方広寺 (京都市東山区) 
Houkou-ji Temple
方広寺 方広寺
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本堂、近代、1878年に再建された。


本堂、扁額


本堂、大仏は都合6回造られた。これは5回目に造られた大仏の「眉間籠り仏(みけんこもりぼとけ)」、仏の眉間、白毫(びゃくごう)部分に納められていたという。眉間籠り仏はかつて、何体か残されていたという。


本堂、本尊の盧遮那坐像、5回目に造られた大仏という。木像金箔で10分の1の大きさという。


大黒天堂、本堂東 




大黒天堂、平安時代、伝教大師(767-822)作という大黒尊天、鎧を身に着けており、秀吉の護持仏となっていたという。伝教大師(最澄)が、第50代・桓武天皇の勅命により、比叡山へ上る途中、笑みを含む神人が現れ、法華経薬草諭品の句を唱えた。その所感の像を自ら刻んだものという。


鐘楼





鐘楼内天井画、天女が描かれている。


梵鐘


鐘の「国家安康」「君臣豊楽」の銘文部分。


焼け残った鐘の内側東側のこの部分には、淀殿の幽霊という影があるともいわれている。


「国家安康」「君臣豊楽」の銘文全文の拓本。


本堂、5回目に造られたという大仏、木像、金箔で2回目に造られた大仏を模しており、その10分の一の大きさという。


3回目に造られた大仏の遺構といい、蓮弁内側の蓮肉部。


大仏の蓮弁の一部


大仏殿の設計図


秀頼によって再興された大仏殿の柱にまかれていたという鉄製の輪。巨大な柱が内外で92本立てられていたという。



大仏殿の屋根の一部にまかれていたという鉄製の金具。



大仏殿の遺構、江戸時代の彫刻職人・左甚五郎作という彫り物。


大仏殿の瓦の遺構。


大仏殿の四隅につられていた風鐸。


風鐸の一部。


巨石を組み上げた大仏殿石垣(太閤石垣)は、建立時の遺構となっている。


石組の間に祀られた地蔵、これらの石仏は「留石」として使われた。


巨石には、このような箭穴(やあな)が残されている。石の目に沿って、玄翁(げんのう)と石鏨(のみ)で一列に刻まれている。この穴に樫や欅製の楔(くさび)が打ち込まれ、木に水をかけて膨張させ、石を二分することができた。この巨石については割られなかったために箭穴が残された。


【参照】大仏殿石塁遺構、京都国立博物館の西側、花崗岩。




【参照】正面通



大仏殿跡緑地(大仏殿緑地公園)、豊国神社境内の東、方広寺の南東



大仏殿跡緑地(左)と豊国神社(右)、基壇部分の段差がある。ただ、石垣は当時のものではない。
 鴨川に架かる正面橋の東、豊国神社の北に隣接して方広寺(ほうこうじ)はある。西に延びている参道を正面通、鴨川にかかる橋を正面橋というのも、かつて方広寺大仏殿の正面に位置していたことに由る。寺の門前で伏見城へつながる伏見街道と正面通が交差していた。 
 天台宗、本尊は盧遮那坐像。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1586年、豊臣秀吉が奈良・東大寺に倣い、方広寺建立を発願した。当初は東福寺の近くが予定されていた。寺号は、東大寺・毘盧舎那大仏(びるしゃなだいぶつ)の説く、「大方広仏華厳経」の経名より方広寺とした。ただ、安土・桃山時代には「東山大仏」と呼ばれていたという。建立工事は途中で中止になる。開山は大徳寺・古渓宗陳としたが実現しなかった。聖護院道澄を別当職とした。 
 1588年、地鎮祭が盛大に催される。4000人が集い笛、太鼓、踊りが続き、酒、餅が振舞われた。蓮華王院(三十三間堂)北の地で工事は再開された。(『多聞院日記』)。前田玄以が主奉行になり、翌年までに、28人の大名が動員され、6万2120人の人足が関わる。秀吉は、刀狩令で集めた青銅、鉄を鋳直して大仏を造営するとした。
 1590年、木食応其が監督になり、大仏殿建立に関わる。工事の遅れにより材料は銅から漆膠に変更される。
 1591年、立柱式が行われる。(『言経卿記』)。この頃、作事奉行・前田玄以は、棄丸の菩提を弔うための祥雲寺の造営を大仏殿裏手で始める。義演は方広寺大仏殿地鎮で不動護摩を修した。
 1593年、大仏殿が上棟される。(「三宝院文書」『多聞院日記』)。
 1595年、大仏殿が竣工する。だが、聚楽第造営、九州征伐、小田原戦役、朝鮮出兵などで工事は遅れた。9月、聖護院の道澄が住持となる。寺領1万石が寄進される。(『言経卿記』『多聞院日記』)。広大な境内(東西約55m、南北約90m)を有しており、現在の豊国神社、京都国立博物館、蓮華王院(三十三間堂)も取り込んでいた。重層瓦葺の大仏殿(桁行89.3m、梁行54.8m、高さ49.2m)、仁王門(高さ21.6m)には金剛力士像(7.9m)が立てられた。木造漆彩の毘魂盧遮那仏(像高19m)が落成した。秀吉の両親の法会が営まれる。天台座主・青蓮院尊朝法親王が導師となり、八宗800人の僧(千僧会)を招いて開眼法要が営まれた。(『義演准后日記』)。なお、日蓮宗不受不施派の妙覚寺・日奥は、この出仕を唯一拒否し弾圧された。また、7月8日、豊臣秀次は、秀吉への自らの風聴弁明のために、聚楽第より伏見へ向かう途上、方広寺大仏殿前で石田光成の軍勢に阻まれ、高野山に送られた。
 1596年、慶長大地震(伏見大地震)で、大仏殿、中門はほぼ無事だった。ただ、屋根瓦の一部が落ち、地盤がわずかに沈下した。大仏は胸、左手が崩壊した。(『義演准后日記』)(大仏1度目の被災)
 1597年、秀吉の夢のお告げに従い、長野・善光寺の阿弥陀如来を寺に招聘している。(「続宝簡集」高野山文書)。妙法院が大仏経堂となる。9月、醍醐三宝院座主・義演は、大仏殿傍らに秀吉の朝鮮侵攻の際に、切り取られ送られてきた樽塩漬けの耳・鼻を塚に埋葬する。(『義演准后日記』)
 1598年、大仏殿は再建される。秀吉の死の直前に、北政所の意により、阿弥陀如来は善光寺に還された。(「舜旧記」)。8月18日、秀吉は伏見城で亡くなる。翌日(29日とも)、阿弥陀ヶ峯で密葬された。22日、義演により大仏開眼供養が行われる。(『義演准后日記』)
 1599年、豊臣秀頼は木食応其を監事とし復興を命じた。
 1600年、七層塔、講堂廻廊の建設が始まる。徳川家康は、豊臣家の財力を失わせるために再建を勧めたといわれている。この頃までに、現在の三十三間堂も方広寺境内に取り込まれ、南と西に太閤塀が築かれた。また、大仏殿南に南大門、西堀の七条通に西大門が建てられた。
 1602年、鋳造中の金銅の大仏から出火し、火は大仏殿にも燃え移り、大仏もろとも焼失した。(大仏2度目の被災)
 江戸時代、1608年、秀頼は家康の勧めにより大仏復興を始める。(『当代記』)
 1610年、着工する。
 1611年、6月、地鎮祭、8月、立柱式が行われる。豊臣秀頼は、二条城の徳川家康と対面し、方広寺大仏殿普請現場を視察、豊国社に社参した。
 1612年、竣工した。
 1614年、大仏殿(棟高17丈3尺、梁19丈2尺)、楼門、廻廊(南北120間、東西100間)、大仏(像高6丈3尺)、狛犬(7尺)、梵鐘(高さ1丈8寸、口径9尺1寸5分、厚さ9寸)が復興になる。だが、「鐘銘事件」により、家康は開眼供養を延期させた。大仏殿は破却される。
 1615年、豊臣家滅亡後、方広寺別当・照高院興意法親王は退けられ、妙法院常胤法親王が兼職する。照高院の敷地、殿舎は妙法院が引き継ぐ。馬塚(豊国神社)が建立された。
 1643年、大仏殿前で朝鮮通信使の饗宴が催された。
 1655年、大仏殿前で朝鮮通信使の饗宴が催される。
 1662年、寛文地震で再建中の金銅仏が崩壊した。(大仏3度目の被災)
 1667年、木像の大仏が完成する。(「京都御役所向大概覚書」)
 1682年、大仏殿前で朝鮮通信使の饗宴が催される。
 1711年、大仏殿前で朝鮮通信使の饗宴が催された。
 1719年まで、大仏殿前で朝鮮通信使の饗宴が行われた。
 1775年、大仏殿は落雷により小災し、修復される。
 1798年、大仏殿、楼門、木造の大仏は落雷により焼失している。(大仏4度目の被災)
 1826年、ドイツ人医師・博物学者のシーボルトは、知恩院、祗園社、清水寺、大行寺、方広寺、三十三間堂などを訪れる。
 1843年、天保年間(1830-1844)とも、尾張国有志の寄進により、旧大仏を模した木造半身像(2m)が造仏され安置された。
 1863年、8月14日(旧暦)、吉村寅太郎ら同志39人は、方広寺道場に集結した。中山忠光を大将にして天誅組を旗揚げ、京都を出立した。八月一八日の政変では七卿、長州藩士が分宿した。
 1864年、5月、会津藩士・松田鼎が尊攘浪士により暗殺され、方広寺門前に首が晒された。6月、尊攘派志士・北添佶摩が池田屋事件後、当寺に潜んだという。朝鮮通信使の大仏殿前での饗宴を一行側が拒否する。
 近代、1870年、境内の大半が政府に収公されている。1868年とも、鐘楼は破却された。梵鐘だけは残された。
 1877年、豊国神社移転に伴い、大部分の境内を失った。
 1878年、本堂が再興される。1880年とも、鐘楼が再興される。
 1884年、鐘楼が再建され、巨鐘がかけられたともいう。
 1925年、大仏殿が南側より移される。
 現代、1958年、大仏殿の改修が行われる。
 1973年、天保以来の大仏殿、大仏は焼失している。(大仏5度目の被災)
 2000年、大仏殿跡の発掘調査が行われた。
◆古溪宗陳 室町時代-安土・桃山時代の僧・古溪宗陳(こけい そうちん、1532-1597)。浦庵。越前に生まれた。驢雪鷹灞(ろせつ ようは)を受業師として出家、下野足利学校に学び、江隠宗顕に参禅する。大徳寺・江隠宗顕、笑嶺宗訢(しょうれい そうきん)に師事、大徳寺117世。1582年、織田信長の百ヶ日法要、秀吉による信長の葬儀で導師を務めた。豊臣秀吉により織田信長の菩提所の総見院開山に招請される。1585年、秀吉の堺・海会寺の再興者。1588年、信長の新たな菩提寺となる予定の天正寺建立を巡り、石田三成と対立、秀吉により一時、 博多・大同院に蟄居。1589年、洛北市原・常楽庵、千利休の禅の師匠で、1591年、三門の利休木像事件で、利休切腹を中止させようとした。秀吉の大徳寺破却に抗し、自らの命を賭して阻止したという。1592年、大和・大光院に移る。
 秀吉の計画した天正寺、方広寺の開山は実現しなかった。大仙院第3世。諡は1596年、大慈広照禅師。大仙院に塔された。
豊臣秀吉 安土・桃山時代の武将・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、1537-1598)。小猿と呼ばれ日吉丸と称した。父は尾張国の百姓、織田信秀の足軽・木下弥右衛門、母は百姓の娘なか(天瑞院)。1551年、家出、後に今川氏の家臣・松下之綱、1554年、織田信長に仕える。1561年、浅野長勝養女・ねねと結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗った。戦功を重ね、1573年、小谷城主、羽柴姓と筑前守、信長の天下統一にともない西国転戦。1582年、備中高松城の毛利軍と戦いの最中に本能寺の変が起こり、和睦し軍を返し山崎で明智光秀を討つ。1584年、小牧・長久手で織田信雄、徳川家康の連合軍に敗れる。1585年、紀州根来と雑賀、四国・長宗我部元親を服した。関白に進む。1586年、聚楽第、広寺大仏造営に着手、太政大臣に進み豊臣の姓を賜わる。1587年、九州征討、聚楽第が完成する。1588年、第107代・後陽成天皇が聚楽第行幸、検地、刀狩を行う。1590年、小田原の北条氏直らの征討、朝鮮使を聚楽第に引見、1591年、利休を自刃させる。1592年、文禄の役を始め、甥の養子・秀次に関白職を譲り、太閤と称した。1593年、側室淀殿に秀頼が生まれると、1595年、秀次を謀反人として切腹させ、妻妾子女らも処刑した。1597年-1598年、朝鮮を攻めた慶長の役に敗れ、伏見城で亡くなる。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。
◆道澄 安土・桃山時代-江戸時代の天台宗の僧・道澄(どうちょう、1544-1608)。照高院、浄満寺宮。関白太政大臣・近衛稙家(たねいえ)の子。叔父・聖護院門跡道増に付いて得度、聖護院門跡、園城寺長吏で熊野三山検校を兼任。1560年、長尾景虎(上杉謙信)との約束により越後へ下向、1561年、景虎の関東出兵に同行。織田信長、豊臣秀吉に信を得て、1593年、方広寺住持。のち山城・照高院を開く。大僧正、准三宮。和歌、連歌に通じた。
◆木食応其 安土・桃山時代の真言宗の僧・木食応其(もくじき おうご、1536-1608)。木喰応其、興山上人。近江国の生まれ。近江・佐々木氏、大和・越智氏に仕えた武士だった。1573年/1572年、戦国乱世を嫌悪し高野山で出家、客僧になる。宝性院の政遍より受戒、誓願寺の勧進聖ともいう。十穀を絶つ木食行を行う。小野・広沢の2法流を受けた。仁和寺で阿闍梨位を受ける。1585年、豊臣秀吉の根来寺攻めで和議に臨み、応其は高野山焼き打ちを阻止し、復興を援助させる。1586年、秀吉の命により、方広寺造営に協力した。1587年、秀吉の九州遠征で、島津氏との和睦交渉で尽力する。高野山内に興山寺と秀吉の母・大政所の菩提所、剃髪寺(青巌寺)を開基した。1595年、「謀反」したとされる豊臣秀次事件に立会い、青巌寺で切腹させる。1598年、秀吉没後、葬送をつかさどる。方広寺大仏殿で開眼導師として、千人の僧侶とともに善光寺如来の法要を行う。1600年、関ヶ原の戦いで伊勢・安濃津城、近江・大津城開城交渉にあたる。淀殿、秀頼から秀吉の菩提を弔うための大仏造仏を依頼される。1602年、方広寺大仏殿の鋳造中の大仏が炎上した。その責を取り、近江国・飯道寺(はんどうじ)に隠棲する。
 全国を行脚し寺社の勧進につとめ、行基の再来といわれた。連歌を里村紹巴に習い、連歌の式目「無言抄」を著した。高野山の中興として廟所がある。
◆義演 安土・桃山時代-江戸時代初期の真言宗の僧・義演(ぎえん、1558-1626)。京都に生まれた。父は関白・二条晴良、母は伏見宮貞敦親王娘・位子。室町幕府15代将軍・足利義昭の猶子。1569年、醍醐寺に入り、深応、雅厳に師事する。1571年、報恩院・雅厳を戒師として得度、1573年、両界次第、簿次第を受ける。1576年、紀州・根来寺座主、醍醐寺座主、1579年、大僧正、1585年、准三后の宣下、1586年、雅厳より伝法灌頂を授けられ、1591年、付法状を受けた。1588年、聚楽第行幸に際し仙洞で仏眼大法を修した。1591年、豊臣秀吉建立の方広寺大仏殿地鎮で不動護摩、1592年、朝鮮出兵の戦勝祈念に東寺で仁王経大法を修した。1594年、東寺長者、法務などを歴任。秀吉との関わり深く、1598年、方広寺大仏開眼供養で呪願師を務めた。1623年、中絶していた後七日御修法を再興する。『醍醐寺新要録』、庭園作庭行程も書かれた『義演准后日記』(1596-1626)などを著した。
◆大黒天 大黒天堂には、大黒天の木像が安置されている。手のひら大の大きさで、臼の上に坐り鎧を身につける。豊臣秀吉の護持仏とされる。最澄作ともいう。
◆大仏 安土・桃山時代、1595年、大仏殿(方広寺)が完成する。大仏殿内には東大寺大仏を上回る、高さ19mの木造漆塗りに金箔を施した毘魂盧遮那仏(初代)が完成した。当初は金銅製を予定していたが、工事の遅れのために計画は断念された。八宗800人の僧(千僧会)を招いて開眼法要が営まれている。
 1596年、慶長大地震(伏見大地震)では、木造大仏(初代)が崩壊した。怒った秀吉は、壊れた大仏に向かって弓を射かけたという。(大仏1度目の被災)。その後、急遽、信濃・善光寺の阿弥陀如来を将来する。秀吉の病状悪化により善光寺に返還した。
 1602年、秀頼により再興、鋳造中の金銅大仏(2代)の腹中より出火、大仏殿とともに焼失した。(大仏2度目の被災)
 1612年、秀頼は金銅仏(19m)を再造した。
 江戸時代、1662年、地震により金銅大仏(3代)は小破している。秀吉は、地震すら予期できなかった大仏に対して、衆生済度は思いも寄らずと罵倒したとも、壊れた仏の胸に矢を射かけたともいう。(大仏3度目の被災)
 1667年、木造(4代)により造り替えられた。徳川幕府は、大仏(3代)を溶かして寛永通宝(大仏銭、文銭)にしている。1614年の「鐘銘事件」では、大仏、梵鐘も破却されなかった。1798年、大仏殿の落雷焼失とともに木造大仏(4代)も焼失している。(大仏4度目の被災)
 1843年、天保年間(1830-1844)とも、尾張国、伊勢、美濃、越前の有志の寄進により、木造半身の大仏(5代)が造られている。ただ、その大きさは、当初の大仏の10分の1だった。近年、1973年に木造大仏は焼失している。(大仏5度目の被災)
 現在、寺には、大仏の眉間に嵌められていたという眉間籠り仏、台座の一部などが伝えられている。
◆建築 かつて方広寺は、現在の豊国神社、京都国立博物館付近、七条通を南限とする広大な敷地(東西200m、南北240m)に建てられていた。
 初代の「大仏殿(方広寺)」は、安土・桃山時代、1595年に完成する。桁行45間2尺5寸(82m/90m)、梁行27間5尺5寸(50.5m/55m)、棟の高さ25間(45m)あり、大坂城天守、東大寺大仏殿を凌駕し、木造建築では世界最大だったという。大柱92本が立てられていた。大仏殿の基壇遺構の一部(大仏殿緑地公園内)は、現在の豊国神社本殿背後にあり、一段高くなっている。大仏殿は西向きに建てられた。周囲は石塁で囲まれその規模は南北260m、東西210m、西の正面に仁王門、南に南門が開いていた。
 なお、建立に際して、1588年「刀狩令」が出されている。没収された武器は、武装解除とともに、造営に使われた釘、鎹などの金具の資材に転用された。木材の一部は、朝鮮出兵の軍用船資材に転用されている。
 江戸時代、1612年、秀頼によって大仏殿は再建された。東西69m、南北103mあり、秀吉の大仏殿より規模は大きかったという。
 2000年に現在の豊国神社境内の東で発掘調査が行われている。花崗岩の階段があり、大仏の台座は直径34mの八角形をしていた。大仏殿の床には敷石があり、四半敷きになっていた。敷石には、1798年の焼失の際の損傷が残る。現在、遺構は大仏殿緑地公園の地下に埋め戻して保存されている。2015年に京都市埋蔵文化財研究所が発表した、豊国神社境内南の京都国立博物館敷地内での発掘調査によると、大仏殿の南回廊の柱跡、瓦が見つかっている。焼痕もあった。 
 大仏殿真南にあった「南大門(みなみだいもん)」は、三十三間堂東に「南大門」(重文)として残る。切妻造、3間1戸8脚門、妻飾りは二重虹梁三斗蟇股大瓶束。細部に桃山式の彫刻がある。
 「西大門」は近代に入り、東寺の「南大門」として移築され現存している。梁に安土・桃山時代、「慶長五年(1600年)」の銘があった。
 1600年頃までに三十三間堂の西、南に築かれた「太閤塀」(高さ5.2m)は、現在、三十三間堂の南大門から西へ92mが現存している。
◆梵鐘 江戸時代、1614年、豊臣秀頼により再興された鐘は、東大寺、知恩院とともに日本三大名鐘のひとつとされる。秀吉が京都に残した数少ない遺構といわれている。鋳物師棟梁として三条釜座の名越弥右衛門(名護屋三唱)が選ばれ、のべ3100人が製作に従事したという。
 江戸時代、1614年、大仏殿と3度目の大仏が復興される。だが、方広寺「梵鐘」の、「国家安康」「君臣豊楽」の銘文(東福寺・文英清韓作)に対して徳川家康、南禅寺の祟伝らは、「家康」の名を切り離したとして落慶法要を中止させた。この「鐘銘事件」が、豊臣家滅亡の契機となる。
 鐘は、家康によって潰されることはなかった。豊臣家没後、現在の京都国立博物館付近に雨ざらしとなっていたという。近代になり、現在地に移されている。
 銅、錫などのほか、金も1t含まれているという。そのため、ほぼ同じ大きさという知恩院の鐘に較べて10t重い。高さ1丈8寸、口径9尺1寸5分、厚さ9寸ある。高さ4.2m、外径2.8m、厚さ0.27m、重さ82.7t。
◆朝鮮通信使 秀吉による文禄・慶長の役(1592-1593、1597-1598)後の修好、国交回復を記念して、12回の朝鮮通信使(1607-1811)が来日した。400-500人の一行は漢城(ソウル)より対馬、京都を経て、江戸へと向かった。ただし、対馬止まり一回、京都止まり一回、日光までが二回ある。
 1719年まで、江戸よりの復路に、大仏殿前で宗対馬守主催の招宴が催されていた。
◆善光寺如来 1596年の大地震後、秀吉は7日間にわたり信州・善光寺の阿弥陀如来の夢を見たという。木食応其は秀吉に命じられ倒壊した大仏の代わりに、わずか一寸五尺(45㎝)の如来を方広寺に遷すことになった。
 2年後の1598年7月18日、善光寺如来が京都に到着し、方広寺大仏殿善光寺如来堂の宝塔内に安置された。だが、秀吉はすでに病床に臥していた。巷では「善光寺如来の祟り」と囁かれていた。8月16日、如来は密かに善光寺に還される。
 如来の京都到着から一か月後、8月18日、秀吉は亡くなる。秀吉の死は秘密とされたため、8月22日、方広寺では、如来不在のまま「如来開眼法要」が盛大に執り行われている。
◆不思議  「京都大仏(方広寺)の不思議」といわれる伝承が、寺と境外にある。
 「方広寺の鐘」には、白雲のようなものがあり、人影に見える。大坂夏の陣で自刃した淀殿の恨みが晴れず幽霊として現れたともいう。鋳造し直しても消えない。/「崩れ門」は、七条通大和大路の角にあった。現在は東寺の南門として移された。かつて壊れており、崩れ門と呼ばれた。九頭龍門(くずりゅうもん)の訛化ともいう。/「泣き石」は、大仏殿西北角の巨石であり、加賀・前田家が、秀吉の機嫌取りに奉納し運び込んだ。人足も満足な食事を摂らなかったために石は動かなかった。皆が泣いたため「泣き石」と呼ばれた。また、人足の運賃が高すぎて、加賀の大名が泣いたためともいう。また、石が加賀に帰りたいと毎夜に泣いたともいう。
 「耳塚」は境外の西にある。秀吉の朝鮮侵略により生まれた。朝鮮の人々の耳を埋めた、耳と鼻を埋めた、大仏の鋳型を作った際の土で門前に御影塚を築いたともいう。/「鳥寺(専定寺)の鳥」は、鎌倉時代、1208年9月14日、専定という旅僧がこの付近の松の木陰で休んでいると、2羽の烏が松の梢にとまり喋った。今日は、蓮生坊(熊谷直実)の往生の日であり、見送りしようといい、熊野権現の姿になり、南の空へ飛び立った。不思議に思い蓮生の庵を訪ねると、すでに蓮生は同日同刻に亡くなっていた。法師は仏法有縁の地としてこの地に草庵を結んだという。/「御上りの蕎麦屋」は、妙法院宮の出身であり、格式高く、客に座布団の一つも出さなかったという。/「抜け穴」は、「大仏餅屋」に掘られていた。石川五右衛門は餅屋の養子になっており、裏の土蔵内から伏見城に抜け穴が掘られていた。五右衛門は穴を抜けて伏見城に忍び込み、千鳥の香炉を盗み出そうとして捕らえられた。/「赤牛の影」は、智積院の方へ牛を曳いた際に、真夏のことであり暑さに牛が倒れた。牛方が怒り牛を棒で殴りつける。大きな音がして牛の皮が剥げ、築地の中へ血が吸い込まれた。以来、築地壁に牛形の赤い斑点が現れ、何度塗り替えても消えなかったという。/「五右衛門の衡器窓」は、耳塚の西辺の角に質屋(両替屋とも)があった。屋根の妻に三角形の穴が開けられていた。ここより、潜んでいた石川五右衛門が捕り方を見張っていた。東の窓には千両箱と竿衡(さおばかり)が置かれ、衡に触ると振いつくといわれた。/「大仏餅の看板」は、伏見街道にあり、大仏の名を冠していた。
 ほかに「三棟の屋根」、「そば喰地蔵」など。
◆石塁 巨石を組み上げた「大仏殿石垣(太閤石垣)」は、大仏殿建立時の遺構になる。これらの石は、諸国大名に命じて近江より巨石を運ばせ、穴太(あのう)石工の技術者集団によって組まれたという。蒲生氏郷が献上した石は、縦4m、横8mもあった。前田加賀守・柴田利家の巨石が「泣き石」と呼ばれたのは、人足が運ぶのに苦労したことによる。また、巨石が元の場所に戻りたいと泣いたことから名づけられたともいう。賑やかなことを好んだ秀吉は、自らも仮装し、囃子で音頭をとらせ、石の上には遊女を乗せてこれらの石を運ばせたという
 石垣はかつて境内の西、北、南にあり、その上には回廊が建てられていた。現在も巨石による石塁の一部が残されており、「方広寺石塁及び石塔」として国史跡に指定されている。
◆資材運搬 秀吉の時、大仏殿建設に伴う資材運搬が必要になる。石材は、最大250tもあった。石材調達のために石狩りが行われている。材木の棟木は、富士山より5万人の人夫、千両の金を費やして運ばれた。淀、鳥羽までは船で運ばれ、陸揚げの後、京都までは人力で運ばれた。
 建立に使用する鉄具材(釘、鎹)調達のために、1588年に刀狩りが行われ、鉄製の武器が没収されている。
 1610年の大仏殿再建では、資材の運搬に鴨川が利用された。下流の鳥羽より鴨川の河原に水路が掘られ、10か所余りの閘(水門)が設けられた。運ばれてきた材木は、閘内に導かれ、上流の閘の間と同じ水嵩を調節し、上の閘に曳き入れた。水量が不足した際には、下流より竜車(揚水器)で水を掻き上げ一定にした。また、川の高低差があるところでは、堰を築き、轆轤で材木を牽引した。
◆幕末 幕末、坂本龍馬らが寺に出入りしていたという。また、龍馬の妻になるお龍の母・お貞が寺の留守居になっていたという。
 1863年、8月14日(旧暦)、吉村寅太郎ら同志39人は方広寺道場に集結し、中山忠光を大将にして天誅組を旗揚げ、京都を出立した。八月一八日の政変では七卿、長州藩士が当寺に分宿した。
 1864年、5月、会津藩士・松田鼎が尊攘浪士により暗殺され、方広寺門前に首が晒されるという事件が起こる。6月、尊攘派志士・北添佶摩が池田屋事件後、当寺に潜んだという。また、その後、自殺したともいう。新撰組が踏込み斬殺されたともいう。
◆大仏餅 江戸時代、寺の西に「隅田屋」という店があり、小豆の漉し餡の入った一口大の「大仏餅」が人気になっていた。「京都大仏の七不思議」の一つとしてこの店の「大仏餅の看板」が挙げられた。店は戦後まであり、その後廃業した。
 後、境内の西、和菓子店「甘春堂」で一時「大仏餅」が売られていた。
◆年間行事 除夜の鐘(12月31日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『朝鮮通信使と京都』『事典 日本の名僧』『京都古社寺辞典』『続・京都史跡事典』『京都府の歴史散歩 中』『新選組と幕末の京都』『秀吉・耳塚・四百年』『秀吉の京をゆく』『京都のご利益手帖』『洛中洛外』『京都の寺社505を歩く 上』『京都の地名検証』『京都大事典』『京の寺 不思議見聞録』『意外と知らない京都』『京都時代MAP 安土桃山編』 『京都・観光文化 時代MAP』『京都歴史散策ガイドブック』『京都の自然ふしぎ見聞録』『週刊 京都を歩く 25 東山』


  豊国神社       耳塚      鳥寺(専定寺)       妙法院      豊国廟(阿弥陀ヶ峰)      上人町・木食応其の草庵跡       三十三間堂       妙覚寺      天得院       三宝院〔醍醐寺〕          

大仏殿復元図、説明板より

大仏殿の復元図、説明板より。
周囲に土塁、階段は北、西(正面)、東に付けられている。赤い点は柱跡、水色の部分の中に八角形の台座があり、ここに大仏が安置されていた。その右上の赤い四角部分が現在、公園として保存されている。

【参照】太閤塀、三十三間堂の南側

【参照】耳塚(鼻塚)

【参照】「大仏(方広寺)旧境内南限」という石標、三十三間堂南大門の東

【参照】京都国立博物館

【参照】方広寺大仏殿所用鉄輪、安土・桃山時代、京都国立博物館蔵


【参照】方広寺大仏殿敷石、安土・桃山時代、京都国立博物館蔵

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方広寺 〒605-0931 京都市東山区茶屋町527-2,大和大路通七条上る  075-531-4928  9:00-16:00
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