醍醐寺・醍醐の森・醍醐山 (京都市伏見区) 
Daigo-ji Temple

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仁王門(西大門)、江戸時代、1605年に豊臣秀頼により再建された。入母屋造、本瓦葺。


仁王門、二体の金剛力士像(重文)は、平安時代後期作で、醍醐寺南大門から移された。平安時代、1134年、大仏師・勢増、仁増により造仏。




桜馬場、仁王門




仁王門からの上醍醐参道に張られた幔幕(まんまく)




金堂(国宝)、一重入母屋造、本瓦葺、7間5間、正面21m、奥行き17m。廻縁。平安時代、926年に醍醐天皇により建立された。当初は釈迦堂と呼ばれた。鎌倉時代に金堂と呼ばれる。1295年に焼失、1470年に大内氏勢により焼失、豊臣秀吉により1598年-1600年(1600年とも)に移築再建された。もとは、紀州湯浅の満願寺本堂が木喰応其により移築されたという。本尊は湯浅より遷された薬師如来坐像、脇侍は日光、月光菩薩像。


五重塔の相輪、「われあわれ古りし醍醐の塔にさへ丹朱の色の残れるものを」与謝野晶子


五重塔


下醍醐の清滝宮本殿(重文)、平安時代、1088年に14世・勝覚座主により上醍醐に勧請される。さらに、1097年に下醍醐に勧請された。現在の建物は、室町時代、1517年に満済准后により建立された。三間社流造、檜皮葺、拝所、廻廊。本殿中央は合の間としている。
 当寺の鎮守。祭神は清瀧権現。唐に渡った空海は、長安・青竜寺で密教を学び、日本に帰る際には寺の守護・竜女が空海守護のために来日したという。竜女が海をはるばる渡ったとして、「青竜」にそれぞれサンズイを付けて「清滝」としたという。室町時代、世阿弥は楽頭職になり清滝権現に能が奉納された。



清滝宮本殿脇


清滝宮本殿脇



清滝宮拝殿、近代に建立。当初は平安時代、1157年に建立された。舞殿もあったという。


五重塔(国宝)、3間5重塔婆、本瓦葺、平安時代、931年に朱雀天皇により発願、951年に建立という。当初の計画は五重塔と一重宝塔を東西に二塔建てる計画だったという。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)でも焼失せず、京都最古の五重塔といわれている。16世紀末の2度の大地震で塔が傾いたという。その後、秀吉により修復されている。
 高さ38.2m、そのうち相輪部分は13mで全体の三分の一を占めている。上層の屋根は次第に小さくなるように設計されている。木割は太く重厚感がある。初層内部の密教壁画は18面あり、胎蔵界、金剛界の両界曼荼羅、心柱に大日如来像、空海を初め、腰羽目板に真言八祖像などが描かれている。




不動堂


不動堂、1930年建立。


不動堂


不動堂、前に不動明王の石像が立てられている。仏敵排除と修行者保護の意味がある。


真如三昧耶堂、1996年に再建された。入母屋造、桟瓦葺、蔀戸。
 平安時代、949年、朱雀天皇の御願により、法華三昧堂が建立された。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失する。近年、1996年、醍醐寺により真如苑・初代の伊藤真乗(1906-1989)の遺徳をしのび再建された。



真如三昧耶堂


真如三昧耶堂、須弥壇に、本尊・金剛界大日如来像、真如苑初代・伊藤真乗自刻の涅槃像、久遠常住釈迦牟尼如来像、伊藤夫妻の像、位牌を安置する。


祖師堂


祖師堂


伝法院大講堂


伝法院大講堂、弘法大師と理源大師座像を安置する。


伝法院大講堂


伝法院大講堂


日月門


日月門


大講堂、宝形造、本瓦葺、実業家・山口玄洞の寄進により1930年に建立される。真言僧侶の育成道場。


方丈池、大講堂


大講堂


弁天堂


弁天堂、1930年建立。



方丈池




鐘楼堂





霊宝館中庭の桜、樹齢180年以上の枝垂桜









幔幕と桜


境内を流れる万千代川

上 醍 醐 *全行程は片道3㎞、往復約2時間の山道



女人堂(成身院)、江戸時代初期に建立、近代、1872年まで、女性はこのお堂までしか登ることができなかった。准胝観音(准胝堂)の分身像を祀っている。
 醍醐山の西、旧奈良街道(山背路)に沿って建つ醍醐寺(だいごじ)は、上醍醐(山上)、下醍醐(山下、さんげ)に分かれ、境内は200万坪(660万㎡)を有している。  
 山号は、豊臣秀吉が命名した深雪山(みゆきさん)という。
 真言宗醍醐派の総本山、本尊は薬師如来。
 1994年、「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。
 神仏霊場会第126番、京都第46番。西国薬師第39番霊場(西国薬師四十九霊場めぐり)。准胝(じゅんてい)観音は西国三十三番第1番観音。
◆歴史年表 平安時代、874年、空海の孫弟子・理源大師聖宝(しょうぼう)が、笠取山(醍醐山、上醍醐)山頂に草庵を結ぶ。准胝観音像、如意輪観音像2体を彫刻し安置、供養したという。(『醍醐寺縁起』)
 876年、877年、貞観年間(859-877)末とも、聖宝は、准胝観音像、如意輪両観音像を完成させ開眼供養が行われたという。(『醍醐寺縁起』『源運僧都記』)。如意輪堂、准胝堂、開山堂を建立したという。当初は私寺であり顕密兼学だった。以来、東大寺とも深く関わり、東密小野流、三論教学の拠点寺になった。開創に当りこの地の豪・宮道弥益が援助した。
 907年、第60代・醍醐天皇により勅願寺(天皇・上皇の発願により創建された寺)になる。(『醍醐根本僧正略伝』)。年分度者(一定数を限り出家を許された者)があてられる。下醍醐に、金堂、五重塔、三宝院が建てられた。薬師堂が建立、薬師三尊が造立された。
 909年、聖宝が没し、弟子・観賢が継ぐ。
 911年、観賢は山上に開山堂(御影堂)を建立した。(「醍醐寺新要録』)
 913年、定額寺(私寺で官の保護を受けた寺)になった。(『醍醐寺要録』)。この年までに五大堂、薬師堂が建てられたともいう。 
 919年、座主、三綱、定額僧は聖門門下より選ぶとされ、観賢は初代醍醐寺座主になる。(『醍醐寺要録』『座主次第』『醍醐寺雑事記』)。山下に宿院造営が始まる。
 926年、下醍醐が開かれ、醍醐天皇により御願堂の金堂(釈迦堂)、五重塔などが建立された。釈迦如来の開眼が行われる。第62代・村上天皇を祖とする村上源氏の支援を受ける。新堂釈迦仏像、四天王像の開眼供養が行われた。(『醍醐雑事記』『醍醐天皇御記』)
 929年、藤原有相は下醍醐に伽藍造営する。
 930年、醍醐天皇が亡くなり、笠取山に御陵(醍醐天皇後山科陵)が築かれる。法会が醍醐寺で営まれた。小野清茂が伽藍造営に当たる。
 931年、本堂、礼堂、南中門、廊、経蔵、鐘楼、東西中門などが整う。(『李部王記』)
 949年、清涼殿の材により法華三昧堂を建立する。(「日本紀略」)。新三昧堂(東西三昧堂?)も建立された。第61代・朱雀天皇の御願によるともいう。
 951年、朱雀天皇は、下醍醐に五重塔を建立した。
 952年、朱雀院が没し、四十九日法要が営まれる。五重塔法要も行われた。
 970年、下醍醐東院が御願寺になる。
 998年、11代座主・明観以後、真言宗の醍醐天皇系源氏出身の僧が多くなる。
 1022年、初の釈迦会が行われる。
 1084年、座主・勝覚は上醍醐の北尾塔を供養する。
 1085年、白河法皇(第72代)は、中宮賢子のために上醍醐に円光院を建立する。
 1088年、醍醐寺一山を守護する上醍醐清滝宮が鎮座した。
 1089年、上醍醐清滝宮が遷宮される。
 1090年、公卿・源雅実は上醍醐に一乗院を建立した。
 1091年、勝覚の父・源俊房は大智院(越智院)、西大門を建立する。准胝堂で初の曼荼羅供養を行う。
 1093年、越智堂が落慶になる。
 1097年、白河上皇皇女・郁芳門院の御願の無量光院が上棟になる。下醍醐清滝宮が鎮座した。
 1107年、下醍醐の持法院で地蔵講を初めて行う。大谷薬師堂で薬師講を初めて行う。
 1115年、座主・勝覚は灌頂院(三宝院)を築く。(『醍醐寺雑事記』)。供養を行う。
 1118年、初の桜会を行う。
 1120年、中門二天の開眼を行う。
 1121年、座主・定海により上醍醐薬師堂が再建された。
 1124年、上醍醐の薬師堂が再建される。座主・定海が供養する。
 1128年、上醍醐の持明院が上棟になる。
 1130年、定海は薬師堂に吉祥天を安置する。
 1134年、南大門の二天の供養が行われた。
 1143年、定海は長尾宮拝殿を建立する。
 1175年、源運は西光院を改め金剛王院とし建立する。
 平安時代後期、醍醐寺は真言宗の小野流に属した。
 鎌倉時代、1195年、東大寺の重源は、宗版一切経6000巻を上醍醐に施入れ、経蔵に納める。
 1206年、一切経会を初めて行う。
 1218年、一切経蔵を七条女院の祈願所にする。
 1219年、後白河法皇皇女・宣陽門院の御願により阿弥陀院を建立する。
 1225年、長尾宮が遷宮になる。
 1260年、五大堂、如意輪堂、開山堂が焼失した。
 1261年、座主・定済は五大堂、御影堂の立柱を行う。
 1268年、定済は如意輪堂を再建する。
 1271年、三宝院灌頂堂など再建された。
 1295年、衆徒争乱により焼失する。釈迦堂(金堂)焼失する。
 1296年、座主・覚済は金剛王院で金堂の鋳鐘を行う。
 1313年、鷹司冬平は勝准胝院、観音堂を祈願所とする。
 南北朝時代、大覚寺統(南朝)の64代座主・弘真(文真)は第96代・南朝の初代・後醍醐天皇の信を受けた。他方、三宝院流の持明院統(北朝)65代座主・賢俊は足利尊氏の協力により弘真を追い座主となる。
 1336年、今川、武田の軍勢により焼失する。
 1339年、後醍醐天皇は、座主・文観のために天長印信を書写した。
 1344年、上清滝宮が建立される。
 1357年、足利尊氏は賢俊の七七日供養のために理趣経を書写する。
 1361年、上醍醐の御影堂、五大堂、如意輪堂、鐘楼、経蔵などを焼失した。
 1368年、1370年頃とも、観阿弥、世阿弥父子により下醍醐清滝宮宝前で7日間の猿楽演能が催され、評判を呼ぶ。(『隆元僧正日記』、1425年の条)
 室町時代、1424年、灌頂院を造営する。
 1434年、6代将軍・足利義教は上清滝宮拝殿を再建する。
 1470年、応仁・文明の乱(1467-1477)の大内勢により、五重塔、東門、南大門などを除く堂塔伽藍多数を焼失している。三宝院も焼失する。寺領、荘園も失う。(『賢深記』『醍醐寺新要録』)
 1527年、五重塔が修復される。
 安土・桃山時代、1576年、80代座主に義演が就き、豊臣秀吉の協力により伽藍再興が進む。
 1585年、大地震により五重塔が損壊する。
 1586年、五大堂を再興した。
 1597年、豊臣秀吉が五重塔の修理料1500石を寄進する。
 1598年、義演の時、秀吉により殿舎8宇、子院6坊が再興される。五重塔も修復される。花見の準備を行わせる。3月15日、秀吉の「醍醐の花見」が行われた。秀吉没後、北政所の援助により金剛輪院(現三宝院)の潅頂堂、護摩堂が建立される。
 1600年、秀吉の命により紀州の満願寺を解体移築し、下醍醐の金堂が建立された。
 江戸時代、1605年、豊臣秀頼により西大門跡に仁王門が建立される。勢増・仁増作の力士像を修造し安置する。如意輪堂、開山堂、五大堂が焼失している。
 1606年、豊臣秀頼により再興された。如意輪堂、五大明王を祀る五大堂、聖宝を祀る開山堂が再建された。
 1613年、江戸幕府は、三宝院に属する修験を当山派として許可した。
 1620年、『醍醐寺新要録』大略なる。
 1771年、三宝院門跡童形教君の寄進により五重塔を修理する。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により混乱する。
 1872年、修験道廃止令と混乱が続く。真言宗に帰入となる。3000もの末寺が他派に譲られた。ただ、寺宝は流出しなかった。
 1875年、三宝院派18か寺が廃寺となる。
 1887年、金剛王院、理性院、報恩院、無量寿院は別格本山に、光台院は準別格本山とする。醍醐寺は寺法の認可を受ける。
 1896年、醍醐派は真言宗合同より独立を唱える。
 1900年、真言宗醍醐派は独立した。
 1932年、五大堂が焼失する。
 1934年、室戸台風で建物に被害が出る。
 1935年、霊宝館が建てられた。
 1939年、山火事により清滝宮本宮、准胝堂、経蔵などが焼失している。
 1940年、五大堂が再建される。
 現代、1960年、五重塔の解体修理が行われる。
 1968年、准胝堂が再建された。
 1994年、「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。
 2001年、霊宝館が建て替えられる。
 2008年、准胝堂は落雷により焼失した。
◆聖宝 平安時代の真言宗の僧・聖宝(しょうぼう、832-909)。恒蔭王(つねかげおう)。恒蔭王、理源大師。父は兵部大丞葛声王の子。第38代・天智天皇皇子の歌人・施貴皇子(しきのみこ)の子孫。847年、16歳で東大寺・真雅(しんが、空海実弟)により出家した。願曉、円宗、平仁、玄栄に三論、法相、華厳を学ぶ。葛城山、大峯山で修験道を修めた。869年、興福寺・維摩会の堅義に三論宗の立場で出る。師・真雅の勘気を解かれた後、871年、真雅より無量寿法(真言密教修法)を受ける。師・真雅より離反し、874年、醍醐寺を創建。884年、東寺・源仁より伝法灌頂を受けた。890年、藤原良房が聖宝のために建立した深草・貞観寺の座主。894年、権法務、895年、東寺二長者、897年、朝廷の命により日蝕の際に祈祷する。飛鳥・川原寺検校、東寺長者・別当、西寺別当、905年、東大寺東南院院主・別当、906年、僧正。七大寺検校。奈良・弘福寺などに就く。
 第59代・宇多天皇、第60代・醍醐天皇の帰依を受けた。真言宗醍醐派小野流の祖。吉野、金峯山の整備、造仏を行い、中世以降、修験道中興の祖といわれた。
◆醍醐天皇 平安時代の第60代・醍醐天皇(だいご てんのう、885-930)。源維城。父は臣籍に降下した源定省の長男、母は内大臣藤原高藤の娘・藤原胤子。887年父の皇籍復帰、即位(第59代・宇多天皇)により皇族に列した。890年、親王宣下、891年、敦仁に改名、893年立太子、897年、即位。父の訓示「寛平御遺誡」により、藤原時平・菅原道真を左右大臣とした。901年時平の讒言で道真を大宰権帥に左遷した。(昌泰の変)。20人ほどの女御・更衣、寛明親王(第61代・朱雀天皇)、成明親王(第62代・村上天皇)など36人の子女を儲けた。904年、中宮・藤原穏子との間の長子・保明親王を2歳で東宮とし、御息所に時平の娘・仁善子を入れた。909年、時平が没、923年、親王も21歳で早世、仁善子の子・慶頼王を皇太孫としたが、925年、5歳で夭折。これらは道真の怨霊の仕業と噂された。923年、道真左遷の詔を覆し、右大臣に復し贈位を行う。だが、930年、清涼殿に落雷、死者が出て病に臥す。寛明親王(朱雀天皇、保明親王の同母弟)に譲位、出家日に亡くなる。
 和歌を良くし、勅撰集に入首、家集『延喜御集』編む。905年、『古今和歌集』撰進を紀貫之らに命じた。醍醐寺の北の山科陵に葬られた。
 34年にわたる摂関を置かない親政は、時平の影響下にあり、時平は荘園整理令施行、国史『日本三代実録』完成、延喜格式の撰修も行う。後に両人の治世は「延喜の治」と呼ばれた。
◆会理 平安時代前期-中期の真言宗の僧・会理(えり、852-936)。宗叡、聖宝、禅念らに師事。928年、東寺二長者、935年、権少僧都。仏師として活躍したともいうが詳細不明。聖宝とともに東寺の千手観音像、醍醐寺の薬師三尊像、東大寺大仏殿の柱絵、東寺の祖師画像など仏像、仏画を制作したという。
◆貞崇 平安時代前期-中期の真言宗の僧・貞崇(ていすう、866-944)。京都生まれ。通称は鳥栖僧都。貞観寺の恵宿(えしゅく)に密教を学ぶ。醍醐寺の聖宝に灌頂をうけ、三論もおさめる。899年、吉野金峯山に入る。930年、醍醐寺座主、大和鳥栖に鳳閣寺を建て隠棲。のち東寺長者、金剛峰寺座主を兼ねた。稲荷山でも修行した。当山派修験道の大成者の一人。
◆勝覚 平安時代後期の真言宗の僧・勝覚(しょうかく、1058-1129)。左大臣・源俊房の子。師・定賢を継ぎ、1086年、醍醐寺座主となる。清滝宮を上下醍醐寺に勧請して鎮守とし、1115年、三宝院を建立した。桜会(清滝会)を始める。1117年、神泉苑での祈雨の請雨経法を修した。白河上皇(第72代)の出家の際に剃り手を勤め、上皇のために、1127年、高野山に御願の塔を建てる。東寺長者、東大寺別当を歴任。
◆賢俊 南北朝時代の真言宗の僧・賢俊(けんしゅん、1299-1357)。菩薩寺大僧正。父は権大納言日野俊光。醍醐寺宝池院流賢助に師事。南北朝時代の内乱で足利尊氏方につく。1336年、権大僧正に任じられ醍醐寺座主、以後、亡くなるまで22年間その職にあった。同年、東寺長者、根来寺座主などに補任。醍醐寺伽藍整備し、醍醐寺院家・三宝院を再興し院主となった。1340年、東寺一長者、北朝の護持僧となる。1342年、法務大僧正、1350年、東寺長者の職を辞し尊氏の九州鎮定に従う。観応の擾乱(1349-1352)でも尊氏に従う。尊氏、北朝3代(光明・崇光・後光厳)の護持僧として権勢を振るった。和歌、連歌に馴染んだ。
◆重源 平安時代末期-鎌倉時代の僧・重源(ちょうげん、1121-1206)。醍醐寺で密教を学ぶ。法然に師事した。宋に渡り、現地で栄西に遭う。宋より天竺様式建築を日本に伝えた。東大寺大仏殿再建の勧進職に就く。
◆文観 鎌倉時代-南北朝時代の僧・文観(もんかん、1278-1357)。播磨国に生まれた。播磨国法華山一乗寺で天台、西大寺系北条常楽寺に学ぶ。大和笠山竹林寺の長老。1316年、醍醐寺報恩院道順から真言密教の灌頂を受ける。第96代・後醍醐天皇護持僧となる。幕府の北条高時調伏の祈祷により、1331年、硫黄島に流された(元弘の乱)。帰京後、1334年、東寺大勧進・64代の醍醐寺座主、1335年、東寺一長者・正法務、高野山検校・東大寺別当を兼職した。邪教立川流大成者とされ非難された。南朝・後醍醐天皇と共に吉野に下り、河内金剛寺で亡くなる。
◆満済 鎌倉時代-室町時代の醍醐寺74代座主の満済(まんさい/まんぜい、1378-1435)。藤原師冬の子。三宝院賢俊に師事、1395年、三宝院門主、醍醐寺座主などに就任した。1399年、法印、1409年、大僧正。3代・足利義満、4代・義持、6代・義教に仕えた。義満の猶子となり、護持僧として将軍身辺の祈祷、政治、外交にも関与し、「黒衣の宰相」と呼ばれた。1428年、義持の継嗣問題では、満済らは籤引きを提案し、青蓮院義円(義教)を選考した。1428年、醍醐寺座主として初めて准三后を宣下された。『満済准后日記』を著す。
◆世阿弥
 室町時代の能役者・能作者・世阿弥(ぜあみ、1363/1364?-1443?)。観世元清。観阿弥の長男、2代目の観世大夫郎。1370年頃、観阿弥・世阿弥父子は醍醐寺清滝宮での7日間の猿楽行う。1374年頃、父子は今熊野神社で演じた。世阿弥は美童であり、和歌、連歌、蹴鞠なども嗜み、義満、二条良基、佐々木道誉らの庇護を受けた。1384年、父・観阿弥の没後、観世座の新大夫を継ぐ。1399年、一条竹鼻で、義満後援により3日間の勧進猿楽を興行した。1394年、義満没後、猿楽能は田楽にその座を奪われる。1422年、出家し、至翁善芳と称した。1424年、醍醐寺清滝宮祭礼で猿楽を演じる楽頭職に任じられたという。1434年観世座大夫継承をめぐり(理由は不明とも)、将軍・義教の怒りにふれ72歳で佐渡に流された。
 猿楽能に田楽能の歌舞の要素を取り入れ歌舞能を完成させた。理論の伝書「風姿花伝」では「幽玄」、「闌位(らんい)」を説く。「花鏡」「至花道」など20冊ほどを著した。作品に「高砂」「老松(おいまつ)」など50曲ほどある。供養塔は大徳寺・真珠庵にある。
◆義演 安土・桃山時代-江戸時代初期の真言宗の僧・義演(ぎえん、1558-1626)。京都に生まれた。父は関白・二条晴良、母は伏見宮貞敦親王娘・位子。室町幕府15代将軍・足利義昭の猶子。1569年、醍醐寺に入り、深応、雅厳に師事する。1571年、報恩院・雅厳を戒師として得度、1573年、両界次第、簿次第を受ける。1576年、紀州・根来寺座主、醍醐寺座主、1579年大僧正、1585年、准三后の宣下、1586年、雅厳より伝法灌頂を授けられ、1591年、付法状を受けた。1588年聚楽第行幸に際し仙洞で仏眼大法を修した。1591年豊臣秀吉建立の方広寺大仏殿地鎮で不動護摩、1592年朝鮮出兵の戦勝祈念に東寺で仁王経大法を修した。1594年、東寺長者、法務などを歴任。秀吉との関わり深く、1598年、方広寺大仏開眼供養で呪願師を務めた。1623年、中絶していた後七日御修法を再興する。
 応仁・文明の乱(1467-1477)後の荒廃していた醍醐寺の復興を行う。当寺の聖教の書写整理を成した。『醍醐寺新要録』、庭園作庭行程も書かれた『義演准后日記』(1596-1626)などを著した。
◆大田垣蓮月尼 江戸時代-近代の尼僧・歌人・陶芸家・大田垣蓮月尼(おおたがき れんげつ、1791-1875)。京都の遊郭三本木に生まれ名を誠という。父は伊賀国上野の城代家老藤堂良聖。生後すぐに知恩院門跡に勤仕の大田垣光古の養女となる。1798年頃より、丹波亀山城で御殿奉公を勤めた。1807年頃、望古と結婚。夫子らを相次いで亡くし、1819年、古肥と再婚する。1823年、夫と死別後、養父・光古と共に剃髪し、蓮月と号した。知恩院内の真葛庵に移るが、子、養父を亡くし岡崎村に移った。その後も住居を転々とし、「屋越し蓮月」と呼ばれた。美貌の人で、勤皇の志士と交流があり、「烈女」といわれた。歌人、陶芸家として知られ、「蓮月焼」を生む。書、絵画も嗜んだ。
 醍醐寺黒門近くの茅屋(ぼうおく、醍醐落保町)に一時暮らした。
◆伝承 開山の伝承がある。聖宝(しょうぼう)は普明寺での七日間仏法相応の霊地祈念の際に、笠取山に五色の雲が棚引くのを見る。
 聖宝が峰に登ると、山の谷あいに地主の神という白髪老翁(横尾大明神)が現れる。その老翁は、落ち葉をかき分け湧き出た水(醍醐水)を口に含み、「嗚呼、醍醐(梵語ダディー、インドの乳酸菌飲料)味なるかな」と讃えたという。老翁は聖宝に、古に仏が練行したというこの地を献じた。この地で仏法を広め、衆生を救うようにと告げ、自らはそれを守護するという。
 聖宝はこの地に寺を開き、醍醐味の言葉より醍醐寺、醍醐の地名も生まれたという。(『醍醐寺縁起』)
◆醍醐 「醍醐(だいご)」とは、最上の乳製品、最高の味「醍醐味」を、また、「仏教の最高の真理」を意味している。
 醍醐について、牛乳を詰め粥状のものを「洛」と呼び、さらに煮詰めてバター状のものを「蘇」(正しくは「蘇」の草冠はなし)、生成チーズ状のものを「醍醐」といい、最も美味しいものといわれた。
 日本に搾乳技術がもたらされたのは、飛鳥時代、560年、百済の智聡による。645年に智聡の子・善那により、第36代・孝徳天皇に蘇が献上された。奈良時代、713年にはすでに、山背国に搾乳場の「乳戸(にゅうこ)」が50軒あったという。
◆清滝権現 現在、境内には清瀧宮大権現が祀られている。この清滝権現(インド娑伽羅竜王第3女)は、平安時代、1088年に上醍醐に勧請されたものという。その後、1097年に現在地の下醍醐に勧請された。
 平安時代、804年-805年に唐に渡った空海は、長安・青竜寺で師・恵果より密教を学ぶ。空海が日本に帰る際に、寺の守護だったという竜女が空海守護のために付き、高雄山寺(神護寺、右京区)に飛来したという。竜女が紺碧の海をはるばる渡ったとして、「青」「竜」、それにそれぞれサンズイを付けて「清滝(瀧)」とした。さらに清滝(瀧)権現と名付けたものという。
 その後、902年、聖宝が上醍醐を開いた際に、清瀧権現の霊託が下り、醍醐山本宮峰に降臨したとされる。また、密教流布の請願のために清瀧宮本殿に勧請したという。
◆密教・修験道 開山の聖宝は、金剛葛城、大峯山で行を積んだ。平安時代中期以降、修法は、小野曼荼羅寺・仁海を経て、醍醐寺は真言宗の東密系小野流修験道の本拠地となる。東密としてはほかに、益信法流の広沢遍照寺・寛朝の広沢流がある。
 修験は、室町時代、天台宗園城寺の聖護院の本山派と、この醍醐寺三宝院の当山派が二大勢力となる。江戸時代以降、幕府により当寺は当山派拠点に定められている。現在では、当山派、本山派のほか、金峯山修験本宗の修験三山がある。
 当山派は吉野から熊野に向けて奥駈修行を行う。聖護院の本山派はこれを逆に向かう。庭壇護摩のことを当山派では柴燈護摩(さいとうごま)、本山派では採燈護摩と書く。
 近代、1872年に修験道廃止令が出され、当寺でも修験宗の整理が行われている。その後、復興が行われた。
◆真言小野流
 真言密教の真言小野流は、広義には醍醐寺・聖宝より起きた流派であり、聖宝を始祖(元祖)、仁海は流祖とする。聖宝の後、観賢、仁海、成尊と続く。その後、範俊、義範で2流に分かれ、後に、さらに3流ずつに分かれた。流派により事相(じそう)といわれる行法(灌頂、護摩、観法など)の実践が異なる。口頭で教義などを伝授する口伝為本(くでんいほん)とした。
 真言小野流とは、狭義には根本6流、また、随心院流のみとされる。また、狭義の小野流として「小野三流」があり、「勧修寺三流」(随心院流、安祥寺流、勧修寺流)とされる。広義の小野流として「小野六流」があり、これに「醍醐三流」(三宝院流、理性院流、金剛王院流)が加わる。醍醐三流はいずれも三宝院開基・勝覚の弟子になる。三宝院流は三宝院2世・定海(醍醐寺15世)、理性院流は理性院賢覚、金剛王院流は金剛王院聖賢による。
 別流として、仁和寺を中心とした洛西の広沢流がある。小野流、広沢流の両流を合わせて「野沢(やたく)十二流」と呼ばれた。野沢もまたさらに36流、100流ほどに分かれた。
◆勝倶胝院 平安時代末、17代座主・実運は下醍醐に子院・勝倶胝院(しょうぐていいん)を建立した。鎌倉時代、1231年、24代座主・成賢は、堂舎、寺領を尼真阿弥陀仏(真阿)に譲る。以来、尼寺になり無縁の尼僧が不断念仏を勤修する道場になった。
 その後、嵯峨殿(空如、八条院高倉、1176‐?)、浄意、1252年信願(真願房)、1267年小阪禅尼(久我通忠の娘、後深草院二条の従姉)、1311年万里小路(までのこうじ)姫君などの尼に相伝された。
 1272年、日記『とはずがたり』の作者とされる後深草院二条(1258-?)は、父・久我雅忠の没後、真願房を頼り参籠した。また、1277年にも一時身を置いた。『とはずがたり』中にも、身寄りのない老いた尼たちの姿が描かれている。
◆宮道氏 笠取山西麓一帯には、宮道氏が住んだ。平安時代、氏より藤原高藤の妻・列子が出て、胤子(第59代宇多天皇女御、第60代・醍醐天皇の母)を生み勢力を増した。
◆猿楽能 下醍醐清滝宮では祭礼(4月17日)の際に、猿楽が演じられていた。南北朝時代、1344年、摂津・榎並(えなみ)座が猿楽を演じる楽頭職に就いた。以来、室町時代、1423年までその職にあった。
 1370年頃観阿弥・世阿弥父子は清滝宮での7日間の猿楽行い、京都進出の契機になる。以後、榎並座の代役として、鳥飼猿楽、観世座などが当たった。1424年榎並座の「不儀」により、以後、世阿弥(その子・元雅とも)が楽頭職に任じられたという。(『醍醐寺新要録』所引「隆源僧正記」)
◆醍醐の花見・秀吉
 境内は古くより、桜の名所として知られている。平安時代、913年、定額寺に、皇族、貴族が花見に訪れた。平安時代末、下醍醐の清滝社で清滝権現を祀る法要が行われ、この清滝会が桜の花見の始まりという。平安時代-鎌倉時代に、醍醐の桜会が催されている。
 安土・桃山時代、1592年、豊臣秀吉は朝鮮出兵の際に寺に戦勝祈願した。1598年3月15日、秀吉が企画した豪華な「醍醐の花見」が催され、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した伽藍の復興も行われた。秀吉は二条昭実より関白職を譲られている。その昭実の弟が醍醐寺座主・義演であり、秀吉は恩義に報いるために、乱後に疲弊していた醍醐寺の修造と三宝院の造営を行った。
 秀吉は、花見の下準備のために醍醐を二度訪れ、建物修造、庭園改修、山道の修復など細部にまで指示を出した。畿内各所(近江、河内、大和、山城)から700本もの桜(ヤマザクラ)の木が集められ、境内に移植されている。茶室、数奇屋も8棟(一番茶屋-八番茶屋)が建てられた。警護も厳重を極め、周辺、山々にも23か所の警固所が設けられ、街道は小姓、馬廻衆が守った。道際には柵が設けられ、会場より見物人は排除された。
 花見当日、前日の風雨も止んでいた。普段は女人禁制の山に、北政所、淀殿、淀殿と「盃あらそい」をした松の丸殿、三の丸殿、前田利家娘・麻阿姫、前田利家夫人・まつ、武将、女房などが集った。花見行列は、伏見城を発し、醍醐寺総門から入った。金剛輪院で秀吉、6歳の秀頼が一行を出迎える。さらに、行列は槍山までの道程を進み、茶屋(銘酒、お茶)、仮店で休んだ。途中、1300人(2000人とも)の女性のために、二度の衣裳替え(一人当たり3種類の衣装を与えられた)が行われたという。豪華な衣裳は薩摩島津家が用意している。花見酒に加賀・菊酒、関東・江川酒、奈良・僧坊酒などの銘酒が取り寄せられた。
 宴席で秀吉は「あらためて 名をかへてみむ 深雪山 うづもる花も あらはれにけり 松」と短冊にしたためた。以後、醍醐寺の山号は深雪山になる。だが、秀吉はこの花見の宴のわずか5か月後に急逝する。秀吉は、この秋に、後陽成天皇を醍醐寺に招き入れ、紅葉狩りを予定していたという。その夢が実現することはなかった。
◆仏像・仏画・木像 平安時代、913年頃作の半丈六「薬師如来坐像」(国宝)(176.5㎝)は、907年に聖宝が造り始め、その没後、弟子・観賢が仏堂を完成させ安置した仏像という。(太政官符)。右手は屈し掌を立て、1指手3指を捻る。左手に瓜形の薬壺(瓜形壺)をのせる。縦に7本の溝があり、晩唐の磁器の影響があるともいう。左足先を衣に包む。表情は重厚であり、分厚い唇、開いた鼻、鋭い眼光に特徴があり、奈良時代の影響を受けている。穏やかな衣文には10世紀の傾向がみられる。聖宝弟子の仏師・会理僧都(恵利、観賢とも)作という、醍醐寺工房作。かつての上醍醐薬師堂本尊だった。箔薬師ともいわれるのは、胸の線が埋まり盛り上がっているためで、これは公家の平癒祈願の際に胸部に金箔を置いていたためという。光背は二重円光(身光、頭光)、6体の化仏・小薬師像(20㎝)を付け全体で七仏薬師になっており、いずれも当初のものになる。カヤ材、一木造、漆箔。
 脇侍は右に「日光菩薩立像」(111.9㎝)、左に「月光菩薩立像弧」(国宝)(120.9㎝)、木造、一木造、漆箔。
 平安時代の「阿弥陀如来坐像」(重文)は、定朝様、来迎印を結び、かつては上醍醐東谷阿弥陀堂に安置されていた。ヒノキ材、寄木造。
 平安時代の「千手観音立像」(重文)(190㎝)はかつて上醍醐薬師堂に安置されていた。天徳年間(957-961)の上醍醐観音堂に安置されていたものともいう。
 平安時代のカヤ材による「聖観音立像」(重文)(51㎝)は、醍醐天皇念持仏で、下醍醐法華三昧堂安置。木造、檀像(ただ、香木ではない)、一木造、白木仕上げ。
 平安時代(8世紀-12世紀)、6本腕(6臂)の「如意輪観音坐像」(重文)(49㎝)は、創建時の上醍醐清滝宮本地仏だった。1089年頃に造仏されたとみられている。左手に如意と輪宝、右手に如意宝珠、数珠、右手本手は頬杖、左手本手は台座につく。輪王坐で、右膝は立て、両足裏を合わせる。衣紋は翻波式。光背は向かって左に傾く。
 平安時代、1130年に造仏された「吉祥天立像」(重文)(167.3㎝)は、醍醐薬師堂に安置されていた。願主は定海という。皇室の女人成仏のために造られたという。襟、裾に縁飾りがあり、がい襠衣と呼ばれる。木造、彩色、漆箔。
 平安時代(8-12世紀)、「五大明王像」(重文)の不動明王」(86.3㎝)は大師様。「降三世明王」(122.3㎝)は4面3目8臂。「軍荼利明王」(125.8㎝)は1面3目8臂。「大威徳明王」(125.8㎝)は6面3目6臂6足で水牛に乗る。「金剛夜叉明王」(116.7㎝)は3面5目6臂で、上醍醐中院堂に安置されていた。木造。
 平安時代(8-12世紀)の「帝釈天騎象像」(重文)(105.5㎝)。平安時代(10-12世紀)の水牛に乗る「閻魔天像」(重文)(93.4㎝)は、鳥羽天皇中宮・待賢門院出産に際して安全祈願した像という。仏像、水牛の目に別材を用いている。2像ともに、かつて上醍醐薬師堂に安置されていた。木造。
 平安時代後期(10-12世紀)の「不動明王坐像」(重文)(88.3㎝)は、大師様、子院・理性院に安置されていた。
 平安時代後期(8-10世紀)、「聖観音立像」(重文)(51.5㎝)は、唐代彫刻、密教図像の影響がある。童顔短軀であり、�眼は大きく頬も膨らむ。体躯は豊満であり、条帛、天衣も厚く重い。当初は胸飾、瓔珞などの装身具が付けられていたとみられる。光背のための穿溝も残る。ヒノキ材、彩色壇像、一木造。
 平安時代後期、1134年作の仁王門(西大門)の「金剛力士像」(重文)、阿形」(359㎝)、吽形」(363.5㎝)は、かつて下醍醐南大門に安置されていた。勢増、仁増が像造した。木造。
 平安時代後期(10-12世紀)の「阿弥陀如来坐像」(重文)(19.2㎝)は、定朝様、銅造、鍍金。
 鎌倉時代、快慶作の美仏・「弥勒菩薩坐像」(重文)(112㎝)は、端正な表情をしている。菩薩形で宝冠・高髻(内部に五輪塔、経典を納める)、胸飾の瓔珞、手に五輪塔を支え持つ。衣に截金文様が施されている。快慶作中現存2番目に古く、1192年造仏による。現在は三宝院護摩堂に安置されている、かつては上醍醐の岳洞院護摩堂本尊だった。座主・勝賢が願主になり後白河法皇追善による。髻内に水晶の五輪塔・舎利が納められている。木造、現存最古の金泥塗、截金、玉眼嵌入。
 鎌倉時代前期作、金堂の「薬師如来坐像」(重文)(128.8㎝)は、かつては紀州の湯浅・満願寺にあった。右手は施無畏印、左手は薬壺、螺髪は一個ずつ植えられ、玉願嵌入、眉・髭・唇に彩色、素地仕上げ、寄木造。脇侍は左脇侍の「日光菩薩像」(重文)(190.9㎝)、左脇侍の「月光菩薩像」(重文)(185.1㎝)。いずれも満願寺より遷されている。木造、寄木造、素地仕上げ、玉眼。「四天王像(持国天、増長天、広目天、多聞天)」も安置されている。このうちの広目天、多聞天は満願寺より遷されたとみられている。
 鎌倉時代、1203年、快慶作の「不動明王坐像」(重文)(59.4㎝)は、大師様。三宝院護摩堂の裏堂で昭和期に発見された。木造、彩色、玉眼、截金文。
 平安時代作、「閻魔天像」(重文)(93.4㎝)は、木造、彩色。
 平安時代の「五大明王像」(重文)はかつて三宝院護摩堂に安置されていた。
 鎌倉時代(12-14世紀)の「地蔵菩薩立像」(163.6㎝)は、錫杖なく沓を履く。上醍醐地蔵堂に安置されていた。
 江戸時代の京仏師造仏として、吉野右京種次による1665年の三宝院弥勒堂の「聖宝像」、1667年三宝院弥勒堂の「空海像」、吉野右京種久による1772年の地蔵堂の「空海像」、吉野右京藤原種久による1773年祖師堂の「聖宝像」、祖師堂の「空海像」がある。これらの仏師は同一人物とも、親子であるともいう。
 開山堂に安置されている鎌倉時代、1261年作の開山・「理源大師坐像」(重文)(83㎝)は、木造、寄木造、彩色。
 国宝で41点、重要文化財は4万点、総数で10万点以上の古代以来の史料「醍醐寺文書」「醍醐寺聖教」、そのほかの文化財があるという。1985年以来、これらの文化財のデジタルデータ化が進められている。
◆建築 創建時の五重塔、桃山時代に移築された金堂、上醍醐の薬師堂はいずれも国宝指定されている。
 下醍醐の「金堂」(国宝)は、平安時代、926年に醍醐天皇により建立された。当初は釈迦堂と呼ばれた。鎌倉時代には金堂と呼ばれた。1295年に焼失、1470年に大内氏勢により焼失する。豊臣秀吉により1598年-1600年(1600年とも)に移築再建された。かつて、紀州湯浅の満願寺本堂で、平安時代に建立されたという。鎌倉時代に修復、慶長年間(1596-1615)の改修もある。木喰応其により移築されたという。多くの改修が施されており、さまざまな時代の建築様式が混在している。細部は近世のものが多い。前1間が外陣、一重、入母屋造、本瓦葺、7間5間、正面21m、奥行き17m。周囲に廻縁。
 
下醍醐の「五重塔」(国宝)は、平安時代、931年に第61代・朱雀天皇により発願、951年(952年とも)建立という。朱雀上皇女御・慶子の死により952年に供養された。第60代・醍醐天皇の菩提を弔うために建てられたという。当初の計画は五重塔と一重宝塔を東西に二塔建てる計画だったという。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)でも焼失せず、京都最古の五重塔といわれている。過去に震度6以上の地震に4回遭遇した。16世紀末の2度の大地震で倒壊はしなかったが塔が傾いたという。その後、1598年に秀吉により修復されている。相輪部分は13m(12.38m)で全体の三分の一(34%)を占め、長さではほかに例がない。相輪の水煙は唐草模様であり先端部分は火炎になる。上層の屋根は次第に小さくなるよう逓減して設計されている。初重、二重間は差が大きい。基壇があり、初重内部を板敷としている。丸桁は楕円形。内部は、低い床を張る。心柱が八角形で、柱、長押、天井などに装飾文様が施されている。大日如来像、両界曼荼羅、真言八祖像など、数少ない10世紀の作品として貴重視されている。平安時代としては室生寺に次ぎ古く、平等院鳳凰堂までの過渡的な美術装飾が見られるという。組物は三手先で先目の出が長い。3間5重塔婆、本瓦葺、高さ38.2m。
 上醍醐の「清滝宮拝殿」(国宝)は、本殿の下に位置している。もとは平安時代、902年に建立された。1089年に下醍醐から勧請された。室町時代、1434年(1439年とも)に再建されている。一重入母屋造、正面3間、側面7間。檜皮葺、東3間に庇、中央1間に軒唐破風。南面は懸造。指肘木の縁。空海が唐・長安の青龍寺から持ち帰ったという清滝権現を祀る。
 上醍醐の「清滝宮本殿」は、平安時代、1089年に建立された。三宝院勝覚が託宣により社殿2宇を建立したものという。1939年に焼失、その後現在の建物が再建された。三間社流造、一間社流造の社殿を障屏でつなぐ。
 上醍醐の「薬師堂」(国宝)は、平安時代、907年に醍醐天皇の発願、聖宝により913年に建立された。1121年に15世・定海により再建されている。1124年に落慶法要が行われた。乱石積基壇上に建てられている。内陣、外陣の柱上組物は平三斗、庇に化粧屋根裏天井、内陣内側に三斗を重ね組入天井としている。外陣結界の菱格子の上、内陣周りの蟇股は本蟇股が入り最古の例になる。左右の輪郭は別材による。内陣は3間2間の母屋で側面、背面は土壁、正面に引違格子戸を入れる。梁行は母屋より庇の方が柱間が大きい。母屋後半は須弥檀になる。醍醐寺唯一の平安時代の遺構として貴重とされている。土間床、一重、入母屋造、檜皮葺、5間4間。
 上醍醐の薬師堂の南に「経蔵跡」がある。鎌倉時代、1195年に建立された。宋版一切経が納められていた。1939年に焼失している。一切経は持ち出され焼失を免れた。大仏様式だったがいまは礎石のみが残る。
 
上醍醐の「五大堂」は、かつて開山・聖宝により鎮護国家、万民豊楽祈願道場として建立された。江戸時代、1606年に豊臣秀頼により建立される。1932年に焼失し、1940年に再建されている。入母屋造、檜皮葺。
 下醍醐の「清滝(瀧)宮本殿」は、室町時代、1517年に満済准后により建立された。応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失し、安土・桃山時代、1597年に義演により改修された。
 
「大講堂」は、宝形造、本瓦葺、実業家・山口玄洞の寄進により1930年に建立される。真言僧侶の育成道場。
 「霊宝館」は、かつて宝聚館と呼ばれた。近代、1930年に建てられている。現在は、宝物の陳列展示、所蔵する施設として使われている。陳列室は西面中央に唐破風屋根の車寄、千鳥破風、軒裏に繁垂木、北端に小書院がある。内部は南北端に大陳列室がある。設計・大江新太郎、施工・清水組。陳列室は鉄筋コンクリート造、書院造、平屋建、本瓦葺。宝庫は渡廊下により陳列室に繋がる。内部は木製に壁、床、天井は銅板張、鉄筋コンクリート造、土蔵風、壁は白漆喰塗、置屋根、桟瓦葺。
◆文化財 寺宝15万点、国宝41点、重文は4万点を所蔵しているといわれている。
 平安時代の空海真筆という「大日経開題」(国宝)、平安時代の「狸毛筆奉献表」(国宝)、鎌倉時代の後宇多天皇宸翰「当流紹隆教誡」(国宝)、南北朝時代の後醍醐天皇宸翰「天長印信」(国宝)。
 奈良時代の紙本著色「絵因果経」8巻(国宝)は、釈迦一代記、釈迦前世の善行を描く。料紙の上に絵、下に経文が書かれている。
 平安時代の聖宝真筆「理源大師処分状」(重文)、室町時代の「満済准后日記」(重文)、安土・桃山時代-江戸時代の「義演准后日記」(重文)、安土・桃山時代、狩野派六曲屏風「調馬図」。
 江戸時代の俵屋宗達筆「舞楽図屏風」(重文)は、風神雷神図屏風と同じ手法による。俵屋宗達の「田家早春図」(17世紀)(幅17.4㎝×上弦55.8㎝)は扇面に桜木と大胆にも2軒の家を配した。宗達の作品としてはほかに「芦雁図衝立」(重文)、「扇面散図屏風」(重文)などもある。
 安土・桃山時代の「醍醐花見短籍」(重文)。
 江戸時代(17世紀)の生駒等寿筆「松桜幔幕図」(重文)。
 「宋版一切経」(重文)はかつて経蔵に施入れされていた。1939年の火災で持ち出され、霊宝館に収蔵されている。
 鎌倉時代初期とみられる絹本著色「五大尊像」5幅(国宝)は、平安時代の絵仏師・円心を写した。截金文様、彩色、各193.9×126.2cm。
 鎌倉時代の絹本著色「閻魔天像」(国宝)、光背は菱形の切箔、着衣に淡彩、淡墨の描線。129.1×65.4cm。
 鎌倉時代の絹本著色「文殊渡海図」(国宝)。
 平安時代後期-鎌倉時代ともいう絹本著色「訶梨帝母像」(国宝)は、中国宋代絵画を原本として描いたと見られている。単独の本尊画としては現存最古になる。193.9cm×126.2cm。
 鎌倉時代・南北朝時代の「六字経曼荼羅図」(重文)、鎌倉時代の「大日金輪像」(重文)。鎌倉時代の「愛染明王画像」(重文)はかつて三宝院にあった。「弥勒曼荼羅図」(重文)。平安時代の「金剛夜叉明王図」(重文)、「大威徳明王像」(重文)。鎌倉時代(13世紀)の絹本著色「阿弥陀三尊像」、鎌倉時代後期(13-14世紀)の絹本著色「大元帥明王像」。
 平安時代、951年建立の五重塔初重に壁画「両界曼荼羅」(西に胎蔵界、東に金剛界)がある。心柱覆板に大日如来と四菩薩、四天柱、連子窓裏板などに描かれている。密教思想を立体的に描いた初例とされ、醍醐寺の延賀法師(?-942)が関与しているとみられている。北東腰羽目板の真言八祖像の空海像は、空海像最古の例になる。
 17世紀前半、俵屋宗達筆、紙本金地著色「舞楽図屏風」二曲一双(155.5×170㎝)は、金地の余白と舞人の絶妙に配している。
 室町時代(16世紀)の「金天目茶碗」は、黄金に輝き秀吉愛用とされ、病気回復を祈った義演に贈ったものという。木製。
◆五重塔板絵 五重塔初層の内部に「五重塔板絵」(国宝)がある。両界曼荼羅の諸尊、真言八祖像が描かれている。絵は、平安時代、951年の創建時のものが残されている。ただ、修復、保存のために移された、欠損、流出などがある。両界図は、心柱覆板4面より四天柱、連子窓8面にあり、胎蔵界は西部分、金剛界は東に描かれている。最古例になる真言八祖像は、周囲の腰羽目板8面にあった。
◆三宝院門跡 現在、塔頭の三宝院門跡が醍醐寺座主に就き、醍醐寺管長を兼ねている。真言宗醍醐寺派に850余りの末寺がある。
◆醍醐水 開山の伝承は、地主の神という老翁(横尾大明神の化身)が、湧き水(醍醐水、醍醐霊泉)を飲んだことに因む。
 上醍醐、醍醐山の標高400m付近には、いまも醍醐水が湧き出している。超軟水(硬度14.9ppm)という。 
◆石灯籠 上醍醐の清滝本殿と拝殿の間の崖に、2基の石灯籠がある。西の竿に鎌倉時代、「公安八年乙酉」(1285年)の銘がある。4面角形面取の火袋以外は8角形をしている。東は後の室町時代にそれを写したもの。
かな 1954年-1960年の五重塔解体修理の際に、初層天井板より片仮名、平仮名で書いた墨書「醍醐寺五重塔天井板落書」が見つかった。70か所にあり絵も含まれていた。
 平安時代、951年のこれらの「落書」には、平仮名、片仮名でそれぞれ三首の和歌が記されていた。片仮名で書いた一節を、平仮名で書き換えていた。当時すでに、平仮名と片仮名は独立した文字体系になっていたことを示す例とみられている。片仮名は僧侶が作り出したという。本来は漢字の読みでしかない補助的な符号の片仮名だけで記した日本語文章の現存最古例になる。
 片仮名で記した和歌の実例であり、「カズナラヌ ミヲウジガハノ アジロニハ オホクノヒヲヲ ワジラハスカナ」などと残されていた。『拾遺集』にある「数ならぬ身を宇治川の網代木に多くの氷魚も過ぐしつるかな」(勧十三 恋歌 よみ人知らず)より、「氷魚も」と「日をも」を掛けている。氷魚(ヒヲ、鮎の稚魚)の網代漁について、生物の殺生を痛む仏教的な心情を詠んでいる。
◆町石 下醍醐と上醍醐の間の2.6kmに、37本の「町石(丁石卒塔婆)」が立てられ、参詣者を道案内する。これは、金剛界37尊に因んでいる。一丁(109m)毎にあり、16丁目より上醍醐に入る。
◆桜・杉 境内には現在でも、シダレザクラ、ヤマザクラ、ソメイヨシノ、オオヤマザクラなど、1000本の桜が植栽されている。桜会(4月1日-21日)。
 女人堂から続く参道脇に、樹齢300年以上という杉の巨木2本が立つ「相生の杉」がある。この間を抜けると願いが叶うといわれている。
自然・醍醐の森 境内は醍醐の森と呼ばれている。1997年の「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「醍醐山」として選定された。
 下醍醐にはシイの巨木、アラカシ、カナメモチなどがある。総門前にクロマツがある。
 上醍醐の参詣道は、シイの巨木が多い。ムクノキ、スギ、ヤブニッケイ、リンボク、ヤブツバキ、サカキ、ネズミモチ、シロバイ、ツヨゴ、アオキ、イズセンリョウ、ビロウドイチゴ、マメズタ、ホオノキ、カギカズラ、モミ、イロハモミジ、ビワ、不動の滝のカゴノキ。ケンポナシ、コバンノキ、ウグイスカズラ、ミツデカエデ、ニワトコ、マタタビ、イズセンリョウ、キジノオシダ、ベニシダ、ビワ、音羽大王神の祠近くに絶滅寸前種のアサダの大木。カラスザンショウ、ウラジロガシ、ホオノキ、クマノミズキ、ホオノキ、ヒノキ、ツガ、ウラジロガシ、アカマツ、コシアブラ、ヤシャブシ、薬師堂近くのツクバネガシ。シロダモ、コハウチワカエデ、モチノキ、五大堂近くのアカガシ、モミ。カナクギノキ、ムラサキシキブ、開山堂近くにホウノキ。ツクバネガシなどが見られる。
 森には甲虫のミドリセンチコガネ(ウシオセンチコガネ)がいる。
 醍醐山にヤマトムチゴケ(苔類、準絶滅危惧種)、アカグロコメツキ(昆虫、絶滅危惧種)が見られる。2015年現在。
◆修行体験・精進料理 写経、昼食、拝観ができる。
 雨月茶屋で精進料理が頂ける。 075-571-1321
◆年間行事 初聖宝会(1月6日)、五大力尊仁王会(醍醐寺の五大力尊は、不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五大明王の総称になる。その功徳を称え、国家安泰、国民幸福を祈る法要で、「餅上げ力奉納」では、男性は150㎏、女性は90㎏の大鏡餅を持ち上げる)(2月23日)、奥之院初回峯行(3月第一日曜日)、大般若転読法要(4月1日)、豊太閤花見行列(秀吉の醍醐の花見を再現し、200人の行列が桜馬場から金堂まで練り歩く)(4月第2日曜日)、桜会中日恵印法要(4月15日)、西国第11番札所本尊御開扉法要(5月18日前後3日間)、三宝院門跡大峯山花供入峯修行(門跡、山伏が大峯山を踏破する)(6月6日-9日)、宗祖弘法大師降誕会法要(6月15日)、開山忌法要(聖法理源大師御命日)(7月6日)、万灯供養会(8月4日-6日)、万灯供養会法要・精霊供養大般若転読法要(8月5日)、開山忌(8月6日)、大菊花展(10月15日-11月23日)、除夜の鐘(22時半より金堂で法要、0時より2か所で鐘が撞ける。お札授与がある。整理券配布。先着で年越し蕎麦接待)(12月31日)。
 宝物館公開(4月、5月、10月、11月に公開)。写経(第3日曜日9:00-13:00、12・8月休会)。
 

*一般的な順路に沿って案内しています。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『古寺巡礼 京都 6 醍醐寺』『旧版 古寺巡礼 京都 3 醍醐寺』『社寺』『京都・山城寺院神社大事典』『事典 日本の名僧』『京都・世界遺産手帳 9 醍醐寺』『飛鳥白鳳の甍 京都の古代寺院』『京都古社寺辞典』『伏見の歴史と文化』『洛東探訪』『仏像』『京都の仏像』『京都の仏像 入門』『続 古佛』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』『古都の美をめぐる』『秀吉の京をゆく』『庭を読み解く』『世界遺産のツボを歩く』『京都奈良の世界遺産』『日本美術全集 7 浄土教の美術』『洛東探訪』『京都の近代化遺産』『京都の寺社505を歩く 下』『京都 神社と寺院の森』『こころ美しく京のお寺で修行体験』『週刊 日本の美をめぐる 2  奇跡の出会い 宗達と光悦』『週刊 仏教新発見 12 醍醐寺 仁和寺』『週刊 古寺を巡る 33 醍醐寺』『週刊 古社名刹巡礼の旅 39 山科・醍醐』『週刊 日本の仏像 第23号 醍醐寺 国宝薬師三尊と法界寺・阿弥陀如来』『週刊 日本の仏像 第23号 醍醐寺 国宝薬師三尊と法界寺・阿弥陀如来』『週刊 日本庭園をゆく 10 京都洛南・宇治・南山城の名庭 醍醐寺 三宝院 平等院』


   関連・周辺三宝院〔醍醐寺〕     関連・周辺理性院〔醍醐寺〕     関連・周辺一言寺(いちごんじ)(醍醐山金剛王院)     関連・周辺長尾天満宮    関連・周辺随心院      周辺    関連聖護院     関連神護寺      

水掛露仏、右より江戸時代作の地蔵菩薩、神変大菩薩(役行者)、弥勒菩薩、理源大師、不動明王(1586)。
御千度石、この石と堂の間を1000回往復すると山上に登ったのと同じ功徳があるとされている。
丁(町)石。梵字、仏名(大日如来を含めて37尊の仏)、町数が刻まれている。鎌倉時代作、江戸時代の補修を経ている。











「ひとりする行を楽しとおもひつつ醍醐山路の嶮しきを踏む」、吉井勇

秀吉の醍醐の花見の際に舞台となったという槍山。

寺務所

清滝宮拝殿(国宝)、もとは平安時代、902年に建立された。室町時代、1434年(1439年とも)に再建された。一重入母屋造、正面3間、側面7間。檜皮葺、東3間に庇、中央1間に軒唐破風。南面は懸造。指肘木の縁。空海が唐・長安の青龍寺から持ち帰ったという清滝権現を祀る清滝宮本殿(奥)と拝殿。
清滝宮本殿、1089年に建立、1939年に焼失、その後再建された。三間社流造、一間社流造の社殿を障屏でつなぐ。

横尾大明神、地主神。聖宝は笠取山で白髪老翁の地主神・横尾明神と出会い、霊泉を口にして「醍醐なるかな」と言ったという。

醍醐水、横尾明神が示した霊泉湧くところに、庵を結び、准胝・如意輪観音を安置したという。この地が醍醐寺の始源になる。

醍醐水、いまも水が絶えることはなく湧き出している。

准胝(じゅんれい)堂、1939年に焼失し、1968年に再建された。2008年に落雷で焼失し現在再建中。
 本尊は准胝観音像、もとは開山・聖宝が自刻の観音を祀った草堂を始まりとする。西国33ヶ所観音霊場11番札所であり唯一、准胝観音像を本尊とする。現在の本尊は、江戸時代作。

薬師堂(国宝)、一重入母屋造、檜皮葺、5間4間。平安時代、907年に醍醐天皇の発願により建立。1121年に15世・定海により再建された。上醍醐唯一の平安時代の遺構として貴重。
 2000年までは薬師三尊像(薬師如来坐像、日光・月光菩薩)、吉祥天像、閻魔天像、帝釈天像が安置されていた。2012年より薬師三尊像が安置された。薬師如来坐像(1.8m)、日光・月光菩薩立像(1.22m)
ヒノキ材一木造。

五大堂、もとは開山・聖宝により鎮護国家、万民豊楽祈願道場として建立された。江戸時代、1606年に豊臣秀頼により建立される。1932年に焼失し、1940年に再建されている。入母屋造、檜皮葺。
 かつては本尊・五大明王像(不動、降三世、軍荼利、金剛夜叉)(重文)が祀られていた。現在も堂内に置かれている江戸時代の桂昌院(1627-1705)奉納の唐金燈籠一対は、「元禄十一年(1698)」の銘が刻まれている。

如意輪堂、一重入母屋造、懸造、檜皮葺、懸造。5間3間。もとは平安時代、876年に理源大師聖宝により創建された。江戸時代、1605年に焼失、翌1606年に、豊臣秀頼により再建された。堂下の岩には、貞観開眼の際に如意輪観世音菩薩が飛来し立ったという伝承がある。

白山権現社、平安時代、897年、聖宝が山上鎮守として勧請した。江戸時代、豊臣秀頼により再建された。

開山堂(御影堂)(重文)、廟堂形式の入母屋造、8間5間。当初は平安時代、911年に聖宝の高弟・観賢座主により創建された。自刻の聖宝像を安置した。1260年、焼失する。江戸時代、1608年に豊臣秀頼により再建された。
 軒唐破風厨子内に開山・理源大師の彩色坐像(重文)、右に第1世・観賢、左に弘法大師御影を祀る。
 1608年に開山の聖宝の遺骨が発見されている。また、昭和期の修理でも遺骨が見つかったという。

上醍醐陵、白河天皇皇后賢子、白河天皇皇女皇后子内親王、白河天皇皇女令子内親王、鳥羽天皇皇女禧子内親王が葬られている。

上醍醐からの眺望、晴天であれば大阪湾も望めるという。
map 醍醐寺 〒601-1325 京都市伏見区醍醐東大路町22 075-571-0002  9:00-16:30(冬季9:00--15:30)

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