松明殿稲荷神社 (京都市下京区) 
Taimatsuden-inari-jinja Shrine
松明殿稲荷神社 松明殿稲荷神社 
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天満宮


「宝暦二年(1752年)夏」と刻まれている。
木食正禅養阿上人が、渇水に備え井戸を掘り寄進したと思われる。
 七条大橋の西詰南にある松明殿稲荷神社(たいまつでん いなり じんじゃ)は、伏見稲荷大社の境外末社であり、田中社、炬火社(たいまつの やしろ)ともいわれる。 
 祭神は、大己唯命(おおなむちのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、猿田彦命(さるたひこのかみ)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)になる。
◆歴史年表 平安時代、948年、創建されたという。かつて、黒門通塩小路付近(油小路八条北とも)にあった。(社伝)
 956年、勅により篝火などを焚いて悪霊を祓う神事である燎祭が行なわれた際に、「炬火殿(たいまつでん)」の号を贈られる。
 その後、七条東洞院に遷るという。
 江戸時代、貞亨-元禄年間(1684-1700)、松明殿稲荷社として新日吉町(木屋町七条上ル)に描かれている。(「加茂流域図」)
 1711年、現在地に移転したという。
◆養阿 江戸時代の木食僧・養阿(ようあ、1687?-1763)。丹波国桑田郡保津村の村上庄右衛門の子。木食正禅、木食養阿などとも称した。幼くして父を亡くし、京都銀座の手代を経て、24歳で泉涌寺・雲竜院の恵雄により出家、朋厚房正禅と名乗った。1711年、高野山に上り、木食恵昌に師事、五穀を断ち木の実を食する木食行に入る。甲賀郡安養寺(現嶺南寺)、高野山で木食大戒を修めて大阿闍梨になる。信濃の善光寺、美濃の国一円を行脚した。七条大宮の梅香庵に住し、念仏聖として洛中洛外の無縁墓地を回り供養、名号碑を建立した。1719年、勧進により弥陀如来像を造立し真如堂に安置した。享保年間(1716-1736)、1720年とも、狸谷山不動院で入籠し木食行に入る。参詣者が絶えず、幕府の弾圧により五条坂に移る。1725年、安祥院を再興し、勧進により1738年、日ノ岡峠、1747年頃、渋谷街道の修築工事を行い、峠道の管理所、休憩所の梅香庵(木食寺)を建てた。1752年、松明殿稲荷神社に井戸を掘る。石橋の架設、寺社の敷石などの土木工事も行う。1741年、法橋上人位を授与され、養阿に改めた。安祥院で即身仏になり墓塔に納められた。
◆社号・松明町 松明殿稲荷社の松明とは、平安時代、956年、篝火などを焚いて、悪霊を祓う神事である勅の燎祭が行なわれた。この時、「炬火殿(たいまつでん)」の号を賜ったことに因むという。
 近世、伏見稲荷大社の春の稲荷祭の折に、当社の氏子が松明を持ち、御旅所に神幸する神輿5基を迎え火、送り火したことに由来するともいう。鴨川東岸、七条河原では大松明が焚かれた。神輿5基と巡行の祭列は、七条大橋の東より西に御渡している様が描かれている。(『都名所図会』巻二)
 旧地に松明町(下京区、旧九条村)の地名はいまも残る。かつて町内の耕地には伏見稲荷大社の頓宮(仮宮)があり、祭礼には松明を灯して神輿を迎え入れ「松明殿」と呼ばれていた。鎌倉時代、1263年以来の恒例という。後、頓宮は七条東洞院に遷される。
 松明町の跡地は「踊り場」と称された。近代、1877年には家が建ち「出在家」と呼ばれたという。
◆木像 飛鳥時代、第32代・天智天皇像、天智天皇皇子・大友皇子木像が安置されている。
◆文化財 境内には、江戸時代中期の僧・木食正禅養阿(1687-1763)の「木食正禅」「宝暦二年夏」「松明殿」の銘ある石製手水鉢、石井戸がある。江戸時代、1752年に寄進された。神仏習合時代に、稲荷山の修験が当社の行事にも関与していた例になるという。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都史跡事典』『京都大事典』『稲荷信仰の世界』



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 松明殿稲荷神社 〒600-8133  京都市下京区稲荷町451-2,七条大橋西詰南   
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