八幡以下全国21大社を勧請した蓮華王院総鎮守社(蓮華王院惣社)が勧請される。
 1177年、蓮華王院念仏堂(東法華堂)、五重塔が落慶になる。法皇は100日に渡る長公講堂での法華八講を修する。
 1178年、中宮・平徳子の安産を祈願した。
 1183年、7月、木曽義仲が入京、行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。以後、京中の狼藉の取り締まりが委ねられた。11月、義仲は法住寺を襲撃し法住寺御所、南殿は焼失した。(法住寺合戦)。だが、三十三間堂は奇跡的に焼失を免れる。北斗堂が建立される。(『百錬抄』『玉葉』)。上皇は北の門から新日吉神社へ輿にのって逃亡、後白河法皇は六条西洞院の御所に移り幽閉され、長講堂に移る。新日吉検校が蓮華王院を管領する。
 1184年、興福寺権別当・範玄が蓮華王院修理別当に補された。
 1185年、大地震により千体仏が損傷し、以後、数年にわたり修理が施される。
 1190年、上洛した源頼朝は蓮華王院の修理を行う。
 1191年、蓮華王院の修理が終わる。
 1192年、後白河法皇が亡くなり、焼失した法住寺殿の敷地に遺命により蓮華王院東法華堂(現在の法住寺陵)が建てられる。葬儀が行われ、葬られる。その後、再建されるが荒廃する。
 鎌倉時代、建春門院の法華堂、その南に後白河上皇の法華堂が建っていた。
 1204年、第83代・土御門天皇の発願により法然は、後白河法皇の13回忌を修め、「浄土三部経」を手写、「六時礼讃」を勤行した。
 1211年、奈良法師の群盗が宝蔵に侵入し仏像、剣を奪う。(『吾妻記』)
 1212年、宝蔵に群盗が入り、剣を奪う。(『百錬抄』)
 1221年、承久の乱に関わった法印尊長がかつて蓮華王院執行であり、寺領が幕府により没収になり、第86代・後堀河天皇に献上、改めて後嵯峨上皇(第88代)に移譲される。
 1246年、後嵯峨上皇により本堂の修理が始まる。公家・九条道家が資材を寄進している。
 1247年、後嵯峨上皇の兄・円満院宮仁助法親王が蓮華王院の修理検校になる。
 1249年、後嵯峨上皇による本堂の修理が終わる。仏像の修理は湛慶が統括した。だが、3月、建長の大火により法華堂以外の大部分が焼失する。本堂に安置されていた本尊の一部、千体仏156体と二十八部衆すべてはかろうじて持ち出された。ほかはすべて焼失した。
 1251年、中尊を仏師・湛慶が製作し始める。
 1266年、現在の本堂・三十三間堂、仏像が再建、再造された。第90代・亀山天皇、後嵯峨上皇、大宮院(嵯峨院中宮)、後深草上皇の臨幸により落慶法要が行われる。盛儀になり「諸司百官残るなし」とまでいわれた。(『増鏡』巻7)。導師は東大寺別当・聖基、咒願は東寺長者大僧正道勝が任じられる。最勝光院は放火により焼失する。
 1227年、最勝光院は再建されたという。
 1249年、建長の大火により焼失した。
 1272年、後嵯峨上皇が亡くなり、亀山天皇は中陰御斎会として千僧供養を修した。
 1282年、惣社祭を行う。
 1291年、後白河法皇100日忌に、後深草上皇は院宣を下し、妙法院尊教大僧正により法会が修された。以後、開山忌に妙法院門主が修することが慣例になる。
 1310年、広義門院の安産を祈願する。
 南北朝時代、洛陽三十三箇所観音霊場のひとつに数えられる。
 1340年、亮性法親王が後白河法皇150回忌曼供を奉修した。
 1391年、堯仁法親王は後白河法皇200回忌曼供を奉修する。
 室町時代、1426年、本堂は荒廃する。(『薩戒記』同年の条)
 1433年、足利義教により5年の歳月をかけて修理が行われる。(『蔭涼軒日録』)
 1437年、仏像、天蓋の修理が終わる。足利義教は蓮華王院を参詣した。
 1438年、御堂の修復が完成した。
 1441年、教覚准后は後白河法皇250回忌曼供を奉修する。
 1447年、教覚准后が蓮華王院の毘沙門天を開帳した。
 1491年、覚胤法親王は後白河法皇300回忌曼供を奉修する。
 応仁・文明の乱(1467-1477)の類焼を幸いに免れた。
 1541年、堯尊法親王は後白河法皇350回忌曼供を奉修する。
 安土・桃山時代、1544年、天正年間(1573-1592)とも)、地震で被災している。千体仏600体が倒れる。(『宇野主水日記』)
 1584年、羽柴秀吉は後白河法皇御影堂・蓮華王院に制札を出す。
 1586年、豊臣秀吉による方広寺建立の際に、蓮華王院は方広寺の山内寺院(千手堂)として取り込まれる。
 1588年頃以降-1600年、境内南、西に練土塀(太閤塀)、大仏殿の南に南大門、七条通に西大門が築かれた。
 1591年、常胤法親王は後白河法皇400回忌曼供を奉修する。
 1592年、方広寺建立に伴い、蓮華王院の外観などの補修が施された。
 1595年、大仏殿方広寺は、三十三間堂の北にほぼ完成した。豊臣秀次は三十三間堂での射術を禁止する。
 1598年、秀吉没後、方広寺が妙法院の管理下に置かれ、蓮華王院も妙法院に属した。
 1600年、豊臣秀頼の命により、大仏師・康正の下、千体仏の修復が以後10年にわたり続けられた。
 江戸時代、1605年、仏師・康正による二十八部衆の修復が終わる。
 1606年、浅岡重間政(平兵衛)が通し矢を行い、51本を得て「天下惣一」の称号を得る。
 1615年、豊臣家の滅亡に伴い、徳川幕府により妙法院の所属になり一体化が進む。
 1641年、堯然法親王は後白河法皇450回忌曼供を奉修する。
 1649年、徳川家光の命により、小規模の修理が始まる。修理奉行は桑山修理亮一、中坊長兵衛時祐が任じられる。通し矢での建物への損傷を防ぐために、本堂西に鉄板が張られる。仏師・康知により中尊、千体仏の修復が行われた。
 1651年、修理が終わる。
 1662年、尾張藩士・星野勘左衛門が6600本の通し矢の記録を打ち立てる。
 1668年、紀州藩士・葛西団右衛門が7000余本の通し矢の記録を更新する。
 1669年、尾張藩士・星野勘左衛門は、総矢1万542本中大矢数8000本の記録を打ち立て、「総一(天下一)」を称した。
 1677年、1680年とも、通し矢の記録に刺激された井原西鶴が、一昼夜のうちにできるだけ数多くの句数を詠み競う矢数俳諧(やかずはいかい)を大坂生玉の本覚寺で行う。
 1686年、1687年とも、紀州藩・和佐大八郎は、13053本中大矢数8133本(8132本とも)の記録を更新する。
 1691年、堯然法親王は後白河法皇500回忌曼供を奉修する。
 1741年、堯然法親王は後白河法皇550回忌曼供を奉修した。
 1774年、紀州の野呂止祥(13歳)が、半堂射で11956本中11715本を通した。
 1791年、眞仁法親王は後白河法皇600回忌曼供を奉修する。
 1826年、ドイツ人医師・博物学者のシーボルトは、知恩院、祗園社、清水寺、大行寺、方広寺、三十三間堂などを訪れた。
 1841年、教仁法親王は後白河法皇650回忌曼供を奉修する。
 近代、1869年、別当寺院・宝生院が収公され、恭明宮(現在の京都国立博物館)に利用された。また、方広寺から独立する。
 1890年、寂順大僧正は後白河法皇700回忌曼供を奉修する。
 1895年、若林素行が、通し矢4457の試し矢を射る。この後、通し矢は中断する。
 1897年、本堂が古社寺保存法により特別保護建造物に指定される。
 1907年、二十八部衆の修理が終わる。
 1930年、1929年とも、本堂の解体復元、中尊、南大門の修理に着工する。
 1934年、修理が完成した。
 1935年、南大門修理が終わる。
 1937年以来、1936年とも、太平洋戦争を挟み20年の歳月をかけ、彫刻家・西村公朝は千体仏の修復を手がける。
 現代、1951年、大的(おおまと)大会が復活する。
 1957年、仏像の修理が完成した。
 1961年、良泉大僧正は後白河法皇770回忌曼供を奉修する。東大門、回廊が新造された。
 1964年、映画「宮本武蔵」の撮影が行われた。
 1981年、東大門が修復される。
 1988年、鐘楼が再建される。
 1989年、千手観音坐像の解体修理が行われた。
 1992年、天台座主恵諦大僧正は後白河法皇800回忌曼供を奉修する。  
 2005年、洛陽三十三箇所観音霊場が再々興される。
◆藤原為光 平安時代中期の公卿・藤原為光(ふじわら の ためみつ、942-992)。藤原師輔(ふじわら の もろすけ)の9男、母は後醍醐天皇第9皇女・雅子内親王。957年、従五位下、970年、参議、973年、権中納言、975年、中納言。977年、大納言筆頭となる。984年、第65代・花山天皇即位後、娘・忯子を入内させた。986年、右大臣、娘の急死、天皇の出家、一条天皇即位により影響力を失う。987年、従一位、988年、法住寺を供養する。991年、太政大臣に任じられた。死の直前に勅条により封戸100戸が法住寺に施入される。日記に『法住寺相国記』がある。
◆後白河天皇 平安時代後期の第77代・後白河天皇(ごしらかわ てんのう、1127-1192)。第74代・鳥羽天皇の第4皇子に生まれた。母は藤原璋子。1155年、異母弟の第76代・近衛天皇の死により即位する。1156年、保元の乱、1159年、平治の乱後、源平対立の中で王力を維持した。1158年、第78代・二条天皇に譲位し、六条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の5代の歴代天皇に対して30年に渡り院政を敷いた。1159年、父・鳥羽天皇の本願だった白河阿弥陀堂を建立する。1160年、初めて熊野に参詣した。以後、本宮に34回、新宮・名地に15回参詣している。1169年、園城寺前大僧正・正覚を戒師として出家する。園城寺長吏・覚忠により受戒し、法名行眞と称した。『梁塵秘抄口伝集』(1169)を撰した。1170年、東大寺で改めて受戒した。1179年、平清盛の謀反により、院政を止め鳥羽殿に幽閉の身になる。1181年、高倉上皇没後、院政を再開する。1183年、木曽義仲の法住寺合戦により、六条西洞院の御所に幽閉され、この地で亡くなる。没後、遺命により境内東の法住寺法華堂に葬られる。
◆平清盛 平安時代後期の武将・平清盛(たいら の きよもり、1118-1181)。平忠盛の子。白河法皇の落胤、母は祇園女御、またその妹ともいう。1129年、12歳で従五位下、左兵衛佐。1156年、保元の乱では後白河天皇につき崇徳上皇方を破った。1159年、平治の乱では源義朝を破る。1160年、参議、1164年、三十三間堂を創建する。1167年、太政大臣、1168年、病になり出家し静(浄)海と称した。摂津福原に移る。高倉天皇即位に協力した後白河法皇と対立する。1171年、娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の女御として入内させた。1179年、清盛は法皇院政を停め鳥羽殿に幽閉した。1180年、以仁王が挙兵する。清盛は後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇を伴い、福原に移る。半年で京都に還る。1181年、反抗した東大寺・興福寺を焼き討ちしたが、その年に没した。対宋貿易に力を入れ、初の武家政権を成立させた。
◆法然 平安時代後期、鎌倉時代前期の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。圓光大師。美作国に生まれた。9歳で出家、1145年、13歳の時比叡山に登る。源光、叡空に師事し、法然房源空と改名した。25年にわたり修行を重ね、一切経 (5048巻)を5遍通読したという。1175年、中国浄土教の善導(613-681)の『観無量寿 経疏』(『観経疏』)を見出し、比叡山を下りた。専修念仏を確立し、東山大谷で浄土宗を開く。1186年、南都・北嶺の僧らと洛北大原勝林院で問答(大原談義)する。1204年、比叡山僧徒は専修念仏の停止を迫り蜂起、法然は「七箇条制誡」を草し延暦寺に送る。だが、興福寺の奏状により念仏停止の断が下された。 1207年、還俗になり、土佐国(讃岐国)に流罪となる。(「承元の法難」)。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住む。1211年、帰京し、その翌年亡くなる。遺言書『一枚起請文』(1212)。 
 蓮華王院との関わりがある。境内東に「法然上人礼讃勤行の碑(名号石)」が立つ。後白河法皇は、法然に帰依したともいう。法然の『往生要集』の講説に感服し、その真影を権大夫・藤原隆信に描かせ蓮華王院の宝蔵に納めさせた。鎌倉時代、1204年、土御門天皇の発願により法然は、後白河法皇の十三回忌を修め、「浄土三部経」を手写し、「六時礼讃」を勤行している。「法然上人絵伝」に描かれている。
◆木曽義仲 平安時代末期の武将・木曽義仲(きそ よしなか、1154-1184)。源義仲。河内源氏の一門で源義賢の次男。為義の孫、父・義賢はその兄・義朝との大蔵合戦で討たれ、駒王丸(幼名)は信濃国へ逃れたという。1180年、以仁王の平氏打倒の挙兵に呼応、北信の源氏方救援の市原合戦後、上野国、信濃国に移る。1181年、小県郡の白鳥河原、越後から北陸道へと転戦する。1182年、北陸に逃れた以仁王の遺児・北陸宮を擁護、1183年、2人の叔父を庇護し源頼朝と対立する。越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで平維盛の軍を破り、篠原の戦いに勝利し越前、近江国へ進む。平氏は安徳天皇、守貞親王を擁して西国へ逃れ、後白河法皇は、比叡山に身を隠した。入京した義仲は京中の守護を担当した。朝日の将軍(旭将軍)という称号を得たという。だが、皇位継承問題で北陸宮を支持したことから法皇と対立、また義仲の軍による略奪行為により民意を失う。平氏追討のため播磨国へ下向した。法皇は頼朝を赦免し、追い込まれた義仲は法住寺殿を襲撃する。院側は源光長・光経父子が奮戦したが大敗した。この際に、明雲や円恵法親王が戦死した。義仲は後白河法皇を五条東洞院の摂政邸に、また後鳥羽天皇も幽閉する。義仲は松殿基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。1184年、源範頼、義経率いる追討軍との宇治川、瀬田での戦いに敗れ、落ち延びた近
◆湛慶  鎌倉時代の慶派仏師・湛慶(たんけい、1173-1256)。運慶の長男。父とともに東大寺、興福寺の復興造仏に関わる。1212年、最高の僧綱位の法印を授かる。1223年、快慶と共に醍醐寺閻魔堂、1224年の平岡善妙寺、1248年、後嵯峨院、雪蹊寺の善膩師童子像や高山寺の狛犬・仔犬を手掛ける。1249年、蓮華王院の仏像修理、直後の火災後、82歳で再び中尊の造仏を手掛ける。完成後84歳で亡くなる。甥に仏師・康円(運慶二男康運の子)、康清(運慶4男康勝の子)がいる。
◆西村公朝
 現代の仏師・僧・西村公朝(にしむら こうちょう、1915-2003)。大阪府に生まれた。1935年、東京美術学校入学。美術院国宝修理所に入所、三十三間堂で十一面千手観音千体像の修理に参加した。1942年、中国に出征し各地を転戦した。1945年、復員後、三十三間堂での600体の修復を行い、以後多くの造仏、修復を手掛ける。1951年、得度、天台宗の僧侶になる。美術院国宝修理所所長、東京芸大教授 などを歴任した。
◆仏像 平安時代、創建当初に湛慶の曽祖父・康助により造仏された本尊、千体仏は、鎌倉時代、1249年の火災により大部分が灰燼に帰した。ただ、中尊の首、左手と千体仏の内の156体(124体とも)、二十八部衆像はかろうじて持ち出されている。その後、湛慶の手がけた9体ほか、総勢70数人の仏師により1251年-1254年に復元された。また、復元には16年の歳月を費やしたともいう。
 ◈現在の丈六本尊、「千手観音坐像」(国宝)(334.8㎝)は、鎌倉時代、1254年に造立された。正式には「十一面千手千眼観世音菩薩」という。光背、蓮華座を含むと総高6mを超える。本堂中央3間の須弥壇、八角七重の蓮華座に結跏趺坐している。
 頭上に11の顔(前3面<2面とも>が菩薩の慈悲相、左<向かって右>3面が瞋怒(しんぬ、悪行を叱る)相、右<向かって左>3面に狗牙上出(くがじょうしつ、白牙上出相、善行を讃える)相、後ろ1面に暴悪大笑相(悪徳を笑い、善に向かわせる)の変化面、頂上に1仏面の如来相(仏道の悟りを開く境地)が載せられている。
 中尊前の合掌印の2本以外に、両脇に40本の手を持ち、これらに観音の救いを象徴する各々の持物(宮殿、日精摩尼、五色雲など)を手にしている。たとえば、右方に頭痛を除くとされる髑髏が握られている。1つの手が25種の世界で救いの働きをするとされ、一体で千手(40×25=1000)の救いを差し伸べている。一手の掌に眼が彫られ、一眼で25種の生死の世界を見通し、あらゆる現象を見分けるとされ千眼を表す。
 鎌倉時代、運慶長男の大仏師・湛慶(1173-1256)、運慶次男・康運(1207-?)の子で小仏師・康円により造立された。1251年に造仏が始まり、1254年に完成したという。湛慶は82歳で造仏に関わり、完成後に84歳で亡くなる。舟形光背には三十三化身の透かし彫り、頭上の天蓋は大蓮華に飛雲帯、八方吹返し、瓔珞を垂らす。中尊はヒノキ材、寄木造、乾漆、内刳、玉眼嵌入。
 ◈中尊を中心にして、「十一面千手千眼観世音菩薩立像(千手観音像、千体仏)」(重文)の1001体は、壇、台座上に立つ。千体仏は、中尊の背後に1体、左右に10段50列、500体ずつ並んでいる。昭和期の修理の際に、仏像に番号が付けられた。最南端、最後列を「1号」最前列を「10号」としている。
 千体仏は、鎌倉時代、1249年の火災の際に幸いに持ち出された平安時代作の像124体(長寛仏、最前列では「160号」、「280号」、「300号」、「440号」、「450号」、「570号」、「670号」、「800号」、「890号」)も含む。ただ、残りの877体の大部分は復興期の作になる。室町時代の作のものが1体ある。鎌倉時代の1251年-1266年、安土・桃山時代-江戸時代、1598年-1610年に再興された像876体がある。造仏時代の見分け方として、平安時代末のものは耳にかかる巻き毛がない、腰の石帯の一部が現れている。鎌倉時代のものは巻き毛があり、石帯が見えないという特徴がある。
 千体仏は一体一体の表情がすべて異なる。また、胴体、手足の肉付け、体型も太造り、細身とあり、膝前の二条の天衣、下半身の衣文の皺目なども微妙に異なる。千体仏も中尊と同じく、頭上に11の顔(化仏、前3面が菩薩の慈悲相、左3面が瞋怒(しんぬ、悪行を叱る)相、右3面に狗牙上出(くがじょうしつ、善行を讃える)相、後ろ1面に暴悪大笑相(悪徳を笑い、善に向かわせる)、頂上に1仏面の如来相になっている。前の合掌印の2本(真手、しんしゅ)以外に、両脇に今の法力を表す40本の手を持ち観音の救いを象徴する各々の持物がある。1つの手が25種(二十五有、迷いの世界)の世界で救いの働きをするとされ、一体で千手(40×25=1000)を差し伸べる。また、3世(過去、現在、未来)の25期すべてにおいてご利益を得られるものとする。
 千体仏は参拝者からすべての観音仏を仰角(扇状)で拝めるように安置されている。光背は頭部を縁どる輪光、台座は八角四重の蓮華座(30cm)、足ほぞに奈良と京都の仏師名の銘記があるものは504体ある。その中には、運慶(1体)、美仏の湛慶(「9体、最前列では「10号」、「20号」、「30号」、「40号」、「520号」、「530号」、「540号」、「550号」、「560号」)、康円(6体)、行快(1体)、隆円(35体)、昌円(6体)、栄円(5体)、勢円(8体)、院継(14体)、院遍(7体)、院承(20体)、院恵(30体)、院豪(28体)、院賀(11体)などがある。また、銘文250体のうち、京都仏師の院派(139体)、円派(801体)、慶派(31体)、総勢で70数人の仏師が携わったともいう。
 木造、ヒノキ材、寄木内刳造、漆箔像、玉眼は5体のみ、ほかは彫眼。像高165-169㎝。なお、胎内には、半紙大の印仏、木版画1000枚が納められており、十一面千住観世音菩薩、二十八部衆立像、風神・雷神像などが描かれていた。
 ◈鎌倉時代前期作(13世紀前半)とみられる千手観音眷属の婆藪仙人など、写実的な「二十八部衆立像」(国宝)28体は、千手観音を守護している。鎌倉時代(13世紀)作の彩色の木造「風神・雷神像」(国宝)2体を加えた合計30体が千体仏の前に立つ。いずれも木造、ヒノキ材、寄木造、内刳、彩色、玉眼嵌入、像高160cmほど、これらは湛慶一門作とみられている。
 ◈「風神・雷神」は二十八部衆に降伏したとされ、五穀豊穣をもたらす神として信仰された。二十八部衆立像と同じ技巧、同時期の造像とみられている。人体の骨格、筋肉の動きも模写されている。仏像として描かれた初例は、6世紀の敦煌莫高窟の壁画にあり、日本では、12世紀の金剛峯寺の「中尊寺経見返し絵」にある。彫像では三十三間堂が唯一例という。風神、雷神像は俵屋宗達の「風神雷神図屏風」の元になったという。「風神像」(123cm/111.5㎝)は、巻雲に乗り、牙を見せ風袋の口を開く。半人半獣であり、手に4本、足に2本の指を持ち、左足を前に出す。「雷神像」(105cm/100㎝)は、撥を手にし、8つの小太鼓を背負う。手に3本、足に2本の指を持ち、右足を前に出す。慶派仏師によるものとみられている。木造、ヒノキ材、寄木造、玉眼嵌入、彩色。
 現代の彫刻家・西村公朝(1915-2003)は、1937年から太平洋戦争を挟み、20年の歳月をかけ、これらの仏像の修復を手がけている。 
 等身大の千体仏は、内陣南北15間に500体ずつ、10列の雛段状上に並べられている。参拝者は最前面の一体一体の観音仏とともに、その背後に全体に放射状に広がるほかの仏を見渡すことができる。白壁の二重虹梁、蟇股、さらに放射状に見える天井の化粧屋根裏がこれらの視覚効果を高めている。参拝者が外陣を移動しながら一つの仏を見る時、仏像が重ならずにそのほかの諸仏も見通せる。視点が移動するごとに、新たな観音仏が扇状に連続して視界に映り込む。また、前面の二十八部衆立像は、それらの相似、連続的な光景に変化をつけている。
二十八部衆立像 観音菩薩の眷族である二十八部衆立像は、写実的な表現が行われている。1249年の火災の際に持ち出されたといわれる。(『一代要記』)。また、復元に際して新造されたともいう。28体が現存する彫像としては、滋賀の常楽寺像と三十三間堂の2例しかない。
 かつて、中尊前の左右須弥壇上に3列、4列に並べられていたとみられている。インドの神々が仏教に取り入れられ仏法、修行者を守護するため、十方国土(天界四方上下六方の24部、四維の艮、巽、坤、乾の4部)に置かれた。
 北より南へ「雷神像」、1「那羅延堅固(ならえんけんご)」(167.9㎝)、2「大弁功徳天(だいべんくどくてん)」(166.7㎝)、3「緊那羅王(きんならおう)」(166㎝)、4「金色孔雀王(こんじきくじゃくおう)」(166.3㎝)、5「大梵天(だいぼんてん)」(169.7㎝)、6「乾闥婆王(けんだつばおう)」(159.7㎝)、7「満善車王(まんぜんしゃおう)」(165.1㎝)、8「羯羅竜王(しゃがらりゅうおう)」(165.4㎝)、9「金大王(こんだいおう)」(163㎝)、10「金毘羅王(こんぴらおう)」(157.6㎝)、11「五部浄居天(ごぶじょうごてん)」(167.6㎝)、12「神母天(じんもてんのう)」(169.4㎝)、中尊の前右13「東方天(とうほうてん)」(166.3㎝)、中尊の前左14「毘楼勒叉天(びるろくしゃてん)」(160.6㎝) 、中尊・「千手観音坐像」、中尊の後左15「毘楼博叉天(びるばくしゃてん)」(160.6㎝)、中尊の後右16「毘沙門天(びしゃもんてん)」(160㎝)、17「迦楼羅王(かるらおう)」(163.9㎝)は巨鳥であり、嘴を持ち、笛を吹く、右足は拍子をとる。18「摩和羅女(まわらにょ)」(153.6㎝)、19「難陀竜王(なんだりゅうおう)」(159.1㎝)、20「婆藪仙人(ばすうせんにん/ばすせんにん)」(154.5㎝)、21「摩醯首羅王(まけいしゅらおう)」(160.9㎝)、22「畢婆迦羅王(ひばからおう/びばから/ひっぱから)」(165.4㎝)、23「阿修羅王(あしゅらおう)」(164.8㎝)、24「帝釈天(たいしゃくてん)」(153.9㎝)、25「散脂大将(さんじたいしょう)」(165.1㎝)、26「満仙王(まんせんおう)」(161.5㎝)、27「摩ご羅王(まごらおう)」(154.8㎝)、28「密迹金剛(みっしゃこんごう)」(163㎝)、南に「風神像」が安置されている。
 木造、ヒノキ材、寄木造、玉眼嵌入、截金彩色。
◆建築 西門、東大門、南大門、本堂、参集閣などが建つ。
 ◈現在の本堂「三十三間堂」(国宝)は、鎌倉時代、1266年に再建された。幾度も修理、修復が行われている。東側面向背も江戸時代に造替えている。1955年にも修復された。1952年に国宝指定されている。
 側面・背面に連子窓、横板嵌め、四周に広縁を廻らす。縁下は亀腹。円柱は2間間隔で36本立つため、桁行は35間になる。世界の中で木造最長の堂といわれている。内陣は正面に33間側面3間、天井は支輪折上組天井。内内陣の柱間に虹梁、板蟇股、鏡座がある。中央の左右15間ずつは化粧屋根裏になる。1間に外陣がある。外陣は120mの床が貼られ、正面の明障子で千体観音像がほのかな明かりの中で拝せる。東正面と西に1間に2枚の幣軸板扉、南北には5間に2枚の幣軸板扉がある。内陣は白壁に二重虹梁、奈良工匠との関わりがある二重繋梁、板蟇股、三ツ斗、天井は柱間3m毎に10本の垂木が並べられる。この化粧垂木は、朱色をしており、東西貫に金箔の蓮台が3個下がり、蓮台にはかつて鏡が張ってあった。正面中央に7間の向拝が付き、江戸時代、1649年-1651年に修造改造された。再建当初、「法然上人絵伝」によれば、本堂の外部は丹塗りになっていた。扉には来迎図が描かれていた。内部は胡粉地の上に極彩色に飾られた。斗栱(ときょう)には、連珠文の繧雲線条文が描かれていた。柱、梁、飛貫、長押、木鼻、垂木、扉にも、宝相華唐草文、牡丹花、蓮華文などの文様、瑞雲、如来、婦人像なども描かれていたという。
 床面積2116㎡。桁行35間118m(125mとも)、梁間5間16.4m(22mとも)。入側柱直径59.4cm、長さ6.89mが76本。外側柱直径52.8cm、長さ5.24mが78本の合計154本、胸高50尺(15.2m)、柱間3.68m、虹梁206本、間戸束306本、蟇股173個、肘木858本、斗1900個、縁板560枚、垂木3000本、瓦数16万枚。妻飾りは豕扠首(いのこさす)に猪目懸魚、軒廂は二軒、半繁垂木、斗栱(ときょう)は一手先の出三斗、中備えは間斗束。軒下見上二重垂木。木造和様、総ヒノキ造。35間5間、単層入母屋造、本瓦葺、中央7間に向拝付(江戸時代の後補)。
 本堂は免震震構造の工夫が施されている。地盤は砂、粘土を幾重にも重ねた層状、版築(はんちく)になっている。その上に漆喰を塗り亀腹になる。柱の礎石は亀腹の上、また版築内に埋め込まれた礎石の上に柱を載せる。軸部の柱や長押、斗栱(ときょう)は力を吸収しやすい構造になる。頭貫と、上部の横木の長押も柱に固定、中ほどの腰長押と下部の半長押は柱に緩く固定していた。これらにより、柱との接する部分には隙間が造られる。また、上部のみが固定されているため、柱の下からの揺れを柱を揺らすことで吸収する構造になっていた。さらに、板壁は版木を横に用い、羽目板として土壁の面積を極力減らした。版築で揺れを吸収した上に、あえて柱を振動させる「遊び」で全体に揺れが広がることを防いだ。
 ◈「南大門」は、方広寺八脚門の遺構になる。蟇股に安土・桃山時代の花鳥禽獣をあしらう。妻飾りは二重虹梁三斗蟇股大幣束。中央1間に出入り口、左右に板扉。切妻造、三間一戸八脚門、本瓦葺。
 ◈「東大門」は、回廊は1961年の建立により、基壇上に128mある。5間3戸門。桁行18m、棟高11.6m、単層切妻造、二重虹梁蟇股式、本瓦葺。
 ◈「西大門」は、現在は東寺に移された。豊臣秀吉は、大仏殿建立に伴い、三十三間堂の太閤塀、南大門、西大門を建立した。近代、1895年、京都国立博物館の建設に伴い、七条通が拡張され、西大門は東寺に移築された。いまは、東寺の南大門として現存している。
◆法住寺殿 平安時代、1158年、後白河上皇(第77代)は、皇子・第78代・二条天皇に譲位し、1161年、院御所法住寺殿を建立し移り住んだ。建設に際して周辺の堂舎など80あまりを打ち壊したという。この地は、東海道・東山道、大和街道に通じ、平氏の六波羅の南にあり重要な位置になる。当初は院御所であり、後に院政の中心地として機能した。
 範囲は、東は法輪寺(今熊野観音)の旧域を除く東山山麓、西は大和大路(鴨川)、北は七条通(七条坊門小路末)北、南は八条通(八条大路末)にいたる10町(東西0.6km、南北1.1km)あまりの広大なものだった。現在、法住寺殿遺構は三十三間堂と後白河天皇陵しかない。
 地区割りがされており、院御所、寺院などが建てられていた。七条大路末の北に法住寺北殿、南に法住寺南殿、その南に蓮華王院、南の園地の西に最勝光院があった。池に面して阿弥陀堂が建ち、僧房はなかった。また、園地の東には新熊野神社、北西に新日吉神社が祀られていた。後に、蓮華王院に接し、上皇と建春門院の陵墓が造られている。
 平安時代、1161年、中心になる南殿(狭義の法住寺殿)は、平治の乱で敗れた藤原通憲の邸宅跡に、藤原信頼の邸を移し、その後改造された。西殿、北殿(上御所、下御所)の三御所があり、南殿は宗教的な施設になっていた。南殿には上皇の住居とともに、東小御堂、不動堂、千手堂が建ち並び、広大な池もあった。1167年に南殿は拡張されている。北殿は政治的な施設が置かれた。二条天皇を初めとして、高倉天皇などの朝覲行幸が行われている。高倉天皇中宮平徳子(建礼門院)の入内も当御所からだった。
 1183年、木曽義仲の軍により南殿は焼失する。
◆蓮華王院・三十三間堂 蓮華王院とは、千手観音の仏堂の意味であり、創建当初より「三十三間堂」とも呼ばれた。当初の規模は、四郭10余町(10.9m)ある広大なものだった。南北は、現在の三十三間堂の敷地幅あり、西は本町通付近まで、東は法住寺南殿一帯、現在の智積院境内地のすべてを含み、北殿は現在の国立博物館、さらに豊国神社、妙法院付近まで含んでいた。
 三十三間とは、本堂内陣の柱間が33あることによる。平安時代の間面記法(けんめんきほう)によると「三十三間四面庇」になる。これは、母屋桁行と庇の数を表した。また、33の数字とは、観音仏が人々を救うために変わる身の数(33身に応現し衆生を救う)を意味している。1001体の千手観音は33身に応現することから、全体では33033体と化し、その慈悲の力により無尽の衆生を救済することができると考えられていた。これらは、観音の功徳を法華経で説いた普門品(ふもんぼん)の教えに重なる。
 なお、三十三間堂は得長寿院にも建てられている。
◆法住寺合戦 法住寺合戦では、平安時代末期、1183年11月19日に、木曾義仲が院御所・法住寺殿を襲撃し勝利した。
 1183年7月、義仲・行家軍の入京を前に、安徳天皇は法住寺殿に行幸することになった。だが、後白河法皇は比叡山に避難する。内大臣平宗盛・平家一門、天皇も西国などへ逃れた。法皇は、法住寺殿に戻る。義仲・行家軍が入京し、法皇は両者に平氏追討宣旨を下す。義仲・行家らは京中守護を任される。義仲は受領最高位の伊予守、行家は備前守に遷った。法皇は、高倉上皇の皇子2人の中から新天皇即位を決めるが、義仲は以仁王の子息・北陸宮の即位を主張した。結局、後鳥羽天皇が継承し、法皇と義仲の対立になる。市中治安悪化に伴い、義仲は信用回復のために西国の平氏追討に向かう。その間に、法皇は頼朝を本位に復し、東海・東山両道諸国の支配権を与える。他方、義仲は西国で水島の戦いで平氏軍に惨敗し、10月に帰京する。
 11月、源義経の軍が不破の関に達し、行家以下の源氏は法住寺殿の警護を始める。延暦寺や園城寺の僧兵なども殿に集結し、殿の武装化を進めた。摂津源氏の多田行綱、美濃源氏の源光長らが味方につく。19日に戦闘が始まり、明雲、円恵法親王、源光長・光経父子などが戦死、御所に火が放たれた。逃げようとした後白河法皇は捕まり五条東洞院の摂政邸に、また後鳥羽天皇も幽閉される。五条河原には源光長らの首が晒された。
◆2つの三十三間堂 平安時代、1132年に平忠盛(1096-1153)は、岡崎徳成町付近に得長寿院(とくじょうじゅいん/とくちょうじゅいん)を建立した。鳥羽上皇(1103-1156)の御願寺だった。白河南殿の東に千体観音堂(三十三間堂)が建てられ、1001体の十一面観音、等身聖観音千体が安置された。
 当時、三十三間堂は蓮華王院(三十三間堂)とともに二つ存在した。後白河院は、父・鳥羽上皇の得長寿院三十三間堂を参考にして蓮華王院(三十三間堂)を建立したという。1185年、得長寿院は地震により倒壊し、以後廃絶した。2つの三十三間堂は21年間に渡り並存した。
◆方広寺遺構 安土・桃山時代、1586年の豊臣秀吉による方広寺の建立の際、寺は方広寺の山内寺院として取り込まれた。
 「南大門」(重文)は、豊臣秀頼が安土・桃山時代、1600年に建立し、大仏殿の真南に建てられていた。
 「西大門」は、南大門と同じ様式になる。恭明宮の地にあった。近代、1895年に京都国立博物館用地になり、東寺の南大門として移された。(別項参照)
 「太閤塀(築地塀)」は、秀吉の寄進による。南大門と共に方広寺の遺構になる。太閤塀は、江戸時代、1588年頃、また、1660年頃までに築造されたとみられている。南大門から西に92m現存している。かつては、境内の南と西に造られ、安土・桃山時代、1595年に完成した大仏殿と蓮華王院を一体化させる目的があった。丸瓦に太閤桐の文様がある。土塀、本瓦葺。
◆庭園 江戸時代中期、杜若の名所だったとみられている。鎌倉時代作庭の石立ての池泉がある。
◆通し矢 通し矢は、本堂西の広縁で行われた。錬士(競技者)は南端に坐し、北に向かって放射した。広縁は高低5m、幅2.34m(切目長押まで2.34m)、地垂木までの高さ(4.94m-5.06m)あり、111.9m先の大幣束を的として射た。
 鎌倉時代、正月の「射礼(じゃらい)」が起源という。室町時代末期に始まったともいう。安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、新熊野観音寺別当・梅坊(梛坊<なぎのぼう>とも)という僧が、八坂の青塚(東山区高台寺西野の古墳)にあった的場の帰りに、当院の後堂で矢を射た堂通しが始まりともいう。
 安土・桃山時代-江戸時代の慶弔年間(1596-1615)、各藩の弓術家により本堂の軒下(約120m)で矢を射る「通し矢(大矢数)」が行われた。これらは、的に当てることを目的とせず、矢数を競った。1606年正月18日、浅岡平兵衛が51本の通し矢を行う。貞享年間(1661-1688)、尾張藩士の星野勘左衛門は、通し矢で6600本を射て「天下一」「惣一」になる。1668年、紀州の葛西園右衛門は、矢数9000本、通し矢7000余本を射て「惣一」を奪った。1669年、星野は総矢数10542中8008本を射通し、再び「天下一」「惣一」を奪還した。1686年、紀州藩の和佐大八郎は、総矢数13053本中、通し矢数8133本を打ち立てた。 1842年、京都所司代・勤番侍・石崎長久が矢数6100本、通し矢4457本を射て「天下一」になる。近代、1895年、石崎の高弟・若林素行が通し矢4457本を射た。その後、行われていない。
 競技の種類としては、矢数を決めて的中率を争う「百射(ひゃくい)」、「千射(せんい)」、元服前の男児が射る射程距離を堂の半分(60m)縮めた「半堂射(百射、千射)」、昼間に行う「小矢数(こやかず)」、初夏に夕刻(暮六つ、午後6時)から一昼夜をかけて通る数を競う「大矢数(おおやかず)」などがあった。的場の検見所で矢の当否を確認し、検証人が検じ、矢数帳に記録した。検証した「堂見(どうみ)」は6人おり、弓術六流より1人ずつを選んだ。当日は2人が担い、射手と同流の者1人、他流の者1人が担当した。「検見(けみ)」は、記録証判を行い、妙法院坊官・松井三河1人が担った。
 通し矢は、晴れた日に行われた。夜通し行われた大矢数では、大篝火が焚かれ、多くの幟が立てられた。役人が立ち、火消役が纏を振るった。観衆は堂西の竹矢来の外にあり、武士は桟敷席に、庶民は土間に座して見物した。
 射手は後に矢数、国名、姓名、年齢、年月などを記した扁額を奉納した。これらの額は現在も外陣の長押上に掲額されている。破られた額は撤去されている。江戸時代中期以降、三十三間堂での大矢数は行われなくなる。
 江戸時代には、三十三間堂で400回の通し矢の競技が行われている。このため、堂を矢から保護するために外壁、垂木、柱に鉄板を張りつけた。現在、外縁の鎧板などにその時の弓筈痕が残る。
 江戸時代、1642年、三十三間堂を模倣し、江戸浅草にも三十三間堂が建てられ通し矢が行われた。その焼失後、規模縮小して深川に再建、再再建された。1872年に廃止される。また、奈良・東大寺西回廊でも行われ、1842年には挙母藩士・安藤早太郎(後の新撰組隊士)が大矢数を行っている。
◆矢数俳諧 江戸時代、「矢数俳諧(やかずはいかい)」が行われた。蓮華王院三十三間堂で行われていた矢数(通し矢)の武技に倣い、一昼夜24時間内にできるだけ数多くの句数を詠み競った。
 江戸時代、1677年、井原西鶴は三十三間堂の通し矢の相次ぐ記録更新に刺激され、1日1600句の独吟「西鶴俳諧大句数(おおくかず)」、1680年に4000句の独吟「西鶴大矢数(おおやかず)」を成就した。
大火 蓮華王院は、平安時代、1183年の法住寺合戦でも奇跡的に焼けなかった。だが、鎌倉時代、1249年の建長の大火により焼失する。
 以後、南北朝時代の混乱期、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)、江戸時代末の禁門の変(1864)でも焼失していない。
◆柳・頭痛 柳、頭痛にまつわる伝承がある。江戸時代の浄瑠璃「三十三間堂棟木由来」、『都名所図会』より、柳の棟木、頭痛平癒の民間信仰が広まった。
 後白河法皇は頭痛持ちで苦しめられていた。熊野御幸の際に、頭痛平癒を祈願すると夢告があり熊野権現が現れた。京都の因幡堂に天竺より来たという医者がいるので、治療を受けるように告げられた。法皇は因幡堂に参籠し祈願すると、満願の夜に一人の僧が現れる。法皇の前世は、熊野の蓮華坊という修行僧であり、全国行脚して仏道修行を積んだという。その髑髏(どくろ)がいまも熊野岩田川の水底に沈んでいる。髑髏を貫き柳の大木が生えているために、頭痛の原因になっている。そのため、風に当たっても頭痛がする。その髑髏を川より上げるようにと忠言した。香水が法皇の頭に注がれ目が覚めた。法皇が川底を探させると、確かに髑髏が見つかる。その髑髏は観音像の頭に納めて祀り、柳の大木は棟木として蓮華王院本堂建立の際の用材に使った。蓮華王院の名は、前身の蓮華坊に因んで名づけられる。以後、法皇の頭痛は解消されたという。これが、柳のお加持の由来になったという。(『因幡堂縁起』)
 実際には、柳は棟木として使われていない。なお、柳(学名サリックス・アルバ)の樹皮や葉には、サルチル酸の成分(酵素サルチルシン)が含まれ、抗炎症作用、解熱、鎮静作用がある。
 伝承は、1760年の浄瑠璃、若竹「三十三間堂平太郎延喜祇園女御九重錦」に始まる。好評のため、1825年に「園女御九重錦」として単独上演された。この浄瑠璃話を受け、1780年の『都名所図会』にも脚色されて記されている。
◆醴泉・夜泣地蔵 手水舎には夜泣泉が湧水し、傍らに江戸時代作の石造「大日如来坐像像」が安置されている。
 平安時代、1165年、第79代・六条天皇の頃(在位1165-1168)とも、堂僧・承仕(しょうじ)に夢告があった。それに従い、境内堂背後の築山より湧く「醴泉(れいせん)」を発見したという。(『古今著聞集』巻2)
 また、夜に湧水する音が、あたかも人がすすり泣くように聞こえたという。このたため「夜泣き泉(よなきせん/よなきのいずみ)」といわれた。また、井戸は夜に振動して鳴いたため、ある時、傍に地蔵尊を安置すると鳴き声がやむ。以来、「夜泣地蔵」と呼ばれた。子どもの夜泣きを止めるとの信仰も生まれる。1961年、境内の整備に伴い井筒とともに現在地に遷された。
 水はいつも冷たく美味しく、いくら飲んでも腹を痛めないという。地蔵尊の前掛けを持ち帰り、子どもの枕に敷くと夜泣きも治るともいわれた。
◆不思議 三十三間堂、周辺に伝わる不思議がある。 
 「棟木の柳」/「夜泣きの井」/「頭痛山平癒寺」/「醴泉」/「通し矢」/法住寺の「親鸞蕎麦喰木像」/法住寺の「長石手水鉢」/養源院の「血天井」/養源院の「名木楊梅」/養源院の俵屋宗達筆「飛び越え見返りの獅子」。
◆文芸 江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作者の井原西鶴(1642-1693)は、1677年に大坂生玉の本覚寺において大句数を行う。一日一夜で1600句を独吟した。以後、「俳諧大矢数」といわれた。1680年、4000句を成就した。さらに、1684年に23500句を打ち立てた。
 大阪で初演された並木五瓶の「けいせい倭荘子」は、大矢数の和佐大八郎を敵役にした芝居になる。吉川英治『宮本武蔵』では、三十三間堂で武蔵が吉岡一門と決闘し、勝利をおさめる設定になっている。
◆坂本龍馬 幕末期、坂本龍馬(1836-1867)は、南大門付近の河原屋五兵衛(瓦町)の隠居所に住んでいたという。土佐の北添估摩(きつま)ら5、6人と住んだ。この家で、お龍と出遭ったという。(北添估摩の手紙、お龍の回想録)
◆碑 法然塔がある。鎌倉時代、1204年、法然は土御門天皇の請いにより、後白河法皇十三回忌法要を行っている。
◆映画 時代劇映画「三十三間堂通し矢物語」(監督・成瀬巳喜男、1945年、東宝)の撮影が行われた。
 時代劇映画「宮本武蔵一乗寺の決闘」(監督・内田吐夢、1964年、東映京都)で、武蔵(中村錦之助)は吉岡伝七郎(平幹二郎)と刃を交える。
◆太閤椿 
「太閤椿(たいこうつばき)」は、境内に植えられている。武将・加藤清正(1562-1611)が豊臣秀吉に献上したものという。「大盃」といわれ、4月大輪の花をつける。
◆通し矢的(まと)大会 通し矢的(まと)大会(1月15日頃)では、弓道をたしなむ新成人などが、本堂西側の射程60mの射場で、弓の引き初めを行うが催される。
 当日は、参拝者に柳の枝でお加持の浄水を注ぎ、功徳が分け与えられる。
◆楊枝加持 「楊枝加持(ようじかじ、楊枝浄水供)」(1月9日-15日)は、本尊前で修される。妙法院門主による導師が千手観音念誦法の後、閼伽水(香水)をつけた柳の枝で参詣者の頭に水をつける。この浄水は7日間加持祈祷している。これにより、一年間は頭痛を持たず無病息災になるとされている。
 これは、法住寺殿の後白河法皇が頭痛に悩まされていたのは、法皇が前世、熊野詣の帰りに亡くなり、頭蓋骨を貫き柳の木が生えたことに起因するとされた。(別項参照)
◆年間行事 通し矢的(まと)大会(1月15日頃)、楊枝加持(楊枝浄水供)」(1月9日-15日)、節分会(2月節分)、久勢稲荷初午祭採灯大護摩法要(2月11日)、春桃会(3月3日)、春季彼岸会法要・特別塔婆回向(春分の前後1週間)、花祭り(灌仏会、4月8日)、後白河法皇聖忌法要(妙法院門主により曼荼羅供が奉修される)(5月3日)、地蔵盆(8月23日)、秋季彼岸会法要・特別塔婆回向(9月秋分を含む前後1週間)、久勢稲荷お火焚祭(11月中旬の日曜日)。
 大般若経輪読会(毎月17日)、法要(毎月1日、14日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*「上皇」は、皇位を退いた天皇の尊称。「法皇」は出家した上皇。
建物内の撮影禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『国宝 三十三間堂』『古寺巡礼 京都 18 妙法院・三十三間堂』『旧版 古寺巡礼 京都 14 妙法院/三十三間堂』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 中』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『京都の寺社505を歩く 上』『洛中洛外』『国宝への旅 1』『仏像』『京都の仏像』『古都の美をめぐる』『京都の仏像 入門』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『社寺』『国宝への旅 1』『院政期の京都 白河と鳥羽』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『日本映画と京都』『京都絵になる風景』『京の寺 不思議見聞録』『京の怪談と七不思議』『週刊 古寺を巡る 26 妙法院 三十三間堂』『週刊 古寺名刹巡拝の旅 32 東山京都』『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』『週刊 日本の仏像 第2号 三十三間堂』『週刊 京都を歩く 25 東山 1』


  方広寺      法住寺     妙法院      七条大橋     祇園女御の墓      三条東殿跡        

久勢稲荷大明神
 

久勢稲荷大明神

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久勢稲荷大明神
 
久勢稲荷大明神

久勢稲荷大明神

久勢稲荷大明神

久勢稲荷大明神

通し矢

宝篋印塔

【参照】「此の付近 坂本竜馬 北添佶摩 など土佐志士寓居跡・大仏(方広寺)旧境内南限」という石標、三十三間堂の南大門東
   
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 三十三間堂  〒605-0941 京都市東山区三十三間堂廻町657  075-561-0467
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