永観堂 (禅林寺) (京都市左京区) 
Eikan-doTemple(Zenrin-ji Temple)

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総門、高麗門、江戸時代末期、1840年建立






中門、江戸時代、1713年(1744年とも)建立、薬医門様式


南門




勧学門、京都に3つの勧学院があり、そのひとつが当山にも置かれた。




禅林図書館


大玄関


庫裏(鶴寿台)












多宝塔、上部が円形、初層が方形、九輪、水煙が立つ二重塔。




「奥山のいはがきもみぢちりぬべしてる日の光みる時なくて」藤原関雄


方丈、京都府指定文化財、室町時代、永正年間(1504-1511)、第104代・後柏原天皇により建立という。入母屋造、桟瓦葺、六間取りの方丈形式、松の間に江戸時代の「松水禽図」、仙人の間に江戸時代「高士乗舟図」、桃山時代「鷺花卉図」、ほかにも「松鳥図」、「群仙図」などの襖絵がある。


方丈(釈迦堂)
 


唐門、勅使門、京都府指定文化財、江戸時代、1830年建立。四脚の向唐門、入母屋造、檜皮葺、大唐破風造、木鼻に獏の意匠がある。雲龍、唐草の彫刻がある。現在は当寺の住職が亡くなった際にのみ使われる。盛砂は勅使が踏み、身を清めて入った。夜は、砂壇に月明かりを受けて明かりとりとした。



方丈



方丈



唐門前庭(方丈西庭)の砂盛、小判型の頂上部は平らになっており、市松文様が描かれている。周囲は砂紋が引かれている。盛砂は夜に月光を反射させるという。白川砂。










方丈南庭



松の間、仙人の間の前庭



方丈南庭に据えられている高麗燈籠、400年以上前、朝鮮よりもたらされたという。竿と中がない。
 若王寺山(にゃくおうじざん)の西麓にある永観堂(えいかんどう/ようかんどう)は、山腹の傾斜地を利用して建てられており、境内は1万坪の広さがある。
 禅林寺とも呼ばれている。正式には無量寿院禅林寺という。山号は聖衆来迎山(しょうじゅ らいごうさん)という。
 浄土宗西山禅林寺派の総本山。本尊は阿弥陀如来(見返り阿弥陀如来)。
 法然上人(圓光大師)二十五霊場縁故本山。西山国師(証空)遺跡霊場第8番札所。六阿弥陀巡拝(洛陽六阿弥陀めぐり)2番。文殊菩薩は知恵の寺めぐり(京都文殊霊場)の2番。
 御朱印(5種類)が授けられる。
◆歴史年表 平安時代、この地には、治部少輔兼斎院長官名で「東山進士」といわれた藤原関雄(せきお)の東山山荘があった。
 853年、空海弟子で河内観心寺の真紹(しんじょう)が、藤原関雄の山荘を譲り受ける。観心寺の毘盧遮那仏を遷し安置、当初は真言宗密教の道場になる。本尊は、大日如来など5仏像が安置された。
 855年、真紹は第54代・仁明天皇の聖恩報謝ために一堂を建立し、五仏を安置したともいう。
 863年、第56代・清和天皇より「禅林寺」の寺名(勅額)を贈られ、官寺に準じる特典を与えられた定額寺になる。
 868年、真紹は、「禅林寺式十五条」を定めた。弟子・宗叡に譲ることを定める。
 877年、清和上皇の請願寺・円覚寺が境内に建立された。狭隘のため第57代・陽成天皇の勅により、山城国愛宕郡公田4町を施入する。
 881年、陽成天皇の勅により、寺域が拡大する。
 993年、焼失している。
 1016年、般若寺の施主・小野宮実資は、大仏(大日如来?)を禅林寺に遷した。
 1042年、聖命は愛宕郡下粟田里、下山田里、山根里を施入する。以来、浄土宗の念仏道場となる。
 1072年、永観は東大寺別所光明山より移り、禅林寺に東南院を創建する。
 1073年、第71代・後三条天皇が没し、遺骨が安置される。中陰の尊忌を営む。宝塔が建立された。
 承暦年間(1077-1081)、1072年とも、深覚弟子で7世・永観により浄土念仏道場とされた。永観は中興の祖となる。阿弥陀如来を本尊とした。その後、永観堂の呼称が一般的になる。
 1082年、永観は念仏行道の時、壇上の弥陀、みかえりの相(本尊・見返り阿弥陀)を感得したという。
 1097年、永観は薬王院を建て施療所を置く。
 浄土宗の開祖・法然(1133-1212)が、静遍により11世に迎えられ、静遍自らは12世になる。
 1190年、源頼朝は静遍に帰依し、十六善神、大般若経を寄進した。
 鎌倉時代、1198年、源頼朝が参詣し、大般若経を寄進する。供米360石を寄せ、以後、慣例になる。 
 鎌倉時代中期、浄土宗西山派開祖・證空(しょうくう、1177-1247)が13世になる。
 1221年、静遍は、後高倉院の院宣により住した。
 1235年頃、阿弥陀堂が建立される。
 1253年、證空弟子の17世・浄音が禅林寺に入る。以来、浄土宗一派の本山になった。
 1264年より、第901代・亀山天皇の離宮「禅林寺殿」の南禅寺への発展、造営に伴い、境内南部分が割譲される。以後、衰微する。
 南北朝時代、嘉暦年間(1326-1329)、荒廃する。覚願、覚生、観意らが復興を続ける。
 1339年、足利尊氏は出雲国淀新庄の地頭職を寄進する。
 室町時代、聖衆来迎院を中心として観経曼荼羅の信仰が集まる。
 応永年間(1394-1428)、第100代・後小松天皇の母・通陽門院厳子は堂塔を修理する。
 1461年、第102代・後花園天皇は二重楼門を建立する。
 1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)で東岩倉の合戦により大半の伽藍を焼失した。
 1472年-1497年、復興される。第103代・後土御門天皇により御影堂、第104代・後柏原天皇により釈迦堂(方丈)、書院、客殿が建立された。筋塀が築かれる。
 1504年、臥龍廊が建てられた。
 1528年、南禅寺と寺領をめぐり争う。
 1536年、豊臣秀頼は当麻曼荼羅を修復し寄進する。
 1572年、門流僧の香衣出世の執奏(取り次いで奏上する)を勅許された。
 江戸時代、1607年、豊臣秀吉は43石の寺領を与える。
 1685年、名弥陀(六阿弥陀信仰)、四十八願寺(禅林二十六願)参りの信仰が盛んになる。(『京羽二重』)
 1744年、中門が建てられる。
 1754年、鐘楼が再建になる。
 1764年、祖廟堂が再建された。
 1811年、唐門が再建になる。
 1828年、講堂が再建になる。
 天保年間(1830-1844)、徳川政権下で復興された。
 1840年、総門が再建された。
 1852年、使者の間が再建される。
 1860年頃、御居間が再建される。
 1866年、療病院、癲狂院が置かれる。弁天堂が再建になる。
  近代、1868年以降、神仏分離令後の廃仏毀釈、上知令(1871、1875)により危機に瀕した。日岡の峠の土木工事なども行う。
 1870年、西山派、鎮西派が合同になる。 
 1876年、西山派、鎮西派は再び分かれた。禅林寺は西山派になる。
 1881年、講堂詰所が置かれる。
 1895年、瑞紫殿が再建される。祖廟堂が再建された。
 1912年、御影堂が建てられる。
 1919年、西山派から西山禅林寺派が分派独立し、西山派は三派(光明寺の西山光明寺派後の西山浄土宗、永観堂の西山禅林寺派、誓願寺の西山深草派)になった。
 1928年、多宝塔、鎮守堂が落成する。
 1941年、三派合同となる。
 1948年、三派は再び分かれた。
◆藤原関雄 平安時代前期の文人・藤原関雄(ふじわら の せきお、805-853)。藤原冬嗣の兄・真夏の第5子。825年文章生試に合格したものの俗人を嫌い出仕せず、「東山進士」と呼ばれた。834年、第53代・淳和上皇の近臣となる。835年、勘解由(かげゆ)判官、その後、少判事・刑部少輔、従五位下治部少輔兼斎院長官となる。病のため退官し、東山に籠居した。
 書、和歌にも秀でた。詩歌は『経国集』『古今集』に収められる。古今集に「宮仕へ久しうつかうまつらで、山里に籠り侍りけるに、よめる」、「奥山の岩垣(いはかき)もみぢ散りぬべし照る日のひかり見る時なくて」。
◆真紹 平安時代前期の真言宗の僧・真紹(しんじょう、しんしょう、797-873)。池上氏出身。禅林寺僧都、石山僧都とも称された。10歳で空海に師事し、真言密教を学ぶ。「弘法大師十指」のひとりとされた。843年、東寺で実恵阿闍梨から伝法灌頂を受け、日本真言第3の阿闍梨となった。空海の神泉苑での降雨祈祷に参加している。河内・観心寺の住持となる。禅林寺では「禅林寺清規」(禅林寺式)という僧の15の規則を定めた。弟子に甥の当山2世・宗叡などがいる。
◆永観 平安時代後期の三論宗の僧・永観(ようかん/えいかん、1033-1111)。父は文章(もんじょう)博士・源国経(くにつね)、1034年、石清水八幡宮別当元命の養子に出された。勉学に極めて優れ、11歳で東大寺別当、禅林寺(後の永観堂)の深観(じんかん)に師事し、禅林寺に過ごした。戒壇院で具足戒を受戒後、東大寺東南院の有慶(ゆうきょう)・顕真に師事、三論教学、その他の法相教学を修め、将来を嘱望された。25歳で平等院での番論義に東大寺の学匠として参じた。深観没後、浄土教に帰依し、1万遍の念仏を日課とした。持病悪化により、1062年、30歳の時に山城国光明山寺に隠棲した。浄土教を民間に布教するため、1072年頃、禅林寺東南院に移る。一日6万遍の念仏と、100万遍の念仏を300回修し、法式を定め、浄土宗に多大の影響を及ぼした『往生講式』を著した。
 衆生救度として、寺内に病人の浴室として、「温室(うんしつ)」を設け、境内に植えた悲田梅(ひでんばい)を施薬し与えた。自らの衣服を与え、悲田院近くの薬王寺に阿弥陀像を安置、末期の人々を見送るなど、病人、貧民救済を行った。囚人を訪ね教化を行ったという。
 東大寺別当時、修復を手がけ、辞した後、『往生拾因』を著した。民衆が往生する際に念仏を唱えることの重要性について、「心に阿弥陀仏を唱えれば広大なる善根のゆえにかならず往生を得る」など十の理由を説いた。これは、浄土宗開祖・法然の専修念仏に先立つこと126年だった。
 歌人でもあった永観の歌に「世をすててあみだ仏を頼む身は をはりおもふぞうれしかりける」がある。阿弥陀仏を頼み、往生を遂げることが嬉しいと言った。
 鴨長明(1155-1216)は、仏教説話集『発心集』(1216以前)に、永観のことを記している。
◆静遍 平安時代末-鎌倉前期の真言宗の僧・静遍(じょうへん、1166-1224)。禅林僧都、大納言僧都。平頼盛の子。醍醐寺座主・勝賢より真言小野流の相伝を受け、仁和寺上乗院・仁隆より広沢流を受けた。高野山の明遍、笠置の貞慶にも師事した。仁和寺に住し僧都となった。法然の『選択本願念仏集』を批判し熟読するうちに、自らの誤りに気づき改宗、帰依した。自ら心円房と号し一向専修の念仏者となったという。1217年、清凉寺釈迦堂が炎上後に勧進で説法を行う。仁和寺の宝庫から『般舟讃』を発見し『続選択文義要鈔』を著した。1221年、後高倉院の院宣により禅林寺に住した。晩年に高野山往生院に住した。
◆証空 平安時代-鎌倉時代の僧・証空(しょうくう、1177-1247)。善恵房証空。鑑知国師、西山国師、弥天国師。京洛の村上源氏の流れをくむ久我一門源親季の長男。加賀に生まれたともいう。1185年、内大臣・久我通親公の猶子になり、道元の兄弟に当たる。1190年、14歳で出家した。当初、親季は許さず、一条戻橋での橋占いにより、僧が法華経普門品の偈を唱えながら橋を渡ったことから許したという。浄土宗開祖・法然の弟子になり、善恵房證空と名付けられた。以後、法然臨終までの23年間師事した。1198年、法然が九条兼実の請により浄土宗の根本聖典「選択集」を撰述した際に勘文の役を務めた。1199年、法然に代わり九条兼実邸で選択集を講じる。1207年、法然が「七箇條起請文」を制定しその第四位に署名した。日野の願蓮に天台学、政春に台密も学ぶ。1212年、法然没後、1213年、東山小坂から善峯寺中尾・蓮華寿院に入り、道覚法親王に譲り北尾往生院(三鈷寺)に移った。1217年、仁和寺経蔵より善導大師の「般舟讃」を発見した。1227年、嘉祿の法難に際し流罪を免がれる。1229年、奈良・当麻寺の「観経曼陀羅」に感得した。寛喜年間(1229-1231)、関東から陸奥へ游化。1243年第88代・後嵯峨天皇の勅により歓喜心院を創建する。1247年、後の天台座主道覚法親王のために「鎮勧用心」を述べる。宮中で度々講じ円頓戒を授与した。建立した主な寺院は、西山善峯寺北尾往生院、歓喜心院、浄橋寺、遣迎院など11寺になる。浄土宗西山義の派祖。
 静遍に譲られ禅林寺に住したという。白河・遣迎院で亡くなり、門弟により遺骸は西山三鈷寺・華台廟に葬られた。
◆浄音 鎌倉時代前期-中期の浄土宗の僧・浄音(じょうおん、1201/1202-1271)。法興浄音。宰相中将・藤原雅清の子。慈円について出家、証空に浄土教を学んだ。粟生光明寺に住し、仁和寺西谷に新光明寺を開く。後嵯峨天皇,亀山天皇の帰依を受ける。証空のあとを受け永観堂禅林寺17世。浄土宗西谷流の祖。弟子は観智、了音、観性など。墓所は鳴滝専念寺にある。
◆大田垣蓮月尼 江戸時代-近代の尼僧・大田垣蓮月尼(おおたがき れんげつ に、1791-1875)。歌人・陶芸家。京都の遊郭三本木の生まれ。名を誠(のぶ)という。母は芸妓、父は伊賀国上野の城代家老・藤堂良聖(金七郎)という。生後10日目で知恩院門跡に勤仕の寺侍・大田垣光古(てるひさ/みつひさ)の養女になる。1798年頃より、丹波亀山城で御殿奉公を勤めた。1807年頃、望古と結婚。3人の子を相次いで亡くし離婚後(夫没とも)、1819年、彦根藩士の石川重二郎(古肥)と再婚する。1823年、夫と死別後、33歳で養父と共に剃髪し、蓮月と号した。知恩院内の真葛庵に移るが、7歳の娘、1832年、養父を相次いで亡くし岡崎村に移った。その後も北白川、聖護院と住居を転々とし、30回を越え「屋越し蓮月」と呼ばれた。勤皇の志士との交流があり「烈女」といわれた。歌人、陶芸家として知られ、自作の和歌を釘彫りした「蓮月焼」を生む。書、絵画も嗜んだ。
 永観堂71世・天華と親交し、弁天堂に仮寓した。「山ざとは松のこえのみ聞きなれて 風ふかぬ日はさびしかりけり」と永観堂を詠んでいる。
与謝野晶子 近代の歌人、作家・思想家・与謝野(與謝野)晶子(よさの あきこ、1878-1942)。鳳志よう。堺の生まれ。父は老舗和菓子屋「駿河屋」の宗七、母は津祢の三女。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習う。堺市立堺女学校卒、浪華青年文学会に参加、1900年、浜寺公園の旅館での歌会で歌人・与謝野鉄幹を知る。鉄幹、山川登美子とともに永観堂を訪れた。鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。1901年、東京に移り処女歌集『みだれ髪』を刊行。離婚した鉄幹と結婚し、子供を12人出産した。1904年、日露戦争に出生した弟を思う『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。1911年、女性解放を唱えた文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」の詩を寄稿した。1912年、鉄幹の後を追いパリに行く。1921年、建築家・西村伊作、画家・石井柏亭、夫らと文化学院(お茶の水駿河台)を創設し、『源氏物語』を講義した。歌は5万首、『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動、女性解放思想家としても活躍した。墓は多磨霊園にある。
 永観堂境内の弁天池近くに歌碑がある。「秋を三人(みたり)椎(しい)の実なげし鯉やいづこ」。
◆住持 歴代住持には2世・宗叡(809-884)、3世・真如(799-865?)、寛空(884-972)、元果、明観、深覚(955-1043)、覚源(1000-1065)、深観(1001/1003-1050)、実際には住持に就いていないが11世・源空(1133-1212)、12世・静遍(1166-1224)、13世・証空(1177-1247)、17世・浄音(1201/1202-1271)、宏善、智空甫叔などがいる。
◆本尊 阿弥陀堂の厨子内に本尊である、木造「阿弥陀如来立像」(重文)(77cm)が安置されている。「見返り(みかえり)阿弥陀」とも呼ばれている。平安時代後期-鎌倉時代、また、平安時代後期(12世紀後半)作という。京の仏師により、永観存命中に造仏されたという。顔を左後方やや下に向ける。眉間白毫奥に舎利が納められているという。1094年の永観伝に同様の記述がある。右手を上げ、左手は下げて来迎印を結ぶ。顔は右半分が左半分より大きく造られ、視覚的効果をあげている。左足をやや前に出す。右肩より覆肩衣の上に、左肩より衲衣、腰下には裙を巻く。衣文は左右対称で脚はY字衣文になる。袖端には渦文がある。襟の部分に沿う形で寄木をうまくつぎ合わせる。檜材、寄木造、彫眼、漆箔。
 本尊と永観にまつわる伝承がある。本尊は、首を左に向け「見返り阿弥陀如来」といわれている。かつて東大寺に安置されていた。一老翁により開創供養の際に捧げられ、その後、宮中に安置された。その後、東大寺に宝蔵に遷される。永観には仏の声が聞こえたという。永観が東大寺別当職を辞した際に、白河法皇(第72代)により、衆生済度のために永観が仏の護持、供養をすることになる。永観が像を背負い禅林寺へ戻ろうとすると、ほかの僧が跡を追い、木幡で像を奪おうとした。だが、像は永観の背から離れなかったため僧らは諦めたという。その後、禅林寺の本尊として安置されたという。
 1082年、永観が道場で念仏を唱え、本尊の周りを廻る行道(ぎょうどう)をしていると、阿弥陀如来は須弥壇より下り、共に行道を始めた。永観が立ち止まると、阿弥陀如来は左に振り返り、「永観遅し」という。以後、そのままの姿を止めたという。この時、永観の歩みが遅れたのは、念仏行布教の艱難を悟ったからという。「みな人を渡さむと思ふ心こそ極楽にゆくしるべなりけれ」(永観、「千載和歌集」)、阿弥陀如来は、仏の正面に回れない人々をも案じ、その救済のために脇を振り返るという。以来、阿弥陀堂は永観堂と呼ばれ、後に本堂になり、阿弥陀如来は本尊として安置された。
◆仏像・木像 釈迦堂本尊の鎌倉時代後期作、「釈迦如来立像」は、定慶弟子か周辺の仏師作という。
 阿弥陀堂(本堂)内陣に本尊・「見返り阿弥陀像」(重文)が安置されている。かつては、南脇壇に豊国神像、北脇壇に当麻曼荼羅が掲げられていたという。ほかに、「釈迦如来立像」、江戸時代の宋風、「普賢菩薩騎象像」・「文殊菩薩騎獅像」、「藤原豊成公像」、「中将法尼像」が安置されている。
 文殊菩薩は、美しい顔立ちをしており、舟形光背、蓮弁の上に半跏坐で右足を下ろし、獅子に乗る。獅子の足は太い。知恵の寺めぐり(京都文殊霊場)の2番になる。
 阿弥陀堂の左脇檀厨子内の平安時代前期作、「地蔵菩薩立像」(161.8㎝)は、脚部にY字の衣文が見られる。木造、針葉樹、一木造。
 御影堂脇檀の鎌倉時代作、「善導大師立像」(78.4㎝)は、法衣に袈裟、合掌姿をしている。口を閉じ、耳朶が環状になった珍しい例という。木造、寄木造、玉眼嵌入、彩色。
 御影堂には、内陣須弥壇上宮殿内に「宗祖・法然」を祀る。ほかに、唐代浄土宗大成者の「善導大師立像」。
 
瑞紫殿には、平安時代、開山の真紹が5体の仏像を安置していたという。室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)により、4体が燃え、1体のみが残された。以後、本尊・「阿弥陀如来坐像」は「火除けの阿弥陀」と呼ばれ祀られている。ほかに、「愛染明王」、「不動尊立像」を安置する。
◆建築 「総門」は、江戸時代末期、1840年の建立による。高麗門。
 
「唐門」(京都府指定文化財)は、江戸時代、1830年建立。勅使門、四脚の向唐門、入母屋造、檜皮葺、大唐破風造、木鼻に獏の意匠がある。雲龍、唐草の彫刻がある。現在は当寺の住職が亡くなった際にのみ使われる。
 
「中門」は、江戸時代、1713年(1744年とも)建立、薬医門様式。
 「釈迦堂(方丈)」は、江戸時代、1627年建立。入母屋造、桟瓦葺。六間取り。
 
「方丈」(京都府指定文化財)は、室町時代、永正年間(1504-1511)に第104代・後柏原天皇により建立という。入母屋造、桟瓦葺、六間取りの方丈形式、松の間に江戸時代の「松水禽図」、仙人の間に江戸時代「高士乗舟図」、桃山時代「鷺花卉図」、ほかにも「松鳥図」、「群仙図」などの襖絵がある。
 「御影堂(みえどう、祖師堂、大殿)」は、近代、1912年建立、7間7間に1間の付だし。内陣須弥壇上宮殿内に宗祖・法然を祀る。ほかに、唐代浄土宗大成者の善導大師立像。境内最大の総欅造の和様、禅宗様の折衷建物。間口8間5分、奥行7間、48本の丸柱が使われているのは、阿弥陀四十八本願に因む。
 
「多宝塔(祖廟)」は、若王子山に1928年に建立、和様の造りで、上部は円形、下部は方形の二重塔、間は白漆喰で饅頭型に造られている。相輪は九輪と水煙となる。御影堂脇からは140段の石段が続く。
 「阿弥陀堂(本堂)」(京都府指定文化財)は、江戸時代、1607年に豊臣秀頼により、1597年に建立された大坂の四天王寺の曼荼羅堂が移築された。1660年頃、元禄宝永(1688-1711)にも改修された。桁行7間、梁間6間、一重入母屋造、本瓦屋、正面に3間の向拝、正面と側面に半蔀(はじとみ)式戸、貴族の邸宅風建築。内陣に本尊・見返り阿弥陀像(重文)が安置されている。天井に「百花図」、「散り蓮華」など極彩色に彩色されている。松の間に襖絵「松小禽図「楓雉子図」、長押上に「三十六歌仙図」、上段の間の違い棚に「瀑布図」、「群仙図」「高士乗舟図」など。
 
「画仙堂」は、1914年建立、重層寄棟造、日本画家・鈴木松僊の発願により建立された。松僊による「天龍」がある。鈴木松僊は1872年、京都生まれ。日本画家鈴木松年の長男。
 「鐘楼」は、江戸時代、1707年建立。桁行1間、本瓦葺、方一間吹き放ち、梵鐘は1743年鋳造。
 
「弁天社」は、江戸時代、1866年建立、一間社流造、桟瓦葺、歌人・尼僧の大田垣蓮月(1791-1875)の寄進によるという。額の字を書き、境内に移り住んでいたこともあるという。
◆勧学院 近世、36世・甫叔の時、京都の3勧学院の一つが設けられた。境内には、学寮が17棟も建てられていたという。
◆文化財 平安時代作の金工品「金剛蓮華文磬」(国宝)。
 鎌倉時代、13世紀前半の絹本著色「山越(やまごし/やまごえ)阿弥陀図」掛幅装(国宝)(138×118㎝)は、山の間から巨大な阿弥陀如来が上半身のみを月の様に現している。転法輪印を結ぶ。銀泥の円光背が輝く。左上隅の月輪中に梵字の阿字(万有の根源、あらゆるものが空であり、生滅がない)、その下に雲に乗る観音、勢至菩薩が描かれている。さらにその下に、四天王、持幡の二童子らが控える。念仏者を極楽から迎えに来る来迎図であり、臨終に際して阿弥陀と往生者を五色の糸で結んだという。源信の発想によるといわれ、その孔跡が残る。現存最古といわれている。
 鎌倉時代、1302年の銘がある「当麻曼荼羅図」(重文)(374.8×391.2㎝)は、当麻寺綴れ織本の写本であり、失われた原本の部分もより正確に伝えるものとされている。上半分に宝楼閣が描かれ、その下半分中央に阿弥陀三尊、その周りの多くの聖衆が描かれている。さらに下の蓮池の舞台では、多くの菩薩らが音楽を奏で、雲に乗る菩薩が舞う。原寸最大の例という。
 鎌倉時代「阿弥陀来迎図」(重文)、鎌倉時代「十大弟子像」(重文)、鎌倉時代の「釈迦十六善神像」(重文)、鎌倉時代「薬師如来像」(重文)、鎌倉時代「十六羅漢像」(重文)、室町時代の狩野元信筆「釈迦三尊像」(重文)、南北朝時代「二十五菩薩来迎図絵扉」(重文)は、12面あり、善導大師立像厨子内の絵扉だった。鎌倉時代の絹本著色「十界図」(重文)、南北朝時代「仏涅槃図」(重文)、高麗時代「伝釈迦如来像」(重文) 室町時代「融通念仏縁起絵巻」(重文)、「融通念仏勧進帳」(重文)、室町時代「永観律師像」、室町時代「証空商人思惟像」、安土・桃山時代「豊臣秀吉像」。
 方丈(釈迦堂)の安土・桃山時代、16世紀の長谷川等伯筆、紙本金地墨画「波涛図」12幅(重文)(185×140.5㎝)は、かつて12面の障壁画だった。海中の岩礁とそれに打ち砕ける波、渦潮が金箔の雲霞の間に描かれている。岩の鋭い皴法(しゅんぽう)を特徴としている。かつては狩野元信筆とされていた。
 法然所持本という「法華玄義釈籤」(重文)、鎌倉時代「当麻曼荼羅縁起」(重文)。
◆七不思議 伝えられる「七不思議」がある。実際には7つ以上ある。
 「みかえり阿弥陀」。/瑞紫殿の本尊の「火除の阿弥陀如来」は、応仁・文明の乱(1467-1477)でも焼けなかった。/「来迎の松」は、永観が念仏を唱えていると諸菩薩が松に来迎したという。/「抜け雀」は、小方丈欄間の狩野探幽筆になる。かつて、中央の間に10羽の燕、左右の間に10羽の雀が描かれていた。ある時、右の間の雀が1羽飛び出して消えていた。欄間の裏には、代わりに鼠が描かれていた。/竹が歪んだという「襖絵」/「臥龍廊」は、釘を1本も用いていない。/「木魚蛙」は御影堂裏で鳴く。ただ、誰も見た者がない。/「悲田梅」。/「三鈷の松」は松葉が3本に分かれている。/タカオカエデの「岩垣もみじ」。/「勅使門(唐門)前の光る砂」は、月光に光る。
◆庭園 方丈前の枯山水式庭園には砂檀があり、楕円形をしている。市松模様が描かれている。周囲に白砂が敷かれ砂紋が引かれている。砂檀に松の枝がかかる。
 放生池には弁天島があり、周囲に多くの楓が植えられている。
◆六阿弥陀巡拝 六阿弥陀巡拝(めぐり)」は、江戸時代、1717年に安祥院の養阿が阿弥陀仏の霊感を受けて発願したものという。縁日の日には、真如堂で洛陽六阿弥陀巡拝の証をもらい、蓮華の朱印を受け、先祖回向、極楽往生を祈願する。その後、永観堂、清水寺阿弥陀堂、安祥院、安養寺の順で回り、誓願寺で結願する。功徳日とされる1月15日、2月8日、3月14日、4月15日、5月18日、6月19日、7月14日、8月15日、9月18日、10月8日、11月24日、12月24日、春秋彼岸に3年3か月巡拝する。無病息災、家運隆盛、諸願成就を得ることができるという。
 札所は、1番・真如堂(真正極楽寺、左京区)の阿弥陀如来、2番・永観堂禅林寺(左京区)の阿弥陀如来、3番・清水寺(東山区)の阿弥陀堂の阿弥陀如来、4番は安祥院(日限地蔵、東山区)の阿弥陀如来、5番・安養寺(中京区、新京極)の阿弥陀如来、6番・誓願寺(中京区、新京極)の阿弥陀如来になる。
◆紅葉 創建以来、「もみじの寺」として知られていた。いまも3000本の楓が境内に植えられ、紅葉の名所として知られている。カエデ科のタカオカエデ「岩垣もみじ」は、急傾斜の岩壁に生える。
 「紅葉葉の時雨るる山は神無月 峰の嵐も色まさりけり」永観、「奥山のいはがきもみぢちりぬべし てる日の光みる時なくて」藤原関雄。
 サルスベリの木もある。
◆悲田梅 永観は、境内に薬王寺(悲田院)、施療院を建て病人に梅の実を与えていた。梅の木は「悲田梅(ひでんばい)」と呼ばれていた。鴨長明が「発心集」(1216年以前)にも記している。
文学 平安時代の藤原関雄「古今和歌集」に「奥山のいはがきもみぢちりぬべしてる日の光みる時なくて」がある。平安時代の公卿藤原実資の日記『小右記』に登場する。鎌倉時代の鴨長明『発心集』に永観のことが記されている。
 天池畔に歌人・近現代の作家の与謝野晶子(1878-1942)の歌碑「秋を三人椎の実投げし鯉やいづこ池の朝かぜ手と手つめたき」が立てられている。1900年11月、与謝野鉄幹、その弟子・山川登美子、鳳(与謝野)晶子の三人が寺を訪れ紅葉狩りをしている。
 弁天島の祠福寿弁財天は、幕末-近代の尼僧・歌人・陶芸家の太田垣蓮月(おおたがきれんげつ、1791-1875)の寄進による。
◆映画 時代劇映画「眠狂四郎 炎情剣」(監督・三隅研次、1965年、第5作、大映京都)の撮影が行われた。桧垣ぬい(中村玉緒)の亡夫法要に際して、狂四郎(市川雷蔵)は臥龍廊で武士らに襲われる。
◆墓 第71代・後三条天皇(1034-1073)の御骨塔がある。
 解剖を行った蘭方医・小森桃塢(1782-1843)の墓がある。
◆樹木 連理のカエデ(イロハモミジ)、阿弥陀堂近くにボダイジュがある。平安時代、876年、宗叡が唐より持ち帰り植えたものという。江戸時代、1720年に枯死した。いまは、新たに萌芽している。
 ダイオウショウ(三鈷の松)、ハクショウがある。
◆年間行事 大般若会(1月15日)、守家法要(2月6日)、みかえり念仏行道会(2月14日-15日)、涅槃会(2月15日)、御忌会(4月22日-25日)、夏安居(6月中旬)、明石忌(6月26日)、虫干会(7月25日)、耆山忌(9月1日)、放生会(9月9日)、永観律師忌(11月2日)、秋の寺宝展(11月初旬-12月初旬)、西山上人降誕会(11月9日)、成道会(12月8日)、除夜の鐘(鐘が撞ける。写経、甘酒接待。)(12月31日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『古寺巡礼 京都 7 禅林寺』『旧版 古寺巡礼 京都 禅林寺』『京都・山城寺院神社大事典』『證空辞典』『京都の寺社505を歩く 上』『京都の仏像』『京都の仏像 入門』『日本美術全集 7 浄土教の美術』『別冊太陽 長谷川等伯』『増補版 京都の医史跡探訪』『京都 阿弥陀の寺と庭』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都絵になる風景』『女たちの京都』『京の寺 不思議見聞録』『京都の自然ふしぎ見聞録』『極楽の本』『京都 神社と寺院の森』『京の福神めぐり』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 日本の仏像第43号 観音寺国宝十一面観音と蟹満寺・国宝釈迦如来』『週刊 日本の美をめぐる 45 平等院と極楽往生』 


  関連・周辺      周辺南禅寺      周辺哲学の道      関連北野天満宮      関連三鈷寺      関連延暦寺・東塔(大津市)      関連延暦寺・西塔(大津市)      関連延暦寺・黒谷青龍寺(左京区)         

茶室「顧庵」

悲田梅(ひでんばい)、永観が貧しい病人の薬用、食用に、境内に多くの梅の木を植えていたという。現在はこの木の実が残されている。

方丈北庭

方丈北庭

古方丈(書院)

御影堂(みえどう、祖師堂、大殿)、近代、1912年建立、7間7間に1間の付だし。内陣須弥壇上宮殿内に宗祖・法然を祀る。ほかに、唐代浄土宗大成者の善導大師立像。境内最大の総欅造の和様、禅宗様の折衷建物。間口8間5分、奥行7間、48本の丸柱が使われているのは、阿弥陀四十八本願に因む。

御影堂、和様、禅宗様。

阿弥陀堂石段


阿弥陀堂(本堂)、京都府指定文化財、江戸時代、1607年に豊臣秀頼により、1597年に建立された大坂の四天王寺の曼荼羅堂が移築された。1660年頃、元禄宝永(1688-1711)にも改修された。桁行7間、梁間6間、一重入母屋造、本瓦屋、正面に3間の向拝、正面と側面に半蔀(はじとみ)式戸、貴族の邸宅風建築。内陣に本尊・見返り阿弥陀像(重文)が安置されている。かつては、南脇壇に豊国神像、北脇壇に当麻曼荼羅が掲げられていたという。ほかに、釈迦如来立像、普賢菩薩騎象像、文殊騎獅像、地蔵菩薩立像、藤原豊成公像、中将法尼像。天井に「百花図」、「散り蓮華」など極彩色に彩色されている。松の間に襖絵「松小禽図「楓雉子図」、長押上に「三十六歌仙図」、上段の間の違い棚に「瀑布図」、「群仙図」「高士乗舟図」など。1607年に移築 


位牌堂、開山以来の上人の位牌を安置。

臥龍廊、建立は室町時代、永正年間(1504-1521)、ただ、部材は昭和期に改修された。


臥龍廊、開山堂へ向う

臥龍廊、位牌堂へ

臥龍廊の交差部分

水琴窟(すいきんくつ)、臥龍廊の登り口にある。4月下旬から5月に、この付近でカエルが鳴く。
誰も見たものがなく、木魚のような音がするという。 

開山堂、開山・真紹、2世・宗叡を祀る。





多宝塔(祖廟)、若王子山に1928年に建立、和様の造りで、上部は円形、下部は方形の二重塔、間は白漆喰で饅頭型に造られている。相輪は九輪と水煙となっている。御影堂脇からは140段の石段が続いている。

瑞紫殿、平安時代、開山の真紹は、5体の仏像を安置していたという。室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)により、4体が燃え、1体のみが残された。以後、本尊・阿弥陀如来坐像は「火除けの阿弥陀」と呼ばれ祀られている。ほかに、愛染明王、不動尊立像、

千佛堂

鐘楼、桁行1間、本瓦葺、方一間吹き放ち、江戸時代、1707年建立。梵鐘は1743年鋳造。



画仙堂、1914年建立、重層寄棟造、日本画家・鈴木松僊の発願により建立された。松僊による「天龍」がある。鈴木松僊は1872年、京都生まれ。日本画家鈴木松年の長男。


龍吐水

龍吐水

浴室、病人の治療に使われた。

浴室の内部

智福院

松岳院

弁天社、江戸時代、1866年建立、一間社流造、桟瓦葺、歌人・尼僧の大田垣蓮月(1791-1875)の寄進によるという。額の字を書き、境内に移り住んでいたこともあるという。


極楽橋、放生池(弁天池)、一帯は紅葉の名所しなっている。 

獅子門歴代句碑、近くに滝、小川が流れている。

与謝野晶子の歌碑、「秋を三人椎の実投げし鯉やいづこ 池の朝かぜ手と手つめたき」(「みだれ髪」)
 鉄幹、山川登美子、晶子の三人は、1900年秋に寺を訪れている。二人の女性は、師である鉄幹と文学に思いを寄せていた。翌春、鉄幹と晶子は再訪している。だが、登美子の姿はそこにはなかった。 5月下旬から6月に白い花を付ける 


境内最上部の多宝塔からの市内の景観

境内の東にある若王子山

方丈東にある「三鈷の松」

三鈷の松、葉先が3つに分かれている。三鈷とは、智慧、慈悲、真心を表し、持っていると3つの福を授かるという。

境内東の岩場に生える「岩垣もみじ」

阿弥陀堂前にある菩提樹の大木

境内の東の墓地内にある平安時代、第56代・清和天皇御髪陵、平安時代の第71代・後三条天皇御骨陵

【参照】境内南近くを流れる琵琶湖疏水
永観堂(禅林寺)グーグルマッブ・ストリートビュー
 禅林寺(永観堂) 〒606-8445 京都市左京区永観堂町48  075-761-0007  9:00-16:00

より大きな地図で永観堂(永観堂)を表示
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