東寺 (教王護国寺) (京都市南区) 
To-ji Temple

  





堀、五重塔


南大門(重文)


南大門

南大門






修行大師像、網代笠に、数珠、錫状を持つ。


八島神社(八島殿)


八島神社


八島神社


八島神社


八島神社


八島神社


鎮守八幡宮


八幡宮

八幡宮

講堂・金堂・五重塔周辺



五重塔(国宝)




中秋の名月




五重塔、宝生如来坐像



五重塔、棟を支える四角の邪鬼。再建の時、彫り師が遊び心で造ったともいう。また、天邪鬼の力で塔を持ち上げる意味付けが行われたともいう。










ハス









五重塔




本堂の金堂(国宝)


金堂、二重屋根、下屋根の正面は一段切り上げ。


金堂、中央上部に小窓がある。この窓は、南大門の楼上から阿弥陀如来の顔を拝するように設計されていたともいう。


金堂




講堂


講堂(重文)

講堂の仏像の配置、上が北になる。中央の五智如来に大日如来を含む5仏が安置されている。10段階の悟りの最終段階に達しており、開いた蓮台に坐している。
 右の五菩薩は、衆生救済のために五智如来が菩薩に化身した。出家前の釈迦如来が描かれ、宝冠をかぶる。開きかけの蓮台に坐している。
 左の五大明王は、五智如来が教えに背く人々を調伏するために憤怒の形相に転じた。不動明王以外は多面多臂を持つ。多聞天など周囲の天部は、これらの仏を守護している。


講堂









大師堂周辺




御影堂(みえどう、西院御影堂、大師堂)(国宝)。


柱には朱色の牛玉宝印が張られている。


御影堂(大師堂)、空海に朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)の儀式は、今日なお、毎日早朝6時から西院(御影堂)で行われている。







毘沙門堂


大黒堂


鐘楼


一切経蔵


大日堂


高野山遥拝所、空海は東寺を真言宗根本道場、高野山は修禅道場とした。


尊勝陀羅尼の碑、かつては北野天満宮の宗像社の傍に、江戸時代、1853年に比叡山僧・願海により建立されたという。1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈により、この地に遷された。碑の周囲を回り、亀の頭、手足に触れ、患部を摩ると万病に効験あるという。


天降石、古くよりこの地にあったという。江戸時代、護法石、五宝石、不動石などと呼ばれた。その後、天降石、また撫石と呼ばれ、石を撫でた手で患部を摩ると完治するという。

食堂周辺


食堂(じきどう)


夜叉神堂
 東寺(とうじ)は、平安時代の平安遷都以来、約1200年間変らずに同じ場所に位置している。広大な境内を有し指定史跡になる。「京の七口」の一つに数えられる「東寺口」が開き、南下して河内、摂津、播磨へ通じる街道の起点になっていた。
 「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」とも「大師の御寺」ともいわれる。正式には「金光明(こんごうみょう)四天王教王護国寺秘密伝法院」という。山号は弥勒八幡山(みろくはちまんさん)という。  
 東寺真言宗・真言宗東寺派総本山。本尊は薬師如来。
 食堂の十一面観音菩薩は、洛陽三十三観音巡礼第23番札所。神仏霊場会第84番、京都4番。毘沙門堂の毘沙門天は、日本最古の七福神巡りの都七福神まいりの毘沙門天。京都三弘法まいり(ほかに仁和寺、神光院)のひとつ。大日如来(十三回忌)は京都十三仏霊場めぐりの第12番札所。金剛薬師は京都十二薬師霊場会第2番札所。
 1994年に世界文化遺産に登録された。
 国家鎮護、諸病平癒、福徳財宝、安産、勝負運、空海が開いた日本初の私学「綜芸(しゅげい)種智院」に因み、学業成就、合格祈願などの信仰を集める。御朱印(9種類)が授けられる。
◆歴史年表 奈良時代、783年、第50代・桓武天皇による新寺建立禁止令発布後、平安京内には官寺以外の寺院を建立することは許されなかった。
 平安時代、793年、東寺、西寺に食封(じきふ)1000戸が施入された。(『東大寺要録』)
 794年、795年とも、平安京遷都に伴い、都の入口だった南端の羅城門の両脇に、官立の東寺(左大寺)と西寺(さいじ、右大寺)が最初に建立された。ニ寺の五重塔は左右対称に聳え、境内は8町(左京九条一坊九町-十六町)という広大な敷地を有していた。東寺は桓武天皇の発願により、兵乱鎮定、天皇の不予、災旱祈雨、平安京の左京を守り、さらに東国を守るという国家鎮護の意味を持たされた。
 796年、中納言・藤原伊勢人(ふじわら の いせひと)が東寺(また東西両寺)の造寺長官(建設工事責任者)になった。金堂が建立されたともいう。(『東宝記』『帝王編年記』)。
 800年、伊賀国山林の巨樹が造営のために伐採されることが許可される。(『類聚国史』)
 803年以降、造営が本格化する。
 804年、従五位下多治比真人家継が造東寺次官に任じられたという。(『日本後記』) 
 812年、勤操少僧都が造東寺別当になる。屏風、障子、東大寺に納められていた官家功徳封物、故布勢内親王(第50代・桓武天皇皇女)の墾田が東西寺に施入となる。封戸2000戸が両寺の造営に充てるために支給される。(『日本後記』)
 818年、金堂が落成する。
 823年、空海は、第52代・嵯峨天皇より東寺を与えられる。当時は金堂のみが完成していた。朝廷は、50人の真言僧を常住させるよう命じた。他宗僧侶の雑住を禁じる。(太政官符『類聚三代格』)。空海作『三学録』に基づき学ぶことが太政官符により下され、真言密教道場になった。
 824年、空海は造東寺別当に就く。東寺は、第51代・平城天皇と愛妾・薬子の怨霊を鎮め、国家鎮護とともに、真言密教の根本道場となった。「教えの王、国を護る」の意から教王護国寺と呼ばれた。大師『二十五ヶ条御遺告』によるともいう。以来、律令政府の官寺として、定例の法会、祈雨、止雨の祈祷などが催された。
 825年、空海は、安吾講讃のために講堂建立を奏上し、許され着工する。(『帝王編年記』)
 826年、空海は塔婆(五重塔)造営を勧請する。
 828年、東寺境内に日本最初の私立学校「綜芸種智院」を創立した。儒道仏を教授し、庶民にも開放した。
 834年、空海は宮中中務省での密教の修法(息災増益の法)を行い、真言院(宮中真言院、修法院、曼荼羅道場)を設けた。
 835年、空海は、宮中真言院で玉体安穏などの修法を行い、現在も行われている後七日御修法の起りになる。この頃、空海弟子・実慧が東寺長者に任じられ、荼枳尼天(だきにてん)信仰が盛んになる。
 839年、講堂の諸仏が開眼となる。(『続日本後紀』)
 843年、潅頂院において伝法灌頂始行、潅頂院新造ともいう。
 844年頃、潅頂院が建立されたともいう。講堂の五仏、五菩薩、五忿怒を供養する。
 元慶年間(877-885)、五重塔が完成し、伽藍は整備された。(『東宝記』)
 895年、食堂千手観音、四天王像が造立される。
 901年、宇多法皇は、灌頂院で益信により伝法灌頂を受けた。
 910年、長者・観賢は、灌頂院に置いて御影供を始める。
 915年、観賢は、宇多法皇の院宣を得て、高野山金剛峯寺に持ち去られていた『十帖策子』を取り返した。
 918年、落雷により金堂を焼失する。(『扶桑略記』)
 1000年、北倉が焼失する。(『東寺宝蔵焼亡日記』)
 1055年、五重塔が落雷により焼失する。(『扶桑略記』)
 1086年、五重塔の落慶法要が行われる。(『扶桑略記』)
 1103年、舎利会が始まる。仏舎利安置の五輪塔制作する。
 1127年、南倉(宝蔵)が焼失したという。(『百錬抄』)。威儀師・覚任は真言院五大尊、十二支天を制作する。
 1189年、後白河法皇(第77代)は、東寺の修理事始の儀を執り行い、知行国播磨国を財源に充てる。(『玉葉』)
 平安時代末期、源平合戦のために寺院は荒廃した。
 平安時代末期-鎌倉時代、建久年間(1190-1199)、1187年-1192年とも、神護寺の文覚(もんがく)は後白河法皇、源頼朝の援助により復興する。蓮華門が建立となった。
 鎌倉時代、1192年以降、文覚による再興が本格化する。
 1197年、塔婆、金堂、講堂、八幡宮、南大門修造になる。源頼朝は、諸仏修理(講堂諸仏、南大門の仁王像、中門の持国天・増長天)を行い運慶一門が当たった。
 1199年、頼朝の没後、文覚は失脚、復興は中断する。
 鎌倉時代、弘法大師信仰が高まりをみせ、皇族から庶民まで広がる。
 1233年、親厳僧正は、大師影像(康勝作)を西院(現在の不動堂)に安置する。(『東宝記』)。以後、大師信仰が広まる。
 1235年、修造料所として肥後国があてられる。(「東寺長者補任」)
 1238年、丹波国が寄進される。(『東宝記』)
 1240年、宣陽門院(後白河天皇皇女)により御影堂(空海が居住したという西院、後の不動堂)が創建される。覚教大僧正は、大師影像を現在の御影堂へ遷し安置した。(『東宝記』)。以後ここで、御影供が行われる。宣陽門院は御影堂に五重小塔、舎利を奉納し、毎月晦日に舎利講を修することを命じ、大師像への生身供も定めた。
 1243年、宣陽門院により、霊夢があったとして西院で長日生身供が始まる。
 1268年、異国調伏のため、講堂で仁王経法を修する。
 1270年、五重塔が焼失する。(『東宝記』)
 1285年、五重塔が再建される。(「白河本東寺文書」)
 1293年、五重塔が再建されたともいう。供養がおこなわれる。(「東寺文書」)
 1308年、後宇多法皇は、灌頂院において伝法灌頂を受けた。以後、再興に尽力する。
 1312年、初の七口の伝法会衆を置く。
 1313年、後宇多法皇は山城国拝師庄などを寄進する。(東寺文書「後宇多上皇施入状」)
 1315年、伝法会が再興され、春秋2季に始まる。
 1326年、後醍醐天皇は、最勝院執務職を寄進する。
 1330年、後醍醐天皇は、宝荘厳執務職を寄進した。
 南北朝時代、1333年、配流先の隠岐から京都に戻った後醍醐天皇は、東寺に入る。
 1334年、後醍醐天皇は、卒塔婆落慶供養を行う。
 1336年、足利尊氏は、湊川の合戦に勝ち、北朝第1代・光厳天皇、豊仁親王(後の北朝第2代・光明天皇)を奉じ、東寺に本陣を敷き、後醍醐天皇勢と戦う。潅頂院を上皇御所とする。尊氏は楠木正成旧領河内国新開荘を寄進する。(「東寺文書」)
 1348年、新鐘成る。
 1352年、足利義詮が山城国植松荘を寄進する。(「東寺文書」)
 1353年、足利義詮が布陣する境内に盗賊が入り略奪する。(『園太暦』)
 1361年、塔頭・観智院が創建された。
 1376年、賢宝は安祥寺恵運請来の五大虚空像を安置する。
 1377年、足利義満が山城国東西九条女御田地頭職を寄進する。(「東寺文書」)
 1379年、大師堂が焼失する。
 室町時代、1393年、二間観音像が東寺に遷される。
 1406年、足利義満は仏舎利を奉請、宝蔵を観る。
 1428年、正長の土一揆で侍所の軍勢が境内に駐屯する。
 1441年、債権や債務の放棄を命じた徳政令を求める徳政一揆(嘉吉の徳政一揆)が起こり、2000-3000人の宗徒は寺に立て籠もる。丹波口一揆も記されている。(『東寺執行日記』)
 1447年、7月、土一揆により宗徒に境内は占拠される。8月、討伐軍の土岐氏の軍勢に占拠され、使用人らが殺害された。
 1454年、土一揆の際に、衆徒が境内に立て籠もり、建物のほとんどは焼失している。
 1467年、戦乱のため道具類を醍醐寺に移す。
 1486年、8月、文明の土一揆に占拠される。9月、再び占拠され、幕府の細川政元の軍勢と衝突する。放火により、金堂、講堂、経蔵、中門など7棟が焼ける。(「東寺百合文書」『長興宿禰記』)。
 延徳年間(1489-1492)以降、再建された。
 1491年、講堂が再興される。
 1497年、講堂に大日如来像が像立された。
 1527年、足利義晴が陣を敷く。
 1563年、五重塔を焼失している。(『御湯殿上日記』)
 1568年、織田信長は、朝廷の誘いにより足利義昭を奉じ京に入り、東寺を宿所とする。(『言継記』)
 安土・桃山時代、1585年、地震により伽藍が損壊した。金堂、潅頂院も倒壊する。(『宇野主水日記』)
 1589年、木食応其により伽藍の再興が始まる。
 1591年、豊臣秀吉が寺領2030石を安堵した。
 1592年、豊臣秀吉の文禄の役の際に、東寺門前には出兵の際に白砂が敷き詰められたという。
 1594年、1593年とも、応其により五重塔が再建される。(「東寺塔供養願文」『御湯殿上日記』)
 1596年、慶長伏見大地震により、講堂、食堂、同中門、潅頂院、南大門、北八足門、東小門、鐘楼などを損壊している。(『義演准后日記』)。その後、応其が奉行となり再建される。
 1598年、北政所は現在の講堂を修理する。
 豊臣秀吉(1536/1537-1598)、その正妻・北の政所(1549-1624)により再興された。
 江戸時代、1603年、豊臣秀頼により、金堂が再建される。仏師・康正は金堂の薬師三尊を造立し、講堂の五大尊を修復する。
 1606年、金堂が完成する。(『義演准后日記』)
 1609年、観智院が勧学院となる。
 1623年、宮中で後七日御修法が復活した。
 1633年、1634年とも、徳川家光により潅頂院が再建された。
 1635年、五重塔を焼失する。(『続史愚抄』)
 1644年、徳川家光により現在の五重塔が再建されている。(『徳川実記』)
 1685年、加賀藩主・松雲公前田綱紀が百の桐箱を寄進する。「百合文書」の成立になる。
 1866年、9月6日、宿陣していた幕府の歩兵と大手組が争い死傷者が出る。大手組が東寺に集まり鉄砲を放ち、新撰組が出動した。
 近代、1868年、1月4日、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍は仁和寺宮嘉彰親王を征夷大将軍に任命し、薩摩軍・征夷大将軍は新政府軍本陣が敷かれた東寺に入る。幕府征討の錦の御旗が立つ。総大将・西郷隆盛は五重塔に登り梵鐘を合図に指揮を執る。南大門、鎮守八幡宮が焼失した。神体は西院不動院に遷される。
 1871年、太政官布告により、宮中後七日御修法が廃止になる。
 1873年、東寺、金剛峯寺を古義真言宗総本山、智積院、長谷寺を新義総本山にした。
 1879年、一宗一管長制になる。
 1880年、真言宗総本山となる。
 1883年、後七日御修法が再開された。
 1907年、連合各派管長会で四本山派名を改め、教王護国寺を東寺派とする。
 1930年、終い弘法の際に食堂が焼失した。本尊、四天王像が焼ける。
 1934年、小子房が再建される。
 1940年、金堂の解体修理がおこなわれた。
 現代、1951年、3年をかけて講堂の解体修理がおこなわれる。
 1963年、宝物殿が建立された。
 1977年-1979年、境内の発掘調査が行われ、創建時の南大門、金堂、中門、僧房、回廊跡など基壇、根石が多数見つかっている。
 1994年、「古都京都の文化財」17の資産(社寺城)の一つとして、世界文化遺産に登録された。
 2012年、四国霊場八十八箇所の「京都三弘法まいり」が復活する。平安時代に始まったという京都十二薬師霊場めぐりが復活した。東面築地で発掘調査が行われる。
 2014年、東寺と石清水八幡宮の合同法要が執り行われ、初の試みとして僧侶が神道の大祓詞、神職が般若心経を唱えた。
◆空海 平安時代の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。弘法大師。讃岐国に生まれた。父は豪族の佐伯田公(義通)、母は阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め四国の大滝岳や室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥となり、教海と称する。804年、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず大宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年、東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都となる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年、正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなり東峰に葬られた。
 空海は、中国から真言密教をもたらし、日本天台宗の開祖・最澄(伝教大師)とともに、奈良仏教から平安仏教への礎を築いた。空海による真言密教の拠点は、東寺のほかに高野山、宮中の真言院の三寺ある。空海の真言密教の神髄は、大日如来の教えに従い、あらゆる存在、性質、思考は、宇宙の絶対者である毘盧遮那仏が姿を変えたものであるとした。第52代・嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆のひとりとして数えられている。東寺境内に日本最初の私立学校「綜芸種智院」も創立した。唐で学んだ土木技術により、各所で灌漑、土木工事などを行い、祈雨の伝承も残っている。
◆観賢 平安時代中期の真言宗の僧・観賢(かんげん、854-925)。詳細不明。般若寺僧正。秦氏、伴氏ともいい、讃岐国の生まれ。872年、真雅(空海の実弟)により出家・受戒、聖宝より三論・真言密教を学び、895年、灌頂を受けた。900年、仁和寺別当、弘福寺別当・権律師、延喜年間(901-923)、東寺長者・法務・検校、919年、醍醐寺初代座主、金剛峰寺座主・検校を歴任、兼任、923年、権僧正に任じられた。
 真言宗を東寺中心に統合した。般若寺を創建、奏請し921年、空海に弘法大師の号を賜った。空海が唐から請来した『三十帖冊子』を東寺経蔵に納めた。
◆文覚 平安時代末期-鎌倉時代初期平安時代の真言宗の僧・文覚(もんがく、1139-1203)。摂津源氏傘下の摂津国・渡辺党。第74代・鳥羽天皇皇女・統子内親王(上西門院)に仕える北面の武士だった。
 従兄弟で同僚の渡辺渡(わたる、渡辺左衛門尉源渡)の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺したことから出家し、文覚と称した。
 神護寺再興のために、第77代・後白河天皇に強訴し、伊豆国に配流されている。その先で、後の鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝と知り合い、平家打倒の挙兵を促したという。その後、頼朝、後白河法皇の庇護を受け、東寺など各地の寺院を修復する。頼朝死後、後鳥羽上皇(第82代)により、佐渡国流罪となりその地で客死した。
◆宣陽門院 鎌倉時代中期の女院・宣陽門院(せんよう もんいん、1181-1252)。後白河法皇(第77代)の第6皇女で寵愛を受けた。母も法皇の寵妾丹後局(従二位高階栄子)。1189年、内親王、1191年、院号宣下。法皇没後、膨大な荘園群(長講堂領)を引き継ぐ。1200年、後鳥羽天皇の子・雅成親王、後に関白近衛家実娘長子を養女とした。所領は後深草上皇に伝えられ、持明院統の経済的基盤となった。
 熱心な弘法大師信者で、行遍により伝法灌頂を受け、東寺復興に尽くした。
◆宅磨勝賀 鎌倉時代の絵仏師・宅磨勝賀(たくま しょうが、生没年不詳)、澄賀。父は詫間派(宅磨派、宅間派)の祖・為遠。弟は為久。絵所の役に任じられ、法橋、後に法眼に叙せられた。宅間法眼と呼ばれる。1169年頃-1209年頃、神護寺・東寺の仏像制作等に携わる。高山寺の明恵に帰依した。明恵が夢に見た春日・住吉社の神相を筆写し神罰により落馬して没したという。東寺に「十二天図屏風」が残る。
宮本武蔵 江戸時代前期の剣客・宮本武蔵(みやもと むさし、1584-1645)。美作国、播磨に生まれたともいう。武芸者・平田無二斎の次男ともいう。剣術に優れ、13歳で新当流の有馬喜兵衛との勝負に勝って以来、以後一度も負けなかったという。21歳の時に上洛した。1612年、舟島(巌流島)で佐々木小次郎と決闘、大坂の陣(1614-1615)に参戦、小倉藩主小笠原忠真の客分として、1637年、島原の乱では軍監として出陣した。肥後熊本藩主細川忠利に招かれ熊本千葉城址に住み、『兵法三十五箇条』、霊巌洞で『五輪書』を執筆した。二刀流(円明流、二天一流、宮本流)の開祖。書画などにも優れていた。
 一乗下り松での決闘の際に、東寺に隠れたという。塔頭観智院には武蔵筆という「鷲図」などがある。
◆空海と最澄 平安時代、804年、最澄は短期の還学生(げんがくしょう)として、留学僧・空海らとともに唐に渡り、805年に帰国する。809年、空海も禁を犯し、20年の予定を2年に切り上げて帰国し、高雄山寺に入る。最澄は、空海入洛が実現できるように陰ながら尽力した。最澄は、帰国後1か月にもならない空海のもとに弟子・経珍をやり、空海が唐から持ち帰った経籍12部を借覧し、その後も借り続けた。
 最澄は年下の空海により、812年、高雄山寺で金剛界、胎蔵界の結縁灌頂を受けている。最澄は、空海に伝法灌頂も授けるように申し出るが、空海は3年はかかるとした。やむなく、最澄は、811年、最愛の弟子・泰範を空海の元に送り、密教を学ばせる。だが、泰範は、空海の弟子となり最澄の元には戻らなかった。その後、最澄は空海と決別する。
◆平城太上天皇の変(薬子の変) 平安時代、809年、嵯峨天皇即位後、平城上皇愛妾・藤原薬子は、嵯峨天皇の同母兄・平城上皇の再即位のため、兄・仲成と図り兵を挙げようとし鎮圧された事件。
◆講堂の仏像・木像 講堂内陣須弥壇には、21体(後補の「五智如来、「五菩薩(中尊は後補)」、「五大明王(五忿怒)」、「四天王」、「梵天」、美仏の「帝釈天」の密教仏像が3列(前列8体、中列5体、後列8体)にわたり安置されている。これらの群像彫刻は、中央の悟りを開いた最高位の仏「如来部」に5体、右(東)に悟りの修行をする仏である「菩薩部」に5体、左(西)に大日如来の化身で忿怒の「明王部」に5体が配置されている。このうちの15体が空海が実際に指示して造型させた仏像という。材は檜。これら主要な尊像の頭部内には、銅製の筒内に舎利二粒(空海が唐より持ち帰った80粒の仏舎利の一部ともいう)、梵字真言、名香(白檀、龍脳)などが納められている。
 中央に「五智如来坐像」、室町時代、1493年に康珍作の「大日如来坐像」(重文)(284㎝)は最高の悟りを表している。それを中心に、江戸時代の復興作の「如来部(五大如来、五仏)」には「四如来」の「宝生」(南東)(重文)(140㎝)、「阿閦」(重文)(北東)(136㎝)、「不空成就」(重文)(北西)(135㎝)、「阿弥陀」(重文)(南西)(136.7㎝)が安置されている。この五仏は、自性輪身(じじょうりんじん)といわれ、悟り真理そのものの姿を表す。1486年の戦乱で五智如来は焼失している。なお、2000年、大日如来台座下より護摩を焚いた跡が発見されている。
 右(東)の「菩薩部(五大菩薩)」には、1486年の戦乱で焼失し、江戸時代に後補の「金剛波羅密多」(中央)(197.2㎝)と平安時代、839年作の「四菩薩」の「金剛宝」(国宝)(南東)(93.4㎝)、「金剛薩埵」(国宝)(北東)(96.4㎝)、「金剛業」(国宝)(北西)(94.6㎝)、「金剛法」(国宝)(南西)(95.86㎝)が安置されている。五菩薩は、正法輪身(しょうぼうりんじん)といわれ、救いを求める衆生の願に従い、慈悲の面を持つ。インド的な表現が残る。奈良時代後半の木心乾漆造りの流れをくむ。木造、4菩薩は針葉樹材の一木造、乾漆、彩色。
 左(西)の「明王部(五大明王)」の、平安時代後期、839年作の「不動明王」(国宝)(中央、173㎝)は弘法大師様といわれる。弁髪を垂らし、顔を右に向け、上の歯で下の歯を噛み、瑟瑟座(しつしつざ)に坐す。不動明王像としては日本最古になる。「四明王」の4面8臂の「降三世(ごうざんぜ)」(国宝)(南東、174㎝)、3面5目6臂の金剛夜叉」(国宝)(北東、172㎝)、6面3目6臂6足の「大威徳」(国宝)(北西、143㎝)、1面3目8臂の「軍荼利(ぐんたり)」(国宝)(南西201㎝)。五大明王は、教令輪身(きょうりょうりんじん)といわれ、教化に従わない難化の衆生を導くため怒りの面を表す。上半身裸形の憤怒像であり、女性的な肉体を持つ特徴がある。1197年の運慶らによる修理の際に、頭部内より舎利、真言が見つかっている。木造、乾漆、彩色。
 さらにその周囲に、平安時代後期、839年作の仏教の守護神である「天部(四天王)」の「持国天」(国宝)(南東、(187.7㎝)、「多聞天」(国宝)(北東、197.9㎝)、「広目天」(国宝)(北西、171.8㎝)、「増長天」(国宝)(南西、182.5㎝)が安置されている。持国天と増長天は名作と謳われ、多聞天は地天女の掌に乗り、二鬼神が控える。ほかは二邪鬼を踏む。広目天、多聞天は後補が多い。木造、乾漆、彩色、截金、漆箔。
 持国天と多聞天の間、講堂須弥檀両端中央東に平安時代作の4面3目4臂の「梵天坐像」(国宝)(101㎝)は4羽の鵞鳥が支える蓮華座に乗る。本面以外頭部は後補になる。「二天」の広目天と増長天の間に甲姿で象に乗る半跏像の3目の「帝釈天半跏像」(国宝)(105.2㎝)の6体が控えている。頭部、右手、左足は後補。木造、彩色。
 如来とは、悟りを開いた存在、菩薩とは仏になろうと修行をする者、その如来、菩薩を守護する明王、さらにヒンズー教の神、梵天、帝釈天、四天王が配置されている。
 空海によれば、真言密教を口伝することはできないとされ、そのため曼荼羅により密教世界を具現化させた。さらに、東寺独特唯一の「立体曼荼羅」によりそれを表現した。ここには、真言密教根本曼荼羅の「金剛界曼荼羅(五智如来、五菩薩)」と鎮護国家修法の「仁王経曼荼羅(五菩薩、五大明王)」が一体化されている。また、伽藍配置全体も、曼荼羅の再現ともいう。行者は、曼荼羅の前で修法を行い、大日如来と一体化する即身成仏を果たし、その法力を発揮するものという。
◆仏像・木像 灌頂院は、真言宗寺院で最も重要な堂舎になる。正堂内部、北壁、東壁、西壁に「真言八祖」が描かれている。南壁には、「金胎両部の大日如来」が種字で表されている。身舎の板壁は、大曼荼羅が掛けられる。
 金堂内陣には、安土・桃山時代、1603年に七条仏所の仏師・康正作の「薬師三尊像」、「薬師如来坐像」(288㎝)、「日光菩薩」(290㎝)、「月光菩薩」(重文)(289㎝)が安置されている。薬師如来は右手は施無畏印、左手は与願印、手に薬壺を持たず、奈良時代の古い様式であるという。光背には7体の化仏がある。木造、寄木造、玉眼、漆箔。
 金堂内陣の薬師三尊像の台座裳懸座周囲に干支を載せた眷属の「十二神将像」(重文)が安置されている。桃山時代、仏師・康生作。
 五重塔初層内陣は、心柱そのものを大日如来に見立てる。須弥壇上四方には「金剛界四仏」(東・「阿閦(あしゅく)如来、北・「不空成就如来」、西・「阿弥陀如来」、南・「宝生如来)」、その間に「八大菩薩」、四天柱に「両界曼荼羅尊像」、四方の壁に「真言八祖像」(南西より龍猛菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、善無畏三蔵、一行禅師、恵果阿闍梨、弘法大師)、側柱に「八大龍王」(難陀、跋難陀、娑伽羅、和修吉、徳叉迦、阿那婆達多、摩那斯、優鉢羅)が描かれている。これらは四如来とともに曼荼羅を形成している。寺伝では長谷川等竹筆とされている。心柱の基部には、空海が唐から持ち帰ったという仏舎利が納められているという。五重塔の初層は、毎年正月三が日のみ一般公開されている。
 御影堂の南西奥間に空海の念持仏という「不動明王坐像」(国宝)(123cm)は、平安時代(9世紀)作とされる。12世紀初頭以来、最古の秘仏とされてきた。空海自作と伝えられ、造像時の姿をいまも見せているという。不動明王は、空海が高野山に向う時、東の門まで見送りにきたという。その仏の足跡に蓮の花が咲いたという。そのため大門は蓮華門ともいわれている。いまも毎朝6時、朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)が行われている。毎月21日には御影供が行われている。木造、彩色。(非公開)。「西院」には、かつて空海が住んだという。鎌倉時代、運慶の子・康勝による国宝の弘法大師像(1233)が安置されている。
 食堂安置の「十一面観音像」は、醍醐寺の開祖・理源大師聖宝自刻という。現在は宝物殿に遷されている。
 宝物殿の「兜跋(とばつ)毘沙門天立像」(国宝)(189.4㎝)は、かつて遣唐使によりもたらされ、平安京羅城門楼上に安置されていた北方の守護神という。だが、異説もある。唐時代(9世紀)、また9世紀半作ともいう。頭に鳳凰の四面宝冠、長套、裳の上に甲冑、胸当て、腰当て、手に海老籠手、腰に獅噛、金鎖甲、足に沓、脚絆を身につける。左手に宝塔、右手に鉾を持つ。両足を中央の地天(地神)、左に尼藍婆(にらんば)、左に毘藍婆(びらんば)が支える。木造、材は中国産の魏氏桜桃による。彩色、漆箔、目に黒石嵌入、練物盛上。
 宝物殿の平安時代前期作、「千手観音立像」(重文)(584.6㎝)は、かつて食堂の本尊だった。平安時代、聖宝が関わり、第59代・宇多天皇の御願により造像された。(「醍醐寺根本僧正伝」)。894年-899年/909年に造られたという。像内に877年銘の檜扇(ひおうぎ)、白毫孔に金属舎利容器が納入されていた。1930年の火災で損傷し、1966年-1968年に修復されている。木造、漆箔。
 食堂に、1930年の火災で損傷し炭化した平安時代前期作の「四天王立像」(3m)(国宝指定解除)がある。会理僧都の作という。手足は焼失し、表面を樹脂加工している。本尊は「十一面観音像」であり、1933年に明珍恒男作による。洛陽三十三観音巡礼第23番札所の札所本尊になる。かつての十一面観音菩薩は、醍醐寺の開祖・理源大師聖宝により造仏されたという。1930年の火災により大破、その後修復され、現在は宝物館に遷された。画の釈迦三尊像と不動三尊像は1936年に大畑桑丘人筆による。
 鎌倉時代前期作の「観音菩薩」(重文)(24.9㎝)。「梵天」(重文)(21.7㎝)は、かつて宮中清涼殿二間に安置され「二間観音」とも呼ばれた。白檀の檀像、衣に截金文様、台座彩色、光背は銅製透彫。
 収蔵庫の八幡神像の「八幡三神像」(国宝)は、かつて鎮守社八幡宮の神体であり、1868年の火災により宮殿焼失した際に、西院御影堂に遷された。平安時代(9世紀前半)作の日本最古最大、等身大を超える坐像であり、僧形1体、女神2体になる。同木古材より木取りしたとみられる。神像現存最古とみられる。木造、一木造、彩色。像高109-114cm。付属して上半身裸形の「男神坐像」(85cm)がある。武内宿禰像といい12世紀以後の作とみられ、裸形像の中でもっとも古い。
 平安時代前期(10世紀後半)作の「地蔵菩薩立像」(重文)(162.4㎝)はかつて西寺より遷されたという。
 平安時代前期作の「僧形文殊坐像」(重文)(70.9㎝)は、聖僧文殊としては最古例という。弘法大師作ともいう。
 平安時代前期作の「夜叉神(やしゃじん)立像」は対になる。弘法大師が刻んだともいう。かつて南大門の左右に安置されていた。旅人の失礼に罰を与えたため中門(金堂前燈籠付近)に遷されたという。(『東宝記』)。室町時代、1596年、中門倒壊後、夜叉神堂が建てられ遷された。ともに目をむき、眼光鋭く異形の表情をしている。東の炎髪の「阿形」(193㎝)は、雄夜叉であり、文殊菩薩を本地仏とする。西の巻髪の「吽形」(204㎝)は、雌夜叉であり、虚空蔵菩薩を本地仏とする。2体共に両手、足先は失われ、腰に獣皮(木造)を巻く。体部分に空いた無数の孔は、蜂の巣跡という。桧材、一木造。
 大師堂の「弘法大師坐像」(国宝)(83.3㎝)は、西院御影堂の北間に安置されている。鎌倉時代、1233年に長者・親厳大僧正の願により運慶の子・康勝作。左手に数珠、右手に五鈷杵を持つ。木造、彩色、檜材の寄木造、内刳、像底を刳り残す、玉眼。像内面部、腹部に巻物が納められているという。「弘法大師像」は、空海の42歳の姿を刻んだものという。なお、雨宝院(上京区)にも、弘法大師像が安置されている。像は南を向き口を開いている。「阿吽汗かきの大師」と呼ばれた。「汗かき」とは、汗をかくようなことでも、必ず衆生を救済する意味とされた。東寺の大師像も同様の像であり、こちらは北を向いていたという。かつて、2つの大師像は、互いに向き合い、金剛力士像のように雨宝院の像は「阿」を、東寺の像は「吽」を示して安置されていたという。
 毘沙門堂に「毘沙門天像」(40cm)、脇侍は「吉祥天」、「善賦師童子」。
◆曼荼羅 曼荼羅(まんだら)は、古代から中世のインド亜大陸や東南アジアで用いられていたサンスクリット語で「本質、真髄」を意味する「マンダ」と、所有の「ラ」よりなる。「マンダラ」は、「本質の所有、宇宙の真理・摂理」を意味している。真言密教では、すべての生命源が大日如来を中心としているとされる。
 曼荼羅図には「金剛界」と「胎蔵界」があり、物質的な「五大」(地、水、火、風、空)を表すのが金剛界、さらに、精神的な「識大(しきだい)」を表すのが胎蔵界とされる。前者は男性的な智の原理、後者は女性的な理の原理に基づくという。両界は表裏一体とし、双方を合わせた「六大」を「両界曼荼羅」と称する。
 金剛界曼荼羅図は、9つの正方形の区分があり、縦2列で描かれている。全体で大日如来による救済と悟りの過程が描写される。最上段右端の大きな円輪内に大日如来が描かれている。そのほかの8つの区分内にも大日如来、菩薩など総計で1461尊が描かれている。
 胎蔵界曼荼羅図は、中央の正方形内の蓮華中に大日如来が描かれる。さらにその外側の四角い枠内に如来、菩薩、明王など総計で400尊が広がる。
◆伽藍 境内は、平安時代の条坊制に基づき、南北に地割されている。境内の位置は平安京造営時そのままといわれている。
 ただ、建物が直線状に並ぶ伽藍配置は、奈良時代以降のものという。現在、真南の南大門の北に金堂、講堂、食堂(じきどう)、北大門と直線上に並んでいる。このうちの金堂、講堂、食堂の三伽藍は、三宝(仏、法、僧<僧伽、そうぎゃ、さんが>)という仏教の3つの宝にそれぞれ出会う場所とされている。
◆建築 おもな現在の伽藍は、1601年建立の南大門(重文)、1603年の金堂(国宝)、1491年の講堂(重文)、食堂、1644年の五重塔(国宝)、1634年の潅頂院(重文)、1380年の御影堂(国宝)、大師堂(国宝)、蓮花門、北大門、慶賀門、北総門、平安時代の山内最古の宝蔵(重文)などがある。
 
「南大門」(重文)は、近代、1868年に焼失し、1895年に蓮華王院(桃山時代)の西門を移築した。慶長年間(1596-1615)建立になる。八脚門としては国内最大になる。切妻造、3間1戸。
 「東大門(不開門)」(重文)は、鎌倉時代、1198年、文覚上人の大勧進によって再建された。室町時代、1336年、南朝方の新田義貞(1301-1338)が東寺に本陣を敷いた足利尊氏(1305-1358)を攻めた。尊氏は門を閉めて難を逃れたという。以来、門は閉ざされ「不開門(あかずのもん)」とも呼ばれる。寺では開けてはならない門と伝えられている。また、新田軍が放った矢の跡が残るという。ただ、室町時代、1423年の大風、江戸時代、1605年の地震で破損して開いたという。江戸時代、1605年に豊臣秀頼が大修理を加えたという。八脚門。高さ8.7m、間口11.6m、奥行き9.7m。
 
「北大門」(重文)は、鎌倉時代前期に再建、江戸時代、1601年に補修された。八脚門。
 「慶賀門(東門)」(重文)は、勅使が使用したとされている。鎌倉時代、1198年に文覚により再建された。二重虹梁、蟇股、天井は組天井。八脚門。切妻造。
 
「蓮華門」(国宝)は、不開の門であり、山内最古の門になる。平安時代末期、1191年、文覚により再建された。鎌倉時代に再建される。空海が高野山に発つ際に、御影堂の不動明王がここまで来て見送ったという伝承がある。不動明王の足跡には蓮華が咲いたという。懸魚は魚の尻尾の形をしている。建物を火災から守るために水に縁のある魚の形をした妻飾りを懸けて火伏のまじないにした。また、水をかけるに通じている。切妻屋根、本瓦葺、八脚門。
 本堂の「金堂」(国宝)は、平安時代、796年に創建された。1486年に焼失する。現在の建物は、江戸時代、1603年に豊臣秀吉により再建された。境内最大の建物で東大寺大仏殿様の様式を受け継ぐ。建物は安土・桃山時代建築、細部に唐、和風の様式も取り入れられている。組物は裳階が挿肘木三手先・中備に平三斗の大仏様、天竺様。本屋に和様・四手先組物。内部外陣は化粧屋根裏、内陣は折上組入天井。内部の組物は和様四手先の大仏様の折衷下は挿肘木の大仏様、天竺様。一重裳階付、採光のために裳階中央を切り上げる。七間五間。入母屋造、本瓦葺。
 「講堂」(重文)は、平安時代、824年-835年に建立された。室町時代、1486年に焼失し、1491年に再建された。安土・桃山時代、1596年、伏見大地震により倒壊している。疎石のみは創建当時のものという。仏教を学ぶ場になる。外陣は棹縁天井、内陣は折上格天井。
 「五重塔」(国宝)は、初代が平安時代、883年に創建された。その後、1055年に焼失、2代目は1086年に再建、鎌倉時代、1270年に焼失、3代目は1293年に再建、室町時代、1563年に焼失、4代目は安土・桃山時代、1594年に再建、江戸時代、1635年に焼失した。江戸時代、1644年に徳川幕府3代将軍・家光により建立され、現在のものは5代目になる。基壇上部から相輪頂部までの高さは55m(57mとも)あり、国内に現存の塔の中で最も高い。五重塔は釈迦の骨を納める舎利塔を意味する。内部は礎石の上に方形の心柱、格狭間入りの須弥壇が設けられている。天井が折上組格天井。壁は極彩色に施されている。礎石の上に立つ心柱そのものが真言密教本尊・大日如来を表す。その周囲に4仏が配される。塔は落雷などによる火災での焼失の記録はあっても、地震による倒壊の記録は残っていないという。4代目の塔は、1596年のマグニチュード7.5の「慶長伏見地震」でも倒壊しなかった。塔は耐震構造になる。各層は、積み上げ構造といわれる軸部、組み物、軒の木材同士の切り組み、単純な釘打ちによる「柔構造」になる。このため、振動は接合部で吸収され、さらに下層上層部は互い違の振動を起こし、ここでも揺れを吸収する。地震、大風による振動が、上下各層が各々左右に交互に動く「スネーク・ダンス」により、力が相殺される。さらに大きな振幅は、心柱が各層の横ずれが過剰になることを防ぐ閂(かんぬき)のような役割を果たしているとみられる。心柱(ヒノキ材)は、江戸時代、1692年に下の部分が50㎝(45㎝)ほど一度切り下げられ、外廻りの柱も20㎝縮められているという。これは、木組み部分し収縮したが、心柱は変わらなかったための処置だった。このため、須弥壇下の心柱の彩色がずれている。軒は各重三手先の和様斗きょう、二重以上高欄付。三間五重塔婆、本瓦葺。
 
「御影堂(みえどう、西院御影堂、大師堂)」(国宝)は、室町時代、1380年に建立され、1390年に増築された。「西院」には、かつて空海が住んだという。鎌倉時代、運慶の子・康勝による国宝の弘法大師像(1233)が安置されている。反対側南面には、空海の持念仏で、空海自作と伝えられ日本では最古の秘仏の不動明王像(国宝)(非公開)が安置されている。高欄、蔀戸。入母屋造、檜皮葺、寝殿造の意匠も残るという。
 「大師堂」(国宝)は、不動明王を安置し不動堂、また御影堂(みえどう、西院御影堂)ともいわれる。室町時代、1380年に建立された。1390年に増築される。「西院」には、かつて空海が住んだという。1395年増築の前堂(西院御影堂、中門)と1380年再建の後堂(不動堂)により、後堂東南を伝法院という。寝殿造の意匠も残る。高欄、蔀戸。桁行7間、梁行4間。一重、入母屋造、棟違屋根、檜皮葺。
 
「大黒堂」は、かつて、御影堂での生身供用の調理を行っていた。祀られている三面大黒天という大黒天(大地の神)は、毘沙門天(北方の守護神)、弁財天(財宝を司る神)、吉祥天の三尊が合体している。三神のご利益を一度に授かることができるという。
 
「食堂(じきどう)」は、平安時代、843年までには建立されていたという。近代、1930年焼失し、1933年(1934年とも)に再建された。かつて、僧侶が食事をとる建物だった。南北朝時代、足利尊氏はここに陣を敷いている。
 
「小子坊」は、かつて西院大師堂の一面にあり、南北朝時代、1336年に北朝第1第・光厳上皇が政務を執った。足利尊氏は、千手堂に移住したという。1934年に再建された。内部には正面「鷲の間」「牡丹の間」、北の「枇杷の間」「瓜の間」、南の「雛鶏の間」「勅使の間」の6室がある。襖絵は現代の画家・堂本印象(1891-1975)による。襖絵48面、壁画2面。「勅使の間」には、金地極彩色画「渓流に鶴」がある。勅使の間では、真言宗最高の秘儀といわれる「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」が行われ、天皇の御衣を入れる唐櫃が置かれている。木曽ヒノキの材による。入母屋造。
 「灌頂院」(重文)は、東寺にしか現存しない。真言堂とも呼ばれ、真言宗寺院で最も重要な堂舎になる。当初は平安時代、843年(844年とも)頃に建立された。843年には、太政官符で実恵に対し、東寺で最初の伝法灌頂が許可されている。鎌倉時代、文覚により修復される。1585年に伏見大地震により損壊した。江戸時代、1634年に徳川家光により改築されている。弘法大師が修行した唐の青竜寺にならい、密教修行の道場として建立された。灌頂道場としては最大になる。内部は前3間が外陣、後ろ4間が内陣、正堂(北部、5間4面、四半瓦敷)と前2間が礼堂(南部、7間2面、板敷)、その間の東西の相の間(1間)からなり双堂(双堂形式)という。なお、平安時代の創建時には、正堂、礼堂は別棟だったとみられている。正堂内東に胎蔵界、西に金剛界の両界曼荼羅が掲げられる。壁に金剛薩埵菩薩、真言八祖像、両界の大日如来の種字がある。7間7間。一重、寄棟造、本瓦葺。閼伽井がある。非公開。
 
灌頂院の築地塀に「東門」(重文)の柱の角は面取の古式になる。北門(重文)がある。
 灌頂院の築地塀に「北門」(重文)、「東門」(重文)がある。東門蟇股、斗の下左右に雫状の彫り込みが見られ、これは唐招提寺金堂の巻き込み部の影響がある。江戸時代初期の「灌頂院門」に梅鉢懸魚がある。
 「蓮華門」(国宝)は山内最古の門であり、宝蔵に次いで古い。不開の門。平安時代末期、1191年、文覚により再建された。空海が高野山に発つ際に、御影堂の不動明王がここまで来て見送ったという伝承がある。不動明王の足跡には蓮華が咲いたという。懸魚は魚の尻尾の形をしており、建物を火災から守るために水に縁のある魚の形をした妻飾りを懸けて火伏のまじないとした。また、水をかけるに通じている。鎌倉時代再建。三間一戸、切妻屋根、本瓦葺、八脚門。
 
築地塀に「北門」(重文)、「東門」(重文)がある。
 「宝蔵」(重文)は、東寺最古の建築物とみられている。平安時代後期に建立され、平安時代の1000年、1127年に火災があり、その後、移築されたともみられている。創建時には、南北2棟あり、宝物を収蔵していた。現存するのは南棟になる。屋根瓦は創建当時の唐草瓦による。南面に二重の板扉、床は拭板敷。校倉(あぜくら)造倉庫。3間3間、寄棟造。
 「毘沙門堂」は、入母屋造、銅板葺。平安京の羅城門の二階に祀られていた兜跋毘沙門天(国宝)を安置するために、江戸時代、1823年に建てられた。
 
「夜叉神堂」は、食堂の南にある。もとは南大門の左右に祀られていた。堂に参らずに通り過ぎると罰に当たるといわれた。その後、金堂前の中門に遷された。1486年、土一揆で南門焼失し、その後、現在地に遷された。西(左)に雌の夜叉、東に雄の夜叉を祀る。歯痛平癒の信仰を集める。堂前の雨だれに白豆を埋めて祈る。成就すればお礼に割飴を供える。
 「大日堂」は、2000年に再建された。かつては、江戸時代、1697年に御影堂の礼拝堂として建立された。近代以降、第50代・桓武天皇の尊牌堂となる。その後、役行者作という胎蔵界の大日如来坐像が安置された。
 「毘沙門堂」は、平安京の羅城門の二階に祀られていた兜跋毘沙門天(国宝)を安置するために、江戸時代、1823年に建てられた。現在は、1994年に新造された毘沙門天像が安置されている。脇侍は不動明王像、愛染明王像。毘沙門天像は京都の都七福神(毘沙門天)のひとつ。入母屋造、銅板葺。
 堂横の「天降石(撫石)」は、天より降りた石とされる。石を撫で体の悪い部分を擦ると病が治るという。
 
「弁天堂」は、北大門の北東にある。弁財天を祀る。江戸時代、天保年間(1830-1843)に創建された。かつて毎年土用丑の日に、轉読大般若の御法楽が捧げられていた。「東寺泥」という池の泥(現在の亀池、蓮池)を授けていた。泥を皮膚に塗ると、冬に霜やけにならないとされた。
 
「太元堂」は、北大門の北東にある。1929年に現在地に遷された。現在の神泉殿の本堂は、旧利生殿になる。太元帥明王を安置する。かつて利生殿に祀られていた。
 「鐘楼」は、室町時代、1348年に完成した。寺の開門を告げる梵鐘は、足利尊氏寄進といわれている。現在の物は複製になる。
 八嶋社は稲荷神を祀る。
◆文化財 国宝、重文は80件、2万5000件、未指定文化財は5万点といわれている。
 「三筆」のひとり空海真筆の名品といわれる平安時代(9世紀)の紙本墨書「風信帖(弘法大師筆尺牘<せきとく、漢文の書状>)」(尺牘三通)(国宝)(28.8×157.9㎝)は空海が最澄に宛てた書状だった。草書体で3通あり、810年代初頭に差し出されたとみられている。延暦寺に伝えられ、後に東寺に寄進された。1通目は「風信雲書、天より翔臨す。これを披き、これを閲するに、雲霧を掲ぐるが如し(風に運ばれ雲に乗じ便りが届いた。拝読すると疑問が解け、雲、霧が晴れるようです)」で始まる。最澄の手紙と贈り物に謝礼を述べ、比叡山よりの下山を望む。
 ほかに、空海が公卿・歌人の藤原冬嗣より書状を受けたこと、会見を約束した「忽披帖」、比叡山を訪れることを告げた「忽恵帖」(国宝)があり日本最高峰とされている。
 「弘法大師遺告(ゆいごう)」(国宝)は、空海が亡くなるに際して、弟子たちに真言宗の行く末を示した。
 最澄筆「弘法大師請来目録」(国宝)、観智院で発見された『東宝記』(国宝)は、創建以来の600年の東寺の歴史が記されている。
 現存最古(9世紀)の彩色曼荼羅、絹本著色「両界曼荼羅図(西院曼荼羅/西院本両界曼荼羅)」(国宝)。
 平安時代、1127年の絹本著色「五大尊像」(国宝)5幅は、宮中での「後七日御修法」で掛けられた仏画になる。五大尊像が揃ったものとしては最古になる。153×128cm。
 平安時代、1191年の絹本著色「十二天屏風(十二天像)」六曲屏風一双(国宝)は、長者・俊証僧正が宅間勝賀に描かせたものという。仁和寺守覚法親王による梵字とされ、立像で描かれる異例の作になる。伝法潅頂の際に使われた。130.2×42.1cm。
 平安時代、1127年作の絹本著色「十二天画像(屏風)」(国宝)は、長者・勝覚が威儀師覚仁に命じ、小野経蔵の弘法大師筆とされる像を模写したものという。方位の神であり、平安時代以降の密教では四方に加え、四維、上下、日月をまとめ12の守護神とした。風天(西北)、水天(西)、羅刹天(西南)、閻魔天(南)、火天(東南)、帝釈天(東)、伊舎那天(東北)、毘沙門天(北)、梵天(上)、地天(下)、月天、日天になる。144.2cm×126.6cm。京都国立博物館所蔵。
 唐時代、9世紀の「けん陀穀糸袈裟(綴織七条袈裟)」(国宝)は、恵果料・空海相伝、絹、116.8×237cm。京都国立博物館寄託。
 鎌倉時代、1313年に施入れされた「弘法大師像(談義本尊)」(重文)には後宇多法皇の賛が入る。
 唐代(平安時代)の絹本著色「真言七祖像」7幅(国宝)は、真言宗の祖師7人の肖像画で、5幅は空海が李真に描かせ持ち帰った。空海は賛と行状文を書いた。梵名、法名は飛白体による。
 唐時代の僧、恵果の師の絹本著色「不空像」(国宝)、インド僧の絹本著色「龍智像」(国宝)など。
 平安時代の「海賦蒔絵袈裟箱」(国宝)、鎌倉時代の「紫檀塗螺鈿金銅装舎利輦」(国宝)、「横被」(国宝)、「五重小塔」(重文)は、鎌倉時代、1240年に宣陽門院寄進による。南北朝時代の「弘法大師行状絵詞」全12巻(重文)。
 小子坊6間は、堂本印象(1891-1975)の障壁画で飾られている。
 唐時代(8世紀)の銅製鍍金「密教法具」(国宝)の五鈷鈴、五鈷杵、金剛盤は、恵果が帰国する空海に贈ったものとされ、かつて、後七日御修法で使われていた。
 平安時代前期(9世紀)の「天蓋」(国宝)は、八葉蓮華、外縁吹き返し蓮弁に宝相華文などがある。西院御影堂、不動明王像上に飾られていた。
 羅城門遺構といわれる三彩の鬼瓦も、東寺所蔵(京都国立博物館展示)になっている。東寺宝蔵の床板(長さ5.6m、幅2m、厚さ7.5m)は、羅城門扉の転用とされる。
 画軸「稲荷大明神」は、かつて当寺とゆかり深い伏見稲荷大社の本願所、愛染寺にあったものという。ダキニ天、亀頭の聖天、弁財天の合体尊であり、三天和合尊を描いている。三面十二臂像であり、白狐に乗る。
◆東寺百合文書 奈良時代-江戸時代の多分野に渉る古文書『東寺百合(ひゃくごう)文書』(国宝)(京都府立総合資料館所蔵)は、国内最大数の2万5000点に及ぶ。法会、寺領の各機関、各荘園内文書、1297年の永仁の徳政令文書全文などが揃う。『東寺百合文書』は、1980年に重文指定、1995年、国宝に指定された。2015年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は「世界記憶遺産」に登録した。
 江戸時代、1685年、加賀藩5代藩主・松雲公・前田綱紀(つなのり)は、使者を遣わし東寺の古文書の目録、文書の模写を行う。1697年、前田は百の桐箱(国宝)を寺に寄進し、宝蔵に納められた。文書はわずか半日で、整理選別を行わずに箱に入れられた。「百合」の「合」は数詞であり、百合(100個)の桐箱」の意味になる。
 1967年、京都府立総合資料館は東寺より文書はを購入し、その後、整理修理作業が続けられてきた。現在、桐製箪笥92棹に収蔵されている。この間に、図書、マイクロフィルム、デシタル化事業が進められた。
◆鎮守社 「八島神社(八島殿)」の祭神は、東寺の地主神とも、大己貴神(おおなむちのみこと)ともいう。八島社は、大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)に由来する。東寺の創建以前よりこの地に祀られていた。空海は、東寺の伽藍建立に先立ち、この神へ祈願したという。
 「鎮守八幡宮」は、平安時代、810年、平城太上天皇の変(薬子の変)後、嵯峨天皇と空海の相談により宇佐八幡宮が勧請されたという。(『東宝記』)。空海が彫ったともいう日本最古の神像・僧形八幡像、女神像が安置されている。奈良時代、777年、宇佐八幡神が僧となり、仏法僧に帰依したという神仏習合の伝承に基づいている。足利尊氏も戦勝祈願に訪れたという。1992年に再建された。
◆文学 東寺にまつわる説話も多い。平安時代の『三宝絵詞』『栄花物語』、『今昔物語集』、鎌倉時代『古今著聞集』に、源仲兼を襲う妖怪の話。室町時代の謡曲『羅生門』に渡辺綱の鬼退治。『御伽草子』では、和泉式部が寺の門前に子を捨てる『小式部』、『弥兵衛鼠』は、塔に暮らす白鼠の話。
◆東寺と伏見稲荷 東寺と伏見稲荷大社(伏見区)には深い関係があり、様々な伝承がある。
 平安時代、812年、空海は、紀州田辺で異僧(稲荷神の化身)と出遭う。翁は子女を連れ、稲を荷い杉の葉を持って、東寺の南大門を訪れた。空海は老翁に仏法を授け、一行は東寺近く、二階堂の柴守の家(伏見稲荷大社御旅所)に泊まる。823年、空海は稲荷社を当寺の鎮守社とし、稲荷山に鎮座させたという。(『稲荷大明神流記』)。以来、稲荷神は東寺の護法善神とされた。なお、『山城国風土記』逸文には、711年に稲荷社が創祀されたという。
 826年、東寺の五重塔建立の際に、材として東山(稲荷社地近くの東寺杣山とも)の木材24本が伐り出された。稲荷社のご神木も誤って伐採したため、償いとして東寺は稲荷社に位田を与えた。また、第53代・淳和天皇の体調がすぐれないのは、この時、稲荷社の大木を多数伐採したためとされた。朝廷は、勅使を派遣し、稲荷明神に従五位上を授け、平癒の祈祷が行われたという。(『東宝記』『類聚国記』)
 伏見稲荷大社の稲荷祭(5月3日)では、5基の神輿の練る祭列が、東寺の慶賀門で僧侶による饗応を受ける。これは、空海と稲荷神の逸話に由来する。江戸時代には、祭列は南門より入り、金堂前で供物供献、僧による御幣奉献が行われていた。祭礼は、神仏混交期の名残であり、稲荷信仰と真言密教の密接な関係を示している。境内には稲荷神を祀る八嶋社が祀られている。
◆庭園 創建当初から庭園はない。ただ、境内にはクス、ケヤキ、エノキ、イチョウの巨木が多い。講堂東に瓢箪池が造られ、五重塔を借景として、八重紅枝垂桜などサクラも多い。また、ツツジ、モミジ、フジ、ハスなどが植えられている。宝蔵周辺の濠にもハスがある。
 小子坊には7代目・小川治兵衛(1860-1933)作庭の庭園がある。
◆井戸 灌頂院内に井戸「閼伽井(あかい)」がある。井戸は、八坂神社の竜穴、神泉苑とも地下で通じているという。いずれも龍脈にあるという。閼伽井には、神泉苑と同様に善女龍王が祀られている。
 御影供の日(4月21日)には、朱の絵馬「朱馬」3枚が軒に並べで掲げられる。空海が行ったという絵馬占いの故事に因むという。絵馬は前日に、水中より自然に浮かび上がるといわれた。現在は、大僧正が読経のもとで一気に書き上げる。絵馬の出来により3年分(右よりは一昨年、中央は本年、左よりは昨年)の吉凶を占う。朱馬を見た者は、邪気払いになり、金運、家運、勝負運も招くという。
◆濠遺構 室町時代-安土・桃山時代、15世紀から16世紀にかけ、土一揆、討伐軍双方に度々境内を占拠された。1486年には伽藍の多くを焼失している。そのため、東寺、子院、商売人の敷地を囲む大規模な総寺之東構、また濠、柵、櫓、木戸などが構築されていた。現存する濠は境内東、南、北大路門両側に残されている。西側も、2001年の発掘調査により確認された。
◆距離原標 東寺は平安京の南端に位置し、境内西には南北の通りである朱雀大路(道幅80m)が通じていた。東寺より道は南下し、鳥羽の作り道として、鳥羽離宮まで通じ、さらに南西に向かい久我縄手に通じていた。
 平安京の正門である羅城門は、平安時代、980年に大風で倒壊し、以来存在しなかった。その後は、東寺南大門が平安京の正門の役割を担った。また、各所に立てられていた「辻の碑」といわれる距離原標には、「従東寺○里」というように、東寺からの距離が換算され示されていた。
◆不思議 東寺、塔頭に周辺に不思議が伝わる。
 「大仏殿写しの金堂」は、金堂が大仏殿の建物を写したもので、正面の屋根が切れている。/「蓮華門」は、不動明王が蓮華座に立ったために呼ばれた。江戸時代には、非倫理的な僧を深夜に、番傘1本を持たせて放逐していた。/「猫の曲り」とは、境内東南角隅の築地に瓦製の白虎の留蓋があり、猫のように見えたことから呼ばれた。猫は魔物とされ、藪地には捨て猫も多く、追剥も出たので魔所、不浄の地とされた。婚礼に関したことは付近を通るのを避けた。1868年に瓦は除かれた。/「逆さ塔」とは、五重塔の東にあった大工の家の節穴から、塔が逆さに映し出されて名物になった。/「竜火」は、諒闇(りょうあん、天皇が父母没後に喪に服する期間)に、五重塔の竜頭が灯ったという。/「蓮池」は、境内東にある。安政の大地震の際に五重塔が傾き、池を掘って安定させた。/「矢の根門」は、足利尊氏直義兄弟が門で新田勢と戦った。/「北面大師」は、御影堂の北向であり、ここに空海が住した。椅子に座る大師像を安置する。/「独鈷松」は、御影堂の近くにあり、空海が唐・青龍寺より三鈷を投げ、この地の松に引っかかったという。/「白蛇」は、境内に棲んだという。/「枕返し」は蓮池の東に寺があり、一室に寝ると起きた現象という。/「文覚の校倉」は、文覚が修理したという。石川五右衛門が中の宝物を盗もうとして果たせなかった。/「灌頂院の井戸」は別項参照。/「細長い大師の像」は、灌頂院の後七日の御修法の際に、家中所蔵の細長く書かれた画像を借りて掲げるものという。/「北向地蔵」は、食堂北面にあり、仏画の宝船の版木をを刷り節分に出した、厄ツコ祓いの文句があった。
 「土用入りの泥」は、灌頂院の南にある蓮池の泥を、7月土用入の日に足に付けると脚気、足の病に効くといわれた。/「宮本武蔵の抜け穴」は、観智院に宮本武蔵が住み、抜け穴を造ったという。/「猫間の戸」は、観智院の書院南の廊下、東南両端にあった板戸をいう。/「変わった障子」は、観智院に3枚の障子を立てた。
 ほかに、不開の門、胞衣の不動さん、歯痛の神様など。
◆尊勝陀羅尼碑 毘沙門堂の西に「仏頂尊勝陀羅尼」碑が立つ。北に厄災を除く呪文が放射状に梵字で彫られている。左右に幕末の画家・冷泉為恭(1823-1864)による雲龍図が描かれている。比叡山延暦寺の僧で千日回峰行を行った願海(1823-1873)は、当初、1853年に北野天満宮境内に碑を建立した。近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により東寺に移された。台座の亀の像(亀趺)を撫でて患部を触ると病平癒するという。
◆四国八十八箇所近代以前には四国八十八箇所の巡礼の前に、「京都三弘法まいり」が行われていた。弘法大師空海ゆかりの京都三弘法の東寺御影堂、仁和寺、神光院を、弘法さんの縁日(毎月21日)に巡礼する。江戸時代中期に始まった。四国八十八箇所霊場に詣る際にも、道中無事祈願のために、まず東寺で菅笠、仁和寺で金剛杖、神光寺で納札箱をそれぞれ求め、四国へ旅立った。お礼参りのためにも巡った。1868年の神仏分離令後廃絶したが、2012年に復活した。
◆京都十三仏霊場めぐり 大日如来(十三回忌)は京都十三仏霊場めぐりの第12番札所になっている。室町時代、8代将軍・足利義政が歴代将軍の供養を十三仏に祈願したことから始まったという。また、貴族にはそれ以前よりの信仰があったともいう。十三仏とは中陰法要、年忌法要の際の十三体の仏・菩薩をいう。中陰法要は、葬儀後、初七日の不動明王、二十七日の釈迦如来、三十七日の文殊菩薩、四十七日の普賢菩薩、五十七日の地蔵菩薩、六十七日の弥勒菩薩、七十七日の薬師如来とあり、これらを終えた満中陰により新たな生を受け、続いて百日の観音菩薩、一周忌の勢至菩薩、三回忌の阿弥陀如来、七回忌の阿閦如来、十三回忌の大日如来、三十三回忌の虚空蔵菩薩と追善法要が続く。
◆都七福神まいり 室町時代、京都では民間信仰として七福神信仰が始まったとされ、都七福神は最も古い歴史がある。恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、寿老人、福禄寿の七神の信仰があり、その後、各地に広まったという。
 現在の都七福神は、京都恵比須神社の恵比須神、松ヶ崎大黒天妙圓寺の大黒天、六波羅蜜寺の弁財天、東寺の毘沙門天、萬福寺の布袋尊、赤山禅院の福禄寿、革堂(行願寺)の寿老人になっている。福がもたらされるという正月の参詣と毎月7日の縁日がある。
◆京の七口 「京の七口」の一つ東寺口は、南に開き、西国街道に通じた。現在の南区唐橋大宮尻町付近に開けられていた。鳥羽、小枝橋、淀、橋本と下る。中世には京都攻略の戦略地になった。近世には河内、摂津、播磨へ向った。9つもの道筋があったともいう。
 「京の七口」について「七口」とは定まらず「十口」ともいう。実際にはそれら以外の複数の間道もあったという。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉の御土居築造の際に七口は、「粟田口(東)、東寺口(坤)、丹波口(西)、清蔵口(北)、鞍馬口(艮)、大原口(北)、荒神口(東)」とされた。
 江戸時代には、「山陽道(摂津道)東寺口、東海道(伊賀伊勢道)五条橋口、西海道(九州道)四条大宮口、南海道(紀州道)竹田口、東山道(近江道)三条橋口、北陸道(若狭道)大原口、山陰道(丹波道)清蔵口」の呼称があった。また「鳥羽口、伏見口、丹波口、粟田口、八瀬口、若狭口、長坂口」、「東寺口、竹田口、五条橋口、大原口、三条橋口、千本口、七条口」ともされた。
◆茶屋 室町時代、東寺の南大門前に、茶売商人が茶を提供して商いをしていたという。茶屋(喫茶店)の原形になるとされる。室町時代、1403年の「東寺百合文書」に記されている。
 「一服一銭(銭は抹茶の分量の単位)」と呼ばれ、縁日に茶道具で抹茶を点て、1杯1文で売り大儲けしたという。
◆映画 時代劇映画「鞍馬天狗 角兵衛獅子」(監督・大曽根辰夫、1951年、松竹京都)の撮影が境内で行われた。鞍馬天狗(嵐寛寿郎)は近藤勇(月形龍之介)と決闘する。
◆名物 東門近くにある「東寺餅」(南区東寺東門上ル)は、近代、1912年の創業になる。求肥でこし餡を包む。亥の子餅は、餅皮にニッキを含む。旧暦10月亥日亥刻に食すると病除け、子孫繁栄になると伝えられている。
◆東寺蕪 かつて東寺付近の農家で「東寺蕪」が栽培されていた。慶長年間(1596-1615)、近江で栽培されていた近江蕪の系統ともいう。葉は薄緑色、根は平たく、肉質は緻密だったという。千枚漬に用いられた。昭和50年代(1975-1984)に絶滅している。
◆樹木 弁財天近くにクスノキ、南大門手前九条通にクロガネモチ、金堂近くにケヤキ、小子房庭園・奥の院遥拝所にコウヤマキ、八嶋社近くにサカキ、モッコク、ほかにシダレザクラ、ベニシダレザクラ、大師堂近くにツクバネガシがある。
◆宿坊 宿坊旅館「洛南会館」に宿泊できる。 075-691-3101
◆主な行事 最も重要で最大の儀礼は、灌頂院(かんじょういん)で、新年に行われる「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」(1月8日-14日)が執り行われる。「玉体安泰、国家安泰、五穀豊穣」などを祈る。かつて宮中の真言院で行われ、東寺の長者により、天皇の体に直接加持していた。近代、1883年以降は灌頂院で行われ、いまは天皇の御衣を迎えて儀式が始められる。
 皇女・宣陽門院の1243年に見たという霊夢以後、空海に生前と同じく朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)の儀式が始まった。今日なお、毎日早朝6時から西院(御影堂)で行われている。
 宣陽門院により創始された、毎月21日、空海の命日に行われる法会「御影供の日」がある。この日には、境内に骨董市が立ち、「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。特に、師走の風物詩「終い弘法」(12月21日)は最も賑わう。
◆年間行事 大般若供(1月1日)、修正会(1月3日)、八幡神護摩供・五重塔公開・骨董市(1月1日-4日)、後七日御修会(みしほ)(1月8日-14日)、初弘法講堂修正会(1月21日)、節分会(2月3日)、涅槃会(2月15日)、鎮守八幡菩薩会・春のお火焚き法要(3月15日)、宝物館・観智院春の特別公開(3月20日-5月25日)、献米法要(4月第2月曜日)、正御影供(4月21日)、五重塔特別公開(4月29日-5月25日)、稲荷還幸祭(5月3日)、弘法大師降誕会(6月15日)、精霊会(8月12日)、盂蘭盆会(8月13日-15日)、万灯会(8月15日)、宝物館・観智院・秋の特別公開(9月20日-11月25日)、鎮守八幡菩薩会・秋のお火焚き法要(11月15日)、終い弘法(12月21日)。
 御影堂で毎朝6時より生身供みえいく、(一の膳、二の膳、お茶)が行われている。鎌倉時代以来続けられている。
 大般若供(毎月1日)、布薩会(4、5、7、9、10、12月の15日)、都七福神めぐりの縁日(毎月7日)。お逮夜(毎月20日)、御影会(弘法市)・八幡神護摩供(食堂でお砂踏み。この時、厨子内の弘法大師坐像が開扉されている。)(毎月21日)、京都三弘法まいりの縁日(毎月21日)。骨董市(毎月第一日曜日)。


*拝観の順路の案内は南大門より入り北上し、講堂・金堂・五重塔から大師堂周辺、食堂周辺、小子坊周辺としました。
*建物内は大部分が撮影禁止。
*年間行事は変更中止の可能性があります。非公開の建物などもあります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『旧版 古寺巡礼京都 1 東寺』『古寺巡礼 京都 1 東寺』『日本の古代遺跡28京都Ⅱ』『拝観の手引』『伏見の歴史と文化』『仏像』『京都・山城寺院神社大事典』『京都・世界遺産手帳 11 東寺』『京都府の歴史散歩 中』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『社寺』『京都市文化財ブックス28集 平安京』『京都の仏像』『古都の美をめぐる』『京都の仏像 入門』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『絶対に訪ねたい!京都の仏像』『歴史のなかの宗教 日本の寺院』『国宝への旅 1』『史跡探訪 京の七口』『洛中洛外』『京都まちかど遺産めぐり』『京都はじまり物語』『京都で日本美術をみる』『京の寺 不思議見聞録』『京都の寺社505を歩く 下』『新選組大事典』『新選組と幕末の京都』『平成28年第52回 京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』『世界遺産のツボを歩く』「東寺百合文書展 文書の解説」『京都の地名検証 3』『お稲荷さんの起源と信仰のすべて 稲荷大神』『京都 神社と寺院の森』『京の福神めぐり』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『こころ美しく京のお寺で修行体験』『京の福神めぐり』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 仏教新発見 9 東寺』『週刊 古寺を巡る 3 東寺』『週刊 京都を歩く 7東寺周辺』『週刊 古社名刹巡拝の旅 26 吉田山と白川』『週刊 日本の仏像第4号 東寺[1] 不動明王と立体曼荼羅』『週刊 日本の仏像第33号 東寺[2]兜跋毘沙門天と宝物館の至宝』
 


   観智院〔東寺〕     宝菩提院〔東寺〕     西寺址     羅生門跡     石上神社     伏見稲荷大社御旅所         神泉苑     三十三間堂(蓮華王院)      西福寺・綜芸種智院跡     八坂神社     神護寺     鞍馬寺     乙訓寺(長岡京市)     柳谷観音(楊谷寺)(長岡京市)     伏見稲荷大社      恵比須神社     松ヶ崎大黒天妙圓寺     六波羅蜜寺     萬福寺      赤山禅院     革堂(行願寺)     雨宝院(西陣聖天)         

聖観音・柳谷観音
聖観音像は戦時中に金属供出となり、1951年に復元された。観音像は柳谷観音の分身で、勧請された。

宝蔵(重文)

宝蔵

宝蔵

宝蔵手前の蓮池、石橋に蛙石が置かれ、3匹の蛙が刻まれている。

北大門(重文)

弁天堂、北大門の北東にある。

太元堂、北大門の北東
小子坊(こしぼう)

本坊の勅使門、書院、客殿、小子坊などがある。

事務所(左)と庫裏

本坊

本坊

小子坊

勅使門、本坊からの眺め。

勅使門

小子坊の前庭、左の門は勅使門

小子坊北西の蓮華門(国宝)と7代目・小川治兵衛(1860-1933)作庭の庭園。

小子坊西の庭園
灌頂院

灌頂院、東門(重文)



灌頂院(重文)




灌頂院、1883年より、灌頂(伝法灌頂、密教の奥義を弟子へ伝える儀式)や修法、「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」(1月8日-14日)も行われている。


山門



北大門(重文)

蓮華門(国宝)

東大門(不開門)(重文)

西門


穴門

慶賀門(東門)(重文)
自然




境内にはクスノキなどの巨木が植えられている。

小野道風ゆかりの柳 歌舞伎「小野道風青柳硯 柳ヶ池蛙飛の場」より。
祭事

終い弘法、1200軒という市がたつ。

石上神社、東寺執行職(しぎょうしょく)を世襲した、空海の母方の実家・阿刀氏が奉祀する。

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東寺グーグルマッブ・ストリートビュー  平安京オーバレイマップ
map 東寺 〒601-8473 京都市南区九条町  075-691-3325  8:30-17:30(9月20日-3月19日、8:30-16:30)

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