団栗橋 (京都市下京区-東山区) 
Donguri-bashi Bridge

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橋の周辺では釣り人の姿をいつも見かける。三条大橋から松原橋間は放流アユの友釣専用区になっている。


アユ釣人と団栗橋


団栗橋西詰橋下には、賀茂川漁協団栗詰所がある。かつて水槽が置かれており、鴨川に生息するオイカワ、フナ、ハエ、ヤツメウナギなどを間近に観察することができた。


鴨川の東岸の宮川町界隈


鴨川の西、西石垣通
 四条大橋の下流にかかる団栗橋(どんぐりばし)付近では、アユ釣り、投網する人の姿を目にすることができる。
◆歴史年表 江戸時代、1709年、「京大絵図」にも橋は記されている。
 1788年、天明の大火以前にすでに架橋されていたとみられる。
 近代、1899年、西部18m流出、宮川筋が浸水する。
 1923年、東端一部、橋桁が流出する。
 1935年、「昭和10年京都大洪水」により流出する。
 現代、1963年、現在の橋が架けられた。
団栗橋 現在の団栗橋の架設年は1963年になる。橋種は3径間連続鋼プレートガーターになる。橋長61.5m、橋幅9.5m。
◆新堤 鴨川西岸の西石垣(さいせき)通がある。西石垣の「垣」を略して西石(さいせき)とも呼ばれた。また、東岸の宮川町一丁目を俗称として石垣町(または東石垣町、略して東石<とうせき>とも)と呼んだ。また、東西をあわせて「石がけ」とも呼ばれた。これらの石垣の名は、江戸時代の「寛文新堤」に由来している。
 鴨川大洪水(1663)以後、京都所司代・板倉内膳正矩によって、今出川通-五条通までの鴨川西岸の9㎞区間に、「寛文新堤」(新土居、1669-1700)の石垣築造が行なわれた。この付近の石垣が築かれたのは1668年ともいう。鴨川両岸の石垣は1677年に完成している。
◆天明の大火 団栗橋付近は、京都の歴史上最大の大火といわれる「天明の大火」(「団栗焼け」「団栗火事」「申年(さるどし)の大火」)と関わりがある。
 江戸時代、天明8年(1788)、1月30日早朝、鴨川の東岸、団栗辻子(どんぐりのずし)の民家(宮川町団栗新道角の両替商の空き家)から出火し、火は宮川筋に南下、さらには折からの強風にあおられ、鴨川を越えて対岸にも飛び火した。出火原因は放火とみられている。 
 火の手は、洛中の寺町通高辻にあった永養寺を類焼させ、北と南、西へも延焼した。火災は30日(太陰暦のため31日はない)から、2月1日、2日の2昼夜にわたって燃え続けた。
 被災した範囲は、鴨川の東から、北は鞍馬口通、南は七条通、西は千本通の内までで、類焼した町数は約1400町、市街地人口の5分の4(市街地の8割)が被災したともいわれている。被害については諸説ある。焼失家屋は3万7000軒、罹災した世帯は6万5000ともいわれている。また、町数1430町、家屋65340軒、神社37、寺院201、死者140余人ともいう。(『翁草』)
 御所、二条城、東西本願寺などの大規模な建築物をはじめ、200あまりの神社、900あまりの寺院も焼失している。
 幕府は、機敏な対応をしている。罹災者に対して米3000俵、銀600貫を貸与、物価高騰を厳禁した。
 なお、御所の西にある新在家門は、普段は開かずの門だった。この大火の際に開門されたことから、火に焙られた蛤の口が開いた様に喩えられ、以後「蛤御門」と呼ばれるようになった。
 天明の大火は、江戸時代最大の火災となり、室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)以来の大被害を及ぼした。このため、以後の京都の経済は衰微し、町並み、風俗にも影響を与えた。


*参考文献 『京都の治水と昭和大洪水』『京都水ものがたり 平安京一二〇〇年を歩く』

 
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団栗橋  京都市東山区宮川筋2丁目付近
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