冷泉院(冷然院)跡 (京都市中京区)
ruins of Reizei-in ( retired emperor's palace)
冷泉院(冷然院)跡 冷泉院(冷然院)跡 
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「冷然院跡」と刻まれた石標

【参照】現在の二条城、濠


【参照】平安時代の冷泉院の復元図、京都アスニー
 二条城の北東、竹屋町通南側の生垣中に「冷然院跡(れいぜいいん あと)」の石標が立てられている。 
 冷然院(冷泉院)とは、平安時代の離宮の一つであり、平安京左京二条二坊三-六町の4町にあった。第52代・嵯峨天皇が後院(ごいん、譲位後の御所)として造営する。その後、里内裏、仮御所としても用いられた。
◆歴史年表 平安時代、第50代・桓武天皇は、近東院に行幸する。この近東院が冷泉院の前身ともいう。
 弘仁年間(810-824)、第52代・嵯峨天皇により近東院を改め、拡張整備する。後院として造営され、当初は「冷然院」と称した。
 816年、嵯峨天皇は冷然院に行幸し、詞宴を催した。文献初見になる。(『日本紀略』)
 823年、嵯峨天皇は冷然院で第53代・淳和天皇に譲位後、そのまま移住し後院として10年ほど使用する。その後、歴代天皇の離宮、後院になる。
 第54代・仁明天皇(在位833-850)の皇居になる。
 842年、嵯峨上皇没後、皇太后・橘嘉智子の御所になる。橘逸勢らの承和の変(廃太子の変)により、仁明天皇は、皇太子(恒貞親王)を従え冷然院に遷幸(移る)する。勅使・左近衛少将・藤原良相(よしみ)は院を包囲した。皇太子は廃され、淳和院に移され東亭子に住む。大納言・藤原愛発(ちかなり)ら3人が冷然院に幽閉される。
 875年、焼失した。3日にわたり燃え続け、54棟の建物が失われる。
 880年、再建される。第62代・村上天皇(在位946-967)の皇居になった。
 949年、焼失した。
 954年、10世紀(901-1000)中期とも、村上天皇により3度目の造営が行われる。「冷然院」より「冷泉院」に改められる。(『河海抄』『拾芥抄』)。この頃、西門、南殿、中殿、東対、東南対、西南対、釣殿、苑池などがあった。(『西宮記』『扶桑略記』)
 969年以降、第63代・冷泉天皇が後院として居住した。
 970年、焼失した。
 1016年、焼失する。
 1050年、焼失した。
 11世紀(1001-1100)中期、第70代・後冷泉天皇(1025-1068)の里内裏(さとだいり)になる。
 1055年、冷泉院は不吉の兆しがあるとして建物は取り壊される。資材は、里内裏の一条院の造営のために移された。
 鎌倉時代、1214年、焼失した。
 現代、1982年、北端で発掘調査が行われた。
 1994年-1995年、北端で発掘調査が行われた。
 2001-2002年、二条城北東の発掘調査により、冷泉院跡の庭園遺構が発見された。
 2011年、北端で発掘調査が行われた。
◆嵯峨天皇 平安時代の第52代・嵯峨天皇(さが てんのう、786-842)。第50代・桓武天皇の第2皇子、母は皇后・藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)。同母兄に第51代・平城天皇、異母弟に第53代・淳和天皇がある。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。806年、兄・平城天皇の皇太弟、809年、即位した。810年、平城太上天皇の変(薬子の変)で平城上皇と対立し、これを抑え、上皇が出家して決着する。蔵人頭を任じ、戦勝を祈願し賀茂斎王を置く。上皇御所として冷泉院と朱雀院を設けた。漢詩文を好み、唐風文化を取り入れた。書は空海、橘逸勢と共に三筆のひとりとされた。華道嵯峨御流の開祖。
 没後2日後に承和の変が起きた。天皇は、自らの陵墓について、草木が生えるままにと遺し、遺骸は人知れない山中に葬られた。近代、嵯峨天皇山上陵が、大覚寺の北西、朝原山山頂に造営されている。
 弘仁年間(810-24)、後院として冷然院(冷泉院)を造営する。誌宴を度々催した。院は10年ほどを御在所として用られる。
◆冷泉天皇 平安時代中期の第63代・冷泉天皇(れいぜい てんのう、950-1011)。第62代・村上天皇の第2皇子、母は皇后・藤原安子(あんし、右大臣師輔の娘)。生後2カ月で外祖父・師輔の宅で立太子。967年、父・村上天皇の死により18歳で即位した。叔父・実頼が関白に就任し、後見補佐した。以後、摂政・関白が置かれるようになる。969年、藤原氏による他氏排斥の謀略事件・安和(あんな)の変後、藤原氏の力が更に強まる。969年、わずか2年の在位で第64代・円融天皇に譲位した。太上(だいじょう)天皇の尊号を贈られる。病弱であり、異常な振る舞いもあったという。墓は桜本陵(左京区)にある。
 冷泉院の諡(おくりな)は、譲位後11年間住んだ冷泉院に因む。大半は東三条南院で過ごしここで亡くなっている。
◆冷泉院 冷然院(冷泉院)の敷地は平安京左京二条二坊三-六町の4町にあった。現在の二条城の北東付近4分の1ほどを占めた。南は二条、北は大炊御門(おおいみかど)、東は堀川、西は大宮の各路に囲まれていた。現在の石標の立つ位置は、敷地の北東端にあたる。
 平安時代、弘仁年間(810-24)、第52代・嵯峨天皇の後院として造営された。当初は「冷然院」と呼ばれる。「弘仁亭」とも称された。
 嵯峨天皇は冷然院の作庭にも関わり、趣向を凝らした。『枕草子』第22段中にも「家は近衛の御門‥。菅原の院。冷泉院」などと記されている。林泉を前に数十の建物が建てられていた。天皇はしばしば院に行幸し、詩歌の宴を催している。
 823年、嵯峨天皇の譲位後、後院(上皇の御所)として10年ほど使用された。その後、歴代天皇の離宮・後院として利用される。第54代・仁明天皇(在位833-850)の皇居になる。第62代・村上天皇((在位946-967)の皇居になった。院は、政治的にも重要な位置に置かれていた。
 949年、焼失する。その後、954年、3度目の造営が行われた。この時、冷然院の「然」の字は、「燃(もえる)」に通じ、縁起が悪いことして「泉」に変え「冷泉院」に改められる。 (『河海抄』)。なお、院は、都合4回の火災に遭い、その度に再建されている。
 10世紀(901-1000)中頃、冷泉院には、西門、南殿、中殿、東対、東南対、西南対、釣殿、苑池などがあったと記されている。(『西宮記』『扶桑略記』)。建物は、敷地の北西にあった。苑池は、敷地の中央付近にあり、東西30m以上、南北120m以上あったとみられている。石組、州浜になっていた。
 969年以降、第63代・冷泉天皇(950-1011)が後院として11年間居住した。このため、天皇は冷泉院の諡(おくりな)になる。11世紀(1001-1100)中期、第70代・後冷泉天皇(1025-1068)の里内裏に使われた。それを最後として、1055年、冷泉院は不吉の兆しがあるとして建物は取り壊される。資材は一条院の造営に充てられた。
◆源氏物語 『源氏物語』第37帖「鈴虫」巻では、光源氏らは冷泉院の召しにより冷泉院に参上した。


*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 駒札、『京都市文化財ブックス28集 平安京』『京都 歴史案内』『京都府の歴史散歩 上』『京都大事典』『京都の地名検証 3』『紫式部と平安の都』


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map  冷泉院跡 〒604-8301 京都市中京区二条城町,竹屋町通堀川西入る南側 
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