妙心寺 (京都市右京区) 
Myoshin-ji Temple
妙心寺 妙心寺
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南総門(重文)


南総門


南総門


南総門


勅使門(重文)


北総門(重文)


寺紋


方丈池、泮(はん)池といわれる左右対称の池に反りのある桁行形式の石橋が架かる。俗世から聖地に入る境界を意味する。





伽藍は南北にほぼ一直線に建っている。



三門(山門、重文)





三門


三門、山廊




浴室(重文)


浴室


浴室内部
屋根に唐破風がある浴槽、洗場、床の板間より蒸気が上る蒸し風呂。



浴鐘楼


井戸


「四派の松」、三門と仏殿の間に植られている。妙心寺四派、龍泉派、東海派、霊雲派、聖沢派を象徴する。


仏殿(重文)


仏殿、扁額「祈祷」


仏殿、内部は中央に須弥壇、左右に脇仏壇が作られている。須弥壇に右手を挙げた拈華(ねんげ)微笑の本尊・釈迦如来坐像を安置する。結跏趺坐、左手に蓮華の蕾、右手はそれを支える。猷通寺寄進による。脇侍は阿難・迦葉(かしょう)両尊者の像を安置する。安土・桃山時代、1582年頃造仏。雪牛和尚寄進による。


鐘楼


経蔵(重文)


経蔵、扁額「毘盧蔵(びるぞう)」、鎌倉時代、第92代・伏見天皇の宸筆(しんぴつ)という。


法堂(はっとう)(重文)


法堂の鏡天井に狩野探幽(1602-1674)作の「雲龍図」(重文)。説明板より


仏殿と法堂とつなぐ廊下


廊下


法堂と寝堂を結ぶ廊下


境内の石畳






法堂


法堂、御所、南東を向いた側の法堂などの鬼瓦は、鬼ではなく、龍となっている。火伏せの意味もある。


法堂


雪江の松


鐘楼


梵鐘(国宝)の復原


鐘楼


梵鐘


寝堂(前方丈、礼間)(重文)




大庫裏(重文)、右下に韋駄天堂


大方丈(重文)唐門(真前唐門)


大方丈の玄関(重文)




大方丈(重文)


大方丈、扁額「方丈」は宋の張即之(1186-1266)の書による。 


大方丈、仏間、室中がある。障壁画は江戸時代、1655年の狩野探幽、狩野洞雲(采女、益信、1625-1694)筆。


東海庵、書院庭園がある。(非公開)


東海庵、江戸時代前期に建てられた方丈、書院、庫裏、鐘楼がある。狩野元信筆「瀟湘八景図」(重文)、元時代の十六羅漢像(重文)がある。




小方丈


小方丈


参道、境内内外に多くの塔頭が建ち並んでいる。



微妙殿
 双ヶ丘の東、衣笠(きぬがさ)山の南に位置する妙心寺(みょうしんじ)は、山号を正法山(しょうぼうざん)、法山ともいう。
 豊かな自然環境のため、「西の御所」と呼ばれている。境内は10万坪(13万坪とも、33万㎡、東西500m、南北619m)の広大な敷地を有する。京童の囃子言葉では「妙心寺の算盤面」といわれた。
 全国に3400の末寺を持つ臨済宗妙心寺派の大本山であり、臨済宗14派の中でも最大の教団(全体の6割)を形成する。境内、境外には48の塔頭(子院)がある。このうち、山内塔頭は38院、境外塔頭は龍安寺を含め10院ある。
 臨済宗妙心寺派の大本山。本尊は釈迦如来像。
◆歴史年表 鎌倉時代、かつてこの地には、花園上皇(第95代、1297-1348)の離宮「萩原殿」(「萩原御所」「仁和寺花園御所」)が営まれていた。
 南北朝時代、1335年、上皇は譲位後落飾し、禅寺に改める。
 1337年、1335年、1338年、少なくとも1342年以前とも、花園法皇は美濃山中より関山慧玄(かんざん えげん)を招いて開山する。(『正法山妙心禅寺記』『開山国師別伝』『妙心寺六百年史』『祖伝考彙』・『六祖伝別考』)。山号寺号の由来は、慧玄の師・大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)の拈華微笑の逸話から「正法山妙心寺」と命名された。釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」より採られている。法皇は、玉鳳院を建て、慧玄に参禅している。当初は大徳寺末寺だったという。
 1342年、花園法皇は仁和寺花園御所跡を禅苑とし、関山慧玄に管領させた。(「院宣」・「妙心寺文書」)。妙心寺が開創になる。
 1347年、花園法皇は死の前年、寺の造営を願う宸翰をしたためる。(「往年の宸翰」・「玉鳳院文書」)
 1351年、光厳上皇(北朝初代)の院宣により関山慧玄が帰山する。
 1360年、関山慧玄が亡くなり、開山堂(微笑庵)に祀られた。
 室町時代、1398年、室町幕府3代将軍・足利義満の祈願所になっている。 
 1399年、義満への謀反「応永の乱(大内義弘の乱)」が起る。住持の拙堂宗朴が乱に関与した守護大名・大内義弘と師壇関係があったことから、義満の怒りを買う。宗朴は、その後も義弘との関係を解消しなかった。このため、宗朴は青蓮院に幽閉の身になる。寺領・寺地は、青蓮院の義円、南禅寺の徳雲院・廷用宗器(ていよう そうき)に移された。廷用は寺名を龍雲寺と改め、徳雲院付属とし妙心寺は中絶した。
 室町時代、妙心寺は大徳寺とともに、在野の寺院、「林下(りんか)」の代表とされた。
 1432年、永亨年間(1429-1441)とも、南禅寺・延用宗器より根外宗利に寺領が返還されている。尾張犬山・瑞泉寺から入寺した後の7世・日峰宗舜は、管領・細川持之の外護により開山堂を再興し、中興の祖になった。方丈、開山堂の微笑堂を復興した。
 文安年間(1444-1449)、8代将軍・足利義政により寺領が寄付されている。
 1448年、細川持之は養源院(日峰塔所)を建立した。
 1450年、細川勝元は龍安寺を建立する。
 1462年、雪江宗深は、妙心寺、龍安寺住持になる。妙心寺の再中興開山になる。
 1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)で多くの堂塔を焼失した。
 1476年、会計簿(米銭納下帳、日単簿)が作成され、財政の立て直しが行われる。
 1477年、第103代・後土御門天皇の勅により、雪江宗深、細川勝元・政元親子らの援助で再興される。(「妙心寺文書」)。方丈が上棟される。
 1480年、細川政元は衡梅院(雪江塔所)を建立した。
 1481年、細川政元は四派の一つ龍泉庵を建立する。
 1484年、利貞尼は境内地を寄進し、四派の一つ東海庵を建立した。
 1486年、細川政元は妙心寺を再興する。
 永正年間(1504-1521)、17世・鄧林宗棟の時、大徳寺より独立している。(「妙心寺文書」・「正法山誌」)
 1507年、鄧林宗棟は、勅許により、奉勅入寺式を挙行した。妙心寺の大徳寺からの独立を意味した。細川澄元の軍勢がこれを警護した。
 1509年、第104代・後柏原天皇の綸旨により、独立本山し、紫衣勅許の禅寺、大徳寺と同格の寺になる。鄧林宗棟が住し、奉勅入寺の制が始まるともいう。妙心寺と大徳寺は絶交する。
 美濃加茂城主・斎藤利国の妻の利貞尼が、仁和寺真乗院領の土地を買い求め、妙心寺に寄進、境内は3倍に広がる。賦課金制度が始まる。(「妙心寺文書」)
 1516年、大休が住した。
 1523年、塔頭の龍泉庵、東海庵に加え、四派の一つ聖澤院が土岐氏により創建される。
 1526年、四派の一つ霊雲院が創建された。これにより、「四派四本庵」による運営体制が確立した。
 1528年、焼失している。その後、伽藍再興が続いた。大庫裏が建てられた。
 1537年、開山堂が建てられる。
 安土・桃山時代、1574年、滝川一益により瑞松院が創建される。
 1575年、津川義近により衡陽院(後の太嶺院)が創建された。
 1576年、金台院が創建される。
 1578年、妙心寺壁書(法規)が制定された。南化、鉄山らが連署する。
 1579年、通玄院が創建される。
 1581年、滝川一益により長興院が創建された。
 1583年、古仏殿、法堂が建立される。石河伊賀守光重により養徳院が創建される。牧村利貞により雑華院が創建された。
 1584年、池田信輝により龍福院が創建される。
 1586年、一柳直末により大通院が創建される。
 1587年、浴室(明智風呂)が建立された。
 1588年、法堂(兼仏殿)南北の廊下が建設される。
 1590年、堀尾喜治により春光院が創建された。
 1591年、豊臣秀吉の跡継ぎ・棄て丸(鶴松)の葬儀に際して、51世・直指宗諤が執り行う。初七日法要は、祥雲寺58世・南化玄興による。
 1593年、池田輝政により盛嶽院が創建される。
 1595年、石田三成により寿聖院が創建された。
 1597年、稲葉貞通は智勝院を開創した。
 1599年、三門が建立される。脇坂安治は麟華院を創建した。
 江戸時代、1610年、勅使門が建立される。
 1613年、幕府は大徳寺・妙心寺法度を制定する。
 1614年、方広寺大仏殿の鐘銘事件により、105世・海山元珠(祥雲寺住持)ただ一人が豊臣家を弁護する。
 1615年、徳川家康の怒りを買った妙心寺は、幕府の厳しい規制の下に置かれ、「妙心寺法度」を押し付けられた。これに対して、単伝士印、東源慧、同様の法度を出された大徳寺の澤庵宗彭、玉室宗珀、江月宗玩らが抗議した。1632年まで続く。
 1627年、幕府は抗議した4人の僧に対して弾圧を加えた紫衣(しえ)事件が起きる。春日局の融和作はあったが、単伝は陸奥国由利、東源は津軽に流罪になる。第108代・後水尾天皇は譲位している。
 その後、諸大名の帰依により、伽藍の再建、整備が進められた。
 1628年、幕府は大徳寺・妙心寺の出世を禁じる。愚妙が住する。
 1639年、春日局により浴鐘楼が建立された。
 1640年、大徳寺・妙心寺の出世住山が許可される。
 1653年、大庫裏が改造される。
 1654年頃、現在の大方丈、庫裏、寝堂など現在の伽藍が再建される。
 1655年、妙心寺の龍渓(性潜)らによる黄檗宗の開祖・隠元隆琦の妙心寺住持就任は、愚堂東寔、大愚宗築らにより成功しなかった。
 1656年、玉鳳院を改築する。法堂、現在の浴室が完成する。唯一の門跡寺院の大和・円照寺が開創された。
 1658年、1657年とも、愚堂の時、法堂が建立されたともいう。
 1672年、盤珪が出世する。
 1674年、経堂が建立される。
 1830年、1827年とも、現在の仏殿が建立される。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により混乱する。幕末に100あまりあった塔頭は半減した。
 1872年、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗が禅宗として統一される。その後、臨済宗、曹洞宗が分離する。
 1876年、関無学の時、臨済宗妙心寺派として独立する。
 1878年、僧堂(天授院)が開かれる。
 1885年、妙心寺派憲章が政府の許可を得て成立する。
 1886年、大教校(花園大学の前身)が開校する。
 現代、1962年、大衆禅堂を開く。浴鐘楼が焼失する。
 1981年、微妙殿が建立された。
宗峰妙超 鎌倉時代末期-南北朝時代の大徳寺開山・宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう、1282-1338)。播州に生まれた。11歳で書写山円教寺の戒信律師に学ぶ。鎌倉の万寿寺で夢窓疎石の師・高峰顕日に禅を学び、宋から帰国した南浦紹明(大応国師)に師事し、26歳の時に印可を受けた。1309年、東山の雲居庵で隠棲し、五条大橋の下で寝起きしたという。1315年頃、洛北の紫野の大徳庵(大徳寺とも)に住む。1325年、清涼殿での正中の宗論に侍者として参席し、諸宗派を論破している。第96代・後醍醐天皇、第95代・花園天皇が帰依し、それぞれより正燈高照国師(1333)、興禅大燈国師(1337)の号を贈られた。
 門派の中からは後に一休、沢庵などが出ている。
◆関山慧玄 鎌倉時代-室町時代の臨済宗の僧・関山慧玄(かんざん えげん、1277-1360)。無相大師。信濃に生まれた。1307年、鎌倉の建長寺で東伝士啓により受戒、建長寺の南浦紹明(大応国師)に師事し、慧眼という僧名を授けられた。その後、大徳寺の宗峰妙超(大灯国師)門弟となり、印可(許可)を得た。1330年、美濃国に退き、草庵に隠棲する。1337年、病となった妙超は、第95代・花園天皇の求めに応じ、後継に慧玄を推挙した。慧玄は当初固辞するが、やがて応じ妙心寺開山として迎えられた。
 最期は、旅に出るといい旅装束姿で風水泉近くの大樹にもたれ、弟子の授翁宗弼(そうひつ)に不立文字(ふりゅうもんじ)、教外(きょうげ)別伝の「応燈関一流」の禅の由来を諭し、行脚姿で立ったまま亡くなったという。遺骸は艮(北東)隅に葬られ、微笑塔が建てられた。後に微笑庵と称し、開山堂になった。
◆花園天皇 鎌倉時代の第95代・花園天皇(はなぞの てんのう、1297-1348)。第92代・伏見天皇の皇子。後伏見天皇の異母弟。持明院統。大覚寺統の第94代・後二条天皇の後、12歳で即位した。だが、父・伏見上皇、続いて兄・後伏見上皇(第93代)の院政下に置かれた。鎌倉幕府の大覚寺統と持明院統の迭立案(文保の和談)は不調になる。大覚寺統の尊治親王(第96代・後醍醐天皇)に譲位した。
 退位後は北朝初代・光厳天皇の養育を行う。信心深く、1335年円観により出家、遍行と称した。宗峰妙超、関山慧玄に帰依した。妙心寺境内に玉鳳院を建て、毎日参禅したという。歌人として秀で、京極派の一人。
拙堂宗朴 室町時代の僧で妙心寺6世住持の拙堂宗朴(せつどう そうぼく、生没年不詳)。かつては河内の観音寺に住した。1399年、室町幕府3代将軍・足利義満に謀反を起こした応永の乱の大内義弘と師壇関係があったことから、義満の怒りを買う。宗朴は、その後も義弘との関係を解消しなかった。このため、宗朴は青蓮院に幽閉の身となり、寺領・寺地は、青蓮院の義円(後の6代将軍・足利義教)に与えられる。さらに、南禅寺の延用宗器(義満の叔父)の手に移された。宗器は寺名も龍雲寺と改め、南禅寺塔頭徳雲院の末寺となり、以後、妙心寺は中絶した。
◆大内義弘 南北朝時代-室町時代初期の武将・大内義弘(おおうち よしひろ、1356-1400)。もとは足利義満の忠実な家臣だった。義満は、北山第の造営にあたり、諸大名に多額の費用と人数の供出を求めた。しかし、守護大名・大内義弘だけは拒否し、義満の怒りを買う。1399年、義弘は軍を率いて和泉国堺に到り、幕府に対して反乱を起こし敗死した。
◆雪江宗深 室町時代の禅僧・雪江宗深(せっこう そうしん、1408-1486)。摂津に生まれる。建仁寺五葉庵の文瑛に学ぶ。犬山瑞泉寺の日峰宗舜に師事、師と共に妙心寺に入る。義天玄承を嗣法する。養源院に住した。1462年、龍安寺住持となる。応仁・文明の乱(1467-1477)後、妙心寺の再建を行い、中興の祖といわれる。外護者に細川勝元・政元を得る。「米銭納下帳」(1486-1885)により、寺院経営を行い、経済基盤も確立した。
 法嗣の景川宗隆、悟渓宗頓、特芳禅傑、東陽英朝が4派4本庵による教団統括運営組織の基礎を築いた。『開山行実記』『正法山妙心禅寺記』を選述した。
◆景川宗隆 室町時代の臨済宗の僧・景川宗隆(けいせん そうりゅう、1425-1500)。伊勢の人。雲谷玄祥、義天玄詔、伊勢・大樹寺の桃隠玄朔らに師事後、龍安寺で再び義天、さらに雪江宗深の法をつぐ。大徳寺、妙心寺、龍安寺の住持、大和・興雲寺、伊勢・瑞応寺、妙心寺の大心院の開山になる。犬山・瑞泉寺、丹波・竜興寺にも住した。大心院で亡くなる。諡号は本如実性禅師。弟子に春江、柏亭、景堂など。
◆悟渓宗頓 室町時代の臨済宗の僧・悟渓宗頓(ごけい そうとん、1416-1500)。尾張国に生まれる。17、18歳で犬山・瑞泉寺の日峰の下で禅の修行、その後、妙心寺・日峰、汾陽寺・雲谷玄祥、愚渓寺・義天玄詔、伊勢の大樹寺・桃隠玄朔に付く。1464年龍安寺・雪江宗深の法を嗣ぎ、悟渓の名を与えられる。1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)により帰郷する。瑞泉寺に臥龍庵を営む。1468年、守護代・斎藤妙椿(利藤)の帰依により、美濃に瑞龍寺を建立し開山(勧請開山は雪江)になる。1471年、大徳寺を経て、1481年、妙心寺11世住職になり復興の基礎を築く。草庵・東海庵を結び東海派の発祥になる。瑞龍寺に戻り、尾張余野の徳林寺開山になる。1497年、朝廷より生前の諡号・大興心宗禅師を受け、妙心寺初例になる。瑞龍寺・済北院で死去した。著作に「虎穴録」。妙心寺東海派の祖。仏徳広通国師の諡号。
◆特芳禅傑 室町時代の臨済宗の僧・特芳禅傑(どくほう ぜんけつ、1419-1506)。大寂常照禅師。尾張の人。幼少で出家、東福寺、龍安寺の義天玄詔、美濃・汾陽寺(ふんようじ)の雲谷玄祥、伊勢・大樹寺の桃隠に師事、1473年、妙心寺・雪江宗深の法をつぐ。龍安寺、丹波・竜興寺、摂津・海晴寺、妙心寺開堂、1478年、大徳寺住持。瑞泉寺、1488年、再興された龍安寺に帰り中興開山になる。1492年、丹波・竜潭寺(旧大梅寺)開山。1504年、龍安寺・西源寺で隠退する。諡号は大寂常照禅師。西源寺より出された語録に「西源特芳和尚語録」。詩文に秀でた。弟子に大休など。
◆東陽英朝 室町時代の臨済宗の僧・東陽英朝(とうよう えいちょう、1428-1504)。土岐持頼東陽英朝の子とされる。幼くして玉岫により出家、龍安寺の義天、1478年、雪江宗深の法をつぐ。1479年、丹波・竜興寺、1480年、大徳寺、1481年、竜興寺、1484年、尾張・瑞泉寺、1489年、妙心寺の住持をつとめた。帰郷して美濃・不二庵、法雲山定慧寺、瑞泉寺を経て、少林寺の開山となり、没した。『宗門正燈』を著わす。詩文に優れた。諡号は大道真源禅師。
◆日峰宗舜 室町時代前期の僧・日峰宗舜(にっぽう そうしゅん、1368-1448)。禅源大済禅師。山城国に生まれた。9歳で天竜寺本源庵・岳雲周登に学び、摂津・海清寺の無因宗因に師事した。無因の没後、1410年、美濃、尾張などの寺で大蔵経を閲した。犬山・瑞泉寺を開き、無因を開山とした。1429年、妙心寺を細川勝元の支援により中興再建する。養源院に住した。妙心寺中興の祖といわれる。勝元の支援もあり、1447年関山派として初めて大徳寺に住した。
◆鄧林宗棟 室町時代の僧・鄧林宗棟(とうりん そうとう、?-1522)。父は山名宗全の子、俗名を豊久という。養父は管領・細川勝元。勝元に嫡子はなく、妻の父・山名宗全より豊久を養子として受けた。だが、1466年、勝元に実子・政元が生まれる。勝元は豊久を廃嫡したため、豊久は出家した。鄧林宗棟と称し、後に妙心寺17世住持になった。以後、宗全と勝元の対立は、応仁・文明の乱(1467-1477)の一因になったという。
◆利貞尼 室町時代の利貞尼(りていに、1455?-1536/1537)。関白・一条兼良の娘・細姫(ほそひめ)。野間入道の娘(甘露寺親長の養女)とも。美濃の豪族・斎藤利国の妻となり、夫・利国戦死の後、妙心寺の悟渓宗頓禅師の弟子につき尼となる。1509年、遺領を投げ打ち、土地を妙心寺に寄進し、境内は3倍の広さに拡大する。境内に、大珠院、聖沢院、天授院、東海庵を寄進した。
◆海山元珠 安土・桃山時代-江戸時代の僧・海山元珠(かいざん げんじゅ、生没年未詳)。祥雲寺住持。詳細不明。弟子に鉄牛(1567-1615)。江戸時代、1614年、方広寺梵鐘銘事件の際に、五山僧の中でただ独り、徳川家康の言い掛りに対し、「愚にもつかない誤り」と発言している。
 豊臣家滅亡により、家康による豊国社、祥雲寺の破却が行われる。海山は、師・南化玄興とともに棄丸の木像を自ら背負い、妙心寺に戻ったという。寺名も、それまでの亀仙庵から雲祥院に変え、家康に無言の抵抗を続けたという。
◆海北友松
 安土・桃山時代-江戸時代の画家・海北友松(かいほう ゆうしょう、1533-1615)。海北派の始祖。近江に生まれる。父は浅井長政家臣・海北綱親の五男(三男とも)。3歳で家滅び、東福寺で出家、狩野永徳(元信とも)に絵を学ぶ。梁楷(りょうかい)など宋、元水墨画風に影響を受ける。減筆法を拓く。豊臣秀吉に認められた。40歳過ぎで還俗した。1582年、山崎の戦で敗れて処刑された友人の斎藤利三処刑後、その妻子(子はのちに徳川家光の乳母春日局)の面倒を見た。1602年頃、八条宮智仁親王、第107代・後陽成天皇の御用を受ける。作品は建仁寺本坊方丈「山水図」、妙心寺「花弁図屏風」など。
◆狩野山楽 安土・桃山時代-江戸時代初期の画家・狩野山楽(かのう さんらく、1559-1635)。近江に生まれた。父・木村永光は浅井長政の家臣。当初は長政に仕え、後に豊臣秀吉の近侍となる。秀吉の推挙で狩野永徳の門人となり、養子となり狩野氏を許された。1590年、秀吉の命により、病に倒れた師・永徳を継ぎ、東福寺法堂「蟠竜図天井画」(1881年焼失)の修復を数日で完成させる。1594年、伏見城、1597年、再建の伏見城、1604年、大坂城の千畳敷大広間の障壁画にも参加した。1615年、豊臣家滅亡で大坂城を脱出し、男山八幡宮の社僧で山楽の弟子・松花堂昭乗のもとに身を隠した。於江与(崇徳院)らの取成しにより京都に帰る。2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・家光に重用され、再建された四天王寺、大坂城本丸障壁画、妙心寺・天球院障壁画などにも加わる。代表作に正伝寺方丈、養源院の障壁画がある。
 泉涌寺に葬られた。山楽、山雪の子孫は京都に住み京狩野と呼ばれた。
◆白隠慧鶴 江戸時代中期の臨済宗の僧・白隠慧鶴(はくいん えかく、1685-1768)。臨済宗十四派の中興の祖。諡は神機独妙禅師、正宗国師。駿河国の生まれ。幼い頃より、地獄、極楽の説法に魅せられたという。1700年、15歳で駿河・松蔭寺の単嶺祖伝のもとで出家、慧鶴と名付けられた。沼津・大聖寺息道に師事した。1703年、清水・禅叢寺で修行する。雲棲しゅ宏の『禅関策進』により開眼、諸国を巡り美濃・瑞雲寺の馬翁、松山・正宗寺の逸伝、1708年、越後高田・英巌寺の性徹などに参じ、信州飯山の道鏡慧端(正受老人)の法嗣。1710年、京都の白幽子に内観法を学ぶ。ただ、白幽子と会ったことについては創作説もある。1716年(1717年とも)、松蔭寺に還る。1718年、妙心寺第一座となり白隠と号した。この時、法兄・透鱗の法嗣とした。1763年(1758年とも)、三島・龍澤寺を中興開山、1768年、松蔭寺に戻り当寺で亡くなる。墓も松蔭寺にある。
 弟子に東嶺円慈など多い。漢詩文、法話、俚謡など多く著し、書画も遺す。
◆妙心寺 山号、寺号について釈迦の逸話が関係している。
 釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で弟子達に仏法を説いた。釈迦は、黙って大梵天王から受けた金波羅華(こんぱらげ、金色の蓮花)を捻り弟子たちに見せた。摩訶迦葉(まかかしょう)のみがその意味を悟り微笑んだという。そこで、釈迦は彼だけに仏法の心理を授けた。これを「拈華微笑(ねんげみしょう)」という。「花を捻りて微笑する」、言葉を使わずに互いが理解しあう。心から心へ伝わる微妙な境地、感覚、以心伝心をいう。
 釈迦は「吾に正法眼蔵、涅槃妙心あり。摩訶迦葉に附嘱す」と続けた。正法眼蔵、涅槃妙心とは、仏法そのものを表し、法が摩訶迦葉に伝わったことを意味した。
 宗峰妙超は、花園法皇の求めに応じ、山号をこの正法眼蔵より正法山、寺号を涅槃妙心により妙心寺とした。また、花園法皇は大梵天王に、宗峰妙超自身は釈迦、関山慧玄は摩訶迦葉、そして花園離宮を金波羅華に喩えたという。
◆応燈関の法脈 花園上皇は、宗峰妙超(大燈国師)に帰依した。上皇が宗峰に妙心寺開山の推薦を願い、関山慧玄が選ばれた。宗峰の師は南浦紹明(大応国師)であることから、中世の臨済禅の三人の名から「応燈関の法脈」と呼んだ。
◆仏像・木像 仏殿中央に須弥壇、左右に脇仏壇が作られている。須弥壇に右手を挙げた拈華(ねんげ)微笑の本尊・「釈迦如来坐像」を安置する。結跏趺坐、左手に蓮華の蕾、右手はそれを支える。猷通寺寄進による。
 脇侍は「阿難」・「迦葉(かしょう)両尊者の像」を安置する。安土・桃山時代、1582年頃造仏。雪牛和尚寄進による。
 開山堂に、没後造られた「関山慧玄木像」、肖像画祀られている。開山堂内、昭堂(鳳凰昭堂)には法体姿の「花園法皇木像」が安置されている。
◆禅 B.C.5世紀、現在のネパールの釈迦は、菩提樹の下での坐禅により悟りを得た。6世紀前半、南インドの達磨大師は、これを中国に伝える。平安時代、宋より栄西は臨済宗と看話禅(公案を重視し、研究理解することで大悟に至る)を、鎌倉時代、道元は曹洞宗と黙照禅(座禅を重視し、無念無想となることにより悟りを得る)を日本に伝えた。
 臨済宗の公案禅は、師家が弟子に公案といわれる問題を出題し、坐禅の中でその答えを見出すことより悟りを得ようとした。江戸時代、臨済宗中興の祖・白隠は、公案の体系化を行っている。
◆林下 五山は、鎌倉時代、中国寺院の統制制度を導入した官寺制度をいう。妙心寺は「林下(りんか)」といわれ、これらの制度から外れていた。林下は山隣派といわれる幕府の庇護は受けず朝廷と関わり深かった妙心寺・大徳寺と、地方で勢力伸長させた曹洞宗・永平寺のふたつがあった。
 五山は十方住持制という住持就任の際に、門流に固定せず幅広く人材を採用した。これらの寺院を「十方住持刹」といった。林下は「一流相承制(徒弟院)」という門流による寺院相続を採った。だが、次第にすべての寺院が一流相了承制になった。
 室町時代、京都の禅宗のうち、幕府の庇護と統制下にあった一派(禅林、叢林)と、それとは一線を画す格下、在野の寺院(林下)があり、妙心寺は大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とした林下の代表的寺院とされた。
◆四派四本庵 室町時代、塔頭の龍泉庵(1481)、東海庵(1484)に加え、聖澤院(1523)、霊雲院(1526)が創建された。
 雪江宗深の法嗣から四派の、景川宗隆(けいせん そうりゅう、龍泉派)、悟渓宗頓(ごけい そうとん、東海派)、特芳禅傑(とくほう ぜんけつ、霊雲派)、東陽英朝(とうよう えいちょう、聖澤派)が出て、四本庵はそれぞれ龍泉庵、東海庵、霊雲院、聖澤院を拠点とした。これにより、「四派四本庵(しはしほんあん)」による運営体制が確立した。この四派により、一山の全権が掌握され、住持も決定された。
 師・雪江は4人を評し、「禅は景川、徳(福)は悟渓、寿(頌)は特芳、才は東陽」とした。
◆紫衣事件 江戸時代、1613年、徳川家康は「勅許紫衣之法度」発布により、大徳寺、妙心寺など7寺の住持に関して、勅許の前に幕府に予告することを定めた。だが、妙心寺、大徳寺は応じなかった。引き続き1615年、住持についての法度「諸宗本山諸法度(元和の法度)が出される。1626年、第108代・後水尾天皇は幕府に報告なく、妙心寺、大徳寺などの僧に紫衣着用を許可したため、幕府はそれを無効とした。1627年の「諸宗法度」により、幕府は法度の厳守を求める。1628年、大徳寺の澤庵宗彭が起草し、玉室宗珀、江月宗玩らが署名した抗弁書が京都所司代に提出された。1629年、三氏は幕府により江戸に呼び出され、藤堂高虎、以心祟伝、天海らの評議を受けた。それでも抵抗した澤庵は出羽上山藩、玉室は陸奥棚倉藩、妙心寺の単伝士印は出羽本庄藩、東源慧等は陸奥弘前藩に流罪になる。また、1615年以来、幕府の許可なく着した紫衣を剝奪した。
 この「紫衣(しえ)事件」は、高僧が着る法衣の紫衣の勅許は朝廷の権限であったものを、幕府に事前に知らせることで幕府による寺院統制を行うものだった。関わった僧は流罪にされ、後水尾天皇は譲位しこれに抗したといわれている。
◆建築 南より1610年建立の勅使門から、放生池の北に、1599年の三門、1827年の仏殿、1657年の法堂(ほっとう)、寝堂、1654年の大方丈・小方丈、1653年の大庫裏など伽藍が一直線に並ぶ禅宗大寺院の配置になっている。さらにその周辺に、浴室、経堂など七堂伽藍が建ち並んでいる。仏殿、法堂が揃う近世の遺例になる。その周囲に塔頭が配置されている。
 「北総門」(重文)は、江戸時代、1610年に建立された。西(右手)に潜り通用門がある。大工・宗知、吉次作という。薬医門、切妻造、本瓦葺。
 「南総門」(重文)は、江戸時代、1610年に建立された。右脇小間に片開きの板扉の通用門がある。大工・宗知、吉次による。薬医門、切妻造、本瓦葺。
 
「勅使門」(重文)は、江戸時代、1610年に総門として建立された。境内南、下立売通に面して建つ。かつては総門であり、南大門、南四足門と呼ばれた。板蟇股。切妻造、檜皮葺、四脚門。
 「三門(山門)」(重文)は、安土・桃山時代、1599年に建立された。棟梁は藤原家次。京都では、東福寺三門、大徳寺山門に次ぐ古い山門建築という。建物は朱色に彩色(丹塗)されている。柱は礎盤に粽。階上に桟唐戸。縁に高欄、隅に逆蓮柱。扇垂木。二階欄干の擬宝珠は茶筅の様な形をしている。二階の仏堂は5間2間あり、須弥壇には、本尊の円通大士坐像(観音菩薩)と脇侍は善財童子、月蓋(げつがい)長者、左右に十六羅漢像を安置。鏡天井に、龍図、迦陵頻伽(がりょうびんが)、天人、柱、紅梁などにも狩野権左衛門により波、雲、竜、鳳凰、飛天などが極彩色で描かれている。6月18日に二階上層で山門懺法会が行われ公開される。7月15日に階下で山門施餓鬼会が催される。楼上より、東山、大文字、左大文字、仁和寺五重塔、愛宕山などが眺望できる。5間3戸2階二重門、入母屋造、本瓦葺、高さ16m。階下左右に山廊が付く。
 
「仏殿」(重文)は、安土・桃山時代、1583年に建立された、江戸時代、1827年に改築された唐様建築になる。桟唐戸、花頭窓、板壁、貫を通す柱、扇垂木。4本の大梁の2本は仁和寺、1本は江州、1本は宇治より運ばれたという。裳階に海老虹梁、化粧屋根、敷瓦の四半敷。棟梁・神森若狭藤原勝信による。桁行3間、梁間3間、四周1間通、一重裳階付(上屋根に裳階が載る)、入母屋造、本瓦葺の禅宗様。須弥檀には本尊の釈迦如来像(拈華の釈迦像)、脇侍は後に加えられた迦葉、阿難。須弥檀の背後に祖師堂、土地堂、祠堂がある。勤行は毎日行われている。1日、15日に祝聖、釈尊降誕会、成道会、涅槃会、般若、祠堂斎。
 「仏殿」(重文)は、安土・桃山時代、1583年建立、江戸時代、1827年改築の唐様建築。桁行3間、梁間3間、四周1間通、一重裳階付(上屋根に裳階が載る)、入母屋造、本瓦葺の禅宗様。桟唐戸、花頭窓、板壁、貫を通す柱、扇垂木。4本の大梁の2本は仁和寺、1本は江州、1本は宇治より運ばれたという。裳階に海老虹梁、化粧屋根、敷瓦の四半敷。棟梁・神森若狭藤原勝信による。
 仏殿と法堂とつなぐ「廊下」は、5間1間、唐破風造、一重。江戸時代の建立による。
 
「法堂(はっとう)」(重文)は、江戸時代、1657年(1656年とも)に建立された。山内最大の建物で5間4間(裳階部分を含むと7間6間)、四周1間通、一重裳階付、入母屋造、本瓦葺、禅宗様。内部身屋は5間4間。中央に須弥壇、天蓋、後屏風、四半瓦敷の床。材は富士山ろくの欅、小屋根の大梁は日向国、淀の松。仏殿より一層大きく禅宗様(唐様)に徹した造りになっている。住職が法要儀式、法を説くところで、上堂といい須弥壇だけを設ける。年朝上堂(1月1日)、入制上堂(4月15日)、解制上堂(7月15日)、四節上堂、そのほか新住持の入寺開堂式、法要の際には、その都度それぞれの仏祖が祀られる。法会としては開山忌、花園法皇忌、達磨忌などで使用される。吉田兼好が『徒然草』のなかで、その鐘の音は「黄鐘(おうじき)調」と形容した国宝「黄鐘調の鐘」が保管されている。1973年まで、外の鐘楼に下げられ朝夕に鳴らされていたが、鐘の破損の恐れがあるため中止された。
 大方丈の「玄関」(重文)は、江戸時代、1654年に建立された。一重唐破風造、桧皮葺。桁行5間、梁行1間。
 
大方丈の「唐門(真前唐門)」は、江戸時代、1654年に建立、1806年改造された。向唐門様式。
 「大方丈」(重文)は、安土・桃山時代、1592年に建てられた前方丈を1654年に改築した。六室あり、北に裏の間。北中の間に仏間がある。近代、石清水八幡宮の奥の院から、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が勧請された。正面、両横に大広縁、落縁をまわす。桁行29.5m、梁行21.7m。一重、入母屋造、檜皮葺。
 「小方丈」(重文)は、江戸時代、1656年に玉鳳院を移築、改築された。桁行15.9m、梁行10m。一重、入母屋造、こけら葺。花園法皇は、離宮にあった「麒麟閣」に開山・関山慧玄を迎えたことから「麒麟閣」とも呼ばれている。
 開山堂「微笑庵」(重文)は、花園天皇により建立された禅堂をいう。妙心寺発祥の地になっている。天皇の離宮は禅宮御殿になっていた。室町時代初期に建てられたもので、1537年(天文年間とも、1532-1555)に東福寺より移築された。1538年に造立されたといい、山内最古の建物になる。3間4間、入母屋造、本瓦葺、一重禅宗様。花狭間唐戸、床は四半敷。室町時代作の開山・関山慧玄(無相大師尊像)の像が安置される。堂前の二基の石灯籠は、妙心寺型といわれ、竿が太く膨らんでいる。(非公開)
 開山堂内、「昭堂(鳳凰昭堂)」には法体姿の花園法皇の木像が安置されている。
 東の開山堂と西の玉鳳院は渡り廊下でつながっている。
 「玉鳳院(鳳凰禅宮)」(重文)の現在の方丈は、江戸時代、1656年に再建された。桁行18.7m、梁行10.8m。一重、入母屋造、檜皮葺。三方に広縁外の落縁に高欄、東面に階段が付いている。
 「経蔵」(重文)は、江戸時代、1673年に上棟された。1674年に竣工した。大坂の淀屋辰五郎の寄進による。回転式輪蔵は八角形回転式で、本体の八角の堂型の柱間に一切蔵経6527巻の経巻が納められている。12人の学僧が8年の歳月をかけ写経したという。四手先の組物で支えられた縁が本体を囲み、各柱が立つ。上に三手先の組物に扇垂木、八角の輪蔵下に円い縁が付き、上の八天の彫像は「八天推輪の像」が置かれる。これは、輪蔵を廻す持国・増長・広目・多聞の四天王、さらに梵天・帝釈天、密迹(みっしゃく)・金剛の二力士が描かれている。輪蔵を考案した中国南北朝時代、南梁の僧・傳大士(ふだいし)木像が安置されている。その姿は、道教の冠、儒衣、仏教の袈裟を身に着けている。傳大氏(497-569)は名を傳翕(ふきゅう)、双林大士、東陽大士とも呼ばれた。武帝と仏法を論じ、回転式の書架を考案し、字の読めない者、その時間がない者のために、輪蔵の扉を押して回すだけで読経と同じ功徳があるとした。桁行1間、梁行1間、四周1間通、一重裳階付、宝形造、本瓦葺。
 
「鐘楼」は、江戸時代、1696年に建立された。1間1間、袴腰付、切妻造、本瓦葺。
 
「浴鐘楼」は、江戸時代、1639年、春日局が寄進したものが焼失後、局の菩提寺である塔頭・麟祥院より移築された。角の斗栱(ときょう)枡組は白漆で塗られ美しい。3間2間、入母屋造、袴腰付。
 「大庫裏」(重文)は、室町時代、1528年に建立され、江戸時代、1653年に上棟(改築ともいう)、1654年竣工された。1808年にこけら葺より瓦葺に代えられる。白壁に垂直、水平の木組みが格子模様になっている。屋根上に排気用の櫓煙出しがある。唐破風屋根の迫り出した部分の韋駄天堂には、守護神・韋駄天が祀られている。内部は入口土間、板敷広間、大庫裏、小庫裏、食堂(30畳)には定朝作地蔵菩薩像を安置している。ほかに、貯蔵庫からなる。行事に際して雲水は数百人分の斎(とき、食事)を調える。妻壁に虹梁大瓶束、海老虹梁。桁行25.8m、梁行18m、一重切妻造、妻入、桟瓦葺。
 「寝堂(前方丈、礼間)」(重文)は、江戸時代、1656年に建立された。かつては、住持の接客場、後に法堂の控室になる。土壁白土仕上。鏡天井に床は四半瓦敷。南に戸口、東南端に戸口。花頭窓。3間3間、一重入母屋造、本瓦葺。 
 「浴室」(重文)は、江戸時代、1656年(1587年とも)に建立された。明智光秀の叔父、密宗和尚(塔頭・大嶺院開山、その後廃寺)が光秀の追善菩提のために建立したとされ、「明智風呂」と呼ばれている。内部は蒸風呂と洗い場になっている。現在でも使用できるという。正面に唐破風、蟇股、桟唐戸。花頭窓。桁行5間、梁行正面5間、背面3間。一重、切妻造、妻入、本瓦葺。
 
境内の石畳は、近代、1895年に、花園法皇550年遠諱(おんき)に当たり、匡道慧潭(きょうどうえたん、1808-1895)が私財を投じて境内縦横の参道に石板を敷いた。一部は自ら工事を行った。以後、雨が降っても泥濘で汚れることが無くなったという。
◆庭園 大方丈前庭は、白砂のみで構成されている。小方丈前庭は枯山水式庭園になっている。
 塔頭・玉鳳院内南側に白砂と切石の延段のみの庭がある。
 玉鳳院内北側に蓬莱式枯山水の庭園と井戸「風水泉」(史跡・名勝)(130坪)がある。苔地に、安土・桃山時時代初期の豪快な石組、滝組、蓬莱石の石組、飛石、低い植栽が見られる。江戸時代、1656年に一部改修されている。鶏足嶺は、江戸時代の作庭による。長方形の築山に景石群を配した。インドの仏蹟鶏足山に因む。鷄足嶺の麓に、織田信長・信忠、武田信玄・勝頼・信・信豊の石塔6基が立つ。井戸「風水泉」は、開山・無相大師が傍らで立ったまま入寂したという逸話がある。据えられている手水鉢の基礎は蓮葉になっている。北東に棄丸の御霊屋(棄君堂)が建てられている。(非公開)。
 小方丈には枯山水式(史跡・名勝)の庭園がある。江戸時代末期に作庭された。樹齢200年の馬酔木が植えられている。
 塔頭・東海庵には3つの庭がある。書院院西庭の枯山水式の「東海一連の庭」は江戸時代、1814年に東睦和尚により作庭された。三尊石(不動石、日天石、月天石)、築山(方丈、蓬莱、瀛州<えいしゅう>)の三神仙島、亀石・鶴石、水分石、礼拝石などが据えられている。北(右)手前に一文字型手水鉢、南に春日型の六角燈籠、橋柱の手水鉢が据えられている。植栽は木斛、山茶花、梔子、躑躅、皐月、南天、松、槇など。
 方丈南庭には、白砂敷きで砂紋のみが引かれている。左手前に大棗形手水鉢が据えられている。
 坪庭がある。書院南の枯山水式庭園「中坪の庭」は7坪の白砂に、7つの石が直線上に置かれている。中央の石を軸にして砂紋が同心円に広がっている。石は7石しかないが七五三石組のひとつ。また、一石は隠し石になっている。(非公開)
◆四派の松 三門と仏殿の間に「四派の松」といわれる4本の松が植えられている。これは、室町時代、妙心寺の運営体制を確立した四派、龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派をそれぞれ表しているという。
 また法堂東に、その師・雪江宗深に因む雪江の松があった。だが、1929年の風水害により倒木し、その後実生した松が育っている。
◆女性建立の塔頭 境内には女性が建立、庇護した塔頭が10ほどある。
 斎藤利国妻・利貞尼は妙心寺に土地を寄進し、大珠院、聖沢院、天授院、東海庵を寄進した。備前岡山藩主・池田光政伯母は、天球院を建立した。信濃松代藩主・真田信之孫・長姫は大法院を、徳川家光乳母・春日局は麟祥院を建立している。
◆文化財 鎌倉時代、1329年、紙本墨書「宗峰妙超(大灯国師)墨蹟 関山号」(66.7×72.7㎝)は、妙超が弟子・慧玄に与えた道号。かつて巻物だったが、掛幅に改装された。
 鎌倉時代、1330年紙本墨書「宗峰妙超(大灯国師)墨跡 無相大師への印可状」(国宝)は門外不出とされた。鎌倉時代、1329年の紙本墨書「宗峰妙超 関山字号」(国宝)。鎌倉時代、1330年「宗峰妙超頂相 自賛」(重文)。鎌倉時代「南浦紹明頂相」、南宋時代、1258年「虚堂智愚頂相 自賛」(重文)。室町時代、「花園法皇御影 後花園上皇追賛」(重文)。南北朝時代、1347年「花園天皇遺詔 往年の宸翰」(重文)。
 鎌倉時代「六祖師像」(重文)。室町時代、相阿弥筆という「山水図」(重文)。室町時代、狩野元信筆「瀟湘八景」(重文、東海庵蔵)。
 安土・桃山時代、17世紀初頭、海北友松筆の屏風、17世紀の紙本金地着色「花卉図」(重文)(各178.1×361.4㎝)では、咲き誇る牡丹の花弁が扁平に歪められ、線、面ともに強調されている。
 「寒山捨得図・三酸図」・「琴棋書画図」、17世紀の狩野山楽筆、紙本金地着色「文王呂尚・商山四皓図」六曲一双(重文)(167.4×364.3㎝)は、かつて海北友松筆とされていた。左隻には釣り糸を垂れる呂尚(太公望)を周の文王が訪ねている。右隻には乱世を逃れ隠棲する4人の老高士が描かれる。いずれも金雲に人物像が強調されている。
 安土・桃山時代、17世紀の狩野山楽筆、紙本金地着色「龍虎図」六曲一双は、右隻の雲間の龍と左隻の牙をむく雄虎が頭を右に振り龍を威嚇する。牝虎(豹)が脇に描かれている。「巌子陵図」・「虎渓三笑図」(重文)。
 南宋時代、李確筆「豊干図」(重文)・「布袋図」(重文)。南宋時代、滅翁文礼賛「達磨図」(重文)。元時代、馬麟筆という「普賢菩薩像」(重文)。梵鐘(国宝)は最古の銘を持つ。
 3歳で夭逝した豊臣秀吉長子・棄丸の「豊臣棄丸坐像・玩具船」(重文)(隣華院所蔵)。「色々絲縅胴丸」(重文)。鎌倉時代の「倶利迦羅龍合口剣」(重文)。「白綸子包胴丸」「漆箔兜」「黒漆塗菊文蔵」。
 山門天井画は狩野派による。天女を描いた筆遣いが角ばった線で構成されており、視覚的な効果を生む。
 
法堂に国宝「黄鐘調の鐘」が保管されている。吉田兼好が『徒然草』のなかで、その鐘の音は「黄鐘(おうじき)調」と形容した。1973年まで、外の鐘楼に下げられ朝夕に鳴らされていたが、鐘の破損の恐れがあるため中止された。
◆狩野探幽・龍図  法堂内部の鏡天井に狩野探幽(1602-1674)筆の「雲龍図」(重文)がある。江戸時代、1656年作による。8年の歳月をかけて描いたもので、円相の直径は12mある。龍は、寺側の注文通りに鏡天井に貼られた板に直接描かれている。ただ、絵は地上で描かれ後に天井まで吊り上げらている。円相の外に霊雲、内側の渦巻く黒雲を背景として、頭を円の中央に置いた龍が蜷局を巻いている。
 「八方睨みの龍」といわれ、どの方向から見上げても、常にそちらの方向を睨んでいるように見える。場所によっては、天から降りるようにも昇るようにも見える。探幽は、龍の眼を描く際には牛を、爪は鷹というように実在の動物を参考にしたという。
 この龍図には逸話が残されている。最後に、探幽が龍の眼に筆を入れた時、風雨が起きるほどの出来栄えだったという。また、探幽は、寺が用意した画料と酒樽も受け取らずに立ち去ったという。
 探幽は、狩野孝信の長男として京都に生まれた。江戸幕府の御用絵師となり、江戸城、二条城、寺院などに多くの障壁画を残した。「余白の美」で知られている。写生画は、尾形光琳も模写した。
 天龍図は、龍が水を司る神であることから、仏法を守護し、修行僧に法雨、仏法の教えを降し、寺を火災から守るという意味もあった。室町時代、東福寺法堂に、画僧・兆殿司(明兆、1352-1431)が蟠龍図を描いたのが日本の初例といわれている。
◆黄鐘調の鐘 「黄鐘調(おうじきちょう/おうしきぢょう)の鐘」といわれる「梵鐘」(国宝)がある。雅楽の六調子の一つ、黄鐘を基音とする調子に美しい音色が合うとされ、この名が付けられた。
 飛鳥時代、698年に鋳造された。紀年銘文のある鐘としては日本最古とされ、鐘の内部に「戊戌年四月十三日壬寅収 筑前糠屋評造春米連広国鋳鐘」と刻まれている。筑前糠屋評(郡)の糠屋評造(郡領)で糠屋屯倉の後身であり、春米連は屯倉に置かれた春米部を統轄する伴造の後裔になるという。大宰府・観世音寺の梵鐘と同型の鋳造によるとみられる。同時期、同工房で製作されたという。『徒然草』220段に記されている「黄鐘調」という。古式の特徴として、口径が小さく細身になる。胴張が少なく、上下帯に唐草文、撞座の位置も高く12弁の蓮華座になっている。鐘の音は、低周波の複合音から成り、この鐘は理想とされる129ヘルツという。西洋音階で言うと「ラ」を基準音としている。総高151cm。
 伝承として厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子、574-622)が大坂・四天王寺六時堂前での聖霊会の際に、楽律調整に用いた鐘ともいう。後、花園・法金剛院に移された。また、嵯峨・金剛院にあったともいう。妙心寺門前で、開山は鐘を運ぶ農民に出遭う。尋ねると、農民は廃寺の鐘を売り、農具と取り替える途中だと述べた。開山は妙心寺に梵鐘がなかったことから、馬目一貫目で求めたものという。
◆不思議 本山、塔頭に不思議といわれる伝承がある。
 「四派の松」は、仏殿、山門の間に植えられている。四派を表し、竜泉(東北)、東海(西北)、霊雲(東南)、聖沢(西南)になる。別項詳細。/「涅槃像」は涅槃堂にある。鋳工・吉岡豊前守藤原重次の作という。地下は檀家納骨所になる。黄銅製、3.9m。/「黄鐘調の鐘」は別項詳細。/「懸魚に四葉」は、南正面の門にある。懸魚は四葉に樽の口になる。普通は六葉という。
 「南蛮渡来の鐘」は塔頭・春光院にある。南蛮寺にあった風鈴の一つという。/「さざれ石」は、塔頭・春光院の庭にある。/「日暮門」は、塔頭・蟠桃院にある。左甚五郎作という。/「開山足洗い石」は、塔頭・大龍院の後庭の小高い所に石二つがあり、開山が足を洗う姿が刻まれている。1892年に立てられた。
◆映画 時代劇映画「丹下左膳 百万両の壺」(監督・山中貞雄、1935年、日活京都)の撮影が境内大庫裏付近で行われた。山中作品の現存する貴重な3作品の一つになる。
◆宿坊・修行体験 坐禅会・大衆禅堂(妙心寺派教化センター)では、宿泊し、坐禅、提唱(講話)、作務(掃除)が体験できる。毎土曜日17:30-翌日曜日9:00、1・8・12月は休会。 075-463-3121
 宿坊「花園(はなぞの)会館」に宿泊できる。 075-461-6857
 妙心寺禅道会(毎月6-8日、6:00-7:30、大方丈、坐禅、提唱、講座、最終日に茶話会)。
◆年間行事 修正会・祝聖・諸堂諷経・改旦上堂・仏殿般若(1月1日)、仏殿諷経・般若(1月2日)、仏殿諷経・般若満散(1月3日)、仏殿般若(1月16日)、方丈懺法(1月18日)、開山降誕会(2月7日)、涅槃会(2月15日)、彼岸会・祠堂斎(3月彼岸中日)、恒例法要・釈尊降誕会(花祭り)(4月8-12日)、巡塔諷経(4月14日)、入制上堂・楞厳会(りょうごんえ)(4月15日)、仏殿般若(5月16日)、方丈懺法(5月18日)、山門懺法(6月18日)、巡塔諷経(7月14日)、解制上堂・楞厳会満散・山門施餓鬼(7月15日)、経蔵虫払い(7月24-25日)、祠堂斎(8月3日)、お精霊迎え(8月9日)、お精霊迎え(8月10日)、お精霊送り(8月16日)、夏期講座(8月下旬頃)、仏殿般若(9月16日)、方丈懺法(9月18日)、祠堂斎(9月彼岸中日)、達磨忌宿忌(10月4日)、達磨忌半斎(10月5日)、曝凉展(11月3-4日)、法皇忌宿忌(11月10日)、法皇忌献粥・法皇忌献茶式・法皇忌半斎(11月11日)、成道会(12月8日)、開山忌宿忌(12月11日)、最も重要な法要の開山忌献粥・開山忌半斎(12月12日)、冬夜巡塔諷経(12月14日)、歳末般若(12月25日)、巡塔諷経(12月31日)。
 坐禅会・大衆禅堂(妙心寺派教化センター)(毎日曜日17:30-翌日曜日9:00、休会あり、1・8・12月)。祝聖(毎月1日、15日)。


南総門から北へ向かって案内しています。普段は非公開の建物があります。多くの塔頭は非公開です。建物内部、庭園などの写真撮影は禁止のところがあります。
*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*「上皇」は皇位を退いた天皇の尊称。「法皇」は出家した上皇。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『妙心寺 650年の歩み』『古寺巡礼 京都 31 妙心寺』『旧版 古寺巡礼 京都 10 妙心寺』『妙心寺史』『妙心寺』『第47回京の冬の旅 非公開文化財特別公開ガイドブック』『日本の古寺大巡礼』『京都古社寺辞典』『近世に於ける妙心寺教団と大悲寺』『京都府の歴史散歩 上』『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』『京都・山城寺院神社大事典』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『事典 日本の名僧』『京都・美のこころ』『よくわかる妙心寺 禅のこころ』『京都の寺社505を歩く 下』『秀吉の京をゆく』『京都絵になる風景』『京の怪談と七不思議』『こころ美しく京のお寺で修行体験』『週刊 日本庭園をゆく 16 京都洛西の名庭 2 妙心寺』『週刊 仏教新発見 28 大徳寺妙心寺』『週刊 古寺を巡る 23 妙心寺』『週刊 日本の美をめぐる 室町5 38 狩野派の流れ 元信 永徳 探幽』 

 

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微妙殿

微妙殿

玉鳳院禅宮(左)、開山堂微笑庵。(非公開)

玉鳳院開山堂(微笑庵)(重文)、この地は、妙心寺発祥の地になっている。(非公開)

玉鳳院

玉鳳院

玉鳳院、開山慧玄が、伊深(岐阜県美濃加茂市)に居た時、田畑を耕す際に慣れ親しんだ牛が、入洛した際に涙を流し後を追ったという。この逸話に基づき、1959年、滋賀県安土町で見つかったという「牛石」が境内に奉納された。

放生池

宝蔵、

玉鳳院開山堂(微笑庵)の唐門(重文)


玉鳳院開山堂(微笑庵)

涅槃堂、かつては、塔頭・大心庵の、景川宗隆(1425-1500)の開山堂だった。四派・四本庵の龍泉派。本尊・涅槃像を安置する。祖師、祠堂の牌、檀信徒の納骨所にもなっている。

涅槃堂、2004年に改築された。
四派四本庵

衡梅庵、四派四本庵の弟子たちの師・雪江宗深(1408-1486)の塔所。妙心寺6世・再中興開山。

衡梅庵、「本山四派渕源 雪江禅師塔所」の石標が立つ。

塔頭・龍泉庵(龍泉派)、室町時代の臨済宗の僧・景川宗隆(けいせん そうりゅう、1425-1500)は、伊勢に生まれた。龍泉派の祖。雲谷玄祥、義天玄詔、桃隠玄朔らに師事、龍安寺の雪江宗深の法を嗣ぐ。大徳寺、妙心寺、龍安寺住持、妙心寺大心院開山。諡号は本如実性禅師。

塔頭・東海庵(東海派)、室町時代の臨済宗の僧・悟渓宗頓(ごけい そうとん、1416-1500)は尾張に生まれた。東海派の祖。龍安寺の雪江宗深の法をつぐ。美濃の守護代・斎藤妙椿の招きで瑞竜寺を開く。大徳寺、1484年に妙心寺住持になる。諡号は大興心宗禅師、仏徳広通国師。

塔頭・聖澤院(聖澤派)、室町時代の臨済宗の僧・東陽英朝(とうよう えいちょう、1428-1504は、土岐持頼の子。聖澤派の祖。龍安寺の雪江宗深の法をつぐ。丹波・竜興寺、大徳寺、妙心寺、尾張・瑞泉寺住持。美濃・少林寺開山。諡号は大道真源禅師。


塔頭・霊雲院(霊雲派)、室町時代の臨済宗の僧・特芳禅傑(どくほう ぜんけつ)は、尾張に生まれた。霊雲派の祖。義天玄詔、雲谷玄祥に師事、妙心寺の雪江宗深の法をつぐ。1478年大徳寺、妙心寺、龍安寺などの住持となる。諡号は大寂常照禅師。
 境内墓地に哲学者・西田幾多郎(1870-1945)の墓がある。

参道は石畳と松の並木が続いている。

境内から北に見える衣笠山

勅使門付近の空堀

境内の東に宇多川が流れている。
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 妙心寺 〒616-8035 京都市右京区花園妙心寺町1  075-461-5226
 
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