東本願寺 (京都市下京区) 
Higashihongan-ji Temple
東本願寺 東本願寺
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御影堂(ごえいどう)門(大門)




蓮華の噴水、竹内栖鳳の図案をもとにして大正期に造られた。戦後、再建された。








御影堂門、山廊


御影堂門


御影堂門、唐獅子


御影堂門




抱牡丹(だきぼたん)の寺紋


玄関門




菊の門(勅使門)





阿弥陀堂門、菊花、桐の紋。


手水舎


御影堂


御影堂、親鸞上人坐像(御真影)、歴代門首の御影、阿弥陀如来の働きを表すとされる十字名号「帰命尽十方無碍光如来」、九字名号「南無不可思議光如来」を掲げる。右に六軸之間に「八功徳池図。


御影堂、軒丸瓦


御影堂、向拝上にある二対の亀型瓦(万年瓦)、相國寺開山堂、開山堂碑の亀趺(きふ、贔屓)を基にしているという。


御影堂の柱組模型


御影堂


御影堂


御影堂








「尾神嶽殉難」のジオラマ、雪崩に大橇が埋まっている様子。


「尾神嶽殉難」の際に使用された大橇




毛綱


阿弥陀堂


阿弥陀堂




鐘楼


梵鐘




参拝接待所
 東本願寺(ひがしほんがんじ)は、28000坪の境内を有している。正式には真宗本廟(しんしゅうほんびょう)、「本願寺」とも呼ばれる。「東本願寺」「お東さん」とも呼ばれる。 
 真宗大谷派本山。本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 鎌倉時代、1224年、親鸞が『教行信証』を著し、同年を開宗年とする。
 1263年、宗祖・親鸞没後、東山西麓鳥辺野北大谷に石塔が建てられ遺骨が納められた。
 1272年頃、親鸞の末娘・覚信尼(かくしんに)により遺骨を改葬し、東山吉水北(大谷の西)へ移す。(「親鸞聖人絵伝」)。六角の「大谷廟堂」が建てられ、影像が安置された。場所は、鳥辺野北大谷、現在の知恩院三門北の崇泰院付近とされ「元大谷」と呼ばれる。この地は、覚信尼の夫・禅念の敷地であり、廟堂の建物は門徒共有だった。
 1277年、禅念没後、敷地は覚信尼により門徒中に寄進され、覚信尼は初代留守職に就いた。以後、子・覚恵、孫・覚如が相承する。
 1287年、本願寺の寺号が記されている。文献初出とされる。(「専修寺文書」)
 1312年、法智発起により廟堂に扁額「専修寺(せんじゅじ)」を掲げ、延暦寺山門の抗議により撤去する。(「存覚上人一代記」)。また、3世・覚如は、墳墓堂の大谷影堂を専修寺とする。だが、比叡山延暦寺の抗議により、後に本願寺と改称した。
 1321年、本願寺の寺号となる。付文書にその名があり、文献初出とされる。(「本願寺文書」)
 南北朝時代、1333年、宮護親王により祈願所となる。
 室町時代、1336年、足利尊氏の兵火で焼失している。
 1457年、8世・蓮如が継職する。
 1465年、「寛正の法難」では、延暦寺西塔の衆徒により、祇園感神院犬神人の指揮下、大谷本願寺は破却された。以後、蓮如は各地を移動する。
 1466年、近江・金森合戦以来、越前、越中、加賀、奈良、三河、伊勢長島など各所で一向一揆が起きる。
 1469年、大津南別所に顕証寺を建て親鸞影像を遷す。
 1467年、近江堅田に移る。
 1471年、蓮如は越前吉崎に坊舎を建立する。
 1475年、蓮如は越前吉崎を退去した。
 1478年、1480年とも、蓮如は山科本願寺を建立する。
 1480年、御影堂が完成した。親鸞影像を顕証寺より遷す。
 1496年、蓮如は大坂石山に坊舎(石山本願寺、大坂本願寺)を建立する。
 1532年、山科本願寺は、日蓮宗宗徒と細川晴元(六角定頼とも)により破壊される。(「私心記」)
 1533年、1532年とも、証如は大坂石山に移る。親鸞聖人木像も遷される。本寺(大坂御坊)と定める。(「私心記」)
 1542年、阿弥陀堂棟上が行われる。
 1559年、11世・顕如の時、本願寺は門跡に列した。
 1570年、顕如は、織田信長より石山本願寺(大坂本願寺)退去を命じられるが拒否する。顕如は、信長と以後11年にわたる石山戦争(石山合戦、1570-1580)を続ける。
 安土・桃山時代、1580年、石山戦争で石山本願寺(大坂本願寺)は敗北し焼失した。長男・教如は抗戦を主張したが、顕如は第106代・正親町天皇の仲介を受け入れ信長と和解し、紀伊鷺森に移る。教如は義絶になる。
 1582年、信長没後、豊臣秀吉は本願寺に好意的な態度を示す。秀吉は大坂天満の土地を与え、ここに本願寺が建立された。
 1583年、和泉貝塚に移る。
 1585年、秀吉は大坂、天満の地を本願寺に寄進し、寺は移る。
 1591年、秀吉は京都・六条堀川に土地を与え、寺は移転した。当初の予定地は、下鳥羽から淀にかけての地域だったという。
 1592年、顕如没後、教如は秀吉により寄進された七条堀川(現在の西本願寺の地)の本願寺門跡になった。その後、母・如春尼が秀吉に提出した「譲り状」に端を発し、秀吉により教如は門主の座を奪われる。阿弥陀堂、御影堂が建立された。
 1593年、秀吉により、三男・准如(1577-1631)が門主となることが認可される。
 1596年、慶長の大地震により被災している。
 1602年、徳川家康は、隠居していた教如と接触する。本願寺の西、烏丸七条(現在の東本願寺の地)に、12世宗主(現在は門首)・教如の隠居寺が置かれた。家康の寄進により、本願寺(東本願寺)が建立、別立され、本願寺は東西に分裂した。家康は、本願寺を東西に分裂させ、教団弱体化を謀ったともされている。
 江戸時代、1603年、教如の旧住坊より移築した建物を仮御影堂とした。阿弥陀堂が建てられ、親鸞の形見御真影が上野国厩橋妙安寺より遷されている。
 1604年、御影堂が建立される。
 1617年、大谷本廟から親鸞影像も遷された。
 1619年、秀忠は、寺地の安堵状を下す。
 1641年、13世・宣如の時、徳川家光は土地(東洞院以東六条-七条)100間四方を加増した。土居まで寺域が拡張し、渉成園も含まれた。
 1652年、御影堂改築する。
 1653年、宣如は渉成園を開く。
 1658年、14世・琢如の時、御影堂が改築される。(「明暦・寛文度再建」)
 1665年、15世・常如の時、学寮を東坊内に創設した。
 1670年、阿弥陀堂が建立される。(「明暦・寛文度再建」)
 1678年、学寮講堂を枳殻亭内に建立する。
 1774年、浄土真宗の公称を、西本願寺と共に幕府に申請する。
 1788年、天明の大火で両堂、経堂、学寮を全焼した。
 1797年、御影堂が再建された。(「寛政度再建」)
 1798年、御影堂が再建されたともいう。阿弥陀堂は拡張再建される。(「寛政度再建」)
 1823年、境内の失火により、両堂、諸殿が焼失した。
 1824年、仮堂を建てる。
 1835年、御影堂、阿弥陀堂が再建される。(「文政度再建」)
 1858年、安政の大火により、両堂、渉成園など焼失している。
 1860年、仮両堂が再建される。(「安政度再建」)
 1863年、徳川慶喜は3か月にわたり宿舎にあてる。徳川家茂が立ち寄る。勤王派により暗殺された佐幕派・賀川肇(千種有文家臣)の首が慶喜の元に送りつけられる。寺の用人・大藤幽一溲(「溲」はサンズイは無し)が暗殺され三条大橋に晒された。
 1864年、禁門の変(蛤御門の変)で両堂、渉成園が焼失した。
 1867年、朝廷に1万両の献金を行う。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈に遭う。
 1869年、北海道開拓を行う。
 1871年、坊官制を廃止、寺務局が開かれた。現如は北海道で「本願寺街道」を開削する。戸籍法改定により、宗門人別帖・寺請制度を廃止する。
 1872年、大教院を設置する。1872年-1873年、22世・現如は欧州視察する。
 1875年、島地黙雷は政府に「大教院分離建白書」を提出、大教院は解散する。
 1876年、上海に別院、北京に仮別院を設置した。
 1879年、21世・厳如は両堂再建を発示、用材の献納が始まる。
 1881年、真宗大谷派を公称する。
 1883年、両堂の再建のための用材運搬で、越後・尾神嶽(おがみだけ)の雪崩により死者27人、重傷者50人があった。(「尾神嶽殉難」)
 1885年、相続講制度が発足する。
 1891年、清沢満之らは御学館改革を唱えた。
 1895年、22世・現如の時、両堂が再建され、阿弥陀堂は拡張される。(「明治度再建」)。清沢満之らは寺務改革建白を提出する。(「白川党改革事件)
 1897年、琵琶湖疏水からの防火用水工事「本願寺水道」が完成する。
 1910年、大逆事件に関し投獄された新宮・浄泉寺の住持・高木顕明を宗派は永久処分とした。
 1911年、黒書院、白書院、御影堂門、阿弥陀堂門、菊の門が完成する。
 現代、1952年、宗教法人になる。
 1987年、真宗大谷派、本山(本願寺)を合併させる。
 1996年、宗派は浄泉寺の高木顕明の処分を取り消し名誉回復した。
 2003年、御影堂の修復が始まる。
 2010年、御影堂の修復が完成する。
 2012年、阿弥陀堂の修復が始まる。
 2015年、阿弥陀堂の修復が完成(予定)する。
◆親鸞 平安時代-鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。見真大師。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年、法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で90歳で亡くなったという。浄土真宗の祖。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
◆蓮如  室町時代の真宗の僧・蓮如(れんにょ、1415‐1499)。第7代・存如の長男として東山大谷に生まれた。母は祖母の侍女という。1420年、6歳の時、母が本願寺を去る。継母・如円の下で育つ。1431年、17歳で青蓮院で得度、中納言・広橋兼郷の猶子となる。比叡山、興福寺で修行したという。1442年、如了尼と結婚する。1449年、東国布教に出る。1457年、父の死により本願寺第8代となる。1465年比叡山衆徒により本願寺は破却された。近江に逃れる。(寛正の法難)。1468年、延暦寺は堅田を攻撃する。(堅田大責)。1468年(1469年とも)、大津近松に移り、祖像を遷す。1469年、東国に修行に行く。1471年、越前・吉崎に襲撃を避けて道場、吉崎御坊を開く。1473年、『正信偈・和讃』開版。1474年、文明の加賀一向一揆が起こる。1475年、一向一揆に敗走し、河内出口に向かう。1478年、山科に移る。1483年、本願寺を再興し、山科での布教を続けた。1488年、長亨の加賀一揆が起こる。1489年、山科本願寺南殿に隠居した。1496年、大坂石山に坊舎を建て妻子と隠棲した。1499年、山科本願寺に戻り亡くなる。
 蓮如は1461年以後、現世利益ではなく、救われて仏となること、師による恩ではなく教説による仏恩を説き、布教に御文(おふみ)(御文章<ごぶんしょう>) を用いた。「南無阿弥陀仏」などと書かれた掛け軸の御名号(おみょうごう)、門徒の組織である講、親鸞の教えの木版印刷などを通じた布教により教団の急拡大を行った。
◆恵信尼 平安時代-鎌倉時代の女性・恵信尼(えしんに、1182-1268?)。詳細不明。越後介・兵部大輔・三善為教の娘ともいう。中級貴族の娘、越後の豪族の娘ともいう。親鸞と結婚したのは、京都とも、越後でともいう。1211年、越後で明信を生み、赦免された親鸞と共に、1214年、一家で関東に赴く。1224年、末女・覚信尼が生まれる。1234年、親鸞の帰京時に恵信尼も帰京した、直接越後に赴いたともいう。1254年以前、越後に下り、覚信尼に下人を譲る。1256年親鸞は子・善鸞を義絶した。恵信尼は覚信尼に下人の譲状を送り、再び譲状を送る。1261年、病いになる。
 恵信尼については諸説ある。親鸞の妻は恵信尼一人とも複数ともいう。子・善鸞は実子とも異母ともいう。親鸞の関東からの帰京に際し恵信尼も帰京した、居留したともいう。恵信尼の晩年は国府辺、板倉、とひたのまきにあったともいう。
 1921年、西本願寺の宝物庫から恵信尼の書状10通(1256-1268)が発見された。恵信尼が越後より京都の覚信尼に宛てた書状だった。
◆覚如 鎌倉-南北朝時代の真宗の僧・覚如(かくにょ、1271-1351)。覚恵の長男。親鸞の曾孫。浄土真宗本願寺3世。善鸞の子・如信に学ぶ。1310年、親鸞の墓所、大谷廟堂の留守職に就任、本願寺と改称した。「法然-親鸞-如信」三代伝持を主張し、本願寺の実質的な開祖になる。
◆顕如 安土桃山時代の真宗の僧・顕如(けんにょ、1543-1592)。顯如。摂津国大坂に生まれる。父は本願寺10世・証如、母は顕能尼。本願寺11世。1554年、12歳で継職、祖母・慶寿院(鎮永)の補佐を受ける。1559年、門跡に就く。1570年、織田信長の摂津への進軍により敵対した。毛利氏の援助を受け、10年の戦(石山合戦)を継続した。1580年、天皇の仲介により和睦、信長に明け渡す。紀伊国鷺森に退去した。長男・教如がこれに反対し、東西分裂の遠因になる。1591年、豊臣秀吉により京都堀川七条に寺地寄進を受け、1592年、本願寺を再興した。
◆教如 安土桃山-江戸時代初期の真宗の僧・教如(きょうにょ、1558-1614)。摂津国大坂に生まれる。本願寺顕如と如春尼の子。本願寺12世。1570年以来の織田信長との石山合戦末期に父を補佐、1580年、信長との和議により父は本願寺を退去した。教如は、和議に不服として籠城を続けた。父に義絶され、東西分裂の遠因になる。1592年、父の死去により本願寺12世を継職、だが、1593年、豊臣秀吉の命により隠居させられ、弟・准如に跡を譲った。徳川家康に庇護され、1598年、家康により東六条に寺地寄進を受け東本願寺を別立した。
◆准如 安土桃山-江戸時代初期の真宗の僧・准如(じゅんにょ、1577-1631)。父は顕如、母は如春尼の4男。1593年、豊臣秀吉の命で長兄・教如に代わり本願寺(西本願寺)12世を継承し、東西分裂した。大坂・津村別院、江戸・築地別院を創建した。
◆清沢満之 近代の宗教家・清沢満之(きよざわ まんし、1863-1903)。名古屋(尾張)藩士徳永永則の子に生まれる。1878年真宗大谷派で得度、東本願寺育英教校、東京大学哲学科、大学院に進む。井上円了らの哲学会に参加する。1888年、京都府尋常中学校の校長に就任、西方寺(愛知県大浜)に入寺、隠棲した。1895年、教学振興の東本願寺学事改革(白川党改革事件)を建白するが2年ほどで頓挫した。1900年、本郷に私塾「浩々洞」を開き、多田鼎、佐々木月樵、暁烏敏らと求道の共同生活をし、雑誌『精神界』を刊行、「精神主義」を提唱した。1901年、真宗大学(大谷大学)の初代学監(学長)に就任、翌年には辞職した。西方寺で亡くなる。
◆伊藤平左衛門 江戸時代末-近代の棟梁・伊藤平左衛門(1829-1913)。愛知県。第9代伊藤平左衛門。家は代々尾張藩作事方を務めた。父親の下で修業し、18歳で高野山の金堂建築に従事。洋風建築、清国の古刹に学ぶ。内国勧業博覧会、パリの万国博覧会で受賞。1896年、帝室技芸員。洋風建築としては旧見付学校(静岡県)、旧愛知県庁舎、社寺は東本願寺御影堂・阿弥陀堂、旧築地本願寺など。
◆仏像・木像 御影堂内陣本間中央の厨子内に「親鸞の御真影」が安置されている。もとは、妙安寺(群馬)にあり、徳川家康により寄進された。
 阿弥陀堂に本尊の阿弥陀如来立像、右に厩戸王(聖徳太子)像、左に法然御影、龍樹・天親(インド)、曇鸞・道赤綽(中国)、源信(日本)の六祖絵像が安置されている。本尊「阿弥陀如来像」は、鎌倉時代作とされる。像高1m。
 御影堂門の上階に、「釈迦三尊像」の「釈迦如来」、左に「阿難尊者」、右に「弥勒菩薩」を安置する。釈尊は、両者に仏説無量寿経(大無量寿経)を説いたことに因む。
◆建築 「御影堂(ごえいどう)」(876坪)は、木造建築としては世界最大(国内現存仏堂では最大とも)を誇る。江戸時代、1864年の禁門の変で焼失し、近代、1895年に再建された。手前より3面の落縁、板敷広縁、外陣(参詣席)、内陣(中央に本間、その右に余間の六軸の間、新六軸の間、御簾の間、本間の左の余間に十字の間、九字の間、飛櫓の間)、内陣奥に後堂。内陣本間に親鸞の御真影(坐像)を安置する。畳数は927枚。内陣と外陣間の巻障子上の欄間には、雲中天人像、迦陵頻迦などの金色の彫り物がある。中央正面のケヤキの大虹梁(14.5m、太さ1m)は、新潟の阿賀野川の水中より数万の信徒が引き揚げたものという。棟梁・伊藤平左衛門(1829-1913)設計による。畳927枚。用材の数は63000本という。90本の柱で支えられている。瓦数は14万4680枚(17万5000枚とも)。一層式裳階付、入母屋造、正面3面に向背、上層三手先、下層二手先。本瓦葺。間口76m(42間)、奥行58m(32間)、高さ38m(21間)。
 「阿弥陀堂」は、近代、1895年に再建された。2015年に改修された。内陣本間、左右余間の天井、柱、壁全面は、金箔30万枚(11cm四方)が漆金箔の技法で貼られている。四手先の組物。屋根頂上両端には、獅子口瓦(3.3m)2対が置かれている。棟梁・伊藤平左衛門設計、棟梁は木子(きこ)棟斎とも。禅宗様仏堂建築、入母屋造、本瓦葺。間口52m(29間)、奥行47m(26間)、高さ29m(16間)。畳401畳(412畳とも)。瓦108392枚(108000枚とも)。面積488坪(1610㎡)。 
 「大寝殿」、「大玄関」は、江戸時代末期、1867年の建立で、山内最古の建築物になる。15代将軍・德川慶喜の宿所にあてられた。非公開。
 「宮御殿」は、大宮御所内の宮御殿を、1880年、明治天皇により贈られ、1901年に移された。書院造。
 白書院前の「能舞台」は、近代、1880年に建立された。仮設され、1937年に常設になった。鏡板の松、切戸口脇の竹は幸野楳嶺による。非公開。
 「白書院」は、1911年に建てられた。上段の間、折上小組格天井、床の間、違い棚、付書院、帳台構。書院造。非公開。
 「黒書院」は1911年、棟梁・杉野怱兵衛により建立された。
 「宮御殿」は、1901年に旧大宮御所より移築された。大和絵の襖で飾られている。非公開。
 
「御影堂門(ごえいどうもん、大門)」(登録有形文化財)は、文化財指定登録の山門(三門)としては日本最大といわれている。「京都三大門(ほかに、南禅寺三門、知恩院三門、御影堂門の代わりに仁和寺二王門とも)」のひとつとされる。江戸時代、1739年に建立された。その後、3度の火災により焼失した。現在のものは近代、1911年に建立された。2012-2015年、修復工事が行われている。設計は市田重郎兵衛、市田辰蔵による。瓦59387枚(59000枚とも)。扁額「真宗本廟」は、浄土真宗の聞法の根本道場であることを意味するという。二階二重門、入母屋造、本瓦葺、左右に山廊付き。南北35m(19間)、東西28m(15間)、高さ28m(26.89m、31mとも、15間)。奥行13m。
 「阿弥陀堂門」は、唐破風四脚門、近代、1911年に建立された。門扉は幕末の火災の際にも焼け残った。菊花、桐の紋がある。
 「玄関門」は、近代、1911年に建立された。棟梁・市田辰蔵による。切妻造、薬医門。
 
「菊の門(勅使門)」は、近代、1911年に建立された。亀岡式といわれる亀岡末吉(1865-1922)の設計による。黒漆塗り、極彩色の文様が施されている。縦に格子が入る。四脚唐門、前後唐破風、左右切妻造。
 「大師堂門」に、唐獅子の彫刻がある。
 「楼門」は、棟梁・伊藤平左衛門(1829-1913)設計による。
 
「鐘楼」は、近代、1894年に建立された。梁材が交差する。総ケヤキ造り。基壇は亀甲石積。棟梁・9代伊藤平左衛門による。
 「参拝接待所」は、1998年、高松伸の監修による。北側地下部分には、「真宗視聴覚ホール」という階段状の座席(300席)がある。 地上部には、歴史的景観保存のために、白洲の中に「日輪」、「月輪」というガラス張りの採光窓だけが開けられている。SRC造、1階RC造、地下3階 地上1階。敷地面積 92,387㎡、建築面積570㎡、延床面積3,487㎡。
◆庭園 宮御殿前の池泉式庭園は、小川治兵衛の作庭による。池、滝組、築山、正面の御影堂大屋根を借景の山に見立てた。
◆茶室 「桜下亭」は、1939年に22代宗主・現如の霞ヶ関別邸の一部を移した。曲り木の床柱、繰りぬきの書院棚。座敷に岐阜別院より移された円山応挙の襖絵がある。(非公開)。 
◆文化財 鎌倉時代の坂東本紙本墨書『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』6巻(教、行、信、証、真仏土、化真土)(1235年頃)(国宝)は、親鸞唯一の自筆本であり、浄土真宗の教えを解説している。もとは、坂東報恩寺(東京)、その後浅草別院に伝えられていた。
 鎌倉時代の親鸞自筆讃文のある「絹本著色親鸞聖人像(安城御影、嘯<うそぶ>きの御影)」(重文、1255)の正本は西本願寺所蔵、もとは三河国碧海郡安城の願照寺に伝えられた。
 鎌倉時代の「一念多念文意」(重文)(1257)は、隆寛律師の引用した経・釈に親鸞が注釈している。
 南北朝時代の円寂・宗舜筆「本願寺聖人伝絵(康永本)」4巻(重文、1343)、南北朝時代の「本願寺聖人伝絵(弘願本)」4巻(重文、1346)。
 創建当初は狩野派の障壁画が描かれていたが、その後の火災により焼失した。御影堂内陣余間には、江戸時代から近代の画家・幸野楳嶺(1844-1895)の六軸之間の障壁画紙本金色著色「八功徳池図」(1895)があり、紅白の蓮華が描かれている。新六軸之間に羽田月洲(1841-1908)の障壁画孔雀と花木を描いた金地着色「花鳥図」(1895)もある。
 幸野楳嶺は御影堂御厨子に「紅梅蓮華図」を描いている。大寝殿上段の間に竹内栖鳳の「古柳眠鷺図」(1934)、「著色群雀図(歓喜)」(1934)など。
 江戸時代の宮御殿襖絵「宮中四季行事」。白書院には、幸野西湖、森本東閣、伊藤鷺城の障壁画がある。
 桜下亭(おうかてい)座敷に、江戸時代の円山応挙筆の障壁画30面(京都市指定有形文化財)がある。江戸時代、1791年の晩年作になる。松之間に紙本金地墨画「稚松図」16面、竹之間に紙本金地墨画「竹雀図」4面、紙本墨画「竹図」4面・床脇壁裏側1面、梅之間に紙本墨画「白梅図」4面・壁貼付1面などがある。かつて、岐阜別院書院にあり、1891年の濃尾地震に際して取り出され、その後、東本願寺に移された
 
鐘楼の「梵鐘」は、江戸時代、1604年の鋳造になる。「慶長九年」の銘があり、創建時の物になる。
◆東西分裂 本願寺の東西分裂について真相は不明とされている。
 安土・桃山時代、1580年、顕如は石山戦争において、織田信長と和議を交わし本願寺を退去した。子・教如は、この和議を不服として抗戦籠城を続けた。教如は、父に義絶され、本願寺東西分裂の遠因になる。
 1592年、教如は、父の死去に伴い本願寺12世を継職した。だが、翌1593年、豊臣秀吉の命により隠居させられ、豊臣方の弟・准如に跡を譲る。教如と母・如春の確執があり、如春が秀吉を動かしたともいう。
 他方、教如は、徳川家康に庇護される。1598年、家康により東六条に寺地寄進を受け東本願寺を別立した。1602年、家康は、隠居していた教如と接触する。本願寺の西、烏丸七条(現在の東本願寺の地)に教如の隠居寺が置かれた。
 この家康の寄進により、本願寺(東本願寺)が建立、別立され、本願寺は東西に分裂した。家康は准如を警戒し、分裂により教団の弱体化を謀ったともいう。本多正信の献策があったという。
◆本願寺水道 
明治期に寺が再建された際に、防火用水として1894年(1895年とも)に、琵琶湖疏水貯水池(蹴上)より寺まで、本願寺水道(4.7km)が引かれた。設計したのは田辺朔郎による。完成までに3年の工事が行われている。
 送水管は、蹴上より三条通、建仁寺前、五条大橋裏を経て東本願寺まで通じている。使用された39cmの導管の鋳鉄はフランス製だった。
 疏水の水は、境内の外堀、枳殻邸の印月池、烏丸通の中央緑地帯にある蓮の花を模った噴水の水としても利用されていた。現在は漏水のため送水が停止されている。
◆毛綱 御影堂と阿弥陀堂間の渡り廊下に毛綱(けづな)が巻かれて置かれている。
 近代の両堂再建工事(1880-1895)の際に、重い建材の運搬に使われた縄が切れ事故が相次いだことから、より強い人の髪と麻糸を撚り合わせた綱が作られた。当時は大小53本の毛綱があり、最長100m、最大のものは太さ40cm、長さ110m、重さ1tもあった。
 展示されている毛綱1本(太さ30cm、長さ69m、重さ375kg)は、女性の毛髪7000人分により撚られているという。越後の門徒が使用していたものという。建設のための現金を工面できない女性信徒らが、自らの髪を寄進したという。
◆尾神嶽殉難 近代の両堂再建のために門徒による用材運搬が行われ、事故により死傷者が相次いだ。その中で最大の事故は、1883年に起きた越後国の「尾神嶽殉難(おがみだけ じゅんなん)」と呼ばれている。
 3mの積雪地帯で、46村、2000人の門徒が黒姫神社(上越市)境内から伐り出した欅の巨木を大橇(そり)に載せて運搬していた。途中、中腹の吹切(ふつきり)で大雪崩が起き、死者27人、重傷者50余人が出た。死者には、16歳以下の少年が16人、幼児4人も含まれていた。
 用材は、1895年に落成になった御影堂上層屋根の隅木の1本として使われた。後に、円田神社(上越市)で、殉難の際に使用された大橇が発見される。1961年に本山に寄付されいまも展示されている。
◆紋 寺紋は「抱牡丹(だきぼたん)」という。 
◆エコ 御影堂では親鸞750回忌(2011)にむけ、修復工事が行われた。この際に、古瓦の再利用や、8基の雨水タンク(100t)による水の再利用などの取り組みが行われた。
◆遺跡 境内の東付近には鎌倉時代から室町時代にかけての大規模な墓地が存在していた。発掘調査により、火葬墓、集石墓、土坑墓、さまざまな骨臓器が出土している。
◆報恩講 宗祖・親鸞の遺徳をしのぶ法要「報恩講」(11月21-28日)は、全国から御影堂に集まった門信徒が、僧侶とともに読経する門徒にとって最も大切な行事になっている。25日には親鸞一代記「御伝抄」拝読が行われる。
 親鸞命日の28日には、僧侶(堂衆18人、純堂衆64人)が体を前後に揺らして念仏、仏教の教えを七五調の四行詩にした和讃を唱和する「坂東曲(ばんどうぶし)」が催される。親鸞が越後流罪になった時、船中で称えられた念仏と布教地・坂東(関東)に伝わる歓喜勇躍念仏がもとになったとされている。
◆東西分裂
 東本願寺と西本願寺で差異が生まれた。伽藍配置は左右(南北)が逆になっている。東は北(右)に御影堂、西は南に御影堂、東は廟所を大谷祖廟(東大谷)、西は大谷本廟、親鸞の「教行信証」を東は御本書、西は御本典、蓮如文書を東は御文、西は御文章、宗主も東は門首(かつては法主)、西は門主という。
◆樹木 阿弥陀堂前にアカマツ、ケヤキがある。
◆年間行事 修正会(1月1日-7日)、法然上人御祥月命日法要(1月25日)、厩戸王(聖徳太子)御祥月命日法要(2月22日)、春季彼岸会(春分の前後7日間)、蓮如上人御祥月命日法要(3月25日)、親鸞聖人御誕生会(4月1日)、花祭り(4月1日-8日)、春の法要(4月1日-15日)、立教開宗記念法要(4月15日)、盂蘭盆会(7月14日-15日)、秋季彼岸会(秋分の前後7日間)、宗祖親鸞聖人御正忌報恩講(11月21日-28日)、お煤払い(12月20日)、歳末昏時勤行(12月31日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『本廟物語 東本願寺の歴史』『古寺巡礼 京都 40 東本願寺』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『真宗大谷派』『日本の古寺大巡礼』『歴史のなかの宗教 日本の寺院』『京都大事典』『京都・美のこころ』『社寺』『日本の仏教を築いた名僧たち』『京都の寺社505を歩く 上』『京都美術の 新・古・今』『日本の名僧』『京都 歴史案内』『事典 日本の名僧』『京都市の指定文化財 第5集』『京都 神社と寺院の森』『あなたの知らない京都府の歴史』『週刊 仏教新発見 21 西本願寺 東本願寺』『週刊 京都を歩く 22 東本願寺周辺』
 


   西本願寺            崇泰院      枳殻亭(渉成園)           

境内にある大イチョウ

外堀

境内から見た京都タワー
    長男・教如(1602、東本願寺)〔×信長 ○→×秀吉 ○家康〕----宣如
顕如 〔×→○信長〕 ---------¦ 
                    三男・准如(1603、西本願寺)〔○秀吉〕

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東本願寺 グーグルマッブ・ストリートビュー  平安京オーバレイマップ
map 東本願寺 〒600-8358 京都市下京区常盤町,烏丸通七条上る   075-371-9181

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