京都御所・京都御苑 (京都市上京区) 
Kyoto Imperial Palace (Kyoto-gosho)

  Home
京 都 御 所


京都御所、周囲1km、6門と13の穴門がある。








建礼門(南御門)、京都御所南、檜皮葺、切妻屋根の四脚門。
禁裏御門で天皇しか出入りできなかった。 建礼門の奥に、承明門、その奥に、紫宸殿が見える。




建礼門



開門した建礼門、北方向


開門した建礼門南方向を望む。


建礼門の扉


建礼門


建礼門




朔平門




皇后門


清所門


宣秋門






建春門


道喜門、京都御所の南、建礼門の東



葵祭


時代まつり

御所より望む冠雪した大文字山「白い大文字」

京 都 御 所 



御車寄(おくるまよせ)、正式に参内した者が利用する玄関。



諸大夫の間(しよだいぶのま)、正式に参内した者の控えの間として使われた。襖絵に因み、格の高い順に「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と別れていた。


諸大夫の間


諸大夫の間、桜の間、原在照筆「桜図」


諸大夫の間、鶴の間、狩野永岳筆「鶴図」


諸大夫の間、虎の間、岸岱筆「虎図」



渡廊



新御車寄(しんみくるまよせ)、近代、1915年の大正天皇即位礼の際に玄関として建てられた。以来、天皇皇后の玄関として使われている。


新御車寄





新御車寄、牛車(八葉車)、網代車の一種で、大臣、公家が使用した。屋形に八葉の紋が入る。


【参照】御三間、中段の間の障壁画にある「賀茂祭群参図」中の牛車


新御車寄、儀装馬車2号、1928年、宮内省主馬寮で製造された。今上陛下結婚(1954)、即位の礼(1990)でも利用された。6頭立て4頭曳き、騎馭式4人乗り。


左腋門より承明門


月華門


月華門より東山の遠望






右腋門より承明門


承明門より紫宸殿






承明門



承明門より紫宸殿を望む、京都御所、三戸あり、中央は天皇のみが利用する。








建春門、京都御所の南東、唐破風屋根の四脚門。かつては勅使が使用、近代以降は皇后皇太子が利用する。


春興殿、京都御所内、大正天皇の即位礼の際に建てられた。即位式に際して、三種の神器のうちの御鏡を安置した。


大臣宿所(宣陽殿)



陣座


軒廊、奥に陣座


南庭(だんてい)と南庭回廊、京都御所内、南庭は儀式が執り行われる場所。


大臣宿所(宣陽殿)

紫宸殿


紫宸殿、京都御所内即位礼などの重要な儀式が執り行われた 大正天皇、昭和天皇の即位礼も行われた 右に左近の桜、左に右近の橘



紫宸殿、扁額


紫宸殿


紫宸殿


紫宸殿(ししんでん)、入母屋檜皮葺、高床式宮殿建築、即位礼など重要な儀礼の際に利用される正殿、大正天皇、昭和天皇の即位礼にも使われた。前に南庭(だんてい)が広がる。


紫宸殿


紫宸殿、南の階段木階


紫宸殿、西の階段木階


紫宸殿、斗栱(ときょう)

紫宸殿


紫宸殿、左の天皇の御座、高御座(たかみくら)と、右の皇后の御帳台(みちょうだい)。 



高御座、説明板より

高御座、説明板より


高御座

御帳台、説明板より



紫宸殿高御座、即位の儀式で天皇の御座となる。第123代・大正天皇即位式で造られたもの。 


紫宸殿御帳台(みちょうだい)


紫宸殿、賢聖の障子


紫宸殿、向かって右に左近の桜、左に右近の橘が植えられている。


紫宸殿、右近の橘


桧皮葺の側面模型



清涼殿、入母屋檜皮葺寝殿造、平安時代の内裏では、天皇の日常生活の場として使われた。


清涼殿、鳴板


清涼殿衝立「年中行事障子」


清涼殿



清涼殿、中央の白絹の帳の奥に御帳台(みちょうだい)がある。


清涼殿、中央の母屋には御座、昼御座(ひのおまし)という厚畳が置かれている。その上に綿入れの敷物、御茵(おしとね)が置かれる。


清涼殿、獅子、角がなく、口を開いている。


清涼殿、狛犬、角があり口を閉じている。


清涼殿、台盤


清涼殿、昆明池障子、南面の唐絵で長安城の昆明池。


清涼殿、昆明池障子、北面に大和絵で嵯峨野で小鷹狩をする近衛司(少将・藤原季綱とも)。



清涼殿、


清涼殿


清涼殿


清涼殿、漢竹


清涼殿、呉竹


清涼殿、御溝水



清涼殿



滝口


御拝道廊下、東庭


東庭、御溝水


陣座(陣の座)


左に小御所(こごしょ)、右は御学問所

小御所


小御所


小御所


蹴鞠の庭、小御所と御学問所の間にある。




「御池庭(おいけにわ)」、栗石(ぐりいし)を敷き詰めた州浜、舟着の飛石。


御池庭、欅橋





 国民公園の京都御苑は、北を今出川通、南を丸太町通、東を寺町通、西を烏丸通に囲まれた地にある。東西約700m、南北約1300m、広さは91万2000㎡を有している。この地は、かつての鴨川の氾濫による沖積地だった。 
 京都御苑内には、京都御所(禁裏御所)、後水尾上皇邸だった仙洞御所、英照皇太后のための大宮御所、京都迎賓館(内閣府管理)などの施設がある。それ以外の国民公園は63万㎡の広さがある。
 戦前の京都御苑は全体を宮内省が所管していた。現在は京都御苑を環境省、京都御所・仙洞御所・大宮御所を宮内庁が管理している。
◆歴史年表 平安時代、794年、平安京遷都時の平安宮・大内裏(宮城)は、「四神相応」の地に営まれた。現在地(京都御苑)の西方約1.7km、南0.4kmの浄福寺通下立売付近にあった。
 795年、内裏正殿の大極殿が落成する。
 834年、空海は宮中での密教の修法を行い、真言院(宮中真言院、修法院、曼荼羅道場)を設けた。
 835年、空海は、宮中真言院で玉体安穏などの修法を行い、現在も行われている後七日御修法の起りになる。
 850年、清涼殿に新たに地蔵尊が安置され、第54代・仁明天皇四十九日の御斎会を修したという。(『文徳実録』)
 960年、陣の座の夜議の松明の火により内裏が初めて炎上する。その後も度々炎上し、6、7年に一度の頻度で火災が起きた。
 976年、内裏が焼失し、第64代・円融天皇は藤原兼通(堀川院)邸へ移る。里内裏の初例となる。
 1159年、平治の乱で平氏により大内裏は攻撃され、内裏は占拠される。
 1177年、内裏が炎上する。大極殿が焼死した。以後、再建されなかった。
 1180年、現在地(京都御所)には権大納言・藤原邦綱邸があり、第80代・高倉天皇は第81代・安徳天皇に譲位後上皇として移る。以来、天皇の御殿になる。
 1189年、源頼朝は諸国に命じ、内裏修造の工事を始める。
 鎌倉時代、1227年、内裏が焼失する。その後、再建されることはなく、一時、跡地が荒野と化し「内野」と呼ばれる。
 天皇は里内裏(おもに藤原摂関家)に暮らした。現在地(京都御所)には、仮の皇居・里内裏の東洞院土御門殿(もと大納言・藤原邦綱邸)があった。
 1267年、東洞院土御門殿で第91代・後宇多天皇が生まれる。
 1331年、北朝初代・光厳天皇が六波羅館(ろくはらやかた)より現在地(京都御苑・京都御所)に移り即位、御所(里内裏、土御門東洞院)と定める。以来、里内裏が皇居として定着する。
 室町時代、1392年、南北朝合一以後、北朝天皇の住んだ土御門東洞院殿(現在地)が京都御所になる。
 1401年、内裏が焼失する。
 1402年、室町幕府により内裏が再建された。
 1443年、内裏が放火により焼失する。
 1456年、康正度内裏が完成する。
 1465年、太政官が第103代・後土御門天皇の即位礼に伴い建てられる。
 応仁・文明の乱(1467-1477)により、荒廃する。
 1477年、室町幕府は内裏の修造を始める。
 1521年、第104代・後柏原天皇は里内裏(土御門東洞院殿)紫宸殿で即位礼を行う。
 1543年、織田信長による料理料の献上がある。鴨川の水が堰入れられ、池泉庭園の造営が進む。
 1568年、1569年、1570年とも、織田信長は内裏の大規模な修造「永禄内裏」を行う。
 安土・桃山時代、1575年、信長の修造が終わる。
 1581年、信長は、禁裏東門外に行宮を設け、第106代・正親町天皇を招いた。権勢誇示のために700騎の馬揃えを催し、20万人の見物人が出た。
 豊臣秀吉の都市改造により、公家邸の御所周辺への集中が行なわれる。
 1585年、秀吉は正親町天皇のために仙洞御所を造営する。禁中小御所で、関白任官を記念し茶会を開く。茶堂・宗易は天皇より「利休」の居士号を拝受する。
 1586年、秀吉は、禁中小御所に黄金の茶室を運び込み自ら茶を点てた。
 1589年-1590年、秀吉は前田玄以を造営奉行とし修造「天正内裏」を行う。第107代・後陽成天皇御所造営に際し、前田玄以が造営奉行に就く。狩野永徳と一門が障壁画を手掛けた。
 1590年、御常御殿が独立する。御座所となる。狩野永徳は、対屋の障壁画を手掛けようとした長谷川等伯を公家・勧修寺晴豊の力により阻止する。
 1591年、秀吉による天正度の造営が行われる。清涼殿が上棟になる。
 1596年、閏7月、慶長の大地震により、御所も被災し、天皇は庭に逃れたという。
 江戸時代、徳川家の造営も続いた。慶長年間(1596-1614)、院御所の新造、禁裏御所拡張が行なわれる。
 1605-1606年、家康は京都所司代・板倉勝重を惣奉行とし、内裏を北へ拡張する。仙洞御所の造営を行う。このため、周辺の公家衆屋敷は移転になる。
 1611年、第108代・後水尾天皇は紫宸殿で即位式を行う。徳川幕府は内裏新造に着手する。
 1613年、家康による慶長度の造営が行われる。
 1619年、徳川秀忠娘・和子入内のため、小堀遠州、五味豊直により女院御所造営が行われた。
 1623年、宮中で後七日御修法が復活している。
 1628年、後水尾天皇譲位後、御所、女院御所の造営が行われる。仙洞御所として二条城行幸御殿、御次之間、中宮御殿が移築された。
 1630年、仙洞御所が竣工する。後水尾上皇が仙洞御所御殿に移る。
 1636年、小堀遠州により仙洞御所の初期の作庭が行われる。
 1640年、幕府は小堀遠州に禁裏造営を命じる。内裏建物を西に寄せ、東に庭園を造営するともいう。
 1641年、内裏が焼失した。
 1641年-1642年、徳川家康は造替、寛永内裏(1642年寛永度)を行う。造営奉行・小堀遠州は、建物を西に移動させたともいう。狩野三兄弟が障壁画を描く。旧紫宸殿、清涼殿を仁和寺に移す。
 1653年、内裏が焼失する。仙洞御所の仮内裏を造営し、第110代・後光明天皇が移る。
 1655年、徳川幕府による承応度の造営が行われる。
 1661年、内裏、仙洞御所が焼失する。
 1662年、徳川幕府による寛文度の造営が行われた。同年頃、新御殿、楽器の間が増築される。
 1664年、後水尾上皇が仙洞御所の庭を改修する。
 1673年、内裏、仙洞御所が焼失した。
 1675年、徳川幕府による宝永度の造営が行われる。
 1673年-1681年、小御所庭園が現在の御池庭の形になる。女御院の庭園が改造された。
 1676年、仙洞御所が再び焼失する。
 1682年、東福門院の女院御所・奥対面所を林丘寺に移築した。
 1708年、宝永の大火で内裏、仙洞御所が焼失する。その後、公家町が整備される。
 1709年、徳川幕府による宝永度の造営が行われた。修学院離宮上御茶屋の止々斎を仙洞御所に移す。
 1747年、仙洞御所内の北池と南池を掘割で結ぶ。現在の庭の形になる。桜町上皇(第115代)の命により冷泉為村が「仙洞十景」を選定する。
 1766年、御涼所が完成する。
 1788年、天明の大火で内裏、仙洞御所が焼ける。止々斎も焼失した。
 1790年、徳川幕府による寛政度の造営が始まる。老中・松平定信が惣奉行となり、裏松固禅、柴野栗山が考証し再建される。現在の御所の規模となる。紫宸殿、清涼殿、飛香舎が造営される。
 1808年、仙洞御所の醒花亭が完成した。
 1854年、内裏、仙洞御所が焼失する。老中・阿部正弘が作事惣奉行となる。仙洞御所は以後、再建されなかった。
 1855年、徳川幕府による安政度の造営により復興が行われる。現在の京都御所の建物群になる。御座所となる御常御殿が再建された。狩野永岳、岸岱らにより障壁画1800面が完成する。仙洞御所は築地だけが完成する。
 1856年、1857年とも、京都御所内に第121代・孝明天皇好みの茶室「聴雪」が建てられる。
 1858年、日米修好通商条約締結のための勅許を得ようとする幕府、老中・堀田正睦に対して、岩倉具視、大原重徳ら88人の公卿は、勅許撤回を求め九条邸に押し掛けた。
 1861年、和宮は14代将軍・徳川家茂への降嫁のため桂宮邸より江戸に発つ。
 1863年、5月20日(旧暦)深夜、尊攘派から開国論に寝返ったとして公家・姉小路公知(きんとも)は、有栖川宮邸前猿ヶ辻で暗殺された。犯人は薩摩の田中新兵衛とされた。8月18日(旧暦)、八月十八日の政変(七卿落ち)が起こる。堺町御門警備の長州藩が御門に集結したが、門はすでに会津藩、薩摩藩兵で固められており、門内に入ることができなかった。その後、長州藩兵は京都から追放され、三条実実らの公卿七人も長州に逃げ、一時的に公武合体体制になる。壬生浪士隊は蛤御門に出動する。
 1864年、蛤御門の変(禁門の変)が起こる。池田屋事件報復のため入洛した長州藩と、御所を警護していた会津、薩摩、福井、桑名藩の間で激しい戦闘となり、長州勢が敗れ市中の大半が焼失している。
 1867年、第122代・明治天皇は、小御所東廂の間で践祚する。英照皇太后(孝明天皇皇后)のために、女院御所跡に大宮御所を造営する。大政奉還し王政復古となり、12月9日、小御所で「小御所会議」が開かれる。
 近代、1868年、東京遷都となる。石薬師門に市民1000人が集まり、遷都反対の嘆願を行った。
 1869年、明治天皇東行になる。
 1870年、平安王朝の古式に再興された。
 1872年、英照皇太后が東京に移る。
 1873年、大宮御所(京都御所とも)、仙洞御所で第2回京都博覧会が行われる。以後、9回まで会場になる。
 1874年、大宮御所で京都博覧会が開催される。
 1877年、明治天皇は御所の保存、旧態を失わないようにと指示する。京都御苑整備事業が始まる。
 1878年、京都御苑と名付けられた。京都御苑に桜355本、松241本が市民により寄付された。
 1879年、京都御苑の周囲が石積土塁で囲まれ、蛤御門、中立売御門などが付け替えられた。
 1881年-1897年、第10回京都博覧会以来、常設の博覧会が、京都御苑東南隅(現在の富小路グラウンド)で開催される。
 1883年、岩倉具視の進言により空地になった旧公家町が整理される。
 1884年、英照皇太后の希望により、近衛家より茶室「又新亭(ゆうしんてい)」を仙洞御所内に移築した。
 1888年、京都御苑整備事業が終わる。
 1906年、京都御所の参観は有資格者(高等官、華族、従六位以上・勲六等以上、貴族院・衆議院議員、大使・公使)のみに限られた。
 1915年、第123代・大正天皇即位式(即位の礼)が京都御所紫宸殿で行われる。引き続き大嘗祭は仙洞御所跡で行われた。(御大礼、ごたいれい)
 1928年、第124代・昭和天皇即位式が京都御所で行われた。引き続いて大嘗祭が行われる。
 1936年、京都御所の参観資格が緩和され、学校長・職員、多額納税者、学校生徒、軍人団体も加えられる。
 1941年-1942年、京都御所(11か所)、大宮御所(3か所)、京都御苑(4か所)など合計18か所に防空壕が造られた。1942年に油の地下保管庫も造られている。大戦中に、殿舎を繋ぐ渡廊下も撤去された。
 現代、戦後、占領軍は宿舎敷地として京都御苑の接取通告を行う。だが、日本政府の陳情により、代替地として府立植物園が使用された。
 1946年以来、京都御所の秋、春の一般公開が始まる。
 1949年、日本に三つしかない国民公園(ほかに新宿御苑、皇居外苑)のひとつとして一般開放された。
 1954年、五山送り火の日、鴨川で打ち上げられた花火により小御所が焼失した。
 1958年、小御所が再建される。
 1967年、仙洞御所の事前申請による一般参賀が始まる。
 1974年、御拝道廊下など建物疎開で失われた廊下周りが復元される。
 2005年、京都迎賓館が開館した。
◆桓武天皇 奈良時代-平安時代の第50代・桓武天皇(かんむ てんのう、737-806)。名は山部(やまべ)。父は白壁王(後の第49代・光仁天皇)、母の高野新笠は、百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔という。皇位継承者ではなかった。772年、光仁皇后井上内親王が廃后、その子・他戸親王も廃太子され、773年、立太子された。781年、即位、同母弟・早良親王を皇太子に立てた。これらには藤原百川の画策があった。784年、平城京より長岡京遷都、785年、造長岡宮使長官・藤原種継暗殺事件に伴い、早良親王を廃太子に追う。794年、平安京再遷都した。百済王氏出自を官人などに重用、坂上田村麻呂を征夷大将軍とし、蝦夷侵略の兵を送る。最澄や空海を保護する一方、既存仏教を圧迫した。
 山陵は当初、宇多野(右京区)とされたが、柏原山陵(伏見区)に改められた。
◆藤原長子 平安時代後期の女官・藤原長子(ふじわら の ながこ/ちょうし、1079頃-?)。女房名は讃岐典侍(さぬきのすけ)。父は讃岐入道藤原顕綱。1100年、第73代・堀河天皇に出仕、1101年、典侍に任じられた。1107年より天皇の看病を最期まで続けた。1108年、白河院(第72代)に請じられ第74代・鳥羽天皇の典侍として再出仕した。1118年頃より堀河院の霊が憑き、内裏に常駐し、中宮璋子(待賢門院)の懐妊(後の第75代・崇徳天皇)を予言した。40歳頃より精神に異常を来す。白河院により参内を停止され、兄・道経に引き取られた。堀河天皇への追慕を綴った『讃岐典侍日記』を著す。
◆光厳天皇 鎌倉時代-南北朝時代の北朝初代・光厳天皇(こうごん てんのう、1313-1364)。第93代・後伏見天 皇の第1皇子。後醍醐天皇皇太子の邦良親王没後、鎌倉幕府の支持により量仁親王が皇太子となる。1331年、元弘の変後、量仁親王(光厳天皇)が即位し、父・後伏見天皇が院政をしく。後醍醐天皇の隠岐島配流(1332)、鎌倉幕府の滅亡(1333)後、後醍醐天皇は吉野に移り南北朝に分裂した。光厳天皇は廃され上皇となる。建武新政後、足利尊氏は、1336年、光厳上皇の院宣により朝敵を免れた。上皇は北朝第2代・弟の光明天皇を即位させ院政に当たる。 1348年、北朝第3代・崇光天皇にも院政を敷く。1351年、南朝の後村上天皇は崇光天皇を廃し、1352年上皇ら北朝3代は南朝軍に拉致され河内、 大和などに移され幽閉された。1342年、上皇は夢窓疎石に帰依、1352年、賀名生で出家している。河内の金剛寺に移り、孤峰覚明に帰依、1362年、巡礼に出る。晩年は常照皇寺で余生を送り山国陵に葬られた。
◆後深草院二条 鎌倉時代中期の女性・後深草院二条(ごふかくさいん の にじょう、1258 -1306?)。二条。父は中院大納言源雅忠、母は第89代・後深草天皇に仕えた大納言典侍(四条隆親の娘近子)。幼少より後深草院御所で育った。後深草院の寵愛を受け、16歳で女児を生む。西園寺実兼、仁和寺御室性助入道親王、鷹司兼平らとも浮名を流した。1284年、御所を退き、東国西国の各地の寺社を詣でた。愛の遍歴記『とはずがたり』5巻の作者とされている。
◆孝明天皇 江戸時代の第121代・孝明天皇(こうめい てんのう、1831-1867)。第120代・仁孝天皇の第4皇子。1840年、立太子、1847年、即位、父の遺志により公家の学問所(学習院)を創設、1853年、ペリー来航以後、1858年、老中・堀田正睦の条約調印の承認を許可を与えなかった。幕府が独断で調印し譲位を表明。条約調印を了承した。1860年、桜田門外の変後、将軍徳川家茂と皇妹の和宮の婚姻を承認した。1861年、長井雅楽の「航海遠略策」を受理。1862年、薩長土3藩主の要請に基づき、三条実美らを勅使として派遣し幕府に攘夷を督促。1863年、長州藩の建議を受け、家茂を従え賀茂社へ行幸。石清水社行幸、大和行幸の計画に、8月18日の政変を承認。1864年、家茂に公武一和の協力を命じた。禁門の変の直後、長州追討を命じる。1865年、幕府の要請を受け長州再征を許可。慶喜の強要を容れ条約を許可した。
 1854年、内裏焼失後、1855年、安政度の造営を幕府に通達する。歌を詠み、文人天皇とし知られた。
◆小堀遠州
 江戸時代の大名茶人・小堀遠州(こぼり えんしゅう、1579-1647)。近江国の生まれ。父は新介正次、母は磯野丹波守員正の娘。1593年、大徳寺の春屋宗園に参禅。古田織部に茶の湯を学ぶ。1597年、藤堂高虎の養女を正室とする。大和郡山 で豊臣秀長、豊臣秀吉、1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康に従う。その功により父の備中松山城を継ぐ。1604年、家督を継ぐ。1606年、宗園より孤篷の号を贈られる。1607年、大有を与えられた。1614年、1615年、大坂冬の陣、夏の陣に関わる。1616年、幕臣、1623年、要職の伏見奉行職に就き以後、26年間にわたる。1606年、後陽成院御所の作事奉行となり、以後、駿府城、名古屋城、伏見城本丸書院、1606年、1633年、仙洞御所泉石奉行に任じられる。1640年、内裏の造営奉行。1642年、徳川家光の茶道師範。大徳寺の春屋宗園に師事、古田織部に茶の湯を学び、和歌は冷泉為頼、木下長嘯子にも習う。画は松花堂昭乗、藤原定家の書を取り入れた茶風遠州流「綺麗さび」を確立した。号は孤篷庵大有。墓所は孤篷庵にある。
 多くの建築、作庭、茶席の建築・作庭に携わる。建築における構造美、庭園における直線美などが特徴とされる。
◆裏松固禅 江戸時代後期の公卿・有職故実家・裏松固禅(うらまつ こぜん、1736-1804)。光世。京都の生まれ。烏丸光栄の子、裏松益光の養子。尊王論者が弾圧された最初の事件・宝暦事件(竹内式部一件)に連座し永蟄居、出家。以後、故実研究に取り組み、1788年、内裏焼失の際に、著した研究書『大内裏図考證』30巻に基づき平安京内裏が復元され京都御所が再建された。その功により、勅命で赦免された。
 京都御所の紫宸殿、清涼殿、後宮の飛香舎は固禅の考証により、平安時代の内裏様式が再現された。ただ、近世建築の影響が色濃く出ているとされる。また、木組の斗栱(ときょう)のため、建物の高さが高めになっている。
◆和宮親子内親王 江戸時代の皇女・和宮親子内親王(かずのみや ちかこ ないしんのう、1846‐1877)。京都御所の東、橋本邸で生まれる。名は親子、和宮、静寛院宮。第120代・仁孝天皇の第8皇女、母は権大納言・橋本実久の娘・経子。第121代・孝明天皇の妹。孝明天皇の思し召しにより、1851年、6歳で有栖川宮熾仁親王(17歳)と婚約した。1860年、桜田門外の変後、婚約破棄となり、朝幕関係融和のため、公武合体政策により政略結婚として降嫁の話が出る。孝明天皇は当初、反対した。桂宮邸に移る。1861年、内親王宣下、桂宮邸より江戸に出発し、14代将軍・徳川家茂の正室として降嫁した。1862年、婚儀、1866年、家茂没後、落飾して静寛院と称した。この頃、母、夫、兄を相次いで失う。1867年、大政奉還以降、徳川家救済のため朝廷との間で尽力した。1868年、戊辰戦争で熾仁親王は東征大総督となり、江戸城を目指した。和宮は親王宛に江戸城中止を懇願する。1869年、和宮は京都に戻り聖護院、旧朝彦親王邸に過ごす。1874年、東京に戻る。1877年、療養地の箱根で亡くなる。墓は芝・増上寺に夫ともに葬られた。32歳。
 京都御苑には和宮ゆかりの桂宮邸跡、静寛院宮として髪を下ろし栄御殿で過ごした旧朝彦親王邸がある。
◆京都御所 京都御苑北西部にある京都御所は北辺244.5m、南辺244.5m、西辺450m、東辺446m、11万㎡の広さがある。
 平安時代、平安宮・大内裏(宮城)は、現在の京都御所の西約1.7km、南0.4kmの浄福寺通下立売の位置にあった。内裏は960年を初めとして幾度も焼失し、そのたびに再興された。その後、仮御所(里内裏)として利用される。鎌倉時代、1227年の内裏焼失後、再建されることはなく、里内裏が天皇の居所に代わる。
 現在の京都御所の地は、後白河天皇皇女・宣陽門院(1181-1252)、孫・後深草皇女・陽徳門院(1288-1352)が伝領した。鎌倉時代、1331年、里内裏の土御門東洞院殿で光厳天皇(1313-1364)が即位し、以来御所(皇居)に定められた。
 1570年、織田信長により修復、1589年に豊臣秀吉による大規模な修復が行われた。さらに、1606年の拡張、1618年に女御御殿造営、1640年の内裏造営、1790年の寛政度の復興が行われた。1855年にも復興されている。江戸幕府の内裏(京都御所)拡張は、本来は存在するはずの役所・官庁などの官衙は排除され、その代わりに内裏周辺には公家住宅が建ち並んだ。
 1867年の王政復古により京都御所が中央政庁して一時機能する。だが、1869年の東京遷都によりその短い役割を終えた。五摂家、宮家、公家屋敷200あまりは、遷都後に姿を消した。「大内保存事業」(1877-1883)により、1879年に初めて周囲が石積土塁で囲まれ、蛤御門、中立売御門などが付け替えられた。園内が整備されるとともに、現在見られるようなマツ、サクラ、モミジ、カエデなどの樹木が植栽された。1878年、京都御苑と名付けられた。
◆京都御所の建築・文化財・庭園 現在の建物は、すべて江戸時代末期、1854年に再建されている。旧殿舎のうち清涼殿は南禅寺方丈、紫宸殿は仁和寺金堂、宸殿は円満寺御影堂に払い下げられた。
 京都御所の建物群は3区分される。紫宸殿などを中心とした「南」、清涼殿などの「中央」、皇后御常御殿を中心とした「北」になり、その東に御池庭、御内庭などの庭園が広がる。
 ◈築地 京都御所を取り囲む塀の「築地(ついじ)」は、江戸時代中期に、最高位の朽葉色に横に白い五本線が入る現在の筋垣になった。築地塀北東角は鬼門除けの吹き込みがある。東西249m、南北451m、広さ11万2300㎡。
 ◈各御門 京都御所築地塀に近世に建てられた6つの門が開いている。
 ◈建礼門 「建礼門(けんれいもん)」は、築地南にあり、内裏正面に南面して建つ。江戸時代、1613年造営、1790年に北にある承明門との間隔が広げられた。安政度の造営以前は「南御門」と呼ばれていた。近世では即位の大礼などに開かれた。現在、普段は「開かずの門」になる。天皇・皇后、外国の国王、元首が利用する。
 扉に透かし彫り花狭間、近世風、檜皮葺、切妻屋根、角柱、平入の四脚門。
 ◈建春門 「建春門(けんしゅんもん)」は、築地南東にある。かつて「日御門」「日の門」とも呼ばれた。北魏・洛陽宮、唐・洛陽宮に同名の門があった。室町時代以来あり、内侍所への入口になっていた。勅使が使用した。節会、主要行事の際に大臣、公家の参入に際して使われた。近代以降は皇后、皇太子、外国の首相が使用する。
 蟇股に唐松、羊、仙人などの彫刻が施されている。切妻屋根、平入、前後に向唐破風、四脚門。
 冝秋門 「冝秋門(ぎしゅうもん)」は、築地南西にある。安政度の造営以前は「唐門」と呼ばれていた。「南御門」「公家門」「唐門(唐御門)」ともいう。三位以上の大名、摂家、親王、門跡、公家が利用した。「牛車の宣旨(輦車<てぐるま>の宣旨)」を許された公家(摂政、大臣)に限り、牛車に乗ったままで出入りできた。公家はこの門で浅沓(あさぐつ)に履き替えた。平安時代には、午前10時に出勤し午後3時に退出し、六勤一休(さらに月5日の公休が可)になっていた。門は現在、葵祭(5月15日)、春秋の一般公開の際にも使用する。
 冠木蟇股に福徳仙人と鹿、梁に琴高仙人、妻に玄武などの彫刻が施されている。檜皮葺、切妻屋根、平入、四脚門。
 ◈清所御門 「清所御門(せいしょごもん/きよどころもん)」は築地西にある。清所門、御台所御門ともいう。かつて御清所、大台所が近くにあった。皇子女の参内初に使用していた。現在は、一般参観の際にも使用する通用門になる。
 切妻屋根、平入、棟門、瓦葺。
 皇后御門 「皇后御門」は築地北西にある。皇后御常御殿の通用門になる。
 ◈朔平門 「朔平門(さくへいもん)」は築地北面中央にある。「朔」とは北を意味する。「北陣」と呼ばれたのは傍らに衛門府(えもんふ)があったことによる。『源氏物語』花宴の巻に描かれている。北に縫殿寮(ぬいどのつかさ)があり、「縫殿陣」とも呼ばれた。飛香舎、皇后御常御殿の正門になる。寛政度の造営で新造になった。女御が利用した。女御入内の際に用いられた。参内に際して、ここで牛車より輦車に乗り換えていた。
 3間、戸1間、檜皮葺、切妻造、四脚門。
 ◈穴門 「穴門」は潜り門になる。13か所(南1、北2、東6、西4、14か所とも)に設けられている。
 建春門北の「日門代(ひのごもんだい)」は内侍所に通じた。女官が利用した。不浄門としても利用された。
 「道喜門(どうきもん)」は京都御所の南、建礼門の東にある。粽の川端道喜は、室町時代から桃山時代にかけて、禁裏疲弊の際に毎日二食の「朝餉(あさがれい)」、「お朝のもの」として丸餅、粽などを献上していた。1577年、織田信長による御所造営の際に、築地塀は道喜により修復され、以来、この穴門は道喜門と呼ばれるようになった。「餉(かれい)」とは、「かれいい」の転訛で乾飯になる。
 ◈承明門など 建礼門内側に回廊があり、南に「承明門(じょうめいもん)」がある。唐・洛陽宮に同名の門がある。ほかに東に「日華門(にっかもん)」、西に「月華門(げっかもん)」がある。
 ◈玄輝門 「玄輝門(げんきもん)」は、朔平門の内側にある。寛政度の造営で復元された。女御入内の際に用いられる。本瓦葺、丹塗りの八脚門。
 ◈御車寄 「御車寄(おくるまよせ)」は天皇専用の玄関になる。冝秋門より入った公家が浅沓に履き替え、ここより参殿した。「牛車の宣旨(せんじ)、手車の宣旨」を天皇より賜った親王、摂家、堂上、六位の蔵人などの貴顕(身分が高く、名声のある人)だけが、牛車のまま冝秋門より入り乗り付けた。檜皮葺。
 ◈新御車寄 「新御車寄(しんみくるまよせ)」(3間)は、天皇、皇后だけが昇殿する。第123代・大正天皇即位礼の際に自動車で利用可能にした。京都御所内で唯一のガラス窓張りの建物になる。
 現在地にはかつて、新嘗祭で使用された神嘉殿(しんかでん)があり、その後、橿原神宮拝殿として移築された。
 ◈諸大夫の間 「諸大夫の間(しょだいぶのま)」は、正式参殿の際に控えた。三間あり、中世以降は総称として用いられた。
 三位以上の公家の間「虎の間」は、「公卿の間」「殿上人の間」とも呼ばれる。岸岱筆の虎の襖絵がある。五位以上の「殿上人の間」「鶴の間」には狩野永岳筆の鶴の襖絵がある。六位以上の殿上人の間「桜の間」は、「諸大夫の間」とも呼ばれ、原在照筆の桜の襖絵がある。
 ◈回廊 「回廊」は紫宸殿の南庭を取り巻く。瓦屋根、白壁、朱色の柱になる。軒下に溝があり「御溝水(みかわず)」といわれている
 ◈承明門 回廊の南中央に三戸の「承明門(じょうめいもん)」が開く。天皇専用の門として使われる。節会、即位、元服、立后、立太子などの際に開き、門外に左近衛、右近衛の中将が陣を整えた。
 唐風丹塗、5間3戸の平入12脚門、6本の円柱、中央3間が開く。瓦葺、切妻屋根。桁行8間4尺(15.8m)、梁行3間5寸(5.6m)、軒高1丈9尺4寸(5.9m)。
 近くに掖門(えきもん)として東の「長楽門」、西の「永楽門」が開く。
 ◈日華門 回廊の東の「日華門(にっかもん)」は、「じっかもん」と有職読みされることが多い。「東門」ともいう。節会の時に左近衛中将が昇殿した。即位、立后、立太子などの際に開いた。
 唐様、化粧屋根裏、丹塗りの八脚門、瓦葺。南近くに「左掖門」が開く。
 ◈月華門 回廊の西の「月華門(げっかもん)」は「西門」ともいう。右近衛中将が昇殿した。即位、立后、立太子などの際に開いた。
 唐様、瓦葺、化粧屋根裏、丹塗りの8脚門。南近くに「右掖門」が開く。
 ◈春興殿 「春興殿(しゅんこうでん)」は、紫宸殿、宜陽殿の東にある。「内侍所(ないしどころ)」「賢所(かしこどころ)」ともいわれた。平安時代には武具を収納した。鎌倉時代末より神器「御鏡(八咫鏡)」を納めた。現在は東京の賢所に納められており、即位の大礼の際には春興殿に遷され内々陣に奉安される。
 現在の建物は第123代・大正天皇の即位礼に際して建てられた。「外陣」「内陣」「内々陣」の3室がある。
 蔀戸、勾欄、東西4間、南北7間半、反りのない向拝、総檜造、高床式、入母屋屋根、銅板葺。
 ◈紫宸殿 正殿の現在の「紫宸殿(ししんでん)」(東西33m)は、南面している。京都御所内でもっとも格式の高い建物になる。「南殿(なでん)」「前殿」とも呼ばれた。紫宸殿の名は弘仁年間(810-824)、嵯峨天皇の命名による。平安京内裏では960年に焼失し、その後も度々焼失した。元日、白馬(あおうま)、豊明(とよのあかり)などの節会、立后、立坊(りつぼう)、元服、譲位などの儀式も行われた。朝堂院なき後の大極殿での即位、朝賀の大礼、大嘗会なども行われた。その後、天皇の住居として使われ、後に即位礼(明治天皇、大正天皇、昭和天皇)、朝貢の儀式にも使われた。
 現在の建物は、江戸時代、1855年(1790年とも)に建てられた。この時、1589年に泉涌寺・海会堂、1606年に仁和寺金堂に移された旧紫宸殿遺構が参考にされた。正面中央にある18段の階段木階「南階(みなみのきざはし)」(高さ1.5m、幅9m)は、中国故事より陽数、吉数9の倍数の18段になっている。内裏は「九重(ここのえ)」とも呼び、これも極限の数字9と関わりがある。九重は天門九星(五星、衆星天、日・月両天、静天)に関係しており、九天の星中の最高位に輝くという。(『類聚名物考』)。正面中央に「紫宸殿」の扁額が掛る。岡本保彦が寛政度の造営の際に書いたものを安政度の造営に際して国学者・考証学者・岡本保孝(1749-1817)が補修した。1854年の嘉永の大火でも焼失を免れた。
 北廂との間、高御座の背後、9間9枚の「賢聖障子(けんじょうのしょうじ)」の絹張りの襖絵が飾られている。第59代・宇多天皇以来飾られている。現在のものは寛永度の造営による。狩野典信の下絵に基づき、住吉広行が描いた。中国の聖人・賢人32人、獅子、狛犬、負文亀の絵、上部に岡本保孝筆の略歴・功績の色紙が貼られている。
 北廂の「御後(ごご)」は、天皇が高御座に出る際に沓を脱いだ。主殿司が控え、豊明の節会の際には女官が控えていた。『平家物語』では、平忠盛が女官に短刀を預けた場所になる。
 母屋中央、西に天皇の御座(玉座)、「高御座(たかみくら)」と、東に皇后の御座、「御帳台(みちょうだい)」が置かれている。現在のものは、第123代・大正天皇の即位礼の時に造られた。現在の今上陛下即位礼の際には、東京に移されて使われた。即位、朝賀、謁見など大礼の際に着座する。中には御椅子、左右に剣璽(けんじ)がある。
 紫宸殿は拭板敷き、二重虹梁、化粧屋根裏、四隅を欠き込む。柱間に黒塗りの蔀(御格子、みごうし)、四囲いに高欄付きの簀子状の縁がある。四隅に木階(9級)が付く。片階は片方だけに手すりが付き、側面の木口は白く塗られている。正面9間、側面3間、四方の廂を含め11面、5間。間口37.7m、奥行27.3m、棟高20m。高床式の寝殿造、入母屋造、総檜造、檜皮葺、屋根隅廂に二段に葺く錣(しころ)葺は古式に近い。
 ◈高御座・御帳台 紫宸殿の母屋中央西に天皇御座「高御座(たかみくら)」(高さ6.48m)と、東に皇后御座の「御帳台(みちょうだい)」が置かれている。かつて即位、朝貢、賓客引見の際に用いられた。平安京内裏では正殿の大極殿に置かれていた。1521年の第104代・後柏原天皇の即位以来、紫宸殿に移される。現在のものは、1915年に第123代・大正天皇即位に際して造られ、現在も即位の大礼に際して用いられる。
 高御座は下より三層の黒塗継壇、格狭間に金地極彩色の麒麟が描かれる。その上に八角形の黒塗屋形、朱色の勾欄を廻らせている。上に屋根があり想像上の金色の大鳳凰(1.7m)が羽ばたき八方に小鳳凰、玉、鏡、旛、紫の帳(とばり)などで飾られている。金具類は金色。内部中央に黒塗り螺鈿の御椅子(ごいし)を立て、左右に剣璽(けんじ)を奉安する台の「剱璽案」がある。
 御帳台もやや小ぶりながらほぼ同様の構造であり、屋根には想像上の鸞鳥(らんちょう)の飾りが載る。
 ◈軒廊 紫宸殿東南、「宜陽殿(ぎようでん)」に至る敷石廊下の「軒廊(こんろう、東軒廊)」がある。1789年に古制に復され現在の位置に移された。節分会の際に、宜陽殿西廂に控えた大臣は、紫宸殿東、南廂より内侍が天皇のお召しを伝えると、練歩(れんぽ、着衣を動かさずに歩く)により紫宸殿に昇った。
 ◈亀卜の座 紫宸殿東廂、東軒廊東端部に「亀卜(きぼく)の座」がある。廊下敷石に四角く薄い御影石「亀卜石」(1m四方)が置かれている。
 最も重要な天皇即位後初の新嘗祭である大嘗祭前に、この石の上で神祇官・卜部(うらべ)氏は、「軒廊の御卜(こんろうのみうら)」を行った。古代中国の習俗で、細かく切った「ははか(ウワミズザクラ)」を燃やし、海亀の甲羅を焼く。その時の甲羅のひびの入り方で天神、地祇に祀る米の産地2国2郡を決定した。これを「国郡卜定」といった。米を奉じる場所は内裏内、東の悠紀田(ゆきでん)、西の主紀(基)斎田(すきでん/すきさいでん)になる。亀卜により、斎王卜定、内裏の吉凶なども占っていた。
 ◈陣の座 紫宸殿東南隅、軒廊の北に板敷きの「陣の座」がある。天皇が紫宸殿に出御の際に、ここに左近衛府(さこんえふ)の武士が陣を敷き警固詰所になった。後に、大臣、中納言、参議らが集い会議「陣の定(さだめ)」を行った。近世には、親王宣下、改元などの儀式「陣の儀」も行われた。
 平安時代、960年の最初の内裏焼失は、陣の座よりの夜儀の火によるものといわれている。
 ◈議所 紫宸殿東の宜陽殿、東南廂を「議所(ぎのところ)」と呼んだ。ここでは、毎年1月下旬に公家の任国(66国)を決定する「除目の議(じもくのぎ)が行われていた。
 ◈露台 「露台(ろだい)」は、紫宸殿の東北にある南北の廊下をいう。小御所、御学問所に撞木廊下により繋がる。平安京内裏では紫宸殿と仁寿殿(じじゅうでん)の間にあり屋根がなかったことから呼ばれた。その後、屋根を設け常御殿と紫宸殿を結び、関白の控え所としても使われた。近世、即位の際の侍従控え所として使われた。
 西に菱形連子窓、東に高欄。南北5間、東西2間、総檜造。
 ◈南庭 「南庭(だんてい/なんてい)」は紫宸殿の南に広がる平庭の広庭をいう。江戸時代、1640年、寛政度の造営時に作庭されたという。また、裏松固禅(1736-1804)の考証により再現されたともいう。白砂の庭が広がり、周囲は回廊で囲まれている。庭は紫宸殿、回廊と一体のものであり、儀式の場として利用された。
 「右近の橘」(西、向かって左、天皇の座位から右)と「左近の桜」(東)のみが植えられている。平安京内裏では、桜ではなく梅が植えられていた。梅は唐より移植され、奈良時代を経て平安京内裏にも受け継がれた。845年、御所前庭の梅を折り、頭に挿して舞ったという記述がある。(『続日本紀』)。第56代・清和天皇の時(在位858-876)、桜が枯死したという。日本に自生していた桜に変わったのは第54代・仁明天皇の時(在位833-850)以来ともいう。965年(964年とも)に桜に植え替えられたことが『古今著聞集』にも記されている。奈良時代の『万葉集』約45000首の歌の中で梅を詠んだ歌は約120首、桜は約40首あった。それが、平安時代の『古今和歌集』約100首の中で梅は約20首、桜は約55首と桜に逆転している。江戸時代、1855年に桜、橘を移したという。現在の桜は、ヤマザクラで1930年に植えられた。 
 橘には伝承がある。第11代・垂仁天皇の時(BC29-BC20)、田道間守(たじまもり)は勅命により「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」を求め全国を歩き、手に入れて帰るとすでに天皇はなかった。やむなく、御陵に実を捧げその命を終えたという。この実こそが橘であったという。橘は平安京造営時以来植え継がれている。当初は、桂より移植された。平安時代、959年には東三条殿に植えられた。(『日本紀略』)。その後、紫宸殿前に植え替えられた。現在の橘は、江戸時代、1859年に植えられている。
 ◈清涼殿 「清涼殿(せいりょうでん)」は、東面して建てられている。古く「紫清両殿(しせいりょうでん)」、「中殿(ちゅうでん)」とも呼ばれた。平安時代初期-中期、第59代・宇多天皇の頃より、それまでの仁寿殿に代わり天皇の日常的な生活の場になる。近世以降は四方拝(正月元旦)の儀式も行われている。
 身舎(母屋)の南5間と東廂は「昼御座(ひのおまし)」と呼ばれ、天皇が昼間に執務した。白絹の帳を下ろした御帳台(方2m、高さ30cm)があり、その南に「大床子(だいしょうじ)」の御座、前に「台盤(だいばん)」が置かれ晴れの御膳に用いられた。脇の向かって右に獅子、左に狛犬が守護している。平安時代、960年、第62代・村上天皇が着座し、12人の歌人による名勝負「天徳歌合」が行われた。
 その東の「昼御座(ひのござ)」は玉座であり、ここで公務を行った。繧繝縁(うんげんべり)の飾り畳、大和錦の「厚畳(あつじょう)」2枚が敷かれ、上に四角い敷物の「茵(しとね、御茵)」が置かれている。
 東南隅の「石灰壇(いしばいだん)」(5m×3m)は床を漆喰で固めている。背後に「四季屏風」が立てられている。ここは天皇が毎朝、伊勢神宮への遥拝、賢所遥拝、斎戒沐浴を行う場所になっていた。東南隅の円形朱塗りの「塵壺(ちりつぼ)」(直径60cm)は、床に穴が開けられ上に円い漆塗りの蓋が置かれている。本来は周囲の塵を掻き集める場所だった。冬場は暖をとる炉として使用されていた。文禄年間(1592-1596)の工事で石灰壇の名が登場している。間口2間、奥行き1間。
 北の「夜御殿(よんのおとど)」は天皇の寝室として使われた。板敷きに繧繝縁(赤、浅黄、藍の縞)の「厚畳」が敷かれ、上にやや小さいもう一畳が重ねられ二段の帳台になる。三方を「大宋御屏風」(六曲一双、高さ1.5m)の屏風で囲む。宋朝の騎上、立ち姿をした打蹴(だきゅう、毬杖<ぎっちょう>)姿人物画になる。部屋の東北隅に鬼門除けの陰陽道の守り札が貼られている。江戸時代の改修に際して、夜御殿は形式的に継承されている。四方を壁で囲む塗籠造。床下は湿気防止のため深く掘り下げる。間口2間、奥行き2間。
 「二間(ふたま、御二間)」は、天皇の警固と安泰を祈るために夜居(よい)の僧が詰めた。観音菩薩像が安置されていた。また、阿闍梨が祈祷などを行った。
 南端の南廂は「殿上(てんじょう)の間」と呼ばれ、蔵人(五位以上蔵人頭、六位蔵人)、公卿が詰めた。なお、「殿上人(てんじょうびと)」とは天皇側近として昇殿できる一代限りの公家のことを意味した。ただ、許された者は、上がり口小板敷きまでは昇ることができる「半昇殿(はんしょうでん)」もあり、昇殿できない者は「地下(じけ)」といわれた。事務、大臣以下(大納言、中納言、参議)の公卿会議もここで開かれた。机の切台盤(4尺)、大台盤(8尺)2脚があり、東端に天皇が用いる御椅子(ごいし)が置かれていた。壁に「鳥口の文杖(とりぐちのぶんじょう)」といわれる杖があり、これに文書を挟んで上座の天皇の方へ差し出した。殿上の間の北壁に、白壁に竹による「櫛形の窓」が開けられている。『徒然草』にも描写されている。片側の部屋内だけから覗くことができ、ここより女官は殿上人を品定めをしていたという。その傍の札は「日給の簡(ふだ)」といわれ、殿上人の名(当番標)を記した「放紙(はなちがみ)」を貼っていた。落ち板敷き(落敷)の板の間、東西6間(間口10m、奥行き5m)。
 殿上の間の東、東廂南端に階段があり、「鳴板(なるいた)」(見参板)がある。その南に衝立「年中行事障子」が立てられている。宮中の年中儀式(300あまり)を墨書しており、表面(正月-6月)、裏面(7月-12月)に別れている。
 北東の「弘徽殿上御局(こきでんのうえのみのつぼね)」は女御の控えの間になる。平安京内裏では清少納言も使ったという。「萩の戸」は天皇の御座所(位置についての考証には疑問が指摘されている)、「藤壺上御局(ふじつぼのうえのみつぼね)」は後宮の控え所になる。
 東廂の弘徽殿上御局と二間の間に土佐光清筆の衝立「昆明池障子」(高さ1.8m×幅2.7m)が立てられている。絹張りであり、南面に極彩色の唐絵で長安城の昆明池、北面に嵯峨野で小鷹狩をする近衛司(少将・藤原季綱とも)が大和絵で描かれている。東廂北端の布張障子に土佐光清筆の衝立「荒海の障子」がある。江戸時代、1855年に描いた。中国の『山海経』に登場する奇怪な手足の長い伝説の国の人間が魚取りをする様を描く。『枕草子』にも記されている。裏面は光清筆の宇治川の網代の絵になる。
 西側の「西廂」は、生活の場であり北より「御湯殿の上」「お手水の間」(天皇が手水の儀を行った)がある。「朝餉(あさがれい)の間」では天皇が朝食(供御)をとり、洗面、身支度も整えた。御茵を敷き御座北に「二階厨子」、「御冠筥(おかんむりばこ)」、「ゆする坏(ゆするつき、「ゆする」はサンズイ+甘)」などの道具を置いた。朝食は午前10時、夕食は午後4時の一日2回であり、夕食は身舎の台盤(朱塗りの4脚の食膳台)、大床子(だいしょうじ、椅子、御茵に菅<すげ>の円座を置いた)を用いた。主食は米、強飯(こわいい、もち米を蒸したもの)、姫飯(ひめいい、水煮)、粥、副食は魚、鳥、野菜など質素なものだった。ほかに「台盤所(だいばんどころ)」(天皇の御膳を整える所。上の女房の控え所)、「鬼の間」(上の女房の宿直<とのい>の所、かつて南壁に白沢王が鬼を斬る絵があった、間口5.6m、奥行3m)などがあり女官が仕えた。
 清涼殿北に女御・更衣の飛香舎などの建物の「後宮」があり、渡廊下で結ばれていた。そのほか、「弘徽殿上御局(こきでんのうえのみのつぼね)」「萩戸」「藤壺上御局」などがある。
 北廂に「黒戸(くろど)」がある。第58代・光孝天皇が親王時代に行った料理の煤により戸が黒変したとして呼ばれるようになったという。後に持仏堂として使われ、場所も各所に移った。第101代・称光天皇、第103代・後土御門天皇が黒戸で亡くなったという。間口2間、奥行4間。
 清涼殿は東向きに建てられている。一部に近世の様式があるが、平安京内裏の様式を伝えている。柱間の御格子(蔀戸)は白木に黒塗り、金具類、釘隠し、高欄は赤く配色されている。東廂に「鳥居障子(とりいしょうじ)」と呼ばれる柱の組み方が見られる。南北9間、奥行4間、母屋は東西2間、間数9間。周囲に廂、簀子縁。東に吹き放しの孫廂、南北9間北4間に蔀、中央額の間より南5間は内部が見える。床は低く、間仕切りが多い。化粧屋根裏。入母屋造、檜皮葺、寝殿造。
 ◈滝口 清涼殿北東の渡廊下は「滝口(たきぐち)、滝口所、滝口廊」(1m四方)と呼ばれ、角に幅30cm、落差20cmほどの水の落ち口がある。清涼殿の東庭にも巡らされている「御溝水(みかわみず)」の源になる。
 ここは、20人の警護武士(「滝口」「滝口の武士」)の控え所にもなっていた。第59代・宇多天皇の寛平年間(889-898)より、弓矢に優れた武士を警固に当てた。武士は蔵人所に所属した。ただ、武力による外敵からの防御の意味合いよりも、邪鬼、穢を祓う呪術的な武芸者とみられている。
 宿直の武士が蔵人の呼び出しで、天皇に出勤を告げる様が『枕草子』にも描かれている。『平家物語』では滝口入道と横笛の悲哀の舞台になった。
 ◈萩壺 清涼殿の西廂前の壺庭「萩壺」には白砂に萩が植えられている。
 ◈東庭 清涼殿の東に「東庭」がある。縁先に籬に囲まれて葉の細い「呉竹(くれたけ)」が植えられている。本来は中国原産の破竹だが、現在はホテイチクが植えられている。葉の広い「漢竹(かわたけ)」も本来は中国原産になる。河竹(皮竹)とされ、現在は日本産のメダケが植えられている。これらは『徒然草』にも記され「呉竹は葉細く、河竹は葉広し・・・」とある。かつて、清涼殿は仁寿殿と対面しており、呉竹は仁寿殿、漢竹は清涼殿に属していた。このため、二つの竹は左右対称ではなく、呉竹がやや東寄りに配されている。竹の位置のズレは、周囲の景色を引き締め、庭面の広がりを見せるための工夫ともいわれる。近世、桜が植えられており、「桜の御庭」と呼ばれていた。江戸時代、1790年に平安京内裏の庭に復元された。
 「御溝水(みかわみず)」という流水の溝が北より南に流れている。北にある水の落ち口は「滝口」と呼ばれた。
 ◈長橋 「長橋」は紫宸殿の西端の簀子縁、清涼殿を結ぶ廊下をいう。「切馬道(きりめみち)」とも呼ばれたのは、正月7日「白馬(あおうま)の節会」に限り、廊下の渡り板が外された。宮人が白馬を右馬寮(うめりょう)より紫宸殿南庭に引き出す儀式が行われ、馬が廊下の一部を横切っていたことによる。なお、儀式には左右馬寮より各10頭、隔年に1頭を加え、全体で21頭の馬が加わった。邪気を遠ざける意味があり、節会の様は『枕草子』にも描かれている。
 ◈小御所 「小御所(こごしょ)」は、清涼殿北東にある。「御元服御殿」とも呼ばれる。小御所は平安京内裏にはなく、後、治承年間(1177-1181)、鎌倉幕府の制度(源頼朝の世子の住居の呼称)が宮廷に取り入れられたものという。1251年に閑院内裏に建てられた。南北朝時代には「東小御所」と呼ばれ、北朝第4代・後光厳天皇の践祚(せんそ、天子の位を受け継ぐ)、元服が行われた。江戸時代には「昭陽舎代(しょうようしゃだい)」(平安京内裏の皇太子御殿、昭陽舎の代わりの御殿)と呼ばれた。皇太子の元服式、立太子礼、足利将軍参内の際の休憩所、徳川将軍の年賀奏、幕府の使者・諸大名、所司代との対面、献上御茶壺口切、和歌歌会始め、御楽始めにも使われた。1867年、第122代・明治天皇は東廂で践祚を行う。
 1867年、御前会議(「小御所会議」)が行われた。御学問所での大政奉還の大号令後、徳川家の存続を望む公儀政体派の山内容堂と、徳川慶喜の処分を望んだ武力倒幕派の岩倉具視、大久保利通らが激論を交わした。この時、上段の間に明治天皇、中段の間に岩倉、山内、松平慶永ら親王・公家・藩主、下段の間に大久保、後藤象二郎、田宮如雲ら五藩重臣が集った。岩倉らは山内に慶喜の辞官納地を迫りクーデタは成功した。会議はその後の戊辰戦争に展開する。
 江戸時代、1790年に再建、1854年に焼失、1855年に再建された。しかし、1954年、鴨川より打ち上げられた花火により焼失後、1958年に現在の建物が再建された。考証には村田治郎(京都大学教授)、猪熊兼繁(京都大学教授)、藤原義一(京都工繊大学教授)、襖絵には旧菊池契月の門下が加わった。
 北より天皇御座の畳敷き3室、「上段の間」(折上小組格天井)、「中段の間」(小組格天井)、「下段の間」(格天井)があり、東の庭を眺めることができる。東廂などの障壁画「曲水の宴」、四季、名所絵は菊池契月(1879-1955)門下による。半蔀の内側に明障子を立てており、寝殿造から書院造に移行する建築様式になる。四方の廂床に拭板敷、前面に化粧屋根裏、繊細な筬欄間(おさらんま)で仕切る。外観は半蔀、廂を唐戸としている。書院造と寝殿造を取り入れる。入母屋造、檜皮葺。東西5間、南北11間。
 東に御池庭がある。
 ◈渡廊 「渡廊(わたろう)」は、清涼殿と諸大夫間の間を東西に結ぶ廊下になる。「渡殿(わたどの)」とも呼ばれている。西を「御膳宿(おものやどり)」といい、御膳棚を置く。近世、天皇が清涼殿に出御の際に、蔵人など近習が控えた。南戸口の沓脱石より侍臣以下が参入するところを「高遣戸」といい、その横に「主殿司宿(とのものつかさやどり)」がある。 
 ◈御拝道廊下
 「御拝道廊下(ごはいみちろうか)」は紫宸殿、清涼殿、小御所、御常御殿などを繋ぐ東西の廊下をいう。天皇が使用した廊下であり畳敷きになる。畳表の縁に赤緑が用いられている。虹梁上の蟇股に菊花が彫られている。化粧屋根裏天井。
 ◈端廊下 「端廊下(はしろうか)」は、御詰廊下より非蔵人廊下に通じる臣下用の西側の廊下になる。一部、御拝道廊下と平行している。畳敷きで畳表の縁に蘇芳縁の薄縁、北に板戸、明障子が立つ。棹縁天井。
 ◈御学問所 「御学問所(おんがくもんしょ)」は、小御所の北にある。室町時代より清涼殿一画に建てられていた。慶長度の造営に際して、1614年に別棟で建てられた。その後、再建が繰り返される。1790年の内裏造営に際して宝永年間(1704-1710)の様式が再現された。当初は学問と芸術和奨励する場として使われ、後に親王謁見、御対面、御講書始め、新茶封切、御吉書始、和歌の会などに使われる。
 東に北より「上段の間」(上畳式玉座、床、違棚、折上小組格天井)、「中段の間」(格天井、畳敷、畳敷入側、障壁画は岸岱筆「蘭亭の図」)、「下段の間」(格天井、畳敷、畳敷入側)がある。
 西北に「菊の間」がある。御常御殿の煤払いなど臨時の場合に天皇の居所として使われた。床、違棚(千鳥棚)は、「御所三棚」(ほかに桂離宮「桂棚」、修学院離宮「霞棚」)のひとつに数えられている。また、棚は臨時の剣璽棚としても使用された。ほかに「山吹の間」「雁の間」がある。北廂杉戸絵に吉田公均筆「松に鷹」がある。
 東面して建てられ、畳縁、簀子縁に勾欄、引違の舞良戸(遣戸)。書院造、一部に寝殿造、檜皮葺。
 東に御池庭がある。
 ◈御鈴廊下 「御鈴廊下(おすずろうか)」は、御学問所西廊下の遣戸をいう。かつて御常御殿に通じ、戸に鈴が付けられていたことから御鈴廊下と呼ばれていた。「御錠口」とも呼ばれた。現在は殿舎と繋がれておらず御学問所の北端で切れている。
 ◈八景の間 「八景の間(はっけいのま)」は御学問所の西にある。「水鳥の間」(元御猶子の控えの間)、「八景の間」(関白控えの間)、「林和靖の間」(元議奏の控えの間)、「林和靖の北の間」(元大臣の控えの間)、「白張の間」(元近習堂上の控えの間)、「錦鶏の間」(御番御免の者の控えの間)、「落長押の間」の6室がある。
 ◈蹴鞠の庭・東庭 「蹴鞠(けまり)の庭」は小御所の北にある。「鞠懸(まりがかり)」「懸かり」「鞠庭」「鞠壺」ともいう。小御所と御学問所の間の四角く囲まれた庭であり、蹴鞠、砂立舞楽が行われていた。現在も国賓に蹴鞠が披露されることがある。7間半四方。かつて四隅に松が植えられていた。
 蹴鞠(けまり/しゅうきく)は、飛鳥時代より始まったともいう。四隅に木(松、柳、桜、楓)を立てた四方の「懸り」という場所で8人の競技者「鞠足」で行う。衣装は狩衣、後に鞠水干を身につけた。一定の高さと間隔で鞠を蹴り上げ、各々が落さないようにする。鞠は鹿皮製で、「白鞠」「燻鞠(ふすべまり)」の2種があった。名手は「上足」、未熟者は「非足」といわれた。
 蹴鞠の庭の東は「東庭」とも呼ばれ、正月15日に「御吉書左義長(おきつしょさぎちょう)」という報告書を囃しながら焼く行事が行われた。
 ◈御常御殿 「御常御殿(おつねごてん)」は、御三間の東にある。「常御所(つねごしょ)」とも呼ばれた。天皇の日常の御座所、内向きの御殿であり、生活の場として用いられた。平安京内裏では仁寿殿が使用された。その後、清涼殿内に造られ、室町時代以降は御常御殿が建てられる。現在の建物は安土・桃山時代、1590年に別棟として建立される。以後、御座所になった。1855年に内部が再建された。京都御所内で最大の建物になる。
 畳敷きの15室が東西3列に配されている。「御清(おきよ)の間」、天皇の寝室「御寝(ぎょしん)の間」(18畳)は、厚畳、銅板張り二重床(湿気除けのため間に籾殻、地面に白い木炭を敷いた)、保温のため二重天井になる。南側に東より「上段の間」「中段の間」「下段の間」があり、部屋間は段違無目敷居で仕切る。3室は儀式に用いられ、天杯下賜、吉書初、摂家参賀などが行われた。ほかに「一の間」は、東向きに造られ日中の御居間として使われた。西に床、違棚がある。
 上段は折上小組格天井、東背後に「帳台構(納戸構)」は黒漆塗りの枠組み、襖把手に朱房を垂らす。その中に「剣璽(けんじ)の間」(9畳半)がある。西南隅の御床(幅1間、奥行き半間)には、「三種の神器」のうち「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」と「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/あまのむらくものつるぎ、草薙剣)」が奉安されている。年賀の祝いなど内儀の儀式も行われた。
 剣璽の間はかつて清涼殿にあった。それ以前には賢所にあった。1441年、6代将軍・足利義教が暗殺された。1443年、元権大納言・日野有光は、南朝の金蔵尊秀王を推した。共に内裏を襲撃し、火を放つ。神璽、宝剣を奪い、比叡山延暦寺に立て籠もる。幕府軍、延暦寺僧徒がこれを討ち剣璽は戻された。以来、清涼殿の御常御殿に遷された。 
 帳台構には狩野永岳筆「桐竹鳳凰図」の4枚の襖絵、小襖に土佐光晴筆の「四季花鳥」、中段の間に鶴沢探真筆「戒酒防微図」の絵があり、いずれも極彩色で彩られている。
 御殿内は男子禁制になっていた。公家出身の「女官」と、神官・士族出身の「女孺(にょうじゅ)」と呼ばれる女性が取り仕切った。それぞれに階級があり、源氏名で呼ばれた。ただ、公家の子弟より選ばれた「稚児」は、天皇の側近として身の回りの世話をしていた。老いた男性4人は、護衛として西端の「申口の間(もうしくちのま)」の板敷きに控えた。彼らは、「向東侍(こうとうざむらい)」「男居(おとこずえ)」とも呼ばれた。
 戦前までは南の御学問所との間に廊下があった。御殿の間はこれらの廊下により結ばれていた。明り障子、床の間、違棚、袋棚があり、内部は書院造、外観は寝殿造。周囲に廂、簀子縁、勾欄、格子。入母屋造、檜皮葺。
 南の前庭「壺庭」には紅梅、白梅が植えられている。東に御内庭がある。
 ◈錦台 茶室「錦台(錦帯、きんたい)」(4畳半)は、御常御殿の前(東)の御内庭にある。数寄屋風であり、庭園の物見台になっており、付近の紅葉が美しい。九条尚忠筆「錦台」の額が掛かる。
 縞葺は、こけら葺、檜皮葺を5寸(15cm)毎合わせており縞模様に見える。待合(3畳)、腰掛(3畳半)
 ◈御三間 「御三間(おみま)」は、御学問所の北にある。「御み(見)間」ともいわれたのは、かつて観能の見所になっていたことによる。日常の御座所として使われた。室町時代には清涼殿内にあり、宝永期(1704-1710)以降、また寛永度の造営に際して別棟になる。その後、内々の対面所になる。かつて南に能舞台(囲炉裏の間)があり能見所としても使われた。涅槃会、茅輪(夏越祓)、七夕、盂蘭盆会(御目出度御盃)なども行われた。住吉弘貫筆極彩色の「大極殿朝賀」(年頭儀式)、「賀茂祭」「駒引き」などの障壁画がある。
 周囲に縁、廊下を廻らす。3室からなり、東より「上段の間」(10畳)、「中段の間」(12畳)、「下段の間」(12畳)があり、3室は一つのものとして用いられた。書院造。南と東西に御縁座敷がある。
 ◈迎春 「迎春(こうしゅん)」は、御常御殿の北にある。第121代・孝明天皇の書見の間になる。安政度の造営の後、1857年に建てられたという。後に新しく建てられたことから「御新建(おしんだち)」とも呼ばれる。
 東面し、「南の間」(10畳)、「北の間」(5畳半)など5室がある。塩川文麟筆の孔雀、岸連山筆の群獣などの襖絵で飾られる。東軒下に掛かる「迎春」の扁額は、鷹司政通筆、花山院家厚筆ともいう。棹縁天井、縁に網代の袖垣、小柴の袖垣がある。檜皮葺。
 東縁の沓脱石は鞍馬石であり、久邇宮家献上という。東に御内庭、北に龍泉の庭がある。
 ◈御涼所 「御涼所(おすずみしょ)」は、迎春の北にある。寛政度の造営により建てられた。東に9畳(床、付書院、違棚)、7畳半、西に4畳半の茶室、6畳の4室がある。夏場を涼しく過ごすために東向きに建てられている。中敷居窓を開けるなど、風通しを良くする工夫が随所にみられる。建物の近くまで遣り水を引き入れている。
 多村挙秀筆「志賀春之景」、田中泰喬筆「嵐山秋之景」、裏の間に島田雅喬筆「四季草花群虫」などの絵で飾られている。
 書院造風、禅宗様式ともいう。いずれも木賊葺。茶室は天井高く、西と北に窓を開ける。
 東に龍泉の庭がある。
 ◈泉殿 「泉殿(いずみどの)」は龍泉の庭にある。納涼の宴、茶会も催されていた。「地震殿(じしんでん)」とも呼ばれるのは、地震の際に天皇、皇后が一時避難したからという。延宝年間(1673-1681)に増築された。1854年の内裏大火で焼失を免れている。
 赤土の壁、平屋、畳敷2間、北山丸太の柱、数寄屋造、棟は大和葺、こけら葺。
 ◈御日拝所 「御日拝所(ごにっぱいしょ)」は、御内庭北の植え込みの中にある。地面の苔に小さな丸石を敷き詰め円座(直径1m)にしている。天皇は毎朝、御湯殿で体を清め、直衣にお手水して、ここで伊勢神宮、内侍所の剣璽を遥拝していた。かつて清涼殿身舎の石灰壇で行われており、1590年に御常御殿が建てられるとここで行われるようになった。
 傍らに2代目・清水六兵衛の陶器製燈籠が立てられている。
 ◈龍泉門 「龍泉門(りゅうせんもん)」は、迎春の東にある。萱葺門、牡丹の透し彫りがある。門より北が「龍泉の庭」になる。」
 ◈渡廊 「渡廊(わたろう)」は、御涼所から聴雪に向かう所にある南北の廊下になる。「渡殿(わたどの)」「吹抜(ふきぬき)廊下」ともいう。吹き抜きの廊下であり、折曲がって渡されている。低い欄が付き、傍ら、下を遣り水が流れている。
 明治天皇は東京遷都に際し、京都御所を去る時「わたどのの下ゆく水のおときくも こよい一夜となりにけるかな」と詠んだ。柱、欄干は面取りの丸太、こけら葺。
 南に龍泉の庭、北に蝸牛の庭の遣り水がある。
 ◈聴雪 茶室「聴雪(ちょうせつ)」は、御涼所の北東にある。江戸時代、1856年に増築された。第121代・孝明天皇の好みになり、東より「上の間」「中の間」「下の間」の3室がある。
 上の間の障壁画に原在照筆の「葡萄に栗鼠の図」「芭蕉に犬の図」。中の間正面右の床の間、袋棚に小田海僊筆「朝顔に鶏」「青梅」「三日月蝙蝠」「鵜飼」があり、一日の情景を描写している。床間脇の違棚地袋に松村呉春筆「鸚鵡図」「果物籠図」があり、仙洞御所より移された。
 南、東に縁を廻らせ下に遣り水が流れている。数寄屋造、こけら葺。
 西に茶室(4畳半)がある。「聴雪」の扁額は近衛忠煕筆による。北に水屋(3畳)がある。
 南に龍泉の庭、北に蝸牛の庭がある。
 ◈御花御殿 「御花御殿(おはなごてん)」は、御涼所の北にある。「東宮御殿(とうぐうごてん)」とも呼ばれ、皇太子の御殿として利用した。
 「北の間」「上の間」(8畳)、御新建の「西北の間(四君子の間)」「西の間」など現在は6室ある。
 西北の間(四君子の間)に中島有章筆の障壁画「四君子」(梅菊蘭竹)がある。部屋は第122代・明治天皇の皇太子時代にも利用された。皇太子(祐宮)はこの竹の襖絵に戯れで葉、幹を書き入れたという。その絵跡がいまも残されている。上の間に中島来章筆「群鶴松梅」、岸岱、長沢芦洲の絵もある。
 恭礼門院(藤原富子)の女院御所より移された建物を用いている。1855年に建てかえられた。1865年室内が変えられた。勾欄付、遣り戸、明り障子、書院造、入母屋造、檜皮葺。
 東に蝸牛の庭がある。
 ◈長橋局 「長橋局(ながはしのつぼね)」は、御常御殿の北西にある。最上位の女官・勾当内侍(こうとうのないし)の居所になる。勾当内侍のことを「長橋殿」「長橋局」とも呼んだ。天皇奏聞の際に必ず勾当内侍を通す決まりになっていた。
 三間、そのほかの部屋、西隅に台所があり、防火のために漆喰で総塗籠めになっている。
 ◈参内殿 「参内殿(さんだいでん)」は、長橋局の南西に繋がる。年始参賀の際に宮家、摂家らが使用した。上皇の行幸にも用いた。
 上段、中段、下段の3室、小間がある。玄関には車寄がある。西に広縁、外の落縁に清所門への階段がある。桟瓦葺。
 前庭では千秋万才(せんずまんざい)(正月5日)、猿楽、闘鶏(3月3日)が行われた。
 ◈奏者所 「奏者所(そうしゃどころ)」(18畳)は、参内殿の北西に繋がる。参内殿に昇殿できない者の控えの間になる。桟瓦葺。
 ◈後宮 「後宮(こうきゅう)」は、御花御殿の北にある4つの殿舎の総称になる。女御だけが利用した奥御殿だった。平安京内裏では12の殿舎があった。いまは皇后御常御殿、両殿御殿(若宮御殿、姫宮御殿)、飛香舎だけが残る。
 ◈皇后御常御殿
 「皇后御常御殿(こうごうおつねごてん)」は、京都御所の北端、飛香舎の南にある。平安京内裏の后妃の御殿、後宮の跡を継承している。皇后が日常的に利用した。「皇后御殿」「准后常御殿」「女御御殿」「中宮御殿」などとも呼ばれた。かつて天皇の御常御殿と廊下で結ばれていた。
 東向きの「上段の間」(12畳)には床(1間半)がある。南に鉤型に「中段の間」「下段の間」がある。北に「御小座敷」(4畳半)が2間、「御化粧の間」(9畳)など13室がある。障壁画は上段の間に土佐光清筆「列女伝-有虞二妃図」、中段の間「契母簡狄」、下段の間「湯妃有幸女」が描かれている。これらは漢の劉向が描いた故事『列女伝』に基づく。一の間に原在照筆「倭耕作図」、違棚小襖に呉春筆「海辺遠景」「浜辺松残雪」、中央の御寝間(17畳)に西面小襖に岸岱筆「倭曲水」「関駒迎」「近衛八景」が飾られている。
 江戸時代、1620年に徳川家康が娘・和子(東福門院)入内に伴い建てた。1720年に現在地に移される。総畳敷き、書院造、入母屋造、檜皮葺、1880年以降に、奏者所、女官部屋などが取り除かれた。かつて、皇后御常御殿、両殿御殿、飛香舎などの殿舎間を繋いでいた廊下もいまはない。
 ◈飛香舎 「飛香舎(ひぎょうしゃ)」は、京都御所の北端、朔平門の南西にある。「藤壺(ふじつぼ)」とも呼ばれた。平安京内裏では後宮五舎のひとつとして、特定の女御、中宮が住んだ。現在、この飛香舎だけがその名を継承している。『源氏物語』中の桐壺帝后も飛香舎の住人とされた。近世以降は皇后の正殿になる。女御入内、立后、宣下など晴の御式が執り行われた。1794年、光格天皇中宮・新清和院入内、1868年昭憲皇太后入内もここで行われた。
 江戸時代、1790年、裏松固禅の考証により再興され、京都御所内でもっとも正確に復元され、復古的な意匠が色濃い建物とされている。母屋は昼御座で御帳台が置かれている。東に「女房の座」(1間、3間)、「公卿の座」、その一部になる北廂に「殿上人の座」がある。東南の「透渡殿(すいわたどの)」は「東廊」とも呼ばれる。
 円柱、蔀戸、鳥居障子。全面拭板敷、化粧屋根裏。母屋(3間2間)、四廂に孫廂を付ける。母屋梁上に、平安時代の「豕扠首(いのこさす)」という「ハ」の字、合掌型の部材を用いる。寝殿造、入母屋造、檜皮葺。
 ◈黒戸 「黒戸(くろど)」は飛香舎の南に独立して建つ。仏壇のある仏間になる。
 ◈藤壺 飛香舎南庭に藤があり「藤壺」とも呼ばれた。かつては楓と藤を植えていたという。いまは白砂に藤棚がある。
 平安京内裏には萩壺、藤壺、梅壺、梨壺、桐壺などがあった。やがて壺庭は部屋の名称になる。現在はこの藤壺と清涼殿の萩壺が残る。
 ◈両殿御殿 「両殿御殿」は、京都御所の北端、飛香舎の西にある。東の「若宮御殿(わかみやごてん)」と、西の「姫宮御殿(ひめみやごてん)」が杉戸で隔てている。若宮御殿は幼少期の第122代・明治天皇が使用した。若宮御殿二の間に多村挙秀筆「梅鶴」、姫宮御殿二の間に山田竜淵筆「竹に雀」の障壁画が飾られる。
 両殿は繋がり一つの建物になり、ともに4室ある。書院造。
 ◈御馬見所 「御馬見所(ごばけんしょ)」は京都御所の北西、松林に建つ。平安京内裏では、「馬場殿(うまばのおとど)」と呼ばれていた。殿舎の北東に馬場があり、駒牽(うまひき)御馬奏(4月)、端午の節句(5月)などの行事が行われていた。北東に観覧のための部屋が設けられている。瓦葺。
 ◈猿ヶ辻 「猿ヶ辻」は京都御所の築地北東角、鬼門にある。築地塀が欠け込んでいるところに、木彫りの猿が封じられている。木彫りの猿は烏帽子に御幣を担ぐ。日吉山王の神使として鬼門除けの意味がある。現在、猿に金網が張ってあるのは、かつてこの猿が夜中に抜け出し、悪戯を働いたという。その鳴き声が天皇の耳にまで入り、それ以来金網に封じらた。京都ではほかに幸神社、赤山禅院にも鬼門封じの猿が祀られている。
 かつてこの地は「つくばいの辻」とも呼ばれた。深夜にここを通ると足をとられて這いつくばったことから名付けられたという。平安時代、近衛天皇を苦しめた鵺(ぬえ)は、御所の艮(うしとら)の方角から現れたという。武将・源頼政が弓で射落とし、猪の早太(いのはやた)が仕留めたという。
 1854年、嘉永の大火でもこの付近は焼失を免れたという。
 幕末、1863年、勝海舟らの説得により、尊攘派より開国論に寝返った公家・姉小路公知(きんとも)は、深夜、廟議の帰りに猿ヶ辻で刺客に襲われ、公知は公家刀で応戦しようとしたが後に亡くなる。(朔平門外の変)。暗殺嫌疑により捕らえられた薩摩の田中新兵衛は、取調べ中に自刃した。公家で殺された例は他にはなく、犯行は、薩摩説、長州説、公家説など諸説ある。
 ◈御台所跡 「御台所(おだいどころ)」は清涼殿北の現在の空き地にあった。女房の局があり、能舞台もあった。1944年に空襲による延焼防止のために取り壊された。
◆障壁画・文化財 京都御所には1500点あまりの膨大な障壁画などが残されている。土佐派、狩野派、円山派、岸派などによる。
 御常御殿上段の間の帝鑑図に狩野永岳筆「堯任賢国図」、中段の間に鶴沢探真筆「大禹戒酒防微」、下段の間に座田重就筆「高宗夢賓良弼」。上段の帳台構に狩野永岳筆「桐竹鳳凰」4面。小襖に土佐光晴筆の四季花鳥。
 迎春に塩川文麟筆の花鳥図の襖絵。
 紫宸殿の賢聖障子に32人の名臣立像が描かれている。中国の古代より唐代の聖賢、名相、学者の絵になる。宮殿にこの絵を飾ることは中国で始まり、平安京内裏では寛平年間(889-897)、第59代・宇多天皇以来になる。現在の絵は、江戸時代、1790年に江戸の狩野典信が下絵を描き、途中で亡くなったため土佐派の住吉内記広行が引継ぎ完成した。1854年の火災にも焼失を免れる。
 清涼殿鳥居障子に土佐光清筆「若菜摘み」。諸大夫の間の虎の間に岸岱筆の虎、鶴の間に狩野永岳筆の鶴、桜の間に原在照筆桜の襖絵がある。
 御学問所の上段の間に狩野永岳筆「十八学士登瀛州図」は唐の太宗が18人の学生を文学館に集め、文籍を論じたという故事に因む。中段の間に岸岱筆「蘭亭の図」、下段の間に原在照筆「岳陽楼の図」、雁の間に岸連山筆「菊図」、菊の間に岡本亮彦筆「菊図」。
 御常御殿の上段の間に狩野永岳筆「尭任賢図治図」、中段の間に鶴沢探真筆「大禹戒酒防微図」、下段の間に座田重就筆「高宗夢賚良粥図」。岸連山・竹堂筆「谷川に熊図」、中島華陽筆「常盤木に猿図」。杉戸に舞楽の「案摩(あま)」などが描かれ、雑面(ぞうめん)という紙の面を被っている。
 御三間上段に住吉弘貫筆「大極殿朝賀の図」、中段の間に駒井孝礼筆「賀茂祭群参の図」、下段の間に岸誠筆「駒引図」。聴雪中の間、床の間脇の違棚に松村呉春筆「鸚鵡図」「果物籠図」。
 皇后御常御殿の上段の間に土佐光晴筆「烈女伝 有虞二妃」、中段の間に吉田元鎮筆「契母簡狄」。御小座敷上の間に狩野永岳筆「三保浦 春の富士」、床袋棚小襖に丸山応挙筆「虹図」「鮎図」。
 若宮御殿の上段の間に勝山琢眼筆の「蹕輦(ひつれん)受言」、姫宮御殿の上段の間に狩野蔵之進筆の「烈女伝周室三母」の障壁画がある。
 小御所に菊池契月門下の障壁画がある。安政度の造営では、狩野永岳、鶴沢探真、勝山琢文、原在照、海北友樵らの障壁画があった。その後、焼失している。
◆庭園 京都御所内の小御所、御学問所前にある南の「御池庭(おいけにわ)」と御常御殿、迎春、御涼所、聴雪の前庭である北の「御内庭(ごないてい)」の二つがある。庭は長押門で仕切られている。燈籠は26基立てられている。
 ◈御池庭 小御所、御学問所前にある回遊式庭園「御池庭(おいけにわ)」は、「池の庭」とも呼ばれる。平安京内裏にはなかった。1606年慶長度の造営により拡張される。1619年の女御院殿拡張の際に作庭されたという。。豊臣秀吉五奉行の一人、前田玄以の作庭によるとされ、小堀遠州も関わったという。惣奉行は板倉伊賀守だったともいう。その後6度の火災に遭い、改修が繰り返された。延宝年間(1673-1681)、今日の御池庭が完成する。明和年間(1764-1771)、非蔵人・安田美作守敦教、寛永年間(1624-1645)、典医・三宅祖仙が改修したともいう。
 かつて、東山の借景を取り入れた庭園になっていた。御池には二つの滝より水が注がれている。蓬莱島の奥の対岸に滝組がある。北の中島奥の対岸にも別の滝組がある。
 南北に3つの中島があり、それぞれに燈籠が立つ。南のもっとも大きな中島には欅橋、八ツ橋が架かる。中島の南東岸に御舟宿がある。中央の中島は蓬莱島といい、大きな雪見燈籠が立てられている。北の中島は二つの石橋「欄干橋」「切石橋」で結ばれている。
 西岸は規模の大きな洲浜(石浜護岸)になっており、一面に栗石が切石積に敷き詰められ、水際よりなだらかな傾斜がつけられている。浜は緩やかな汀の曲線を描いている。なお、小堀遠州が手がけたという仙洞御所にも同様の洲浜がある。州浜中央に欅橋の方へ向かう形で斜めに飛石が打たれ、その先が舟着になる。中島の裏に御舟宿がある。
 マツ、サクラ、ツツジ、カエデなどの植栽がある。
 ◈御内庭 「御内庭(ごないてい)」(6900㎡)は、御常御殿、迎春、御涼所、聴雪の東にありこれらの前庭を総称している。「流れの庭」ともいわれ、北より南に緩い流れの遣り水が導かれている。かつて、琵琶湖疏水より水が引かれていた。現在は井戸水を汲み上げている。安政期(1854-1860)末-明治期(1867-1912)に整備された。御溝水の流れを橋、石組、築山、植栽の間に縦横に通し、大池に導く。どの位置から見ても正面になるように作庭されている。庭はかつて東山、比叡山の借景を取り入れていた。サクラ、キリシマツツジ、カエデなどの植栽がある。
 長押塀に開けられた「長押(なげし)門」を経て御内庭に入ると、土橋の対岸丘に、茶室「錦台(きんたい)」が建てられ、周囲は紅葉の頃が美しい。茶室前に朽木燈籠が立てられている。松尾大社の土中に埋もれていた朽木を用いており、東相命の献上によるものという。3代六兵衛作京焼最大といわれる雪見燈籠がある。万延年間(1860-1861)、また1853年のもので、小田原藩・大久保大隅守・長谷川肥前守の命によって献納した。明治期(1868-1912)の根府川(ねぶかわ)石の石橋が中島に架かる。鉄燈籠があり、立石とともに羽と見立てて鶴とした。この鶴島とともに対として、手前に亀形の石を据えて亀島が造られている。
 一般公開されているのはこの付近までになる。遣り水の流れ上流(北)へ向かう。『伊勢物語』に登場する板橋の八ッ橋が泉殿に架かる。橋近くに吉田良煕献上の大糸桜が植えられている。橋に至る飛石は八瀬・高野村の献上による。泉殿は、茶会、歌会のほか、地震の際の避難所としても使われ、「地震殿」の異名もある。
 迎春の前庭には鉄燈籠、清水焼燈籠がある。御日拝所(直径1m)は、玉石を円形に敷き詰めている。かつて天皇がここで、毎朝、伊勢神宮に向かって遥拝していた。
 その北の龍泉門を経る。これより北の遣り水は二流に別れる。夏場の避暑のための「御涼所(おすずみしょ)」がある。前の「龍泉の庭」は、建物近くまで水を引き入れる。中島があり3つの橋が架かる。池中に青銅製の家形の手水鉢が置かれている。蛇口が付いており捻ると水が出る。水際は玉石が敷かれている。東に「白の志野焼き」という蕨手付春日燈籠が立つ。遣り水は北端の茶室「聴雪」、渡廊の下を流れる。幕末期の孝明天皇、近代の明治天皇がこの庭を愛でた。
 さらに北の御花御殿の東に近代、明治期(1868-1912)作庭の枯山水式庭園「蝸牛(かぎゅう)の庭」がある。白砂に苔の島があり須弥山を表している。山形の石なども配されている。
◆仙洞御所 京都御苑南東部にある仙洞御所の仙洞とは、本来は仙人の住処を意味する。天皇の譲位後の住いにあてられていた。同じ築地塀内の北西隅に大宮御所がある。全体で49000㎡の広さを有する。
 1628年、1629年とも、第108代・後水尾天皇譲位後、仙洞御所は上皇の御所になる。以後、5代の上皇が住した。1630年に仙洞御所として二条城行幸御殿、御次之間、中宮御殿が移築された。また、東福門院(後水尾天皇上皇皇后、徳川秀忠娘・和子)の女院御所も建てられる。作事は小堀遠州が務めた。
 1636年に小堀遠州により庭が造られた。1661年の焼失以来、7度罹災している。1854年の大火以来殿舎は再建されていない。1867年、英照皇太后(第121代・孝明天皇女御、明治天皇嫡母)のため、女院御所跡に大宮御所を造営する。
◆大宮御所 大宮御所は江戸時代、1630年に竣工し、後水尾天皇中宮・東福門院和子(1607-1678)が住んだ。大宮御所と仙洞御所の間は長廊下により結ばれていた。その後、新上西門院(霊元皇后)、承秋門院(東山皇后)、新崇賢門院(東山典侍)、新中和門院(中御門女御)、新清和院(光格皇后)が住した。その後、度々焼失している。現在の建物は、孝明天皇女御・英照皇太后の邸宅として建てられた。御常御殿、御車寄、倉庫だけが残る。
◆京都迎賓館 2005年、国賓を迎えるために京都御所の東に京都迎賓館が開館した。内閣府が管理している。入母屋屋根、数寄屋造による。数寄屋大工、左官、截金など伝統的技能を用い、調度品も西陣織、蒔絵、漆などを用いている。
 作庭棟梁は佐野藤右衛門による。「庭屋一如」とされ、庭と建物を一体化させている。自然の輪廻にも配慮し、現場から出た石を利用している。たとえば、大池に敷きつめられたゴロタ、主賓座敷前の霰こぼしの延段などに使われた。
◆京都御苑の建築・史跡 京都御苑内には多くの建物、史跡などが残されている。
 ◈御門 北中央に今出川御門、北西に乾御門、その南に中立売御門、蛤御門、下立売御門、椹木口門、南中央に堺町御門、北東に石薬師御門、その南に清和院御門、寺町御門がある。そのほかの7つの通路は「切り通し」と呼ばれている。
 ◈蛤御門 「蛤御門(はまぐりごもん)」は京都御苑西の中央、烏丸通に面している。江戸時代、1675年に建てられた。以前は現在より30-40m東よりの位置に南向きに建てられ、明治期(1868-1912)に現在地に移されたという。かつて、「新在家御門」と呼ばれ、「開かずの門」とされていた。江戸時代、1708年の宝永の大火、1788年の天明の大火で、人々を避難させるために開放されたことから、「焼けて口開く蛤」のたとえで蛤御門と呼ばれるようになったとされる。ただ、大火以前(1707年)より蛤御門の名称が用いられていたともいう。
 1864年、池田屋事件報復のために入洛した尊攘派の長州藩と、御所を警護していた会津、薩摩、福井、桑名藩の間で激しい戦闘となり、長州勢が敗れた。この戦い「蛤御門の変(禁門の変)」と「どんどん焼け、鉄砲焼け」により京都の大半が焼失している。今も門には弾痕が残る。
 ◈堺町御門 「堺町御門」は京都御苑南中央にある。1863年の「八月十八日の政変(七卿落ち)」は、幕末維新の時代、会津藩、薩摩藩などの公武合体派が、尊皇攘夷派の長州藩や過激派公家などを京都の政治の中枢から追放した宮中での権力奪取だった。薩摩藩は、会津藩、尊攘派に反感を持つ孝明天皇、公武合体派の公家と連携し、朝廷における尊攘派の一掃を行った。三条実実ら急進派公家は鷹司家に集った。堺町御門警備の長州藩が御門に集結したが、門はすでに会津藩、薩摩藩兵で固められており、門内に入ることができなかった。公武合体派・中川宮によるクーデタは成功した。その後、長州藩兵は京都から追放され、三条実実らの公卿7人も長州に逃げ、一時的に公武合体体制になった。
 ◈石薬師門 「石薬師門」は、京都御苑北東にある。1869年の東京遷都決定後、市民1000人が石この門に集まり、遷都反対の嘆願を行った。
 ◈九条邸 「九条邸跡」は、京都御苑南端にある。九条池(勺玉池)と茶室「拾翠亭(しゅうすいてい)」が残る。藤原鎌足を祖とする五摂家のひとつ旧九条家屋敷内に設けられた庭園遺構になる。池の広さは7200㎡。ツツジ、夏にサルスベリの花が咲く。
 池には高倉橋が架かる。近代に入り、1878年に仮橋が架けられた。1882年に現在の橋が架かる。御所の建礼門から丸太町に出るための御幸道の計画により造られた。だが、その後計画は中止になる。旧三条大橋、五条大橋の橋脚を再利用している。かつて三条小橋の擬宝珠を載せていた。現在は、新調したものを使う。長さ43m、幅3.3m。
 拾翠亭は江戸時代後期の茶室で、寛政年間(1789-1800)に建立された。かつては東山を借景としていた。禁門の変でも焼失しなかった。
 幕末、米総領事・ハリスの通商条約締結要請に対して、関白・九条尚忠は開国派、その向かい東隣の屋敷にあった太政大臣・鷹司政通は攘夷論を唱えて対立した。幕府と朝廷の交渉は九条尚忠邸で行われた。1869年、明治天皇、左大臣・九条道孝は東京に移った。
 ◈閑院宮邸跡 「閑院宮(かんいんのみや)邸跡」は、京都御苑内西南にある。閑院宮は、江戸時代、1710年に東山天皇皇子・直仁親王により創設された世襲の四親王家の一つになる。ほかには、伏見宮、桂宮、有栖川宮がある。
 旧閑院宮邸の場所には、かつて「第六の摂関家」「まぼろしの摂関家」といわれた松殿家があった。
 閑院宮邸は宮家、公家の邸宅の中に、1716年に創建された。その後、焼失、再建が行われている。1877年に宮家は東京に移る。その後、華族会館、裁判所などとして使われる。1883年から宮内省京都支庁となり新築された。2006年に改修整備され、江戸時代の公家住宅遺構として一般公開されている。築地塀に囲まれ、東門がある。邸内には、平屋書院造の主家、長屋門、門番所、土蔵などが建てられ、庭園は18世紀中ごろに造られたものが一部復元されている。このほか収納展示室、レクチャーホールなどもある。敷地面積は9500㎡。
 ◈鷹司邸跡 「鷹司(たかつかさ)邸跡」は大宮・仙洞御所南西になる。鷹司家は五摂家のひとつになる。鎌倉時代中頃に創設され、一時断絶し、江戸時代に再興され、近代に断絶している。家名は平安京の鷹司小路にあったことによる。江戸時代後期、当主が関白を務めた。1864年の禁門の変の際には、長州藩士により屋敷に火が放たれた。
 ◈桂宮邸跡 「桂宮(かつらのみや)邸跡」は京都御所北にある。桂宮は、四世襲親王家の一つ。桃山時代に創設され、明治期(1867-1912)に断絶した。智仁親王の別邸が桂離宮であり、本邸跡には築地塀、表門、勅使門が残され、庭園もある。御殿は、二条城本丸に移築された。
 幕末、皇女和宮は、ここから江戸へ嫁いだ。
 ◈土御門邸跡 「土御門(つちみかど)邸跡」は大宮・仙洞御所北にある。公家の土御門家は、源氏系土御門家と安倍氏系土御門家がある。前者は、鎌倉時代に創設され、室町時代初頭に断絶した。
 安倍氏系土御門家は、室町時代の陰陽師安倍有世の末裔になる。若狭に移住、江戸時代初期に京都に戻った。梅小路に邸宅はあった。
 ここは、平安時代の公卿・藤原道長の邸宅跡で、上東門第、京極第とも呼ばれた。道長は、長女の彰子を第66代・一条天皇の中宮とし、この地は大内裏となる。1008年、彰子は里さがりして、皇子(後一条天皇)を生む。次の第67代・三条天皇には、次女の妍子を入れた。だが、三条天皇とは対立し、天皇を退位に追い込む。次に、彰子の子、第68代・後一条天皇を即位させ、自らは摂政となる。さらに、後一条天皇には三女の威子を入れ、「一家立三后」といわれた。栄華の絶頂期に宴席で道長が即興で詠んだというのが、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば」になる。
 ◈西園寺邸跡 「西園寺邸跡」は京都御所南西になる。西園寺家は平安時代に創設され、家名は公経が京都の別邸に建立した寺名に由来する。鎌倉時代、公経は、金閣寺の地に北山堂を建て妙音天、妙音弁財天という音楽神を祀る妙音堂を建てた。室町時代-江戸時代には琵琶の宗家として知られた。
 この地には、江戸時代、1769年に移る。東京遷都後、1878年、それまでの神仏混交の作法を改め、地名の白雲(しらくも)村に因み白雲神社が建立された。また、邸内には、公望により、1869年に私塾立命館が創設され、1年弱で閉鎖された。
 ◈有栖川邸跡 「有栖川(ありすがわ)邸跡」は、大宮御所・仙洞御所の西にある。有栖川宮は、江戸時代前期に創設された宮家で、四世襲親王家の一つ。家名は、伏見宮家の祖・栄仁親王が、有栖川とも称したことによる。大正期(1912-1926)に絶家となった。
 ◈一條邸跡 「一條(一条)邸跡」は京都御所の西にある。公家一条家は、五摂家のひとつ。鎌倉時代に創設された。家名は、九条道家創建の一条殿に、祖の実経が受け継いで住んだことに由来する。
 ◈皇女和宮生誕の地・橋本家跡 皇女和宮生誕の地・橋本家跡は京都御所東にある。和宮親子内親王(1846-1877)は、仁孝天皇の第8皇女で、121代・孝明天皇の異母妹になる。和宮は、権大納言・橋本実久の娘・典侍の経子を母とし、14年間をこの地で過ごした。有栖川宮親王との婚約を破棄され、1861年、14代将軍・徳川家茂正室として降嫁した。これは、公武合体策の一環であり、和宮が武家に降嫁した唯一の例になった。家茂死去後、落飾した。
 維新後、旧江戸幕府軍勢力制圧のため、東征大総督に就いたのは有栖川宮親王だった。
 ◈近衛邸跡 「近衛(このえ)邸跡」は京都御所の北にある。いまは、近衛池が残されている。近衛家(近衞家)は、五摂家のひとつで公家になる。平安時代に創立され、家名は、平安京の近衛大路に由来する。平安時代-江戸時代末期に摂政、関白を数多く輩出した。
 学習院跡 「学習院跡」は京都御所東にある。閑院宮家出身で皇位を継いだ。江戸時代、第119代・光格天皇は、公家の教育に取り組む。江戸時代末、1847年、御所、建春門外に学習所を開講した。ここでは、公家、御所の役人、その子弟などが国学、歴史などを学んだ。
 ◈凝華洞跡 「凝華洞(ぎょうかどう)跡」は、大宮仙洞御所の西、大銀杏の下にある。ここには、江戸時代、第111代・後西天皇退位後の仙洞御所があったという。幕末、1864年、禁門の変で病となった京都守護職・会津藩主松平容保は、ここを仮本陣とした。会津藩は、15ドイム砲で長州軍を撃退した。
 丘の上の松の横に、東本願寺寄進の燈籠が立ち、南に池があったという。その後、明治期(1867-1912)の大内保存事業でなどで、池は埋められた。燈籠は九条池畔に移され、第二次世界大戦の金属供出により、現在は台座だけが残されている。
 ◈枇杷殿跡 「枇杷殿跡」は、大宮・仙洞御所南西にある。この付近に、平安時代前期、公卿・藤原基経(836-891)の枇杷殿(烏丸小路東、近衛大路北)があった。最も古い居住者は枇杷中納言といわれた藤原長良(802-856)だった。敷地は一町を有し、屈指の名邸といわれた。旧地の一部北辺は、現在の皇宮警察本部京都護衛署の敷地内になる。
 枇杷殿は基経の三男・仲平に伝えられ、敷地内には宝物の蔵が建ち並んでいた。公卿・藤原道長は、大納言・藤原朝光の未亡人より邸宅を買い取る。1002年以降、道長と二女・妍子(けんし、第67代・三条天皇中宮)の里邸として整備された。1006年、東宮・居貞親王(後の三条天皇)の御所になる。1009年、内裏炎上により里内裏になり、第66代・一条天皇、中宮・彰子(道長の長女)が移る。第1皇子・敦康親王も暮らした。同時期に紫式部、清少納言も活躍する。その後、三条天皇の御所に戻る。妍子、陽明門院禎子内親王も暮らした。1014年の火災により、三条天皇はこの邸で第68代・後一条天皇に譲位したという。
 ◈桜町屋敷跡 「桜町屋敷跡」は大宮・仙洞御所南西にある。この地には、平安時代の歌人・随筆家で三十六歌仙のひとり、紀貫之(きのつらゆき)の邸宅、桜町の屋敷があったという。邸内には、桜が多く植えられていたことからこの名がある。
 紫式部『源氏物語』の中で、末摘花の邸宅、桐壷帝の麗景殿女御とその妹・花散里の暮らした中川邸、源氏が空蝉と出合った紀伊守中川家もこの近くに想定されていた。
 ◈賀陽宮邸跡 「賀陽宮(かやのみや)邸跡」は京都御苑南西にある。ここには、伏見宮邦家(ふしみのみやくにいえ)親王第四王子・朝彦(あさひこ)親王(1824-1891)の屋敷があった。朝彦親王は得度し、奈良興福寺塔頭・一乗院門主、青蓮院門跡門主、天台座主を務めた。1859年の安政の大獄で「隠居永蟄居」を命じられた。公武合体派であり、八月十八日の政変を行う。その後、中川家、賀陽宮、伏見宮と変わり、久邇宮家を創設した。
 賀陽宮は、明治時代中期に朝彦親王の第2王子邦憲王が、宮号を受け継いで創設した。宮号は、邸内の榧(かや)の老木に由来する。「胎範碑(いはんひ)」にある皇族・軍人の梨本宮守正(なしもとのみやもりまさ)王は、朝彦親王の第4王子になる。
 ◈胎範碑 「胎範碑(いはんひ)」は、京都御苑南西の宗像神社の北の丘上、楠の大木の傍らに立てられている。胎範とは「模範を残す」の意味になる。碑文によれば、久邇宮朝彦親王(1824-1891)が国事、維新事業に貢献したことを称え、没後40年の1931年に、親王の邸宅跡に碑を建立したという。
 1861年、皇女和宮が京都に帰った折には、旧邸に一時住んだという。雲が畑石、高さ2m、幅3m、厚さ2.5m。文字は梨本宮守正筆。
 ◈博覧会会場跡 「博覧会会場跡」は大宮・仙洞御所南西になる。日本初の博覧会は、1871年、西本願寺で開催され、その後、1873年、遷都後の京都振興の一環として、仙洞御所を会場とした京都博覧会が開催されている。1881年の第10回より1897年まで、仙洞御所の南の常設会場(富小路グラウンド)で開催された。お雇い外国人ドイツ人のゴットフリード・ワグネル設計による。御苑内には、一時、動物園、裁判所、画学校が置かれた。1914年以降は、岡崎の京都市勧業館に移されている。
 1877年、仙洞御所前の広場では、島津製作所創業者・島津源蔵(1839-1894)の手により、人を乗せた水素ガスの気球があげられ、その高さは36mにも達した。
 ◈旧二条城の復元石垣 「推定旧二条城の復元石垣」は、京都御苑南西、椹木口門を入った北側にある。城は、1569年に織田信長により築城された。旧二条城の敷地の一部は、御苑内の南西地域にかかっていたとみられている。
 復元石垣は、粗割石により横積みされ、間詰されている。京都市地下鉄烏丸線工事(1975-1978)に伴う発掘調査により、丸太町北付近にから発見されたという。かつて南面していたのを90度回転させ、現在は東西方向に復元されている。石垣は、花崗岩、砂岩、頁岩、チャートがみられる。かつて墓石だった割られた地蔵尊、庭石、燈籠なども用いられている。
 ◈祐井 「祐井(さちのい)」は京都御所北東にある。「御所三名水」(ほかに「県井」、「染殿井」)の一つになる。明治天皇の生母・一位局の、中山忠能邸跡になる。1853年、京都は大日照りに見舞われた。陰陽家土御門のご神託により井戸が掘られた。孝明天皇は、前年に生れた明治天皇の幼名「祐宮」(さみのみや)に因み、祐井と命名した。
 敷地内には1877年、忠能建立の「明治天皇生誕の地」の碑(撰文は槇村正直)と、祐井遺構がある。井戸は明治天皇の産湯井であり、「故郷井」とも呼ばれた。天皇の詠んだ「わが為に 汲みつとききし 祐の井の 水は今なお なつかしきかな」がある。近くに明治天皇の平屋の御産屋(6畳)が残る。井戸の深さ12.5m。
 ◈県の井 「県(あがた)の井」は、京都御所の西にある。「御所三名水」の一つになる。ここにはかつて県宮神社が祀られていた。公家らは「県召しの除目」という人事、任官を願って神社に詣でた。その後、一条家の屋敷となり、「洛陽の名水」といわれた。井水は、一条忠香の女昭憲皇太后の産湯に使われたという。『枕草子』にも記述がある。1997年に井戸は復活した。井戸に刻まれた「縣井戸」の文字は、江戸時代、文化年間(1804-1818)、加茂保孝筆による。
 ◈染殿第跡 「染殿第跡」は、京都迎賓館の北東にある。遺構「染殿井(そめどのい)」、「清和井(せがい)」とも呼ばれ、『御所三名水』の一つに数えられる。清和天皇の産湯井になる。
 平安時代前期に摂生政治の礎を築いた藤原良房の屋敷跡、良房の娘明子(文徳天皇皇后、清和天皇の生母)の御所「清和院」跡になる。
 ◈施薬院 江戸時代、中立売御門の北に、施薬院(やくいん)と呼ばれる屋敷があった。院使(長官)・施薬院三雲が住まい、医療福祉施設として庶民にも無料で開放され、薬を提供していた。全宗(ぜんそう、1526-1600)、秀隆(1573-1590)、宗伯(そうはく、1576-1663)らが院使を継いだ。施薬院三雲環善は、山脇東洋とともに刑死者の解剖を行っている。
 ◈御溝水 京都御苑内の京都御所、仙洞御所、大宮御所の周辺を巡る「御溝水(みかわみず)」は側溝の「御溝」(幅50cm)を流れている。1910年、田辺朔郎が設計完成させた。導水管は蹴上より京都御苑の清和門に入る。導水管は太さ24in、水量毎秒160l、1日に1万4400tを送水している。
 ◈出水の小川 「出水(でみず)の小川」は、京都御所南西に流れている。1992年まで御所水道が引かれていた。これは、琵琶湖疏水を三条蹴上で分水した専用水路だった。1981年、御所周りの流路「御溝水(みかわみず)」から導水して造られたのが出水の小川になる。
 御所水道の閉鎖後は、地下80mから汲み上げた井戸水を循環ろ過して使用している。子どもの水遊び場として人気があり、ホタルも飛び交うという。川底は、琵琶湖安曇川産の石で覆う。 長さ110m、深さ20cm。
 
清水谷の家の椋 「清水谷の家の椋」は、京都御所の南西にある樹齢300年の大木をいう。ここには、かつて清水谷という公家の屋敷があった。清水家はかつて吉田村にあり、御所内に移る際に、吉田神社の屋根に生えていたムクノキを神木として移植したという。
 1864年の蛤御門の変の際には、負傷した攘夷派の長州藩・遊撃隊総督の来島又兵衛(1817-1864)が、薩摩藩兵の銃で負傷し、この木の下で自刃した。
 ◈桜松 「桜松」は、京都御所の南東にある。かつて、クロマツにヤマザクラが生えており、「松木の桜」とも呼ばれていた。クロマツは樹齢100年、ヤマザクラは樹齢40年という。枯れたクロマツの空洞にヤマザクラが花を咲かせた。1996年に倒木したが、現在でも花を咲かせる。
◆北極星 京都御所は平安京の北の端に位置していた。天皇は北極星にたとえられた。北の空に輝きすべての星、太陽も月も従える不動のものの象徴だった。また、中国道教で北極星を天皇大帝と呼び、天皇の語源になる。天子南面とは、天皇が北を背にし、南面した左京、右京の民すべてを支配することを意味した。京都御所内の正面に承明門、左に日華門、右に月華門が造られ、これも日月、星を司る意味を持たされた。
◆鬼門 北東方向は鬼門とされ、鬼が出入りするとされさまざまな対処がなされた。京都御所の築地塀北東の鬼門は「猿ヶ辻」と呼ばれ、塀の隅が切り取られている。上方に日吉大社の使者で、鬼門を守るとされる木彫りの猿が祀られている。猿は烏帽子を被り御幣を肩に担ぐ。かつて悪戯をはたらいたというので、いまは金網に閉じ込められている。
 さらに、京都御所清涼殿の鬼門もまた同様に切り取られ、傍に衝立「荒海障子」が立てられている。手足の長い人物が海を覗き込む絵で、鬼を封じる意味があるともいわれている。また、清涼殿裏鬼門に「鬼の間」があり、かつて鬼退治の絵が置かれていたという。
 天皇の寝室である夜寝殿(よんのおどと)の北東の柱上には、「陰陽道令印」の札が貼られている。
◆高御座 高御座(たかみくら)は、天皇の座所をいう。飛鳥時代の第42代・文武天皇(在位697-707)の頃より始まったともいう。かつて大極殿に置かれた。現在、紫宸殿に置かれている高御座、皇后の御帳台(みちょうだい)は、第123代・大正天皇以降の即位式で用いられた。
 構造は「浜床(はまゆか)」といわれる黒漆塗り方形、勾欄の台に、八角床板を二段に重ね、8本の円柱が立つ。屋根の頂に鳳凰(ほうおう)が載り、多くの小鏡が飾られている。8つの屋根の隅に蕨手(わらびて)、その上にも小さな鳳凰が飾られている。棟の下に旗の形 をした玉幡(ぎょくばん)が垂れる。屋根の廻りに紫の帳が掛かる。内部は天井中央に円鏡があり、床は繧繝縁(うんげんべり/うげんべり)の畳2帖に椅子が置かれている。浜床6m四方、屋根までの高さ6.5m。
◆公家邸宅 近代、1869年まで、現在の京都御苑内には200あまりの公家の邸宅が建ち並んでいた。五摂家の近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家、精華家の久我家、三条家、西園寺家、徳大寺家、花山院、大炊御門家、今出川家、広幡家、醍醐家、羽林家の四辻家、中山家、姉小路家、飛鳥井家、冷泉家、六条家、四条家、山科家、宮家の伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家、賀陽宮家、閑院宮家などになる。これらの公家が東京移住したため、大部分の跡地は取り払われ現在は空地になっている。
 旧跡として京都御苑内に残されているのは、「閑院宮家跡」(現在の環境省京都御苑管理事務所)、「桂宮家本邸跡」(宮内庁職員宿舎)、「九条家跡」(厳島神社、茶室「拾翠亭」)、「菊亭邸跡」(車返し桜)、「花山院家跡」(宗像神社)、「西園寺家跡」(白雲神社)、「一条家跡」(縣井)、「中山家跡」(祐井)などにある。
◆禁裏御用水 明治期(1867-1912)まで、鴨川上流から京都御所にいたる、多目的用水のための特別な水路「禁裏御用水」が引かれていた。
 室町時代中期以降、禁裏御用水が引かれた。鴨川上流から引かれた水は、相国寺境内を通り、今出川に通じて、京都御苑内の近衛邸の池に至る。ここから二方向に分流した。一つは、京都御所の北にある朔平門の東から京都御所内に入り、宮殿の下を通り、南へ流れ出ていた。さらにもう一つは、京都築地塀周囲の御溝水として京都御所を東西に流れ、二方向から京都御所を取り囲んで南流していた。なお、安土・桃山時代の用水遺構(幅2m、深さ1m)は、相国寺境内で確認されている。
 禁裏御用水は、1912年に近代的な「御所水道」が完成するまで使用された。蹴上の琵琶湖疏水沿いに建つ旧九条山ポンプ場(山科区)は、かつて「御所水道ポンプ室」と呼ばれた。これは、京都御所に送水するための施設だった。京都御所には、疏水の水を送る専用水路、「御所水道」が引かれていた
◆紫式部・源氏物語 京都御苑東部、清和院御門付近の仙洞御所も含めた南北2町に、平安時代の藤原道長の「土御門第」があったという。1008年、道長娘の彰子(一条天皇中宮)は、懐妊により一条院からこの土御門邸に戻った。その時、彰子に仕えていた紫式部も同行している。彰子は敦成親王(後一条天皇)を生み、一条天皇は親王に合うため土御門邸に行幸した。土御門第内では祝いの宴が催され、藤原公任が紫式部に声をかけてきたと式部は記している。紫式部は、東の対と正殿の間を結ぶ渡殿の一番西寄りの局に泊まった。早朝、道長は、橋廊の南に咲いていた女郎花(おみなえし)の一枝を折らせ、式部の部屋に差し出した。式部は自らの盛りを過ぎ、起きたての顔と花の美しさを対比し、「女郎花さかりの色を見るからに露のわきける身こそしらるれ」と詠んだ。道長は「白露はわきてもおかじ女郎花心からにや色のそむらむ」と、美しくなろうとする自分の心次第により美しい色に染まると返した。(『紫式部日記』)。
 1009年に一条院が焼失したため、一条天皇、彰子、紫式部らは名邸といわれた「枇杷殿」に移る。枇杷殿は道長が所有し、現在の京都御苑梅林内付近(北辺は皇宮警察本部京都護衛署内)にあったという。その後も内裏火災の際の里内裏として使われている。なお、紫式部と清少納言は、同時期に同じ御所に仕えていた。紫式部は『紫式部日記』の中で、清少納言について「したり顔にいみじうはべりける人(得意げに偉そうにしている人)」と揶揄し対抗心を燃やしている。
 紫式部『源氏物語』では、御所から物語が始められる。光源氏が思いを抱く藤壺の宮は、父・桐壺帝の妻(義母)だった。当時の御所の場所は現在とは異なるが、御所は幼い光源氏と藤壺の宮の過ごした舞台となっている。また、物語中の姫君の住んだ「末摘花(すえつむはな)」「花散里(はなちるさと)」の屋敷などは、紀貫之の邸宅があったという「桜町」が題材とされたとされ、平安京左京一条四坊十二町(京都御苑富小路広場付近)にあったといわれている。
 内裏は『源氏物語』の「桐壺」の章より物語が始まる。
 淑景舎(しげいしゃ、桐壺)には、源氏の母・桐壺更衣が住んだ。桐壺帝の寵愛を受けた。その後、病により亡くなる。その後、光源氏が住む。後に、入内した光源氏の娘・明石の姫君が住んだ。
 清涼殿への渡道は、天皇が日常的に生活する清涼殿に通じている。妃は、嫉妬し、桐壺更衣、女房に嫌がらせをする。打橋(うちはし)、渡殿(わたどの)に汚物が撒かれ、馬道(めどう)に閉じ込められる。帝は清涼殿西に隣接する後涼殿に部屋替えをさせた。住んでいた更衣は怒る。
 清涼殿では、桐壺帝が亡き桐壺更衣を偲ぶ。光源氏の元服、令泉帝の御前での絵合わせなどで登場する。
 飛香舎(ひぎょうしゃ、藤壺)は、後に四の宮(藤壺の宮)が与えられた。桐壺帝は、亡くなった桐壺更衣を忘れられない。更衣の面影がある先帝の四の宮が入内する。後に、四の宮は帝の寵愛を受け、飛香舎を与えられた。後に、藤壺の宮と呼ばれる。
 紫宸殿(ししんでん)は『花宴』の帖で、花見の宴が催され左近の桜が満開を迎える。光源氏は藤壺を求め、後宮を彷徨い朧月を観る。紫宸殿は、光源氏と政敵の左大臣娘・朧月夜の密会の場にもなる。紫宸殿前庭は、『紅葉賀』の帖で、懐妊した藤壺のために祝宴が催され、光源氏、頭の中将は、美しく青海波を舞う。
 弘徽殿(こうきでん)には、右大臣の娘・弘徽殿女御が住んでいた。桐壺帝は桐壺更衣を寵愛した。女御は彼女に嫉妬する。後に、女御は大后(おおきさき)になり、登華殿の妹・朧月君に殿を譲る。紫宸殿での宴で酩酊した光源氏は、藤壺に会えず弘徽殿に忍び込む。朧月夜は「朧月夜に似るものぞなき」と歌い、二人は出会い一夜を過ごす。朧月夜は東宮妃に予定されており、後に、光源氏は失脚し須磨に移ることになる。
 凝華舎(ぎょうかしゃ、梅壺)は、六条御息所の娘で元斎王の秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)が住んだ。
 温明殿(うんめいでん)は、『紅葉賀』で、光源氏が琵琶を奏でる老女房・源典侍(げんのないしのすけ)に出会う。
 北の玄輝門(げんきもん)は、玄輝門脇の宿舎として『箒木(ははきぎ)』の帖に登場する。光源氏、警固の頭の中将らが女性をめぐり「雨夜の品定め」をする。左馬頭、藤式部丞も加わる。場所は、桐壺だったともいう。
◆牛車 平安時代の貴族は、馬(25km/h)、牛車(5km/h)、輿、徒歩により移動した。牛車は八葉車(はちようのくるま)とも呼ばれ、竹、檜で竹のように編んだ網代車(あじろのくるま)の一種であり、男性は六位以上の大臣、公家が使用した。屋形に八葉の紋が入る。
 軛(くびき)といわれる横木を牛の首に掛けて牛車を牽かせた。横木には、雨皮付け(あまかわづけ)という金具があり、雨天の際には、牛に被せる雨皮をここに取り付けた。乗り降りの際には、榻(しし)といわれる台座を用いた。後ろより乗り、降りる際には牛を外して前より降りた。平安時代の武将・木曽義仲は、上洛した際に誤り、後ろより降りたという。(『平家物語』)。牛車を停める際には榻に軛を置いた。
 前面に出衣(いだしぎぬ)といわれる台が突き出ており、ここに簾との間から着物の重ね着をわずかに出して、身分、それぞれの趣向を垣間見せて競った。側面に物見(ものみ)といわれる覗き窓があり、従者との会話などの際にも利用した。
 屋形内寸は幅196cm、奥行246cm、高さ190cm、車輪直径は208cm。
◆千日回峯行 比叡山延暦寺の千日回峯行では、1000日の満行した大阿闍梨は、京都御所に土足参内し、玉体加持を行って終了する。
 平安時代、第56代・清和天皇后・染殿皇后の病気平癒祈祷以来の慣わしという。相応は、急ぐあまり草履履きで宮中に参内し、加持を修したという。
 現在は、天台座主、大阿闍梨、僧侶、信者など千人の行列は清和院門、宜秋門より入る。ここで結草履に履き替える。かつて、大名ですらここで木の浅沓に履き替えた。そのため、大阿闍梨の場合は土足参内といわれたという。諸太夫の間に上がる石段で、草履を脱ぎ白足袋で上がる。御所内、小御所玉座の下段の間脇座に天台座主が控える。蹲踞の姿勢の大阿闍梨は、下段の間から中段の間に進み、御簾向こうの玉座に向かい、天皇の玉体安穏、天皇家の健康を加持する。
 また、比叡山に連なる横高山(767m)近くに玉体杉がある。ここに、回峯行者が唯一腰を下ろして休むことが出来る蓮台石が置かれている。行者はこの石に坐して、京都御所に向かい天下泰平、玉体の安全祈願する。
◆馬揃え 安土・桃山時代、1581年正月、織田信長は安土城で「左義長」を催し、朝廷の要請により京都でも催すことになる。明智光秀が準備を命じられた。2月、信長は、禁裏東門外に行宮を設け、第106代・正親町天皇を招いた。権勢誇示のために、内裏東の馬場(東西1町、109m)で700騎の馬揃えを行う。
 行列は、本能寺を出発し、室町小路を北上、内裏の馬場に達し、南行したとみられている。先頭は丹羽長秀が務め、連枝衆(信長の子、一族)、公家衆、越前衆が続く。最後は豪華絢爛な井手達の信長が登場した。6万の参加者があり、公家、町人など20万人の見物人が出たという。
 この時、山内一豊は東国一といわれた名馬に騎乗していた。妻・千代が差し出した黄金10両の持参金で買い求めた馬だった。信長は、名馬を織田家の者が手に入れたことを喜び、一豊に200石を与えたという。
◆八月十八日の政変 幕末、1863年5月20日(旧暦)深夜、京都御所・猿ヶ辻付近で公武合体派の公卿・姉小路公知が何者かに暗殺された。犯人は薩摩の田中新兵衛とされ田中は自害する。事件の詳細は不明という。
 6月17日、東山の翠紅館茶室・送陽亭に長州・桂小五郎、久留米の神官・真木和泉らが集い、天皇の大和、伊勢行幸により、その機に乗じて天皇親政の樹立、倒幕に追い込む計画を練る。これに呼応し、吉村寅太郎らの天誅組が大和国で挙兵する。だが、幕府軍の追討により壊滅した。薩摩藩は、京都守護職・松平容保、公卿・中川宮らと連携し行幸、尊攘派の挙兵計画を阻止した。さらに、長州寄りの尊攘派公卿・三条実美ら7人を追放し、公卿と長州藩は京都より長州に追われた。(「八月十八日の政変」「七卿落」)
 8月18日の夜、長州藩は御所の堺町御門警護の任を解かれる。勅命により三条などの公卿の参内も禁じられた。御所内の門には会津、薩摩の藩兵が配置された。長州藩兵は堺町御門より入ろうとするが、睨み合いになりその後退却する。さらに、会津藩公用方の命により、壬生浪士組の芹沢鴨、近藤勇ら52人が蛤御門に詰めかけた。この時、事情を知らない会津藩3番組の兵が押し返した。芹沢が啖呵を切り決着する。浪士組は仙洞御所前、その後、御所南門の警護に就く。この夜、公家の武家伝奏は、その功により新撰組の隊名を贈る。
◆蛤御門の変 幕末、1864年6月5日(旧暦)の「池田屋事件」後、長州藩では家老・来島(木島)又兵衛、久留米の神官・真木和泉の尊攘派により、会津藩、薩摩藩、新撰組への報復の声が高まる。7月19日(旧暦)、蛤御門の変(禁門の変)が起きる。
 7月中旬、2000人の長州藩士、浪士の隊列が伏見、山崎、嵯峨の3か所に布陣した。7月19日、長州藩・福原越後の一隊は、藤森で大垣・福井藩兵に敗退する。長州藩・国司信濃の一隊は、御所の会津藩兵、薩摩藩兵と戦闘を開始した。天龍寺に布陣していた遊撃隊・来島の一隊は、御所の蛤御門を攻撃し、会津藩兵、桑名藩兵、薩摩藩兵と戦闘に入る。山崎の一隊は、堺町御門付近で戦闘になる。長州隊は、一時、会津藩を破り御所内に侵入した。その後、乾御門より駆け付けた薩摩藩兵に背後を突かれた。来島は蛤御門付近で撃たれ戦死、真木和泉、首謀・久坂玄瑞の隊は、堺町御門で福井藩兵と戦闘を交える。久坂は、御所内の鷹司邸に入り、鷹司の参内にお供し、朝廷への嘆願を依頼する。だが、聞き入れられず自刃した。長州藩は鷹司邸より大砲、小銃で堺町御門を攻撃する。会津藩は九条邸より砲撃で応戦した。長州藩は敗退した。真木ら一隊17人は、天王山に逃げ延びる。その後、近藤勇らの新撰組に攻められ山中で自爆、自刃した。
 鷹司邸より火の手が上った。長州藩は落ち延びる際に長州藩邸などに火を放ったことから、京中は「どんどん焼け」という大火に見舞われ、2万7513軒の家屋が焼失した。以後、朝敵になった長州藩に対して、二次の征長令が出された。
幕末の京都の推移 1853年、アメリカのペリーは浦賀に来航する。1854年、「日米和親条約」が締結され、下田、箱館が開港になる。1856年、初代領事・ハリスが着任し、1857年、13代将軍・徳川家定に謁見した。幕府は、通商条約締結のために、老中・堀田正睦を上洛させ、第121代・孝明天皇の勅許を得ようとした。だが、天皇は尊攘論者であり、多くの公卿も反対したため勅許は得られなかった。
 将軍・家定に後継はなく、次期将軍候補をめぐる対立も起きた。一橋慶喜派の徳川斉昭、紀伊慶福(家茂)派の井伊直弼が拮抗する。1858年に直弼は大老になり、慶福を14代将軍に内定させ、一橋派を弾圧した。日米修好通商条約は勅許がないままに調印する。1858年-1859年、直弼は安政の大獄により尊攘派を弾圧する。1860年、直弼は桜田門外の変で暗殺された。幕府は、起死回生のために朝廷に攘夷決行と引き換えに、天皇の妹・和宮を家茂に嫁がせる「公武一体」を謀る。
 京都の治安は悪化しており、尊攘派と鎮撫派の対立が激化していた。1862年、洛中で寺田屋事件が起こり、天誅が頻発したため、幕府は京都守護職を置き、会津藩主・松平容保が任じられた。1863年、家茂入洛時には、将軍家警固のために浪士隊が組織された。だが、尊攘派の清河八郎と近藤勇の対立が起こる。京都に残留した勇らは京都守護職預かりになり、新たに壬生組を組織した。
 長州藩、公卿・三条実美らは、王政復古を企て幕府を揺るがす。これに対して公武合体派の会津藩、薩摩藩は、1863年に武力クーデタ「八・一八の政変」を起こした。公武合体派は巻き返しのために御所を固め、御所の堺町御門を警備していた長州藩を解任、代わりに新選組が名をもらい任に着いた。さらに、長州藩の京都からの退出、関与した公卿の謹慎を命じた。妙法院に集まった長州藩士、7人の公卿は、長州へと向かう。(「七卿落ち」)。以後、公武合体派は、新撰組、見廻組による浪士狩りを行い京都の治安強化を行う。
 1864年、長州藩の武力による復権を唱える来島又兵衛、久坂玄瑞らは、御所の蛤御門、中立売御門、堺町御門などを攻め、会津藩、薩摩藩、桑名藩兵と戦闘になる。だが、長州藩は敗北する。(「蛤御門の変(禁門の変)」)。この後、洛中は3日間にわたる大火(「どんどん焼け」)になる。
◆自然 京都御苑内には多くの樹木が植えられ史跡も多く、公園にもなっている。サルスベリで有名な九条邸跡の九条池、拾翠亭などの遺構、サクラの名所の近衛邸跡、桃林、梅林、松林、出水の小川、野鳥と触れあう母と子の森、児童公園、球技場などがある。
 樹木は約5万本、ケヤキ、エノキ、ムクノキ、クスノキ、イチョウ、クロマツなどの巨木が見られる。なかには樹齢300年のエノキ、宗像神社の樹齢500年のクスノキなどもある。シイ、カシなどの常緑樹、落葉樹が見られる。これらは、鴨川の氾濫原にあった山城平野のかつての植生と、新たに植林されたものが混交している。
 植物は珍しいカンサイタンポポの群落など400種が自生し、野鳥もアオバズクなど100種、このうち、23種は留鳥になる。国内希少野生動植物種のオオタカも生息している。キノコも400種が確認されている。本来は熱帯地域に分布するオオシロカラカサタケについては、気候変動の影響ともいわれている。トンボ20数種が生息するトンボ池、セミは約8種、チョウ50種などの昆虫もいる。「バッタが原」「コオロギの里」も設けられている。トンボ池では、モリアオガエルの産卵が確認されている。なお、市民グループによる苑内でのバードウォッチング教室、きのこ観察会などの自然観察会が定期的に開催されている。
◆御苑九桜 御苑内は桜の銘木が植えられ、桜の名所として知られている。
 「御苑九桜」とは、①「近衛の糸桜」(京都御所北)、②「車還桜」(京都御所西)、③「出水の枝垂れ桜」(出水)、④「出水の里桜」(出水)、⑤「御衣黄」(出水)、⑥「桜松(京都御所南東)、⑦「上溝桜」(京都御所西)、⑧「桜町の山桜」(大宮・仙洞御所南西)、⑨「大島桜」(大宮・仙洞御所南西)になる。
◆名水 鴨川の伏流水による名水としては、「県の井戸」「染殿井」「白雲神社の井戸」などが知られている。かつて御所内に100以上の井戸があったというが、今はほとんどが失われた。
◆参観順路 参観は清所御門より入る。春秋の一般公開の際には宜秋門より入る。標準コースは1時間ほどかかる。
 清所御門より入り南に南下する。右手に宜秋門が見える。小さな門を潜ると左手に御車寄、書院造の間の3つの部屋がある。西の桜の間には原在照筆の桜の絵があり、諸大夫の間とも呼ばれる。鶴の間(天上の間)は、所司代、公家が使う。鶴の絵は狩野永岳筆による。東端に虎の間(公卿の間)があり、岸岱筆の虎の絵がある。
 新御車寄は第123代・大正天皇の即位式に際して建てられた。朱塗りに白壁の回廊が見えてくる。西に月華門が開けられている。白砂敷きの南庭、紫宸殿が見える。回廊の南に進む、右手に建礼門、左に回廊に開けられた承明門がある。門を通して紫宸殿が見える。回廊に沿い東に進むと正面に建春門がある。回廊を左に折れると右手に春輿殿がある。左手回廊に日華門が開けられている。南庭に入る。右手に紫宸殿があり、左近の桜、右近の橘が植えられている。
 南庭を経て露台を潜り東庭に入る。東面して清涼殿がある。小御所、右に御池庭を見て、蹴鞠の庭、御学問所、御内庭、御常御殿、御三間を経て清所御門に戻る。
◆映画 時代劇映画「朱雀門」(監督・森一生、1957年、大映京都)では、紫宸殿で有栖川熾仁(たるひと)親王(市川雷蔵)と和の宮(若尾文子)の別れの場面で撮影が行われた。
 時代劇映画「旗本退屈男 謎の南蛮太鼓」(監督・佐々木康、1959年、東映京都)の撮影された。
 現代劇映画「レッツゴー!若大将」(監督・岩内克己、1967年、東宝)では、若大将(加山雄三)と澄子(星由里子)が定番の喧嘩をする。
◆郡大根 かつて「郡大根(こおり だいこん」)という京野菜が存在した。桂川東、西京極郡で栽培されていた。
 葉は黄緑色をしており、根は一つではなく幾条かに分かれ、いずれも捻じれていた。10曲がりにもなり、径は1.5-2.5cmのものが最良とされた。肉質は柔らかく甘みは少なかった。
 根を輪切りにすると切り口が、菊の紋章のように見えたという。このため、近代まで御所に献上されていた。また、昭和天皇の代まで、行幸に際しても献上された。1942年頃、絶滅している。
 郡大根の変種として「青味大根(あおみ だいこん)」が現存している。根の部分は細く「く」の字形に曲がっている。上部は緑色、下方は白い。御大典、行幸の際には郡大根とともに献上されていた。民間では祝儀用に用いられた。現在は、「京の伝統野菜」として種子保存されている。
◆野生生物 オオミゴケ(蘚類、絶滅危惧種)、ヤマトソリハゴケ(蘚類、絶滅危惧種)、ミヤマハイゴケ(蘚類、準絶滅危惧種)、アラハシラガゴケ(蘚類、絶滅危惧種)、コウライイチイゴケ(蘚類、絶滅危惧種)、ヤワラゼニゴケ(苔類、要注目種)がある。2015年現在。
◆年間行事 京都御所春季一般公開(4月3日-4月7日頃)、京都御所秋季一般公開(10月30日-11月5日頃)。 *日程は例年変更されています。
 拾翠亭(金曜日・土曜日、葵祭・時代祭、京都御所一般公開日は公開、12月28日-2月末は非公開)。


*京都御苑内は通年参観できる。京都御所は普段は非公開、事前申込と春と秋に一般公開されている。仙洞御所・大宮御所の庭園(ほぼ通年)、京都迎賓館(年一回)は事前申込制による。
*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都の御所と離宮』『秘蔵写真 京の御所と離宮』『平安京散策』『京都御所 大宮・仙洞御所』『京都御所 仙洞御所』『京都・美のこころ』『京都御所』『京都御所/伝統文化保存協会』『写真集 京都御所①』『京の離宮と御所』『平安の都』『京の庭の巨匠たち 3 小堀遠州』『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』『京都で建築に出会う』『別冊太陽 長谷川等伯』『ポケットガイド1 京都御所』『新選組大事典』『京都新選組案内』『幕末京都 新選組と龍馬たち』『新版 京のお地蔵さん』『北嶺のひと 比叡山・千回峰行者 内海俊照』『増補版 京の医史跡探訪』『京都秘蔵の庭』『京都 四季の庭園』『おんなの史跡を歩く』『京に燃えた女』『源氏物語を歩く旅』『京都歩きの愉しみ』『あなたの知らない京都府の歴史』『京の伝統野菜』『公園を通っていきませんか 京都御苑の四季』『大学的 京都ガイド こだわりの歩き方』『京都時代MAP 平安京編』『京都時代MAP 安土桃山編』『シネマの京都をたどる』『日本映画と京都』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都絵になる風景』『京都まちかど遺産めぐり』『京都の自然ふしぎ見聞録』『京都 神社と寺院の森』『週刊 日本庭園をゆく 7 京都御所の名庭 京都御所 仙洞御所』『週刊 京都を歩く 44 京都御所周辺』
 


  仙洞御所・大宮御所      厳島神社(京都御苑内)     宗像神社(京都御苑内)     白雲神社(京都御苑内)    拾翠亭(京都御苑内)     梨木神社     旧二条城     出雲路幸神社     護王神社     清浄華院     明光寺     相国寺     廬山寺     修学院離宮     桂離宮     関連・周辺桓武天皇陵(柏原陵)     関連・周辺明治天皇陵(伏見桃山陵)     赤山禅院     仁和寺     泉涌寺     南禅寺     延暦寺・東塔(大津市)     延暦寺・無動寺谷(大津市)      延暦寺・飯室不動堂(大津市)     日吉大社(大津市)        

御池庭、欅橋

御池庭、石橋

御池庭、石橋

御池庭、松

御池庭、栗石(ぐりいし)を敷き詰めた州浜、舟着の飛石。

御池庭、栗石

御池庭、蓬莱島

サルスベリ

御池庭、蓬莱島、雪見燈籠

御池庭、滝口

御池庭

御学問所、入母屋檜皮葺書院造、学問のほか、親王宣下、御進講、月次(つきなみ)の和歌の会などに使われた。

御学問所、中段の間、岸岱筆「蘭亭ノ図」

御学問所、上段の間、右に狩野永岳筆「十八学士登瀛州図」

御学問所

御常御殿

御常御殿、御小座敷、下の間、塩川文麒麟筆「和耕作図」

御常御殿、東御縁座敷、杉戸絵南面、岡本亮彦筆「曲水(宴)」

御常御殿

御常御殿、一の間、狩野永岳筆「桃柳(朗詠の意)」


御常御殿、一の間、狩野永岳筆、小襖「奈良八景」


御常御殿、二の間、鶴沢探真筆「四季花鳥図」

御常御殿前の御内庭(ごないてい)

御内庭、土橋

御内庭、土橋

御内庭、鏡台

御内庭、石組

御内庭、石橋

御内庭

御内庭、燈籠

御内庭、燈籠

御内庭、燈籠

御内庭、燈籠

御常御殿

迎春

迎春

御涼所

泉殿(地震殿)

泉殿(地震殿)

泉殿(地震殿)

泉殿(地震殿)

御内庭、清水焼燈籠

御常御殿


ウメ

御常御殿、下段の間、座田重就筆「高宗夢賚良弼図」

御常御殿、中段の間、鶴沢探真筆「大兎禹戒酒防微図」

御常御殿、上段の間、狩野永岳筆「尭任賢図治図」

御常御殿、中段の間、駒井孝礼筆「賀茂祭郡参図」

御常御殿、下段の間、岸誠筆「駒引図」
京 都 御 所 そのほか

皇后宮常御殿、16世紀末からは、女御、皇后の日常生活の場として利用された。

皇后宮常御殿

皇后宮常御殿(つねごてん)申口の間(もうしぐちのま)、南庭には紅梅、白梅が植えられている。

皇后宮常御殿

皇后常御殿前庭

飛鳥舎(ひぎょうしゃ)、女御入内の儀式が行われた。

飛鳥舎(藤壷)、壺には中宮、女御の、女官たちの部屋があり、内庭に藤が植えられていた。

飛鳥舎、「中庭の藤」は、白壁の向こうにある。かつて女御入内の儀式が行われていた。壺西に小ぶりの藤棚がある。

飛鳥舎、豕扠首(いのこさす)、「ハ」の字の合掌部材

玄輝(げんき)門、女御入内の儀式に使われた。


若宮、姫宮御殿、皇子・皇女がここで生活していた。幼少の明治天皇も利用した。

若宮、姫宮御殿

男性の正装の束帯(そくたい)

女性の正装の五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)、江戸時代以降の俗称として十二単(じゅうにひとえ)といわれた。 

板輿、静寛院宮(和宮親子内親王)が家茂没後、1869年に京都に戻った際に使用した。金具は徳川家の三つ葉葵紋となっている。

【参照】総本山仁和寺御室流

【参照】大本山大覚寺嵯峨御流

【参照】総本山御寺泉涌寺華道月輪未生流
京 都 御 苑

今出川御門

清和院御門

石薬師御門

乾御門

中立売御門

蛤御門

今も残る蛤御門の弾痕、黄色く見える部分

下立売御門

堺町御門

寺町御門

大宮御所、仙洞御所

京都迎賓館、2005年に建設された。国公賓などの賓客の接遇の場となっている。

京都迎賓館
京都迎賓館
京都迎賓館

楓の紅葉

御所名物の一つの自転車道

北方向、京都御所の築地塀と奥は北山

東方向、奥は大宮御所、大文字山

「猿ヶ辻」、京都御所の北東角、鬼門にある朔平門外「猿ヶ辻」、築地塀が入り込んでいるところに木彫りの猿が封じられている。


「猿ヶ辻」、京都御所の北東



九條邸、九條池(勺玉池)と茶室「拾翠亭(しゅうすいてい)」、京都御苑内南

九條邸跡

閑 院 宮 邸 跡


閑院宮(かんいんのみや)邸跡、京都御苑内西南、閑院宮は、江戸時代、1710年に東山天皇皇子・直仁親王により創設された世襲の四親王家の一つ。

閑院宮(かんいんのみや)邸跡

閑院宮(かんいんのみや)邸跡、庭園
そ の ほ か の 遺 跡

鷹司(たかつかさ)邸跡、大宮・仙洞御所南西、鷹司家は五摂家のひとつ。

桂宮(かつらのみや)邸跡、京都御所北、桂宮は、四世襲親王家の一つ。

土御門(つちみかど)邸跡、大宮・仙洞御所北、公家の土御門家は、源氏系土御門家と安倍氏系土御門家がある。前者は、鎌倉時代に創設され、室町時代初頭に断絶した。

西園寺邸跡、京都御所南西、西園寺家は平安時代に創設され、家名は公経が京都の別邸に建立した寺名に由来する。

有栖川邸跡、大宮御所・仙洞御所の西有栖川宮(ありすがわのみや)は、江戸時代前期に創設された宮家で、四世襲親王家の一つ。

一條邸跡、京都御所の西、公家一条家は、五摂家のひとつ。

皇女和宮生誕の地・橋本家跡、京都御所東、和宮親子内親王(1846-1877)は、仁孝天皇の第八皇女で、121代・孝明天皇の異母妹。和宮は、権大納言・橋本実久の娘・典侍の経子を母とし、14年間をこの地で過ごした。

近衛邸跡、京都御所の北、近衛池、近衛家(近衞家、このえけ)は、五摂家のひとつで公家。



近衛邸跡、京都御所の北


学習院跡、京都御所東、公家、御所の役人、その子弟などが国学や、歴史などを学んだ。

凝華洞(ぎょうかどう)跡、大宮仙洞御所の西、大銀杏の下、江戸時代、第111代・後西天皇退位後の仙洞御所があったところという。

枇杷殿跡、大宮・仙洞御所南西、 平安時代前期、公卿・藤原基経の枇杷殿があったという。

桜町、大宮・仙洞御所南西、 平安時代の歌人・随筆家で、三十六歌仙のひとり人、紀貫之(きのつらゆき)の邸宅、桜町の屋敷があったところという。


賀陽宮(かやのみや)邸跡、京都御苑南西、伏見宮邦家(ふしみのみやくにいえ)親王第四王子・朝彦(あさひこ)親王の屋敷があった。胎範碑(いはんひ)にある皇族・軍人の梨本宮守正(なしもとのみやもりまさ)王は、朝彦親王の第4王子。

博覧会会場跡、大宮・仙洞御所南西、1881年の第10回から、この地の常設会場で行われた。

京都御苑内に復元された「推定旧二条城の復元石垣」、京都御苑椹木門を入った北側、旧二条城の敷地の一部は、御苑内の南西地域にかかっていたとみられている。

【参照】大内裏復元模型、京都アスニー

【参照】大極殿復元図、京都アスニー

【参照】桓武天皇像(平安神宮蔵)、京都アスニー
神 社

白雲神社、西園寺家跡、大宮・仙洞御所西、市杵島姫命を祀り、西園寺家の旧鎮守社。「御所の弁天さん」と親しまれている。

白雲神社

宗像神社、京都御苑南西、795年、左大臣藤原冬嗣が筑前国宗像神を勧請した。

宗像神社

厳島神社、京都御苑南東の九条家跡、九条家の鎮守社担っていた。
自 然

宗像神社、樹齢600年というクスノキ、この付近の森には、アオバズクが生息している。



清水谷の家の椋、京都御所の南西、樹齢300年という。


近衛邸跡、京都御所の北、
近衛池、近衛家は平安から江戸時代末期において摂政、関白を数多く輩出した。
「近衛の糸桜」(彼岸桜の枝垂れ形)の由来に因み、春の頃は枝垂桜の名所となっている。「昔より 名には聞けども 今日みれば むべめかれせぬ 糸桜かな」孝明天皇








近衛邸跡の桜、京都御所の北、


松林、樹齢100年以上
樹木の剪定は「御所透かし」と呼ばれ、人工林と自然林の樹相を調和させている。


「桜松」「松木の桜」、かつて、クロマツにヤマザクラが生えており、と呼ばれていた。クロマツは樹齢100年、ヤマザクラは樹齢40年といわれていた。枯れたクロマツの空洞にヤマザクラは花を咲かせていたが、1996年に倒木した。だが、現在でも花をつけていいる。桜松、樹齢約100年のクロマツに、樹齢約40年のヤマザクラが生えていた。クロマツ倒木後もサクラは生き続けている。


梅林

桃林

モクレン

ケヤキの大木

イチョウの大木

イチョウの大木、京都御所北西


母と子の森京都迎賓館北、野鳥の観察できる。

母と子の森、京都迎賓館北、森の文庫、絵本など自由に読むことができる。

母と子の森、京都迎賓館北、樹齢300年のイチョウの倒木

コオロギの里、京都迎賓館の東

トンボ池、大宮・仙洞御所南東

バッタガ原、京都迎賓館の南
井 戸 ・ 水

祐井(さちのい)、京都御所北東、祐井は県井、染殿井とともに「御所三名水」の一つ。


祐井、京都御所北東、明治天皇、「故郷井」、「わが為に汲みつとききし祐の井の水は今なおなつかしきかな」

御所三名水の一つ「県(あがた)の井」、京都御所の西

染殿第跡、京都迎賓館の北東、遺構「染殿井」(そめどのい)、清和天皇の産湯井。

京都御所内


御溝水、御所内の溝には清涼な水が張り巡らされている。

出水(でみず)の小川、京都御所南西


【参照】将軍塚より見た京都御所
祭 礼

御所は葵祭(5月15日)、時代祭(10月22日)などの出発地となる。

御所一般公開では春興殿前で舞いなどが披露される。

護王神社の亥子祭(11月1日)

140年ぶりに京都御苑内で行われた上御霊神社の神輿振り、朔平門前(2009.5.18)
京都御苑(九條家の遺構・拾翠亭)ライブ映像
平安京オーバレイマップ
map 京都御所 〒602-0881 京都市上京区京都御苑3   075-211-1211

より大きな地図で 京都幕末史跡 を表示

より大きな地図で 京都御苑・京都御所 を表示

より大きな地図で 仙洞御所・京都大宮御所 を表示
 Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光 http://www.kyotofukoh.jp