上加茂民芸協団 旧地 (京都市北区)
Kamigamo-mingei-kyodan
上加茂民芸協団 旧地 上加茂民芸協団 旧地 
50音索引  Home 50音索引  Home
上加茂民芸協団が設立された付近の家並


付近を流れる明神川


付近の旧社家町


上加茂民芸協団の「井」印
 旧上賀茂神社の社家町にほど近い地に、日本初の民芸運動の実践団体「上加茂民芸協団(上加茂民藝協團)」が設立された。だが、協団はわずか2年余りで解散する。 
 いまは、敷地を囲んでいた旧社家の土塀などが残る。
◆歴史年表 江戸時代、1770年、座田(さいだ、斎田?)家が現在地に描かれている。(「上賀茂絵図」)
 1855年、座田家により現在の土蔵(天下一品敷地内)が建てられる。
 近代、1924年、思想家・柳宗悦が関東大震災を機に京都に移り住む。
 1925年、柳、陶芸家・河井寛次郎、陶芸家・濱田庄司らは「民芸(民藝、民衆的工芸)」を造語した。
 1926年、柳、河井、濱田、陶芸家・富本憲吉により「日本民藝美術館設立趣意書」が発表され民芸運動が始まる。
 1927年、3月、柳は上賀茂旧社家(斎田家)に「上加茂民芸協団」を発足させた。発起人は染色・青田五良、木工・黒田辰秋、金工・青田七良、染織・鈴木実の4人であり共同生活し、制作活動を行う。
 1928年、3月、東京・上野公園で催された「御大礼記念国産振興博覧会」に、柳らは「民藝館」を出品する。上加茂民芸協団からは青田、鈴木、黒田が出品した。
 1929年、3月、京都大毎会館で「日本民藝品展覧会」が催される。6月、京都大毎会館で民芸協団としは最初で最後になる「民藝協團作品第一回展覧会」が開催され、好評を博した。秋、上加茂民芸協団は解散した。
 1933年、柳は京都を去り、東京に移った。
◆座田司氏 近代の神主・座田司氏(さいだ もりうじ、1885-1967)。社家出身最後の上賀茂神社宮司、鎌倉鶴岡八幡宮宮司。書道賀茂流の伝承者。著『賀茂社祭神考』。
◆柳宗悦 近現代の思想家・柳宗悦(やなぎ むねよし、1889-1961)。美学者、宗教哲学者。父は海軍少将・和算家の柳楢悦、母は勝子(嘉納治五郎の姉)の三男。1910年、学習院卒業。東京帝国大学文化大学哲学科入学。志賀直哉、武者小路実篤らと文芸雑誌『白樺』創刊に参加。この頃、英国人陶芸家・バーナード・リーチを知る。1913年、東大卒業。リーチにより、イギリス・ロマン主義期の神秘的宗教詩人・画家のウィリアム・ブレイクを知り傾倒する。1914年、声楽家・中島兼子と結婚、千葉県我孫子へ転居。濱田庄司を知る。韓国の小学校教師・浅川伯教の手土産の朝鮮陶磁器に魅了された。1916年以降、朝鮮へ度々渡る。1919年、『朝鮮人を想ふ』を発表。1921年、日本初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催。1924年、ソウルに「朝鮮民族美術館」を開設(1945年閉館)。甲府で木喰仏を発見し、その美を見出した。関東大震災(1923)を機に京都へ転居(左京区吉田下大路町)した。濱田の仲介により反目していた河井寛次郎と親交した。木喰仏が二人の仲を取り持つ。1925年、神楽岡(左京区吉田神楽岡町)に移る。1925年、同志社女学校専門部英文科教授に就任。同志社の湯浅八郎、村岡景夫、西邨辰三郎らを知る。1926年、柳、河井、濱田、富本により「日本民藝美術館設立趣意書」を発表。1928年、東京・上野公園の「御大礼記念国産振興博覧会」で設計企画した「民芸館」を出品、『工藝の道』を刊行する。1929年、同志社女学校専門部英文科教授を辞する。1929-1930年、ハーヴァード大学より講師に招かれ、欧州を経て米国滞在した。この間に、柳家は左京区下鴨膳部町に転居する。1931年-1951年、『工藝』(柳、河井、濱田、富本、青山二郎、石丸重治)創刊。1931年、浜松に「日本民藝美術館」を開館する。1933年、京都を離れ東京に移る。1934年、「日本民藝協会」が発足し会長就任。1936年、実業家・大原孫三郎の支援により「日本民藝館」(東京都目黒区)を開館、会長に就任する。1957年、文化功労者、1960年、朝日文化賞を受賞。
 美の本性に触れるには「直観」が不可欠であるとし、宗教哲学と美術の融合を説く。晩年は、仏教の他力本願に基づく仏教美学を提唱した。
◆青田五良 近代の染織家・青田五良(あおた ごろう、1898-1935)。神戸市生まれ。松岡家の5男。10代の頃、大阪の古着屋に丁稚奉公した。1918年、同志社中学卒業、同志社大学予科入学。1921年、同志社大学法学部経済学科入学。1923年、同志社中学北寮寮長として住み込む。丹波下黒田村で農婦より機織を学ぶ。1924年、同志社中学の教諭。河井寛次郎、柳宗悦を知る。1926年、結婚し、青田姓を名乗る。娯楽本『漫画雑誌』同人として投稿した。1927年、黒田辰秋らと上加茂民芸協団を設立し、将来を嘱望され運営を荷う。1929年、上加茂民芸協団解散後、1930年、同志社中学の教諭に復職。単独で「上加茂織工房」を設立した。1933年、病により退職。1934年、『颯々紬』『上加茂織の概念』を著す。亡くなる時まで河井は面倒をみたという。
◆黒田辰秋 近現代の漆芸家・木工家・黒田辰秋(くろだ たつあき、1904-1982)。父は京都祇園の漆師屋(ぬしや)・黒田亀吉、母・まつの六男。1919年、京都第2高等小学校卒後、蒔絵師・瀬川嘯流に師事、その後、独学で木工芸に専念する。1924年、陶芸家・河井寛次郎、楠部弥弌を知り、民芸運動に加わる。1926年、「日本民藝美術館設立趣意書」の表題を彫る。1927年、上加茂民芸協団を組織、団長格となる。1929年、上加茂民芸協団の解散後は、心身の疲弊により一時休養する。1933年、河井らの推薦により札幌郊外琴似工業試験場内に木工部を設立し指導した。1934年、結婚。1935年、志賀直哉の推薦により大阪で初の個展を開く。1939年より2年、朽木谷で轆轤挽学ぶ。1944年、中国吉林郊外に陶磁器制作指導のために渡る。1954年、日本工芸会近畿支部創設に加わり理事就任。1960年、大阪で工芸5人展(黒田、濱田、河井、棟方、芹澤)に出品する。1964年、伝統工芸展出展「拭漆欅飾棚」が京都国立博物館買上になる。映画の黒澤明監督の依頼により御殿場山荘の「楢家具セット」を制作する。1970年、志賀直哉、武者小路実篤らの支持を得て東京で個展。1968年、皇居新宮殿の拭漆樟大飾棚、扉飾、椅子、卓を制作した。1970年、重要無形文化財「木工芸」保持者(人間国宝)認定。1971年、紫綬褒章を受章。
 作品は素地作りからの一貫制作であり彫刻的な曲面造形を特徴とし、指物、刳物、拭漆、溜塗、朱漆、耀貝、乾漆などの技法を駆使した。意匠には柳の指導があった。朝鮮の木工、西欧の建築、家具の意匠も参考にした。進々堂の「拭漆楢テーブルセット」、1931年の鍵善良房の飾り棚、室内装飾も手がけた。
◆鈴木実 近現代の染織助手・鈴木実(1905-1984)。北海道小樽生まれ。ウラジオストクで入江俊二に見出される。同志社中学に入学。寮監・青田五良を知る。同志社大学法学部に進む。1927年青田に誘われ上加茂民芸協団に参加。家庭教師をして給料を協団に入れる。家事全般、畑仕事、青田の染色を支えた。1929年、協団解散後、同志社大学卒業し日本麦酒鉱泉入社。
◆青田七良 近現代の金工・青田七良(生没年不詳)。青田五良の弟。1927年、上加茂民芸協団に参加。黒田辰秋の木工、金具の銀象嵌を手がける。
◆上賀茂民藝協團 1924年、柳宗悦が関東大震災を機に京都に移住した。柳、河井寛次郎、濱田庄司らは交流し、1925年、「民芸(民藝)」を造語する。1926年、「日本民藝美術館設立趣意書」により民芸運動が始動した。1927年、柳は「工人銘」「工芸の協団に関する一提案」を書く。工人には古の工人の「無心の美」に至るために、美を生む修行(自力道)、帰依(他力道)、協団(相愛道)を求めた。同年、上加茂民芸協団が結成される。
 協団の源流には、イギリス人の詩人、デザイナーのウィリアム・モリス(1834-1896)の「機械の悪」論がある。産業革命により手工芸は衰退したとして、再度、生活の中に美術工芸品を取り入れることを主張した。モリスは、来日していたイギリス人陶芸家・画家のバーナード・リーチ(1887-1979)、イギリス留学した陶芸家・富本憲吉により紹介され、柳、濱田も影響を受けた。柳は、アーサー・J・ペンティ(1875-1937)のギルド社会主義に最も共感した。ペンティは、手工業的ギルドの復活を最初に提唱し、現代の労働者に求めた。ペンティは、地方規模のギルド、無制限な機械生産の否定、ギルドの理念重視、経済と道徳の一致、美と平和の結合などを唱えた。
 柳は、ペンティのいう価格統制ではなく、美の統制による経済との一致、キリスト教ではなく仏教と美の連関、仏教美学の確立を視野に入れた。柳は、近代以降に優れた民芸品が失われたのは、近代化により旧来のギルド組織(集団)が崩壊したことがあるとした。民芸品復興には、新たに「工芸村」を起こし、工人の共同生活、共同作業による手仕事を復活させること、民芸品の収集展示のための民芸美術館建設も望んだ。その実験的な試みが上加茂民芸協団だった。
 柳らは上賀茂神社の社家を借り受け、実質的な運営を荷った織物・青田五良、団長格の木工・黒田辰秋、金工・青田七良(青田五良の弟)、染織・鈴木実(青田五良の後輩、染織助手・総務)が協団内に同居した。敷地は300坪(991㎡)あり、9部屋、2土蔵、納屋を改造した仕事場があった。月に一人30円を持ち寄り、この中より40円の家賃、諸経費を賄った。実際には最年長の青田が財政を支えたという。また、作品がかろうじて売れたのは黒田一人というのが実態だった。資金難のため、青田は同志社中学の教え子数人を下宿させ、鈴木は家庭教師をして支えている。大阪毎日新聞京都支局長・岩井武俊も後援会を組織し援助した。協団の製品には、丸に斜めの「井」印を用いた。黒田、青田らの「田」が水に関係することから柳が考案した。
 上加茂民芸協団には柳の紹介により多くの著名人が訪れる。染色工芸家・芹沢銈介(1895-1984)、作家・志賀直哉(1895-1984)、評論家・小林秀雄(1902-1983)、美術評論家・青山二郎(1901-1979)、美術史家・浅野長武(1895-1969)、医師・吉田璋也(1898-1972)、小野元澄、社会学者・井上吉次郎(1889-1976)、歴史学者・中村直勝(1890-1976)、実業家・大原孫三郎(1909-1968)、実業家・山本為三郎(1893-1966)らの名もあった。
 1928年、東京・上野公園で催された「御大礼記念国産振興博覧会」に、柳が設計企画した「民藝館」を出品する。建物(後の「三國荘」)を建て、民芸品の調度品をしつらえた。河井、濱田、富本らの出品があり、上加茂民芸協団からも青田(敷物、クッション)、黒田(棚、机)、鈴木が出品した。1929年、京都で「日本民藝品展覧会」が催され、青田が解説者として参加している。同年、岩井が企画した「民藝協團作品第一回展覧会」が開催され、好評を博した。1000円の売り上げも得ている。
 いずれは上賀茂の地に「民藝美術館」創設の構想があった。だが、1929年の秋、上加茂民芸協団は結成よりわずか2年半余りで解散する。柳の渡米中の出来事だった。最大の要因は資金繰りの行き詰まりにあった。工芸作品が手仕事のため制作に手間がかかり、作品が高額になり割に合わなかった。運営方針の相違、個人作家と集団のあり方の齟齬、青田の個人的な倫理問題も挙げられた。青田と黒田の対立も起因したという。また、柳の当初よりの協団構想に、そもそも物を作ることへの具体性が欠落していたとの指摘もある。 
 一時期、民芸運動に深く関わった陶芸家・河井寛次郎は、上加茂民芸協団結成に積極的な関与はしなかった。協団の立ち上げに十分な準備期間がなかった点も疑問視していた。ただ、協団存続のためには尽力したらしく、民芸運動の今後のために、協団の解散には関与したとみられている。
◆その後の変遷 1929年、上加茂民芸協団(北区上賀茂南大路町)は解散した。
 1956年、大道哲夫は同所に学習塾「樫の実学園」を設立する。1996年に廃園になる。2009年に大道は死去している。
 1999年以降、跡地には京都のラーメンチェーン店「天一食品商事 京都事務所本部」が置かれている。土塀、土蔵、中門などの一部は残されているという。
   
                          
*非公開
*参考文献 『アーツ・アンド・クラフツと日本』『黒田辰秋 人と作品』『陶工 河井寛次郎』『柳宗悦と民藝運動』『黒田辰秋の世界』「京都産業大学日本文化研究所紀要 第20号 民藝運動の展開と上加茂民芸協團の結成」『京都大事典』「黒田辰秋本漆展」『週刊 人間国宝 10 工芸技術木竹工』


  関連・周辺上賀茂社家町       関連・周辺上賀茂神社(賀茂別雷)神社       周辺北大路魯山人誕生地      関連河井寛次郎記念館         
上加茂民芸協団旧地 〒 京都市北区上賀茂南大路町
 Home    Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光 http://www.kyotofukoh.jp