鴨川公園 (葵公園)
Kamogawa Park

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賀茂大橋から北方向の眺め。左は賀茂川・出町橋、右は高野川・河合橋。二川はこの三角州地点で合流し、鴨川となる。
中央が鴨川公園、その奥に河合神社、下鴨神社、糺の森、後方遠景は北山山系。高野川の奥に五山送り火の「妙法」が見える。




葵公園


東方向、比叡山、葵公園、鴨川


 鴨川公園(かもがわこうえん)は、西より鴨川と東より高野川が交流する地点、三角州の北に位置している。その北には下鴨神社の糺の森が広がる。
◆鴨川 鴨川の流域面積は2000.7㎡、その7割が山地であり、総延長は23㎞、淀川水系(10水系、232河川)の一級河川(指定区間)になっており、京都府知事が管理者になる。
 一般的に、鴨川の源流部は鴨川支流の祖父谷川の源流、桟敷ヶ岳(北区)東とされる。厳密に鴨川「起点」は、雲ヶ畑中津川町付近(京都市北区)にある。
 この葵公園を中心に、上流部の柊野より下流の三条にかけては、鴨川公園として整備・管理されている。
◆公園 公園は、鴨川大洪水(1935)後に進められた河川改修工事後、1970年に完成した。高水敷が整備され、木立、芝生地、運動広場、散策路、児童広場、ジョギングロードなどが設けられている。堤防にはムクノキ、エノキ、ケヤキ、アキニレ、センダンなどの巨木のほか、サクラ、マツ、カエデ、ヤナギなどの植栽の並木があり、北山、東山の景観とあいまった親水公園になる。
 公園は、鴨川と高野川の合流する鴨川随一の景勝地の三角州にある。この地点は、二つの河川の上流部より流れてきた砂などが堆積し、カスプ状(尖状)三角州を形成している。三角州には、家庭裁判所、河合神社、下鴨神社と糺の森などが広がる。この付近からは、東山連峰、比叡山、北山、五山送り火の「大文字」「法」、高野川などを望むことができる。
◆糺の森 糺の森は12万4千㎡あり、国の史跡に指定されている。古代山背原野にあった原生樹林と同じ植生がいまも残る、都市の中の貴重な森になる。糺の語源として、「直澄」(ただす)、「只州」、河合神社の祭神玉依姫玉から「多々須」とする説などがある。「河合(ただす)の森」ともいわれた。
 森では平安時代に、七瀬の霊場として禊祓が行われ、王朝歌人の諷詠の地になった。中世以降は戦場にもなる。勧進猿楽の興行も行われた。近世では夏場に、「糺の納涼(すずみ)」と呼ばれる床が御手洗川に出され、庶民の憩いの場に変わった。
 付近の糺河原では、鎌倉時代、1353年、疫病が流行った際に、河原に84000基の石塔が建てられ、平癒祈願された。室町時代には能が催されている。1464年の鞍馬寺勧進能には、足利義政、日野富子も参列した。江戸時代、1645年、干菜山光福寺の八幡宮再建のための勧進相撲が催されている。
◆お土居  付近の出町橋の西岸には、豊臣秀吉によるお土居が築かれ、出入り口が設けられていた。川岸には、堤防の強化をするために柳が植えられた。高野川の東岸付近には、柳にちなんで「柳の茶屋」が店を開いていた。
◆寒天工場 近代、1873年、東京遷都後の京都の復興策として、この地で寒天工場が操業した。冬場の寒冷を利用し、若狭のテングサを材料とし、一時は輸出もされていた。工場はその後移転した。 
◆下加茂撮影所 1923年9月の関東大震災により、松竹の東京蒲田撮影所は被災する。このため急遽、撮影所は下鴨の松竹キネマ社長・白井信太郎の別荘に移転することになる。松竹下加茂撮影所(松竹京都撮影所)と呼ばれ、監督、俳優も次々に入洛した。撮影も開始され「大地は怒る」など震災映画3本が完成した。
 1924年7月、撮影所が竣工した。1925年、一時閉鎖になる。1926年、松竹京都撮影所と改称した。1932年、トーキースタジオが完成する。
 撮影所では、阪東妻三郎、衣笠貞之助らが製作し、田中絹代、林長二郎(後の長谷川一夫)、高田浩吉、市川右太衛門らが活躍した。
 1950年、撮影所はフィルム倉庫が火災になる。京都映画株式会社に譲渡され、映画の撮影拠点は太秦に移る。1974年、京都映画も太秦へ移転した。
◆映画 葵公園内には、「目玉の松ちゃん」と親しまれた「日本最古の映画スター」、尾上松之助(1875-1926、中村鶴三)の銅像が立つ。1966年に蜷川虎三の提案により立てられた。「松之助出世長屋」(南区)が市民に払い下げになるにともなうものだった。
 鴨川は映画撮影にも使われた。「死に面して」(監督・大久保忠素、1923年、松竹)、現代劇映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」(監督・山田洋次、第29作、1982年、松竹)では、三角州で寅(渥美清)が露天を開く場面がある。鴨川畔で陶芸家の老人(13世・片岡仁左衛門)に出会う。葵祭も紹介されている。
 現代劇映画「パッチギ!」(監督・井筒和幸、2004年、シネカノンなど)では、1968年の京都が舞台になった。クライマックスの府高と朝高生徒による乱闘場面では、三角州付近が舞台になった。
 現代劇映画「二人日和」(監督・野村惠一、2004年、野村企画)では、神祇装束司・黒田玄(栗塚旭)と難病で車椅子に乗る妻・千恵(藤村志保)が鴨川を散策する。
尾上松之助 映画俳優・尾上松之助(おのえ まつのすけ、1875-1926)。岡山県生まれ。6歳で初舞台を踏む。岡山環翠高等科卒後、呉服屋に奉公、15歳で兵庫弁天座の浅尾與作一座に加わる。1899年神戸朝日座の主任。1904年2代目・尾上松之助を襲名。この頃、牧野省三の千本座に出演する。1904年大阪八千代座の実川延童一座に加わり、1906年天満座、1909年千本座の座付俳優、座頭となった。横田商会製作、牧野監督の「碁盤忠信 源氏礎」に初出演した。1912年横田商会が合併して日活となり、牧野と共に日活関西撮影所へ移る。牧野と対立した。1921年日活大将軍撮影所所長に就任する。1925年「荒木又右衛門」は大ヒットする。日本初の映画スターといわれ、生涯1000本以上の映画に出演、「目玉の松ちゃん」と親しまれた。晩年は慈善活動に貢献した。
 大将軍撮影所への葬列沿道では20万人の市民が見送った。墓所は等持院にある。1966年鴨川公園内に胸像が建立された。
◆ホタル 下鴨神社・糺の森を流れる泉川などでは、近年、ゲンジボタルの放生が行なわれている。また、泉川の流れ込む鴨川、高野川の出町柳付近、さらに上流でも、わずかながらホタルの生息が確認されるようになっている。
 


*参考文献 『シネマの京都をたどる』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都絵になる風景』『京都の映画80年の歩み』


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人工の小川、右は賀茂大橋

鴨川と高野川の合流する三角州周辺は、さまざまなコンサートや催しの会場になる。

賀茂川に架かる出町橋、大文字山
出町橋は、葵祭の祭列が通る橋
であり、橋の上からは北山の見晴らしがきく。

高野川にかかる河合橋京都大学築学教授だった武田吾一のデザインによる。橋の上からは五山送り火の「法」が望める。



尾上松之助像、鴨川公園内

千鳥の名所碑、鴨川公園内、「その昔、ここら千鳥の名所かな」藤本武治(鴨川を美しくする会初代会長)。かつて、付近には鴨川千鳥(イカルチドリ)が群舞していた。

寒天工場跡の碑、御蔭通、1873年、寒天製造工場が操業した。その後、周辺の工場による煤煙公害により、
1910年に亀岡に移転した。1877年、明治天皇がこの工場を訪れた際の記念碑が立つ。

奥が糺の森を流れてきた泉川、葵公園内で、左の鴨川と右の高野川へ分流している。

下鴨神社から流れている泉川、葵公園を流れているこの水路は、高野川に合流している。

糺の森を経て、鴨川に注いでいる泉川の終点

高野川に注いでいる泉川の終点

鴨川ではいまも、映画、テレビ番組のロケが頻繁に行われている。

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 葵公園 京都市左京区下鴨宮河町

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