枳殻邸(渉成園) (京都市下京区)
 
Shosei-en Garden(Kikokutei)
枳殻邸(渉成園) 枳殻邸(渉成園) 
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渉成園西門





高石垣、切石、礎石、石臼、山石、瓦などが巧みに組み合わされている。


枳殻、園のもう一つの名称「枳殻亭」の由来になった。かつては、枳殻の生垣が園の周囲にあったという。








庭園北口




臨池亭(左)と滴翠軒(奥)、臨池亭は近代、1887年に再建されている。池に吹き放しの廊下が迫り出して建つ。以前は2棟を併せて臨池亭と呼んでいた。現在の臨池亭は、喫茶居と呼ばれていた。臨池亭は、8畳2間、南面、東面に1間の縁が付く。滴翠軒とは吹き放しの廊下で鉤の手につながっている。


臨池亭、滴翠軒前の池泉には、築山「キリシマヤマ」が造られている。滝口「滴翠」が組まれている。池の北東に檜垣の灯籠が立つ。





滴翠軒、近代、1887年再建、「十三景の一」、池に面しており、臨池亭とは廊下で繋がっている。室内には花頭窓、半月形吹抜の床脇が設えられている。
 東本願寺の東に位置している国の特別名勝の庭園・渉成園(しょうせいえん)は、枳殻邸(きこくてい)、東殿、東園、百間屋敷とも呼ばれた。16000坪(52960㎡)の敷地を有している。
 東本願寺別邸、飛地境内地になっている。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉により現在の池泉東付近に御土居が築造されている。
 江戸時代、1641年、3代将軍・徳川家光は、現在地を東本願寺13世・宣如に与えた。
 1643年、園の造営を想定し、御土居とその東を流れていた高瀬川の流路を東に移している。
 1653年、庭園は、宣如の依頼により、石川丈山が六条院の伝承に基づき作庭したという。桃山城の建物が移されたともいう。宣如は以来、隠居所にした。
 1827年、思想家・文人の頼山陽(1781-1832)が園を訪れ、園内「十三景」を讃えた。
 1858年、安政の大火により焼失した。
 幕末、徳川慶喜が一時滞在した。坂本龍馬が幕閣に会いに来たという。また、新撰組が警護していたという。
 1864年、蛤御門の変で類焼している。
 1865年から近代にかけて復興された。
 近代、1880年、第122代・明治天皇が来園する。
 1936年、国の名勝に指定されている。
 現代、1996年より、庭園の一般公開が始まる。
◆渉成園・枳殻亭 「渉成園」の名は、中国六朝時代の詩人・陶淵明(365-427)の「帰去来辞」の「園日渉而成趣(園は日々に渉<わた>って以て趣を成し)」に因る。
 また、かつて周囲に枳殻(からたち)の生垣が組まれたことから、枳殻(きこく)邸とも呼ばれた。
◆宣如 江戸時代初期の浄土真宗の僧・宣如(せんにょ、1602-1658)。東本願寺第12代・教如の第12子(3男)として生まれる。1614年、東本願寺第13代となる。1653年、退隠している。
◆石川丈山 安土・桃山時代-江戸時代の文人・石川丈山(いしかわ じょうざん、1583-1672)。石川嘉右衛門重之。三河生まれ。父は武士・信定。源氏の流れを汲む三河・徳川家譜代の臣の家になる。武芸に優れ、16歳で徳川家康の近習になる。1600年、関ヶ原の戦いに出陣、家康の信望を得る。1615年、旗本として参戦した大坂夏の陣で、禁じられていた先陣争い(一番槍り)をし抜け駆ける。家康の怒りを買い追放される。剃髪し妙心寺に潜居した。1616年、母の病を看るため江戸へ出た。1617年、京都に戻り、友人の儒学者・林羅山の勧めにより、儒学者・藤原惺窩(せいか)門下となり朱子学を修めた。41歳より、病身の母養生のために安芸・浅野家に仕え10数年に及ぶ。母没後に辞する。相国寺近くに庵「睡竹(すいちく)堂」を結び隠棲、1641年、一乗寺村の庵に移った。庵には、林羅山、陶工・絵師の尾形乾山、第112代・霊元天皇なども訪れた。角倉素庵らとも親交する。1645年、舞楽寺村に祠を築き頑仙祠と名付ける。70歳で京都所司代・板倉重宗に、故郷での隠退を願い出るが許されなかった。以後、門戸を閉じたという。「渡らじな 瀬見の小川の 浅くとも 老の波そう 影もはづかし」は、後水尾上皇の誘いを断る歌だった、霊元天皇が丈山の書を見たいとの申し出たことへの返歌ともいう。
 妻帯しなかった。兵法、剣術、鉾、鉄砲、馬術に優れた。詩文にも秀で「日東の李杜」といわれる。凹凸かには、狩野探幽・尚信筆による、中国の詩家36人の肖像を掲げる詩仙の間が設けられ、丈山の詩も掲げられた。書は隷書、茶道にも長け、煎茶も嗜み「文人茶の開祖」といわれる。三亭(酒店、飯店、茶店)の始祖ともいう。作庭家としても活躍し、枳殻邸、一休寺、蓮華寺などの庭園の修復などに関わった。
 丈山は、武士を辞して江戸へ出た後、友人の儒学者・林羅山の勧めにより、儒学者・藤原惺窩(せいか)の門下となり朱子学を修めた。安芸・浅野家での仕官勤めは、母の死を契機に辞した。相国寺近くに「睡竹(すいちく)堂」という庵を構えて隠棲し、その後当庵に移った。庵には、儒学者・林羅山、陶工・絵師の尾形乾山、第112代・霊元天皇なども訪れていた。
 丈山は、詩文にも優れ、「日東の李杜」といわれた。書は隷書、茶道、作庭にも長けた。煎茶も嗜み、「文人茶の開祖」といわれている。作庭家としても活躍し、枳殻邸、一休寺、蓮華寺の庭園に関わった。
◆建築 持仏堂の園林堂、傍花閣は、入母屋造こけら葺、起破風屋根の楼門、切妻造唐破風桧皮葺の「回棹廊」。
◆河原院 平安時代初期、第52代・嵯峨天皇の皇子左大臣源融(みなもとのとおる、822-895)が、奥州塩釜の風景を模して作庭した六条院跡ともいわれている。謡曲「融」にも登場し、名月下の河原院で融大臣が舞う。
 江戸時代の俳人・考古学者・北村季吟(1625-1705)が著書の中で類推している。ただ、河原院跡は現在地の北東(鎌倉時代、『拾芥抄』)にあったとされ、今日では渉成園を河原院とする説は否定されている。
 六条院はかつて、東は鴨川まで、北は現五条通り近くにまで広がる広大な敷地だったという。4町の規模があり、四季それぞれの風情を織り込んで配置されていた。源融は、藻塩を焼かせてその風情を愉しんだ。塩は、難波の海の汐を汲んで、はるばるこの地まで運ばせた。
 源融は、ほかに宇治・平等院などの別荘も持ち、「河原左大臣」といわれた。紫式部『源氏物語』の主人公、光源氏の実在モデルとされ、邸宅だった六条院も舞台として登場する。風流三昧の生涯を送った源融は、皇位に就くことはかなわなかった。河原院はその後、第59代・宇多法皇の崩後寺・宇多院となった。
 付近に今も残る塩竈町や塩小路通などの地名は、六条院の名残りともいわれている。鴨川に舟入の川が設けられ、毎朝、30石の海水が浪速から運ばれていた。魚や貝まで飼われていたという。
 園内には、源融の供養塔といわれる九重石塔が印月池にあり、縮遠亭近くに塩釜、塩釜の手水鉢という宝塔の灯身などがある。
◆御土居 この地は、豊臣秀吉が安土・桃山時代、1591年頃に築造した御土居の南東端に当たる。御土居は河原町通、南西方向の園内の築山、中島の北大島、南大島に造られていたとみられている。これらはほぼ同じ標高であり、北東から南西に直線状に並んでおり、かつての御土居遺構とみられている
◆庭園 東山を借景とした大掛かりな池泉回遊式の庭は、大名庭園形式になっている。石川丈山の作庭という。持仏堂「園林堂」と山門「傍花閣」を結ぶ軸線を元に作庭されたという。
 江戸時代、1827年、頼山陽が園を訪れ、『渉成園記』中で「十三景」を讃えた。印月池(いんげつち)が邸の6分の1を占める。その名は、東山から昇った月が、水面に影を写すことから名付けられた。
 池には、かつて園の北東部から高瀬川の水が引かれていた。現在は、琵琶湖疏水から分流した本願寺水道より、園の北にある小池に導かれ、鑓水により印月池に引かれている。また、印月池の北東部より、井戸水が流れている。
 中島(五松塢)は清水山、小島は阿弥陀ヶ峰、南大島は東隣の山を象っているという。中島(北大島)には、木製の反橋「侵雪橋(しんせつきょう)」、木造の「回棹廊(かいとうろう)」が架けられている。南大島の東に松の島がある。
 茶席「縮遠亭(しゅくえんてい)」前には、塩釜を模したという筒状の手水鉢が置かれている。
 鶴島(塔の島)という小島に、鎌倉時代作の九重塔が立つ。基礎に格狭間、開花蓮華、軸部(塔身)は大面取、四方仏、9つの笠石を重ねる。相輪は失われ、宝篋印塔の笠と宝珠がのる。花崗岩製、3.3m。
 大書院大広間より東に東山の阿弥陀ヶ峯を借景として取り入れ、前庭は芝地になる。北端の滴翠軒、臨池亭の間は吹き放しの廊下で結ばれ、東に池泉式庭園がある。
◆茶室 中島に、二畳台目の「縮遠亭」がある。
◆文化財 園林堂(おんりんどう)に版画家・棟方志功(1903-1975)の「天に伸ぶ杉木」「河畔の呼吸」(1958)がある。2011年、漫画家・井上雅彦(1967-)による屏風「親鸞」がある。
◆花暦 ツバキ・ウメ(2月-3月)、ユキヤナギ(3月-4月)、ヒカンザクラ・ヤマザクラ・ソメイヨシノ・ベニシダレザクラ(4月)、カラタチ(4月中旬-下旬)、フジ(4月-5月)、ショウブ(5月)、ツツジ(5月-6月)、ムラサキシキブ(7月、実は9月-11月)、スイレン(5月-9月)、クチナシ(6月)、ノカンゾウ・ムラサキシキブ(8月-9月)、ハギ(8月-10月)、チャノキ・ツバキ(10月-12月)。秋には楓、銀杏の紅葉。
◆琵琶湖疏水 庭の水は、かつて高瀬川から引かれていた。近代以降は疏水が利用されている。明治期、東本願寺再建の時、防火用水として琵琶湖疏水貯水池(蹴上)より寺まで、本願寺水道(1894-1896)、4.7kmが引かれた。いまは、この本願寺水道と地下水が利用されている。


*一般的な順路に従って案内しています。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 上』『京都四季の庭園』


  東本願寺      佛願寺      文子天満宮       詩仙堂       平等院(宇治市)        

境内を流れる鑓水(やりみず)、印月池に注いでいる。

茶室「代笠席(たいりつせき)」、煎茶席、代笠の名は、人里離れた地を訪れた旅人が雨宿りする意味という。近代、1888年建立、3間、半間の土間・小縁、4畳半が2室ある。4畳半の東室は板間に丸太柱、左に天袋、東に潜口。西室は赤松の床柱、床脇に地袋と二重棚、西に下地窓。
 東に茶畠がある。

亀の甲の井戸、亀の形に石が組まれている。中心に井筒があるが、現在は湧水していない。

園林堂(持仏堂)、正面4間、中央間に桟唐戸。室内に仏間、入側に版画家・棟方志功(1903-1975)の1958年作障壁画「天に伸ぶ杉木」「河畔の呼吸」42面(44面とも)がある。(非公開)


虎関師練筆「園林」の扁額。

茶室「蘆菴」、園林堂の南に隣接する。1957年に再建された。二階建てで、一階は7畳、西に床、二方に縁が付く。二階は4畳半(主室)は煎茶席で北に板敷、中央に赤松の曲木、左を床、右脇に二重棚、二方に肘掛窓。台目3畳(次ぎの間)。
 庵の名「蘆菴」は、江戸時代には「露菴」とされていた。中国、唐末・五代の禅僧・雲門文堰(864-948、うんもんぶんえん)の言行録より一文字「露」が取られたという。雲門文堰蘇州嘉興(浙江省嘉興)に生まれた。禅門五家七宗の一つ雲門宗の開祖。諡号は大慈雲匡真弘明禅師。慧能門下の雪峰義存(822-908)に参しその法を嗣ぐ。広東省の雲門山に住み、雲門宗を開いた。著書『元亨釈書』

中門、蘆菴の露地

蘆菴の露地

蘆菴の露地

蘆菴の露地

蘆菴の露地

傍花閣(ぼうかかく)「十三景の二」、近代、1892年に再建、楼門造と数寄屋造、左右に山廊付、こけら葺。園林堂(持仏堂)の三門の意味がある。
 階上に4畳半の部屋、天井中央に石川丈山考案の磁石板の十二方位板がある。

傍花閣の山廊、階段が付いておりここより二階に上がる。

傍花閣

園内の鑓水

ヒノキ科のイブキ(ビャクシン)の大木、2本あり枯死している。

侵雪橋、北大島に架かる木造の反橋。「十三景の六」

印月池、「十三景の三」、築山には豊臣秀吉の御土居が流用されたといわれている。池には、かつては園の北東部の高瀬川の水が引かれていた。現在は、琵琶湖疏水から分流した本願寺水道より、園の北にある小池に一端導かれ、園内の鑓水を通り印月池に引かれている。また、印月池の北東部からは井戸水、鑓水を通じて引かれている。

臥龍堂(南大島)、池泉中の南大島、「十三景の四」、かつては島に鐘楼堂「臥龍堂」が建てられていたことから、この名で呼ばれている。堂は二階建、瓦葺で、漱枕居で開かれた茶会の客人が縮遠亭に舟で向かう際に、刻限を告げるために鐘が鳴らされた。江戸時代、1858年、安政の大火により焼失し、その後再建されていない。

源融ゆかりの塔、平安時代の源融の供養塔ともいわれている。池泉中の小島、鶴島に立つ九重塔。ただ、塔は後世の鎌倉時代中期作とみられている。
 基礎に格狭間、開花蓮華、軸部(塔身)は大面取、四方仏、9つの笠石を重ねる。最上部の相輪は失われ、宝篋印塔の笠と宝珠がのる。花崗岩製、3.3m。
 塔は園築造以前より、この地にあったともいう。宇治・塔の島の景色を写したものともいう。

塩釜の手水鉢、縮遠亭の脇にある。本歌になっている。石造宝塔の塔身を転用している。鎌倉時代作とみられている。

茶室、縮遠(しゅくえん)亭の上段の間、池泉の北大島の築山に建てられている。近代、1884年に再建された。三畳敷、舞台造。かつては、漱枕居で開かれた茶会の客人が縮遠亭に舟で向かう趣向になっていた。かつて、この地から東山36峰の阿弥陀ヶ峰が見えていたという。また、島は、豊臣秀吉が築造した御土居遺構になっている。

縮遠亭上段の間、舞台造

茶室、縮遠亭の茶室(抹茶席)

茶室、縮遠亭、板間部分、吹き抜けになっている。

碧石の石幢(せきどう)複制、侵雪橋近くに据えられている。
 下より基礎に幢身、その上に中台、さらに仏像をあらわす六角形の龕部(がんぶ)、笠がのる。石灯籠との違いは、笠に蕨手の装飾がなく、また、竿(幢身)に節がない。火袋の代わりに龕部を置く。碧石は使われていない。鎌倉時代初期に現れ、南北朝時代には六地蔵石幢が造られた。
 この石幢付近は、かつて五松塢(ごしょうう)と呼ばれ「十三景の五」。5本の松が植えられていたとも、一幹5枝の松があったともいう。塢とは、小さな土手という意味。


井泉「塩釜」、縮遠亭近くの築山麓にある。石段で降りる横穴の中に井筒が設けられている。かつては、縮遠亭での茶会の際に水が汲まれ泉水であったという。現在水は涸れている。

回棹廊(かいとうろう)、月見台になっている。
近代、1884年頃に再建された。池泉の北東に架けられた檜皮葺の屋根に覆われた木橋。中央に唐破風屋根、

回棹廊、天井にはかつて金燈籠を吊るし明かりとした。左に藤棚の紫藤岸がある。

紫藤岸(しとうがん)、池泉東北端の池畔にある藤棚。かつては野生種であったという。


かかり藤


獅子吼、印月池北東にある注水口、築山の石組みから池泉に流れ込んでいる。かつては高瀬川から水が引かれていた。現在は、地下水を汲みあげ、水を流し、池に導いている。


獅子吼から続く園内の鑓水

印月池、園の南西方向に京都タワーが建っている。

丹楓渓(たんぷうけい)、池泉北岸の楓の並木、「十三景の十三」

ろう(門+良)風亭、大書院。江戸時代末期、1864年の安政の大火で焼失し、翌1865年に再建された。ろう風は大広間になっており、畳を外すと能が演じられた。北西の嘉楽といわれる部屋は、近代、1880年の明治天皇来園の際に休息所として使われた。
 石川丈山筆「ろう風亭」の扁額が掛る。ろう風は、中国・崑崙山脈頂部にあるといい、仙人が棲むという。
 かつてこの地には、「十三景の九」偶仙楼といわれた高楼が建てられていた。伏見城から移築されたという。1858年の安政の大火で焼失後再建され、1864年の大火で再び焼失し、その後、再建されなかった。
 


ろう(門+良)風亭からの庭園の眺め。


印月池、「十三景の三」、広さは1700坪(5619.8㎡)あり、園面積の6分の1を占めている。左が北大島、右が南大島。

「明治天皇御休所枳殻邸」の石標、天皇は近代、1880年に当園を訪れている。ろう(門+良)風亭の近く、双梅檐の傍に立つ。

双梅檐(そうばいえん)、「十三景の十」、漱枕居近くにある紅梅、白梅など20株ほどの梅林。江戸時代、1864年の安政の大火以前は、ろう(門+良)風亭の檐(ひさし)がこの部分まで達していたことから名付けられた。

漱枕居(そうちんきょ)、江戸時代、1865年に再建された。「十三景の十一」、池泉の西南岸に、池に茶室の一部が迫り出して建つ。名の由来は、旅路にあることを意味する「漱流枕石(そうりゅうちんせき)による。四畳半、三畳敷の座敷、土間、三畳東に手摺付縁がある。かつては、煎茶三席の酒店として使われた。
 茶会の客人はここから対岸の茶室「縮遠亭」に舟で向かっていた。

楠木の大木、南口近くに立つ。


大玄関、近代、1884年頃移築された。大宮御所より移築された。車寄は正面4間、切妻造、玄関は2間。部屋は8畳二間。

馬繋、明治初期建立。ここに馬を繋いだ。

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渉成園(枳殻亭)グーグルマッブ・ストリートビュー  平安京オーバレイマップ
 渉成園 〒600-8190 京都市下京区下数珠屋町通間之町東入東玉水町  075-371-9210  9:00-17:00(3月-10月、9:00-16:00(11月-2月)。

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