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下鴨神社 (賀茂御祖神社)・糺の森 (京都市左京区) 
Shimogamo-jinja Shrine

  



表参道、全長は1㎞近くある。







樹冠










あけ橋、瀬見の小川に架かる橋、この橋を渡ることでお祓い、禊としていた。祓い清め、身を改めることからあけ橋という。平安時代末の「鴨社古図」に記載があるといい、『祐直卿記』(?)にも「赤井橋」と記されているという。


御手洗(手水舎)、南鳥居口に近くにある。桶は森の主だった樹齢600年のケヤキを利用し、舟形磐座石(いわくらいし)も用いている。


御手洗-三本杉(手水透堀)、西参道の西口にある。水は、古くより糺の森の三本杉から湧いていたという御神水。平安時代、1161年の記録「治承遷宮記」に、御手洗の御井に日照りの際に降雨を祈ったという記述も残るという。それ以来、湧水しているという。


南口鳥居






生石(いきいし)、伝説の「さざれ石」、アセビ


相生社(あいおいやしろ)、祭神は産霊神(むすびのかみ)。縁結び、安産子育、家内安全。


相生社

相生社


相生社、懸花(かけはな)


相生社






相生社、願い事を絵馬に書いて念じながら社の周りを3周する。女性は右回り、男性は左回りで、3周目の途中で絵馬掛けに絵馬を奉納し、社の正面で二礼二拍手一礼する。



相生社、連理の賢木(れんりのさかき)、縁結びの御神木は、相生社の縁結びの神の神徳により、二本の木が一本に結ばれたことから、縁結び、安産子育て、家内安全の神徳があるという。木は4代目。
「あいおい」の意味としては、 一緒に生育すること。 一つの根元から二つの幹が分かれて伸びること。また、2本の幹が途中で一緒になっていること。同意の 「相老(あいおい)は、夫婦が仲よく連れ添って長命であることなどの意味がある。



相生社、御生曳の綱


相生社




楼門 (重文) 、江戸時代、1628年に建立。入母屋造、桧皮葺、左右に廻廊。高さ13m。





楼門内


楼門
 下鴨神社(しもがもじんじゃ)は、鴨川(賀茂川)と高野川が合流する三角州に位置している。境内は12万4000㎡を有しているが、かつては495万㎡を領していた。正式には賀茂御祖(かもみおや)神社といい、「御祖(みおや)さま」「下鴨さん」とも親しまれている。
 平安時代以来、「賀茂皇大神宮」「賀茂御祖皇大神宮」などと呼ばれ、近代以降は現在の呼称となった。また、上賀茂神社と総称し賀茂社、上賀茂神社と区別して、下社、賀茂下社とも呼ばれた。かつてはニ社は一社として扱われた。下賀茂(下鴨)とは、中世後期より呼ばれるようになった。旧官幣大社。
 祭神は東本殿に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、西本殿に玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀る。
 神仏霊場会第101番、京都第21番。京都洛北・森と水の会。
 式内社。平安時代の『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)記載の「愛宕郡 二十一座 大八座 小十三座」の「賀茂御祖神社二座」に比定されている。
 1994年、「古都京都の文化財」17の資産(社寺城)の一つとして、世界文化遺産に登録された。
 世界平和、五穀豊穣、殖産興業、身体病難解除、方除、厄除け、入学、合格、就職、交通、旅行、操業の安全、玉依姫命は安産、育児、水を司る神などの信仰がある。霊璽社(印社、印璽社)は印鑑・契約を守る神。相生社(あいおいやしろ)、縁結び、安産子育、家内安全の信仰がある。
歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 弥生時代、初代・神武天皇の時(BC660年-BC582年)、賀茂建角身命が比叡山西麓の御現山(みあれやま、現在の摂社・御蔭神社)に降臨したという。(「社伝」)
 BC658年、『続日本紀』に記述がある。
 BC96年、神社の瑞垣を修造した。
 第10代・崇神天皇の頃(BC90年)、社の瑞垣(みずがき)の修造が行われたとの伝承がある。
 飛鳥時代、第29代天皇(在位539年-571年?)の時、上社とともに山城国で祭祀を行うという。
 544年、葵祭が始められる。(社伝)
 677年、官営神社となる。(社伝)
 678年、社殿造営される。(社伝)
 698年、騎射はその人出により禁じられ、その後も度々禁止された。
 奈良時代、中頃(740-750年頃、750年頃とも)、下社(下鴨神社)が上賀茂神社から分立したとみられている。また、750年、賀茂御祖大社に御戸代田(神田)一町を充てて奉ると記されてており、下社記述の確実なものの初例になる。(『続日本後紀』、848年の条)
 765年以前、摂社の三井八代に仕えた下級神職・白髪部氏に「鴨禰宜白髪部」の氏姓が与えられ、上社からの分立が朝廷によって認められたという。神封20戸(山城10戸、丹波10戸)を寄せられた。(『新抄格勅符抄』)
 784年、式年遷宮が行われる。本殿の修理が行われる。(『続日本紀』)。長岡京遷都により告文、上下社に奉幣、従二位を授けられた。(「社伝」)
 785年、愛宕郡封戸各10戸が両社の神領となる。(『続日本紀』)
 793年、平安京遷都により告文。(社伝)
 平安時代、794年、平安遷都後は王城鎮護の社となった。第50代・桓武天皇は平安遷都のために行幸している。正二位勲一等に叙せられ、山城国の一宮になる。
 806年、賀茂祭が勅祭となる。
 807年、正一位に叙せられる。
 第52代・嵯峨天皇(809-823)により、境内河合神社の北に神宮寺が建てられたという。
 810年、賀茂斎院の制が始まる。賀茂の斎院が置かれた。嵯峨天皇皇女・有智子(うちこ)内親王が仕える。
 819年、賀茂祭が中祀となる。
 844年、四至制定。(社伝)
 862年、式年遷宮が行われる。(『下鴨社遷宮記』)
 880年、平安京大極殿完成により告文。(社伝)
 939年、天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱)では、朱雀天皇が乱平定祈願のために行幸する。その先例になる。
 951年、弊殿が焼失する。(『永昌記』)
 971年、関白賀茂詣定例の制。(社伝)
 1017年、愛宕郡4郷の寄進がある。(「太政官符」類聚符宣符、『小右記』)
 1031年、式年遷宮の制。(社伝)
 1036年以来、式年遷宮の制により、建物は建替えられ、途中、戦乱、経済状況により遅滞したこともあった。
 1039年以降、室町時代中期まで「二十二社奉幣の制」中「上七社」に列せられた。
 延久年間(1069-1074)、播磨国鞍位荘などが社領となる。
 1076年、行幸式目の制。(社伝)
 1077年、以来式年遷宮が執り行われている。
 1084年、院、上皇、法皇御幸の制。(社伝)
 1089年、播磨国伊保早輝崎などの寄進がある。(『賀茂御祖略誌』)
 1090年、遠江国河村荘など15町が寄進される。(『賀茂御祖略誌』)
 1110年、藤原忠実が尾張五烟など封戸寄進する。(「藤原忠実寄進状案」)
 1119年、神殿内外廻廊、楼門など焼失する。下鴨社の神体は出雲井於神社に遷される。(『小右記』)
 源頼朝(1147-1199)が25か所の荘園を安堵した。
 1197年、宇治の網代について、宇治こい取との間に相論が起こる。(「鴨御祖社司申状」、観修寺家本永昌記裏文書)
 鎌倉時代、1217年、奈良・東大寺との間に摂津国長洲御厨の開発田をめぐり相論となる。
 1212年、最後の賀茂斎院に後鳥羽皇女・礼子(いやこ)内親王が仕える。
 1221年、承久の乱で、社家が上皇方に馳せ参じた。乱により焼失した。
 1322年、1036年以来この年まで20年の式年が行われる。この後、乱れる。
 南北朝時代、1336年頃、建武の乱(1331-1336)で、足利尊氏は糺の森に布陣し、焼失した。
 室町時代、1470年、応仁・文明の乱(1467-1477)の兵火により社殿、糺の森の7割を焼失した。斎院御所、解除御所、神舘御所、神宮寺、公文所なども失われる。宝物などが略奪された。祭事も中断された。
 1502年、賀茂祭、御蔭祭が中絶する。
 1536年、天文の乱により糺の森など被害を受ける。祀官、氏人らの里亭の館が壊滅する。
 安土・桃山時代、豊臣秀吉(1536/1537-1598)は荘園を没収し、540石を寄せた。
 江戸時代、1628年、舞殿、橋殿、細殿、楼門が造替される。
 1629年、式年遷宮が再興される。(「孝亮宿祢日次記」同年の条)。現在の建物の多くが造営された。
 1679年、式年遷宮が行われる。(「賀茂御祖神社明細取調書」)
 1694年、賀茂祭、御蔭祭が復興する。(「賀茂御祖神社明細取調書」)
 1712年、式年遷宮が行われる。(「賀茂御祖神社明細取調書」)
 1741年、式年遷宮が行われた。(「賀茂御祖神社明細取調書」)
 1777年、式年遷宮が行われる。(「賀茂御祖神社明細取調書」)
 1801年、式年遷宮が行われる。(「賀茂御祖神社明細取調書」)
 1835年、式年遷宮が行われた。(「賀茂御祖神社明細取調書」)
 1861年、和宮が降嫁を前に賀茂両社を参詣した。
 1863年、式年遷宮が行われる。現在の本殿が造替されている。(「賀茂御祖神社明細取調書」)。3月21日(旧暦)、第121代・孝明天皇行幸に従い将軍・徳川家茂、慶喜は当社、上賀茂神社に攘夷祈願する。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により神宮寺が廃された。秋の勅祭、賀茂の臨時祭(北祭)は中絶した。
 1871年、官国幣社の制により、官幣大社に指定された。上知令により境内地が減じる。
 1934年、室戸台風で国宝建築物に被害が出る。糺の森は壊滅的な打撃を受ける。
 現代、1956年、賀茂祭に斎王代、女人列が加わる。
 1989年、糺の森は、国の史跡に指定された。  
 1991年、境内の発掘調査が行われる。
 1994年、「古都京都の文化財」17の資産(社寺城)の一つとして、世界文化遺産に登録された。瀬見の小川が復活した。
 2003年、祭祀遺構が復元された。
 2009年、糺の森に舩島(ふなしま)の石組み井戸が復原された。
 2014年、境内糺の杜でのマンション建設計画について、世界遺産バッファーゾーン(緩衝地帯)に当り景観問題化する。
 2015年、式年遷宮が行われる。
◆祭神 賀茂(鴨)氏とゆかりのある祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は東神殿に、玉依姫命(たまよりひめのみこと)は西神殿に祀られている。
 賀茂建角身命は、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命の祖父になる。賀茂別雷命の母が玉依姫命(玉依日売)であり、祖父と母を祀る下鴨神社は、そのため御祖(みおや)神社といわれる。
 烏伝(うでん)神道(鴨神道)という信仰を持つ。祭神・賀茂建角身命、八咫烏(やたがらす、きんし、金鵄)が伝えるとされるもので、森羅万象に生命が宿り、呼吸し、それらの相互の作用によって生命が生まれることを「御生」(みあれ)とする。
 古代の京都を拓いた氏族・葛野主殿県主部は、賀茂建角身命の先代、天神玉命を祖神としており、鴨氏と同じ氏族であったとされる。また、賀茂建角身命の子孫が鴨建角身命社を奉斎していたとされ、始源の社の一つと見られている。
 摂社には、出雲氏の祖神だった出雲井於神社(比良木神社)などがある。
◆賀茂氏 豪族の賀茂氏(鴨氏)は、かつて大和葛城にあり、大和政権(大和朝廷)の京都への伸張に伴い古代の京都の北部へ進出した。愛宕郡賀茂郷を本拠地とし、下鴨神社、上賀茂神社の神事に奉仕した。一族には賀茂県主(かもあがたぬし)氏、鴨禰宜(かもねぎ)氏があり、前者は後世、宮廷の陰陽家を世襲していた。
 なお、社家は、賀茂県主の姓を持ち、賀茂建角身命の末裔とされる。
◆分立 詳細は不明。奈良時代、765年以前、摂社の三井八代に仕えた下級神職の白髪部氏に「鴨禰宜白髪部(かもねぎしらかべ)」の氏姓が与えられ、上社からの分立が朝廷によって認められた。
 780年、下社の祠官である鴨禰宜真髪部(白髪部氏)に賀茂県主の賜姓が行われた。
 785年、白髪部は第49代・光仁天皇の御諱(白壁王)を避け、真髪部に改姓したという。 (「京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2001-12」)
◆式年遷宮 式年遷宮は、平安時代(980年代-1010)に始まった。この頃の京都は、天候不順、鴨川の氾濫、農作物の不作、政情不安、飢饉、疫病などが蔓延していた。朝廷は、下鴨神社で祈願し鎮静したことから、「成就した報養」として、1036年に式年遷宮の宣旨が奉じられ、1077年以来執り行われている。ただ、当初の300年以後は、戦乱や災害により、20年ではなく、30年、40年の間隔で行われたこともあったという。
◆斎院 賀茂大社には、飛鳥・奈良時代に巫女「斎祝子」(いむこ)が仕えていた。また、平安時代に「忌子」も奉仕した。さらに平安時代に、本宮西から鴨川にかけて女性神職の制度、賀茂斎院御所が置かれた。当時、賀茂の斎王(いつきのひめみこ)は、810年の嵯峨天皇の皇女・有智子(うちこ)内親王から、1221年の後鳥羽皇女・礼子(いやこ)内親王まで、35代、400年にわたり紫野の賀茂斎院に置かれ、賀茂社の葵祭などの祭事に奉仕した。
 天皇によってト定された斎王は、鴨川での潔斎を行い、大内裏内の初斎院で3年、さらに鴨川での潔斎の後、紫野の斎院(本院)で3年の禊を行った。斎王が葵祭の際に滞在するのが斎院御所だった。斎王は、糺の森・鴨川近くに建てられた神館(こうだち)に入った。ここでは、鴨の河原に設けられた「行宮」(かりのみや、河原屋)で、「河原祓」が行われた。その後、応仁・文明の乱(1467-1477)により多くの殿が焼失している。
 現在では、葵祭にあたり斎王代がみそぎ神事を行う。上賀茂神社を流れる御手洗川と、下鴨神社の摂社・御手洗神社前の御手洗池で、隔年交代で執り行われている。
◆式子内親王 鎌倉時代の皇女・式子内親王(しょくし/しきし ないしんのう、?-1201)。第77代・後白河天皇の第3皇女。母は藤原季成の娘成子(高倉三位)。1159年、賀茂斎院の卜定を受け11年間仕えた。1169年病気を理由に退下、三条高倉殿に移る。藤原定家が何度か訪れたという。1185年、准三宮宣下を受ける。1192年、法皇没後、戒師・法然により出家した。藤原俊成に和歌を学び、俊成の『古来風体抄』(1197)は内親王の求めに応じて執筆された。家集に『式子内親王集』。代表作の「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」(「小倉百人一首」)の相手とは、法然であったともいわれている。法然は八条殿で女人往生を説いた。内親王が病により余命わずかとなり、法然に逢ってほしいと乞うが法然は長い手紙を返してそれを制した。二人の逢瀬の場所は、下鴨神社境内だったといわれている。
社家 社家は、神社に代々仕えた神職の家柄をいう。下鴨神社の社家は、かつて相国寺、百万遍付近に住んだ。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後、神社の西(松原町、森本町、西林町付近)に社家町が形成された。下鴨神社にはかつて340家があった。明治期(1868-1912)初期、社家制度が廃止になり、旧社家の多くは東京に移転した。また、境内付近の道路建設などに伴い多くの旧社家が解体された。
 現在、下鴨神社の社家町(しゃけまち)の名残として、鴨脚(いちょう)家、浅田家の2軒のみがある。
◆流鏑馬 葵祭は、飛鳥時代、第29代・欽明天皇(539-571)の時代に、天候不順で五穀が実らず、疫病が流行した際、賀茂大神の祟りを鎮めるために行われるようになったともいう。(『日本書紀』)。また、天皇は賀茂社に使いをやり、馬を馳せ(騎射、流鏑馬)、神人が面、葛をつけて走り、豊饒祈願の祭りを行なったことに始まるともいう。この騎射は、あまりの人出に698年に禁じられ、その後も度々禁止された。
◆神宮寺 平安時代、第52代・嵯峨天皇(786-842)勅願寺として、現在の河合神社の北、糺の森に、神宮寺が建っていた。天台系の寺院で、本尊は、最澄作の十一面観音、また円珍作の不動明王像を安置していたという。近代以前は限定的ながら神仏習合が成立し、護摩堂、読経所、神宮寺、観音堂などが建ち並んでいた。
 1868年の神仏分離令以後、伽藍は破却となる。かつての竜池跡は、近代以降は新糺池(しんただすいけ)と改称されている。現在は、糺の森に池跡のみが残されている。
◆建築 現在の建物の大半は、江戸時代、1629年に再建された。南より社殿はほぼ一列に配されている。南の南鳥居、楼門、舞殿、本宮が続き、それらを結ぶ中心線は、左右に向きが少しずつ外してある。本宮に祀られている祭神を直視し本宮に向うことを避けるためという。
 ・「楼門」(重文)は、江戸時代、1628年に建立。入母屋造、桧皮葺、左右に廻廊。高さ13m。西廻廊に「剣の間」があり、賀茂祭(葵祭)の際の勅使が剣を解く場になる。
 「舞殿(まいどの)」(重文)は、入母屋造、檜皮葺、桁行4間、梁間3間、殿上に宣命座がある。江戸時代、1628年に建立。賀茂祭(葵祭)では、勅使が紅紙(べにがみ)に書かれた御祭文(ごさいもん)を奏上、東游(あづまあそび)が奉納される。御所の被災の際には、臨時の内侍所となった。
 本殿南の「中門」は玉垣に囲まれている。西南隅に預屋(あずかりや)、西に西唐門がある。門を入ると前方に透し垣が行く手を遮る。迂回して入ると3社の言社(ことしゃ)がそれぞれに祀られている。北の正面に弊殿、左右に回廊で繋がり端に御料屋(ごりょうや)がある。さらに弊殿は、北に祝詞舎(のっとりや)で繋がり、その左右に並立して西本殿、東本殿が建つ。西本殿の西に印璽社(いんじしゃ)、その西隣に叉蔵(あぜくら)が祀られている。西唐門より西に入ると拝殿、西に北社、中社、南社が並び、北に三井神社の東社、中社、西社が建つ。
 ・「本殿」(国宝)は、江戸時代、1863年の遷宮が行われ造替された。三間社流造。この流造は、本殿の規模が小さく、土台立の柱になっており、神の降臨を迎える際に移設し建てられた様式が残されている。切妻造の正面軒が長い流造となっており、平入屋根を葺き下し前側を長くした流造様式の起源になる。高床式造、亀腹基壇の上に井桁を組む。廊下の橋掛りをつける。正面中央間に板扉、ほかは板壁になる。四面に縁、庇にも低い床を張る。庇、身舎の柱上に舟肘木、身舎に繁垂木、庇に疎垂木。国宝指定となって以後は、式年遷宮の際に造替はされず、修復のみが施されている。
 「東本殿」「西本殿」は祝詞舎の左右にある。祭神は東に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、西に玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀る。桁行3間、梁行2間。
 ・「叉蔵」(重文)は、本宮内にある。入母屋造、校倉造、瓦葺、ご神宝を保管している。
 ・「預屋」は、入母屋造、檜皮葺、かつては神事の際の神官の控室として使われた。現在は儀式殿として使われている。
 本宮に隣接する大炊殿には、ほかにその東の御井、西の御車舎などが建つ。北に葵の庭がある。
◆狛犬・狛獅子 本殿階段上に向って右に金色の獅子、左に銀色の角が生えた狛犬が置かれている。狛獅子は陽、太陽、金、左、東を象徴する。狛犬は陰、月、銀、右、西を象徴する。さらに、御扉の両側にも2対が置かれている。彩色があるものは、日本に渡来した際の古式を残すものという。
◆大炊殿 本宮に隣接する大炊殿には、ほかにその東の御井、西の御車舎などが建つ。北に葵の庭がある。
 大炊殿(おおいどの、大炊所)(重文)は、本宮の西に位置している。神饌のための御料を煮炊き、調理する場所だった。土間には竈、中の間の台所では、材や用具を洗う。奥の間では盛り付け、神前へのお供えする順に並べるための配膳棚がある。かつて、大炊殿では、ご飯、餅、ぶと、まがり(お菓子)などの穀物類が調理された。ほかに酒殿、魚貝類鳥類を調理する贄殿(にえどの)があった。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)では1470年に焼失している。現在、大炊殿のみが再興された。
  賀茂斎院御所旧跡が遺されている。平安時代、当社には賀茂斎院の制が設けられていた。本殿から鴨川までが宮域となっていた。大炊殿付近に、斎院御所の穀類調理のための贄殿(にえどの)が置かれていた。斎王は、810年の嵯峨天皇第8皇女・有智子(うちこ)内親王から、1212年の第35代・礼子(いやこ)内親王まで約400年間続いた。斎王は、賀茂祭などで参向し、滞在する御座所として使われた。その後、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失している。その後、殿は、供御所の一間に移された。
 敷地内に葵の庭(カリンの庭)が再興されている。かつて庭には、二葉葵が自生していた。ほかに薬草のカリン、ヌルデ、クチナシ、ヤマウコギ、ニシキギなども植えられ、御薬酒が造られていた。
 井戸の「御井(みい)」(重文)は、神饌の御水、若水神事などの御水の祭事が行われている。井筒(井戸屋形)の上に上屋の井戸屋が(いどや)設けられている。
 御井の前には「水ごしらえ場」、式内末刀社(まとのやしろ)の祭神が降臨するという石(橋)がある。12月12日に御薬酒(おやくしゅ)神事、若水を汲む古代様式の神事が行われる。
 西端に御車舎(おくるまや)がある。かつて、湯屋(ゆや)、神馬屋が建てられていた。現在は葵祭の牛車が置かれている。
◆馬場 南北に走る馬場は境内に3つある。河合神社の西にある古馬場(こばば)は、奈良時代以前から平安時代後期まで使われていた。
 現在の表参道(500m)は江戸時代、1863年の光明天皇行幸に際して新たに造営された。近代、明治期中期まで使用された。
 二つの間にある現在使われている馬場は、鎌倉時代-江戸時代中期とさらに近代以降に再び使われている。 
◆糺の森 境内に自然遊園・糺(ただす)の森(国指定史跡)が広がる。清水の湧く森として、鴨川水源の神の地とされてきた。湧水と切芝の森自体が磐座であり、神の鎮まる地としてされた。平安時代には「神の游庭(かんあそひのゆにわ)」として、神と人との交感の場になった。森は、古代山背原野にあった原生樹林と同じ植生がいまも見られるという。ただ、森の植生にも変遷があった。
 糺の語源として、「直澄」(ただす、清泉が涌く州)、「只州」(ただす、川の合流する三角州)、神の御座する地神が顕れる地(顕、たつ、出顕、たづ)、神が偽りを糺す地、蓼(たで)の群生地で蓼(たで)巣とする説、河合神社の祭神・玉依姫玉より「多々須」とする説がある。また、「河合(ただす)の森」ともいわれた。「新古今集」には「糺の森」の記載がある。太秦木島坐天照御魂神社(蚕の社)境内には「元糺の池」があり、下鴨神社との関わりがあるという。上賀茂神社との間にも森が広がり、二社は繋がり、糺の森は南限だったという見方もある。
 古くより、神域として樹木の伐採が制限されてきた。糺の森は、平安時代には150万坪(4 95万㎡)の広大な敷地を有し、境内には200以上の社殿が建っていた。森では、七瀬の霊場として禊祓が行われた。中世以降は戦場にもなった。1336年の建武の乱では、足利尊氏は森に布陣した。1536年の天文の乱、応仁・文明の乱(1467-1477)などの際に、本殿、糺の森も焼失する。その後、勧進猿楽の興行も行われた。近世では「糺の納涼(すずみ)」と呼ばれ、御手洗川に床が出され、庶民の憩いの場になった。明治の頃まで冬場の寒冷を利用し、この地で寒天を作っていた。
 森は現在、約12万㎡の原生林を形成している。平安時代には、西は鞍馬口西岸、北は植物園北部、松ヶ崎、高野川辺りまで広がっていたと推定されている。安土・桃山時代、天正期の検地(1583)では、151万㎡が確認されている。近代の上知令(1871)以前でも、現在の2倍以上という広大な森が存在していた。
 現在の森の構成は、落葉樹30%、針葉樹20%になる。特に、落葉広葉樹のケヤキ、エノキ、ムクノキなどのニレ科樹林は、かつて山城原野によく見られた樹種であり、いまはここにしか残されていない貴重な森という。これらは、鴨川と高野川の度重なる洪水による氾濫原に適していた。ただ、山城原野の森の植生については異説もある。
 1934年の室戸台風被害の後にクスノキが植栽された。ブナなどの巨木、ヒノキ、シイ、アラカシ、シラカシ、イチイガシ、ヒサカキ、マサキ、ネズミモチ、アオキ、ヤブツバキ、イロハモミジ、カツラ、シリブカガシなど40種、4700本の樹木が見られる。樹齢200年から600年の大木も600本ある。
 昆虫は、ヒオドシチョウ、ゴマダラチョウ、オオムラサキ、テングチョウ、アオスジアゲハなどの蝶、タマムシ、ウバタマムシなどの甲虫がいる。1982年に森で新種のオオツカヒメテントウムシが発見された。イチイガシに付くイチイガシコムネアブラムシを捕食する。ほかにミカドテントウも見つかっている。
 1934年の室戸台風で、森は壊滅的な打撃を受けた。また、1965年頃からの周辺の開発、河川の改修工事、排気ガスなどの影響により、森は衰微しつつある。1989年に糺の森は、国の史跡に指定された。1997年に「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「糺の森」として選定された。山城原野であった頃の植生が今に残る森としている。
 境内の参道にコジイ、そのほか、シリブカガシ(連理の榊)、ツガ(相生社)、楼門両脇にオガタマノキ、神服殿近くにヒメコマツ(ヒメコマツ)、比良木社の近くにチャがある。社は「柊さん」と呼ばれ疱瘡神になる。所願成就に際して、お礼に木を植えるとヒイラギになると伝わる。比良木社の近くにユズリハがある。トベラ、モッコク、本殿前にツバキ(擬雪)、橋殿近くにトチノキがある。井上社近くにタラヨウがあり、木の下では、斎王代の禊の儀(樹下神事)が行われる。神官は木下に座したお祓いをするとされる。
 オガタマノキなどがある。ほかにイチョウの大木、カツラ、コジイ、ホオノキ、葵の庭にザクロなどがある。
◆文学 糺の森は、王朝歌人の諷詠の地になった。紫式部『源氏物語』や清少納言『枕草子』など、文学の舞台としても登場する。
 『源氏物語』の『須磨』の帖では、光源氏は、右大臣の娘・朧月夜(おぼろづきよ)と逢瀬を重ねた。だが、朧月夜は朱雀帝の寵愛を受けていた。ある時、光源氏は右大臣に見つかり、須磨へ旅立つ前に糺の森が登場する。「うき世をば 今ぞ離るる 留まらむ 名をばただすの 神にまかせて」と無念のうちに詠んだ。『葵』の帖では、賀茂祭での「車争い」が起こる。「斎王御禊」に光源氏は三役の一人として供奉した。一条大路で懐妊した正妻・葵の上と、光源氏の愛人・六条御息所の牛車が鉢合わせになる。見物場所を巡り互いに争いになり、御息所の牛車は隅に追いやられる。その後、葵の上は、物の怪(御息所)に取り憑かれ、生まれた男児・夕霧もすぐに亡くなる。
 谷崎潤一郎『夢の浮橋』では、主人公・乙訓糺ーが当社の御手洗会の禊について語る。谷崎は境内東に住み、邸宅も「五位庵」として登場する。
◆光琳の梅 江戸時代の画家・尾形光琳が描いた「紅紅梅図屏風」(国宝)のもとになったという梅が、2月中旬-3月上旬に開花する。
◆能 世阿弥作とされる能「班女(はんじょ)」では、糺の森も登場する。美濃国野上の宿の遊女・花子は、投宿した京の吉田少将と恋に落ちる。互いに扇を交して別れた。以来、花子は恋患いになり宿を追われた。東国からの帰途、少将は宿を訪れるが花子はない。少将は下鴨神社に参詣し、糺ノ森を訪れると一人の班女(狂女)が現れた。女は扇を手に舞い始める。少将は女の持つ扇を見せるよう頼む。それは互いに交した扇であり、女は心乱した花子だったと知れる。
不思議 不思議といわれる伝承がある。
 「相生社の連理の賢木」は、二本の木が途中で一つになっており、「縁結びの木」といわれる。「夫婦の木」ともいう。/「御手洗池」は、足つけ神事で足を浸すと水泡がでる。/「赤椿」が境内に植えられた。当社には公卿などの参拝もあった。昔は衣装の色により位が分けられ、赤色は地位の低い者の色とされた。そのため、赤い色の花弁の椿を植え、赤い装束の参拝者を目立たなくした。/「何でも柊」は、摂社・比良木神社に伝わる。かつて一乗寺西北、柊の森に祀られていた。平安時代、1119年に現在地に遷される。以来、疱瘡平癒の信仰を集めた。御礼には柊を献納した。社近くに植えたすべての木が、柊の葉のように棘のある葉に変ったという。/「泉川の小石」は、雨乞い祈願が成就すると小石が飛び跳ねた。/「船ヶ島」は、流れを掻き回すと、小石が跳ねて願いが成就した。/「切芝」は、古代からの祭場であり、御蔭祭では東遊(切芝の神事)が催される。/「乳の清水」は、本社前に湧く水であり、6月20日-30日に詣で清水に浸ると夏痩せしないとされた。(『京羽二重』)
 ほかに、「御代ヶ原」「亀島」「いなの笹原」「千早振」など詳細は不明。
◆水・川 鴨川と高野川の合流する三角州に位置する糺の森には、森を育てる泉が湧き、川が流れている。かつては、つねに清水の湧き出る水源地として崇められていた。現在でも、境内には20あまりの井泉が湧くという。
 御手洗池から流れ出た水は「御手洗川(みたらしがわ)」と呼ばれ南へ下る。橋殿の下をくぐり南下し、本殿を出て「奈良の小川」と名前を変える。かつては周囲にナラの林があり、奈良殿といわれる社殿が建っていたという。祭神の奈良殿神は、御供え物、器を祀る神だった。
 川は、無社殿神地の舩島(ふなしま)の周囲を一周して流れる。奈良の小川は南下し西へ向かう。表参道に架かる奈良殿橋からは「瀬見の小川」(せみのおがわ、鴨川の支流)として、亀島の周囲を一回りし糺の森を南下し流れる。河合神社の東を経て鴨川に合流している。御手洗池はかつて自噴していたという。この湧水も1950年代に絶えたため、現在は井戸から水を汲み上げている。近年、奈良の小川の南に、復元された「古の奈良の小川」(平安期流路)が、東より西へ引かれ奈良の小川に合流している。
 瀬見の小川は、かつて馬場の西を流れていたという。(「鴨社古図」)。「狭小くあれど、石川の清川(すみかは)なり」(『山城国風土記』逸文)と記されている。このため、鴨川の異名として「石川の瀬見の小川」とされた。この「清川(すみかは)」の「すみ」が「せみ」になり、「瀬見」になった。また、川の浅「瀬」が「見える」ほど水のきれいな川として「瀬見」になったともいう。源順は「みそぎする瀬見の小川の清き瀬に君が齢をなほ祈るかな」(群書類従本『源順集』)と詠んだ。鴨長明は、清らかな流れを「石川やせみのをがわの清ければ月も流れをたづねてぞすむ」(『新古今和歌集』)と詠んでいる。
 境内東には、水量のある「泉川」も流れている。高野川の支流で全長2kmある。かつては松ヶ崎村に水源があり、鴨川に注いでいた。泉川とは、木津川の古名ともいわれている。また、川近くにあった和泉式部の家に由来しているともいう。泉川は、京都の河川の中で唯一、自然に近い河川として貴重な存在となっている。川にゲンジホタルを甦させる試みも行われている。なお、毎年6月初旬の夜には、「蛍火の茶会」が催され、糺の森で集められたホタルが闇に放たれる。
 近年の試掘調査(2000)により、古の小川(奈良の小川)の旧流路が発見され、祭祀遺跡など多数が出土した。その後、古の小川は復元されている。奈良の小川は、平安時代末-鎌倉時代に造られ、その後一度埋まり、江戸時代に現在の位置に移設された。当時の奈良の小川は、祭祀の川であり、泉川と瀬見の小川を結んでいたとみられている。
◆遺跡 2003年に祭祀遺構が復元された。平安時代後期(12世紀後半)に造られた方状形の祭壇遺構であり、糺の森に復元された二つの石敷き遺構は、河原石の上に黄褐土が固められ、水に関する祭祀が行われていたと推定されている。
 2009年に糺の森にある舩島(ふなしま)には、石組み井戸が復原された。平安時代後期、奈良小川に土を盛り上げて造られたとみられている。川と島頂部との高低差は約1.6m、井戸の直径約1.8m、深さ1.7m。井戸は、雨乞いや雨止みの神事に使われる祭祀用だったと推定されている。
◆景観問題 2014年、下鴨神社は式年遷宮費用捻出のためとして、境内南端に高級分譲マンション用地として事業者に貸し出すと発表した。50年間の期限付きであり2017年完成予定という。併せて周辺の整備も行われる。建設予定地は世界遺産の緩衝地帯(バッファゾーン)に当る。
◆みたらし団子 境内西にある加茂みたらし茶屋(左京区)の名物「みたらし(御手洗)団子」は、境内を流れている御手洗川、御手洗池(神池)と係わりがあるという。かつて泉は自噴し、底からは大きな水泡が浮き上った。この泡をかたどり、「みたらし団子」が生まれたという。現在は地下水が汲み上げられている。年間を通じて17度の水温という。
 みたらし団子は、5個の団子が竹串に刺してある。一番上の団子はやや大きく、ほかの4個と離れて刺される。一番上が人の頭を、ほかは四肢を表しているという。また、第96代・南朝初代・後醍醐天皇が行幸の際に、池の水をすくったところ、泡の出方が初めに1つ浮かび、続いて4つ連続して浮かんだ。天皇は健康長寿の吉兆として喜び、境内の茶屋に命じてみたらし団子を作らせたものという。
◆映画 時代劇映画「眠狂四郎殺法帖」(監督・田中徳三、1963年、大映京都)の撮影が行われる。
 糺の森では、時代劇映画「座頭市地獄旅」(監督・三隅研次、1965年、大映)、現代劇映画「日本の首領 野望編」(監督・中島貞夫、1977年、東映)では、旧華族令嬢(岸田今日子)と実業家(松方弘樹)が乗馬する場面で使われた。現代劇映画「華の乱」(監督・深作欣二、1988年、東映)では、与謝野晶子(吉永小百合)と有島武郎(松田優作)の両家族がピクニックする。時代劇映画「女帝・春日の局」(監督・中島貞夫、1990年、東映)、時代劇映画「浪人街」(監督・黒木和雄、1990年、山田洋行ライトヴィジョンほか)では、クライマックスシーンで、荒巻源内(原田芳雄)ら浪人と旗本の大立ち回りが繰り広げられた。
◆結婚式 神前結婚式が挙げられる。
◆お御籤 当社のお御籤には「平」が出る。
◆年間行事 元旦(0時開門、20時閉門)(甘酒接待)(1月1日)、蹴鞠はじめ(1月4日)、成人祭(1月中旬)、御粥祭(1月15日)、節分祭(2月3日)、流しびな(3月3日)、流鏑馬神事(5月3日)、斎王代禊の儀(5月4日)、古武道奉納(5月4日)、歩射神事(5月5日)、献花祭(5月中旬)、献茶祭(5月中旬)、御蔭祭(5月12日)、賀茂祭(5月15日)、煎茶献茶祭(5月中旬)、蛍火の茶会(6月上旬)、みたらし祭(土用の丑の日、前後4日間)、夏越神事(立秋の前夜)、名月管絃祭(仲秋の名月の日)、繁昌大国秋祭(10月9日)、神嘗祭(10月17日)、明治祭(11月3日)、新嘗祭(11月23日)、お火焚祭(11月28日)、御薬酒神事(12月12日)。大絵馬奉納奉告祭並清祓式(舞殿正面に干支大絵馬が設置される。日本画家・塩谷栄一作、高さ1.5m、幅1.8m。)(12月中旬-翌年の1月末)。
 月次祭(毎月1日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月は旧暦を使用しています。
*参考文献 『賀茂御祖神社』『日本の古社賀茂社 上賀茂神社・下鴨神社』『鴨社の絵図』『京都古社寺詳説 平安前期編』『下鴨神社と糺の森』『下鴨神社今昔 甦る古代祭祀の風光』『下鴨神社と糺の森』『神の游庭』『史跡賀茂御祖神社境内』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都・世界遺産手帳 下鴨神社』『洛北探訪 京郊の自然と文化』『京都の地名検証』『京都の地名検証 3』『お参りしたい神社百社』『京都の寺社505を歩く 上』『京都大事典』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『日本映画と京都』『京のしあわせめぐり55』『源氏物語を歩く旅』『京の怪談と七不思議』『京都 神社と寺院の森』『古寺名刹巡礼の旅3 賀茂川の道 京都』『京都はじまり物語』『週刊 京都を歩く 24 下鴨』



  上賀茂神社     河合神社  下鴨神社旧浅田家住宅     賀茂大橋     出町橋   石村亭    御蔭神社     葵祭    葵祭・前儀式     檪谷七野神社    周辺     壇王法林寺        

楼門

楼門

楼門、西廻廊に「剣の間」があり、賀茂祭(葵祭)の際の勅使が剣を解く場になる。

舞殿(まいどの)(重文)、入母屋造、檜皮葺、桁行4間、梁間3間、殿上に宣命座がある。江戸時代、1628年に建立。賀茂祭(葵祭)では、勅使が紅紙(べにがみ)に書かれた御祭文(ごさいもん)を奏上、東游(あづまあそび)が奉納される。御所の被災の際には、臨時の内侍所となった。

橋殿(重文)、入母屋造、檜皮葺、江戸時代、1628年建立。御手洗川の上に建てられている。桁行4間、梁間3間。古くは、御戸代会(みとしろえ)神事、奏楽、里神楽、倭舞(やまとまい)が披露され、行幸の際には、公卿、殿上人の控え所となった。御蔭祭では、御神宝を奉安する。また、神事、芸能の奉納(名月管弦祭)なども行われる。


供御所




神服殿(しんぷくでん)(重文)、江戸時代、1628年建立、入母屋造、檜皮葺、桁間5間、梁間4間。もとは、御神服の奉製をする御殿だったためにこの名がついた。近世以降は、勅使殿、着到殿となり、行幸の際には玉座となった。北西に格天井の「開けずの間/開かずの間」があり、御所被災の時には、臨時の御座所(ござしょ)となった。江戸時代、1854年の大火の際には、孝明天皇が移った。1863年の賀茂社行幸では行在所となった。なお、1854年の大火の際に、祐宮は細殿、内待所は舞殿へ移っている。
 近世以降、着到殿として勅使が控え、斎王代が使用する。

 南に植えられている媛小松は、東游(あずまあそび)中の求子(もとごめ)で歌われる藤原敏行の歌「ちはやぶる鴨の社のひめ小松 よろずよふとも色はかわらじ」に因んでいる。祭神玉依媛命より媛の字を充てる。


摂社・出雲井於(いづもみいのへの)神社(重文)、拝殿、祭神は建速須佐乃男命(たけはやすさのおのみこと)、祭日は10月14日。開運、厄除け、茶道上達の神。「延喜式」にもその名がある。『日本書紀』の661年の条、葛野主殿県主部(かずぬのとものりのあがたぬしべ)という氏族の祖神として祀られていた。氏族は、古代山代北部に勢力を持ち、鴨氏と同じ祖先という。「正倉院文書」(726年)中の「山背国愛宕郡出雲郷雲上、雲下里計帳」にも記載されている。700年以降、山代国葛野国は4分割された。鴨川の西方から東山までは、愛宕郡、鴨川の東岸はたで倉郷、西岸が出雲郷となった。出雲井於神社は、出雲郷に祀られ、「井於」は川の畔を表すという。
 大政官符(844)によって制定された鴨社領出雲郷の総社であり、氏神社、地主社として信仰された。
 比良木(ひらき)神社、柊社(ひいらぎしゃ)とも呼ばれた。本宮の御蔭祭(御生神事)が行われていた大柴社の祭神と、愛宕郡粟田郷藪里総社柊社の祭神が同じことから合祀されたことに由来するという。また、社の周辺に植える木はことごとく柊になるという。このため「何でも柊」といわれ「京の七不思議」のひとつという。
 江戸時代、1629年に建立。安土・桃山時代、1581年の式年遷宮で建て替えた本殿本宮が移築されている。
 末社・橋本社(左)(重文)の祭神は玉津島神。和歌神。かつては、鴨社領栗栖野郷松ヶ崎里(松ヶ崎海道町)総社椙尾社に祀られていた。
 末社・岩本社(右)の祭神は住吉神、和歌神。かつては鴨社鎮祭場(一条戻橋)に住吉社として祀られていたという。

出雲井於(いづもみいのへの)神社、拝所、本殿
本殿右に岩本社、祭神は住吉神、歌道の神
本殿左に橋本社、祭神は玉津島神(たまつしまのかみ)
文芸の神


供御所(くごしょ)(重文)、中は東の間、中の間、西の間の3室に分かれている。東の間は、神饌を調理する。中の間は、贄(にえ)殿ともいわれ、魚介類を調理した。西の間は、侍所と呼ばれ、神官が直会(なおらい)、勧盃(かんぱい)の儀などを行う場所として使われた。

解除所(げじょのところ)、天皇の行幸、御幸、官祭に解除(お祓い)をした。当社のみが常設となっているという。



マツ科のヒメコマツ(媛小松)は歌にも歌われている。「ちはやぶる 鴨の社のひめこ松 よろずよふとも 色はかわらじ」(古今和歌集 藤原敏行)、媛小松の媛の表記は、玉依媛命による。
弊殿内

本殿の中門 (ちゅうもん、重文) 、切妻造四脚門、檜皮葺。本宮弊殿にいたる門。左右に楽屋(がくのや)があり、雅楽を奏した。また、本殿昇殿の際の最初の祓所となる。葵祭や遷宮の際の宮司、神官の座になる。

中門


預屋

中門

中門

中門


幣殿(重文)は江戸時代、1629年建立。檜皮葺、入母屋造、正面中央に軒唐破風。宮中よりの幣帛を奉る。東西端に神饌の盛り付け準備に使う東西御料屋(ごりょうや)がある。ただし現在、東は祓殿になっている。それぞれは両側に廻廊 (重文) で繋がる。


東御料屋

幣殿(重文)。この奥東本殿に玉依姫命、西本殿に建角身命が祀られている。
 東西本殿は、いずれも江戸時代、1863年に再建された。同じ形、規模の東西本殿が並立している。正面3間、側面2間、正面に3間の向拝、桧皮葺、3間社流造。勾欄、階段は主漆塗、正面両脇間は白木板壁、祝詞屋(5間・1間) (重文) がある。
 手前の廻廊部分を祝詞屋(のっとのや)といい、奥の本殿と弊殿の間を繋ぐ。祝詞屋で宮司は祝詞を奏上する。


御垣内の印璽社(いんじしゃ/おしでのやしろ)(重文)、祭神は霊璽(れいじ)、印章守、誓願、契約の護神秋に印章祈願祭。

東本殿(右)、西本殿

一言社(ひとことしゃ)、本殿の正面、顕国魂神(うつしくにたまのかみ)、うま歳生守護神。

ニ言社(ふたことしゃ)、本殿の正面、大国魂神(大国たまのかみ)、み・ひつじ歳生守護神。

二言社(ふたことしゃ)、本殿右。左から大物主神(おおものふしのかみ)、うし・ゐ歳生守護神。大国主神(おおくにぬしのかみ)、ね歳生守護神。

三言社(みことしゃ)、本殿左。左より、八千矛神(やちほこのかみ)、たつ・さる歳守護神。大己貴神(おおなむちのかみ)、とら・いぬ歳守護神。志固男神(しこおおのかみ)、う・とり歳守護神。

言社権地(ことのやしろごんち)、東御料屋近く。21年ごとの式年遷宮の際には、社殿造替の権地として仮殿が設けられた清浄地、禁足地。

唐門(重文)、江戸時代、1628年建立、唐破風屋根、欄間に葡萄の紋様があり、葡萄門ともいわれる。門をくぐる人をお祓いする意味がある。古くは、エビカズラ(野生の葡萄)といい、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉国から逃げ帰った時、追いかけてきた鬼に、髪飾りを投げつけるとエビカズラの実に変わったという。
 

唐門の欄間に葡萄の紋様



御料屋(ごりょうや)(重文)、神饌の準備や盛り付けを行う社殿。

預屋(あずかりや)(重文)、かつては神官が神前法師のために控えていた社殿、現在は儀式殿

御料屋(ごりょうや)(重文)、と唐門。

拝殿



摂社・三井(みつい)神社(重文)、江戸時代、1628年建立、祭神は東殿(右)に、伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)、中殿に賀茂建角命(かもたけつみのみこと)、西殿に玉依日売命(たまよりひめのみこと)。
 『山城国風土記』逸文には、「三柱の神は蓼倉里(たでくら、たてくら)の三井社に座せり」とある。山城国蓼倉の「三身社(みいのやしろ)」とは当社であるという。三井ノ神社(みいのやしろ、『延喜式』)ともいわれた。本殿祭神の若宮になっている。合祀、摂社・日吉社(中殿)(重文)、祭礼は3月7日。

末社・北社・諏訪社(重文)、祭神は建御方神(たけみなかたのかみ)軍神、農耕、狩猟神。
 中社・小杜社(こもりのやしろ/こもりしゃ)(重文)、祭神は水分神(みくまりのかみ)。水の分配、水を司る神、田の神、山の神。
 南社・白髭(しらひげ)社(重文)、祭神は大伊乃伎命(おおいのきのみこと)(猿田彦神)。道案内、導き、蹴鞠の神。
 末社合祀として沢田社(中社)、河崎社、賀茂斎院神霊社(南社)。初代斎王・嵯峨天皇皇女有智子内親王より35代の後鳥羽天皇皇女・礼子内親王の神霊が祀られている。

葵殿

「水ごしらえ場」
御手洗池付近

細殿(ほそどの)(重文)、向拝付流造、内部は二重格天井。入母屋造、檜皮葺、向拝付。
現在の建物は、江戸時代、1628年の式年遷宮時の造替。歴代天皇の行幸、上皇、法皇、院、関白の賀茂詣の際に、歌会などが行われた。
 江戸時代の第112代・霊元天皇、享保年中(1716-1735)の行幸の際の歌会、天明の大火(1788)による御所被災の際には、内侍所(賢所、かしこどころ)の奉安所となった。文久回禄(火災、?)の際には、祐宮(第122代・明治天皇、1852-1912)安座所となった。1863年の第121代・孝明天皇の行幸では、徳川家茂の侍所として使われた。



解除所(げじょのところ/げじょしょ)、天皇の行幸、官祭などの際に解除(祓い)をしたところ
 歌に歌われている。「こひせしと御手洗川にせし御禊神はうけつぞなりにけらしも」(平安時代「古今和歌集」)、「禊せし御手洗川の清き瀬に今朝たちかはる秋の初風」(鎌倉時代「大納言為家集」、藤原為家)、「祈るとも袖やはうけん影をのみ御手洗河の深き思ひを」(南北朝時代「太平記」、尊良親王)、「禊祓する麻の葉涼し今夜より秋や糺の森の下風」(室町時代、「沙玉集」、後祟光院貞成親王)。
葵祭では、斎王代御契の場として禊(みそぎ)が行われる。



直会(なおらい)殿泉聲、平安時代より、歴代天皇の即位の際の大嘗祭後、饗応殿が移築され、直会殿として建てられた。ここでは神撰、神に奉納した供え物を飲食する直会式が行なわれる。直会とは「居直る」の意。平安時代より式年遷宮ごとに建替えられてきた。たが、1948年以来、再建されなかった。第4回式年遷宮事業の一環として、2007年9月に59年ぶりに再建された。建材は伊勢神宮社殿の式年遷宮(1993)で取り払われた内宮、五丈殿(ごじょうでん)のヒノキを再利用している。庭には、平安時代からの紫極(帝の座)に因み、紫珠(ムラサキシキブ)が植栽され、「紫式部の庭」も復元された。


輪橋(そりばし)と御手洗池(神池)、池は、『京羽二重』(1685)では「糺清水」とある。


輪橋たもとにある「光琳の梅」、江戸時代の絵師・尾形光琳(1658-1716)が、この辺りを描いたとされる作品がある。最高傑作とされる「紅白梅図屏風」(国宝)、18世紀前半であり、絵には金地に二本の梅の木、白銀の曲線の流水のみが描かれている。構図として、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」が意識されているといわれている。

井上社(御手洗社)


井上社(御手洗社、みたらいしゃ)、祭神は瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)、かつては唐崎社といわれた。(『三代實録』、879年の条)、賀茂斎院の御伽、解斎、関白賀茂詣の解除に参拝した。かつては、高野川と鴨川の合流点の東岸に鎮座していたという。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により、1470年に焼失した。その後、安土・桃山時代、文禄年間(1592-1596)に、この場所に再興された。江戸時代、寛永度式年遷宮(1629)により、官営神社となった。井戸の井筒の上に祀られたため、井上社といわれる。
 賀茂祭(葵祭)斎王代の御禊は、この御手洗池で行われる。流し雛、土用の丑の日の御手洗祭、夏越祓の後の矢取の神事などもここで行われる。御手洗祭では、神水に足をつけると無病息災が得られるという。



ヤマブキ


御手洗池(神池、みたらし川)、現在は地下水がくみ上げられている。年間を通じて17度の水温という。かつて泉は自噴し、底からは大きな水泡が湧いた。この泡をかたどって、「みたらし団子」が生まれたともいわれている。団子5つが竹串に刺されており、上の一つだけ離れている。これを人の五体として頭と四肢とする。また、後醍醐天皇が水をすくった際に、池の泡の出方が初めに一つ浮かんで、続いて4つ出たところから、この形が生まれたともいわれる。
 御手洗池では、葵祭の斎王代による御禊儀、樹下(じゅげ)神事(御祓)などの神事が斎行される。






そのほか・末社



賀茂斎院御所旧跡、大炊殿(上)、御車舎(下)
 平安時代、当社には賀茂斎院の制が設けられていた。本殿から鴨川までが宮域となっていた。斎王は、810年の嵯峨天皇第8皇女・有智子(うちこ)内親王から、1212年の第35代・礼子(いやこ)内親王まで、約400年間続いた。斎王は、賀茂祭などで参向し、滞在する御座所として使われた。その後、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。
 現在、大炊殿、御井、葵の庭(カリンの庭)など、一部が再興されている。また、薬草のカリン、ヌルデ、クチナシ、ヤマウコギ、ニシキギなども植えられている。
 井戸の「御井(みい)」(重文)は、神饌の御水、若水神事などの御水の祭事が行われている。井筒(井戸屋形)の上に上屋の井戸屋が設けられている。
 御井の前には「水ごしらえ場」、式内末刀社(まとのやしろ)の祭神が降臨するという石(橋)がある。12月12日に御薬酒神事、若水を汲む古代様式の神事が行われる。

 大炊殿(おおいどの、大炊所)(重文)は、神饌のための御料を煮炊き、調理するところ。土間には竈、中の間の台所では、材や用具を洗う。奥の間では盛り付け、神前へのお供えする順に並べる配膳棚がある。かつて、大炊殿では、ご飯、餅、ぶと、まがり(お菓子)などの穀物類が調理された。ほかに酒殿、魚貝類鳥類を調理する贄殿(にえどの)があった。応仁・文明の乱(1467-1477)により、1470年に焼失した。
 現在、大炊殿のみが再興された。殿は、供御所にの一間に移された。



末社・愛宕社(おたぎのやしろ)(東社、右)の祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)、古くは賀茂斎院御所の守護神として、御所内に祀られてたという。古名は、魚介鳥類を調理する贄殿(にえどの)神、酒を調理する酒殿神、器物の奈良殿神。
 稲荷社(西社、左)、祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、五穀豊穣を司る神。古名は専女社(とうめのやしろ)。賀茂斎院御所内の忌子女庁屋(いんこのめのちょうや)の守護神として、庁屋の池庭の中島に祀られていた。ともに、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失している。その後、両社を相殿として祀られた。


末社・印納社(いんのうのやしろ)、祭神は、御璽大神(おしでのおおかみ)、倉稲魂神(くらいなだまのかみ)を祀る。かつては、本宮御垣内の印璽社(おしでのやしろ)の祭神を祀り、古院を納め、守護する神。現在地は、平安時代から室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)まで賀茂斎院御所が置かれていた。


末社・祓社(はらいのやしろ)、祭神は玉依媛命(たまよりひめのみこと)、賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)、祓戸大神(はらへどのおおかみ)。旅行、交通安全、災難除けのお祓いの神。
遺跡

祭祀遺構復元(2003.3)、平安時代後期(12世紀後半)に造られた方状形の祭壇遺構、糺の森に復元された二つの石敷き遺構は、河原石の上に黄褐土が固められており、水に関する祭祀が行われていたと推定されている。

糺の森にある舩島(ふなしま)、石組み井戸が復原(2009.4)された。平安時代後期、奈良小川に土を盛り上げて造られたとみられている。川と島頂部との高低差は約1.6m、井戸の直径約1.8m、深さ1.7m。井戸は、雨乞いや雨止みの神事に使われる祭祀用だったと推定されている。
川の流れ

井上社、本殿下より湧水している。

御手洗池

御手洗池

輪橋、御手洗川

奈良の小川

奈良殿橋、奈良の小川


奈良殿橋

亀島

古の奈良の小川

復活された古の奈良の小川

瀬見の小川 「石川や せみの小河の清ければ 月も流れを 尋ねてやすむ」(鴨長明、新古今和歌集)

泉川、「きみがため 今日のみそぎに 泉川の 万代すめと 祈りつるかな」(藤原俊成、続新古今和歌集)

糺の森

糺の森の開放地「神の游庭」(かんあそひのゆにわ)。表参道の両側に設けられ、参拝者が緑と触れ合い、対話することができるようになっている。クスノキ、ケヤキ、カシ、ヤマアジサイ、キキョウ、フタバアオイなども植栽される。
 フタバアオイ(双葉葵)は当社の神紋であり、「あふひ」の「あふ」は「会う」
「ひ」は神の力を表す。神の力にあうことを意味していると神社には伝えられている。

糺の森に植えられているフタバアオイ

【参照】フタバアオイの花、葉

奈良殿神地(ならどのんみのにわ)、葵祭の解除(お祓)の神事が行われていた古の祭場

散策路、泉川(右)。散策路はかつて「烏の縄手」と呼ばれた。昔は境内に参道はなく、参拝者は思い思いに糺の森を抜けて参拝していたという。烏は祭神・賀茂建角身命の象徴八咫烏を意味している。その人道が、縄のように細く長いという意味で縄手と付けられた。2007年にこの「烏の縄手」が整備され、公開された。

泉川、例年6月初旬より、この付近ではゲンジホタルの群舞を見ることができる。

糺の森のゲンジボタル



糺の森にある神宮寺(観音堂)、竜池跡、神宮寺は天台系の寺院で、近代以前は限定的ながら神仏習合が成立していた。
明治期の神仏分離、廃仏毀釈により、仏教色は一掃され、平安時代後期から続いた約千年の寺との関係は終焉した。


馬場、鎌倉時代から江戸時代中期まで使われていた。現在、流鏑馬神事の際には、南から北へ馬が疾走する。


西の古馬場。古馬場は奈良時代以前から平安時代後期まで使われていた。



糺の森、「いかにしていかに知らまし偽りを 空に糺の上 なかりせば」、『枕草紙』中宮定子の歌


「第一蹴の地」の石碑、1910年9月、旧制第三高等学校の学生が慶應義塾大学の学生の指導のもと、日本発のラグビー試合がこの糺の森で始められた。また、ラクビーボールを初めて蹴ったという。第三高等学校ラグビー部発祥の地という。1969年に建立。
祭礼

大晦日、新年

蹴鞠始(1月4日)


流し雛(3月3日)

御手洗池のホタル(6月7日)

御手洗祭(足付け神事)(7月27日-30日)、当日奉仕されるご神水

御手洗祭(足付け神事)(7月27日-30日)、7月の土用の丑の日、境内の井上社に祀られている瀬織津比売命(せおりつひめのみこと)は罪、穢れを払いのける神。神池(かみいけ)に足をつけ、燈明に供え、御神水を飲むと諸病にかからず、延命長寿の霊験あらたかといわれる。江戸時代から始まった風習という。
 また、御手洗川(神池)で取れる黒石「鴨の神石」は、子どもの疳虫封じの効果があるとされ、この日に限り授与される。
 かつては井泉からの湧水があったがその後涸れ、いまは新たな井戸水が池に引かれている。

御手洗池で行なわれる夏越神事の矢取神事(8月6日)は、賀茂伝説の丹塗矢に由来している。池の中央に立てられた50本の斎串(いぐし)は竹に御幣を挟んであり、矢に見える。斎串は、厄よけ、開運、長寿などの御利益があるという。もとは田に斎串をさして、田の神を祀ったところに起源があるという。参拝者の名前を記した人形(ひとがた)がまかれると同時に、矢を激しく奪い合う。

【参照】江戸時代の紙本金地著彩「源氏物語車争図屏風」(京都市歴史館蔵)の複製、京都アスニー

【参照】六条御息所の牛車、江戸時代の紙本金地著彩「源氏物語車争図屏風」の複製、京都アスニー

【参照】光源氏、江戸時代の紙本金地著彩「源氏物語車争図屏風」の複製、京都アスニー
下鴨神社 界隈

加茂みたらし茶屋、こちらで、みたらし団子がたべられる。下鴨神社の西
下鴨本通 京都市左京区下鴨宮崎町17 電話  075-781-1460

加茂みたらし本舗・亀屋粟義、下鴨神社の西
上新粉を使い、蒸して、焼く。これに黒砂糖と醤油のタレを付ける。
下鴨神社 グーグルマッブ・ストリートビュー
 下鴨神社 〒606-0807 京都市左京区下鴨泉川町59  075-781-0010   6:00-17:00 

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