耳塚(鼻塚) (京都市東山区) 
Mimi-zuka(Ear Mound)
耳塚(鼻塚) 耳塚(鼻塚)
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墳丘の高さは7m。


五輪石塔








周囲の石の玉垣には、寄進した歌舞伎役者、新派役者などの名が刻まれている。伏見の侠客・小畑勇山が発起人になった。


「耳塚修営碑」
 耳塚(みみづか)は、豊国神社、方広寺の西方にあり、当初は「鼻塚(はなづか)」と呼ばれていた。江戸時代以降、儒者により「耳塚」と呼ばれるようになった。高さ7m、直径26mある。
 耳塚を含む一帯は「方広寺石塁及び石塔」(国史跡)に指定されている。 
◆歴史年表 安土・桃山時代、1592年、文禄の役が起こる。
 1597年-1598年、慶長の役が起こる。
 1597年、耳塚が築造されている。当初は鼻塚と呼ばれた。9月、五山僧400人による大供養が修される。
 1599年、秀吉没後、大改修されている。
 江戸時代、1625年、朝鮮通信使副使・姜弘重(1577-1642)は塚を訪れた。
 1711年、朝鮮通信使の大仏殿前での饗宴に際して、耳塚は竹垣で囲われる。
 1719年、朝鮮通信使の大仏殿前での饗宴に際して、耳塚は竹垣で囲われる。
 近代、1898年、豊公三百年祭(主宰は豊国会、黒田長成会長)に際して、豊国神社、妙法院、高台寺、智積院、耳塚一帯で顕彰祭が催される。耳塚も大改修され供養の法会が行われる。「耳塚修営碑」が立てられる。秀吉は「邦威振張の符表」として再評価された。
 1915年、石棚に改修される。
 現代、1969年、耳塚、方広寺石塁、馬塚が国の史跡に指定された。
 1983年、法要が執り行われる。
 1986年、塚は京都市史跡に指定された。
豊臣秀吉 安土・桃山時代の武将・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、1537-1598)。小猿と呼ばれ日吉丸と称した。父は尾張国の百姓、織田信秀の足軽・木下弥右衛門、母は百姓の娘なか(天瑞院)。1551年、家出、後に今川氏の家臣・松下之綱、1554年、織田信長に仕える。1561年、浅野長勝養女・ねねと結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗った。戦功を重ね、1573年、小谷城主、羽柴姓と筑前守、信長の天下統一にともない西国転戦。1582年、備中高松城の毛利軍と戦いの最中に本能寺の変が起こり、和睦し軍を返し山崎で明智光秀を討つ。1584年、小牧・長久手で織田信雄、徳川家康の連合軍に敗れる。1585年、紀州根来と雑賀、四国・長宗我部元親を服した。関白に進む。1586年、聚楽第、広寺大仏造営に着手、太政大臣に進み豊臣の姓を賜わる。1587年、九州征討、聚楽第が完成する。1588年、第107代・後陽成天皇が聚楽第行幸、検地、刀狩を行う。1590年、小田原の北条氏直らの征討、朝鮮使を聚楽第に引見、1591年、利休を自刃させる。1592年文禄の役を始め、甥の養子・秀次に関白職を譲り、太閤と称した。1593年、側室淀殿に秀頼が生まれると、1595年秀次を謀反人として切腹させ、妻妾子女らも処刑した。1597年-1598年、朝鮮を攻めた慶長の役に敗れ、伏見城で亡くなる。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。
◆朝鮮出兵 豊臣秀吉(1536/1537-1598)の明征服「高麗御陣(こまごじん)」、「文禄・慶長の役」(1592-1598)(朝鮮では「壬辰・丁酉の倭乱」<イムジン・チョンユウカエラン>、中国では「万暦朝鮮役」)の際に、当初、16万人の兵が朝鮮に侵攻した。
 秀吉は、明、朝鮮の征服みならず、天竺(インド)、ルソン(フィリピン)、高山国(台湾)征服の意図があった。諸国大名も、海外での領土拡大を望み、堺や博多の大商人も海外交易の意図から支持した。なお、秀吉の大仏殿造営に際して、集められた木材の一部は、朝鮮出兵の際の軍用船の資材に転用されている。
 秀吉の朝鮮出兵について、頼山陽(1781-1832)は『日本外交史』の中で、3歳で夭逝した子・鶴松(1589-1591)への失意の念が、「武を天里の外に用ふ」との見方を示した。鶴松は1591年8月5日に急逝している。9月、秀吉は兵船を造らせ、朝鮮出兵を命じている。
 戦いの前線は、肥前名護屋城に置かれた。出兵は一番隊(小西行長、宗義知ら)から九番隊(羽柴秀勝、長岡忠興)まであり、兵力総数は30万5300人に上った。
 当初、日本軍は鉄砲も使い優勢に戦いを進める。朝鮮側の大きな抵抗は見られなかった。日本軍は、漢城、平城、豆満江まで侵攻する。その後、李舜臣(イ・スンシン、1545-1598)の水軍による亀甲船の反攻で日本軍は大敗する。義兵の抵抗も各所で起きた。後に、明軍は朝鮮を支援し、援軍を送るが、小早川隆景、立花宗茂らはこれを破っている。
 一時、講和交渉が行なわれた。だが、秀吉は明の国書で日本国が属国扱いされたとして怒り、交渉は決裂した。安土・桃山時代、1597年、第二次の朝鮮出兵が行われ、14万人の兵が再び送られた。1598年、秀吉没後、日本兵は朝鮮から撤兵している。
◆耳・鼻 秀吉の命により加藤清正(1562-1611)、小西行長(1555?-1600)らの武将は、「戦功の証」として朝鮮の人々の鼻や耳を削いだ。ただ、「鼻請取状(はなうけとりじょう)」という公式文書(藤堂、黒田、吉川、鍋島の各家3万人分)が残されていることから、鼻削ぎだけが行われともいう。
 当初の「鼻塚」から「耳塚」の呼称に変わったのは、儒学者・林羅山(1583-1657)が、1641年に書いた『豊臣秀吉譜』以来ともいう。以後、「鼻斬り」は「耳鼻斬り」に変わり、塚も「耳塚」に変わった。最後に、「鼻斬り」の事実も「耳斬り」に変化させられたとみられている。
 当初は、朝鮮軍将兵の首を日本に送っていた。やがて、首は鼻に代わった。軍兵一人に、鼻三つが割り当てられていたともいう。後に、鼻は朝鮮の軍民を問わず、老若男女僧俗より削がれた。鼻は塩漬け(塩石灰)、酢漬けにして本格的に日本に持ち帰るようになる。その数は、桶15杯にもなった。数は推定5万個とも10万個以上ともいう。鼻は、壺、大桶、大樽などに、1000-2000個単位で入れられていたともいう。諸大名・家臣を監視する軍目付がこれらの数を点検していた。桶は船で名護屋に送られ、海路で大坂に向かう。ここで荷揚げされ、牛車、馬車に積み代えて陸送し、京都まで届けられた。秀吉は、これら諸大名の戦功を褒め称え感状を出していた。
 耳鼻を削ぐという「戦功の証」の方法は、秀吉に限らない。織田信長の一向一揆鎮圧以来の常套手段になっていた。戦国時代、武将の首が討ち取られると首級を持ち帰った。下級兵卒の場合には、首の代わりに鼻を削いだという。
 なお、この戦は「焼き物戦争」といわれ、多くの朝鮮人陶工なども日本に連行されている。捕虜になり連行された人々の数は7500人ともいう。
◆耳塚 耳塚は、安土・桃山時代、1597年に築造されている。当初の塚の規模は小さく、翌1598年に拡張された。塚築造について、秀吉が後世に自らの偉業を残すためだったという。また、夜な夜な、秀吉の前に耳、鼻のない人々の霊が現れ、秀吉を苦しめたからともいう。また、俗説として、大仏鋳造に際して、鋳型の土を埋め「御影塚(えみづか)」とした。それが後に「耳塚」と誤って呼ばれたともいう。
 京都五山の400人の僧を集め、盛大な施餓鬼供養が行れている。秀吉の信任が篤かった相国寺僧・西笑承兌(1548-1608)により、「秀吉の慈愍(じびん、慈しみ哀れむの意)」の旨が卒塔婆銘文に記された。強制連行された朝鮮李氏王朝時代中期の官人、朱子学者・姜沆(1567-1618)は、この旨に対して批判している。
 翌1598年、秀吉没後、日本兵も朝鮮から撤兵した。1599年に塚は大改修されている。一時は、塚の周りに堀も掘られたという。
 江戸時代、朝鮮通信使の歓迎の宴会が、一時、大仏殿前で行われていた。この際に、儒者・雨森芳洲(1668-1755)の進言、儒者・政治家の新井白石(1657-1725)の仲介により、耳塚には竹垣の覆いが施されていた。
 近代、1898年、耳塚周辺一帯で61日間にわたる盛大な豊公三百年祭が催される。この時、塚の修復と「耳塚修営碑」が立てられている。秀吉の「京観(戦功)」とともに、「赤十字社之旨」などと新たに刻まれた。
◆五輪石塔 現在、墳丘上に立てられている五輪石塔は、近代、明治期(1868-1912)に立てられた。高さ7m。
 石柵には、中村鴈治郎、中村扇雀、井上正夫、曾我廼家五郎、桃中軒雲右衛門らの名が刻まれている。
◆年間行事 慰霊祭(ギョレオル活動国民運動の主催による。韓国国立民俗国楽院舞踏団が舞う。)(10月頃)。


*普段は塚敷地内立入禁止。
*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都案内 歴史をたずねて』『京の石碑ものがたり』『耳塚の話』『秀吉・耳塚・四百年』『京都府の歴史散歩 中』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『京都・観光文化 時代MAP』


  豊国神社      方広寺      豊国廟     正面橋      相国寺       聚楽第      妙教寺・淀古城       烏寺(専定寺)       

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 耳塚 〒605-0931 京都市東山区茶屋町  
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