岩屋山志明院金光峯寺 (岩屋不動) (京都市北区)  
Shimyo-in Temple

  

室町時代に再建された楼門(仁王門)。かつての本堂にあったという運慶、快慶作の金剛力士が安置されている。


門の両側には3m、樹齢100年を越えるシャクナゲの大株があり、例年4-5月に開花する。


扁額「岩屋山」


楼門内








しゃくなげ祭(柴燈大護摩供)


写真の左手は、鴨川の源流となっている最高峰の桟敷岳(標高895.9m)へは徒歩で2時間ほどかかる。









境内を流れる小川
 鴨川の源流の森にある志明院(しみょういん)は、岩屋山(649m)山腹にある。岩屋山志明院、岩屋山金光峯寺、岩屋不動、金峯寺不動堂などとも呼ばれた。一般的には志明院と呼ばれている。山号は岩谷山という。
 古くより修験道の本場であり、「元大峯」の名もある。また、女人禁制を解いたことから、「女人大峰」の別称もある。 
 真言系単立。本尊は、不動明王(岩屋不動)を安置する。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細不明。
 古くより岩屋山は、山岳信仰の地として、また、修験道の行場になっていた。
 飛鳥時代、650年、修験道の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が不動明王の示験により草創したともいう。(縁起)
 平安時代、829年、第53代・淳和天皇の勅願により、弘法大師(空海)のために堂宇を建立し、鎮護国家の祈祷を行ったという。また、空海が天皇の命により再興したともいう。(縁起)
 平安時代、第59代・宇多天皇(867-931、在位887-897)により、王城地の乾(北西)の方角の勅願所になる。(縁起)
 958年、焼失したという。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、兵火により焼失したという。
 南北朝時代、1349年、足利将軍家の帰依を受けた住僧・雲暁により、伽藍再興される。
 1350年、室町幕府より丹波国小川庄を寄進される。
 室町時代、幕府、天皇による寄進が続いた。
 安土・桃山時代、1528年、第105代・後奈良天皇の時、天下静謐祈願のため、諸堂開扉の詔により、勅願成就により勅額「志明院」を贈られる。以後、寺号になったという。
 江戸時代、1608年、皇室より修理料100両が寄進される。
 1615年、第108代・後水尾天皇(後奈良天皇とも)より勅願成就の功として、宸筆六字紺地金泥「南無不動明王」が贈られる。
 第113代・東山天皇(1675-1710、在位1687-1709)は、山桜800本を境内に寄進したという。一の鳥居から参道16町の両脇に植えられた。後奈良天皇の寄進によるともいう。(『拾遺都名所図会』『都花月名所』)
 1831年、堂宇の大半が焼失している。仁王門(楼門)、鐘楼、わずかの仏像は焼失を免れる。
 近代、1868年、境内の山桜の多くが伐採されたという。
 近代、明治期(1868-1912)、現在の堂宇の大半が再建される。
 現代、1988年、京都府による鴨川上流部に治水のための鴨川ダム建設計画が明らかになる。以後、広範な反対運動がおこる。
 1990年、ダム計画は中止される。
◆役行者 7、8世紀(7世紀末)の伝説的な修験道開祖・役行者(えん の ぎょうじゃ、生没年不詳)。詳細不明。大和国に生まれた。賀茂一族(高賀茂朝臣)の出身ともいう。役小角(えんのおづぬ)、役の優婆塞(うばそく)とも呼ばれる。生駒山、葛城山、大峰、熊野で修行した。吉野金峰山、大峰を開く。699年、弟子・韓国連広足に密告され伊豆国に流罪にされる。701年、赦される。数多くの呪術的な伝承が残され、修験道と結びついた。富士山、九州の山々で苦行し、前鬼、後鬼の二鬼を従えたという。
 後世、江戸時代、1799年、朝廷より神変大菩薩の諡号が贈られた。
◆空海 平安時代の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。弘法大師。讃岐国に生まれた。父は豪族の佐伯田公(義通)、母は阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め、四国の大滝岳や室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥となり、教海と称する。804年、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず大宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年、東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都となる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年、正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなり、東峰に葬られた。
◆惟喬親王 平安時代の皇族・惟喬親王(これたか しんのう、844-897)。第55代・文徳天皇の第1皇子、母は紀名虎の娘・静子。850年、右大臣・藤原良房の娘・明子との間に第4皇子惟仁親王が生まれ、惟仁親王(第56代・清和天皇)が皇太子となった。先例のない皇位継承は、文徳天皇の良房への気兼ねと、惟喬親王の母が藤原一門ではなく紀氏の出自だったためともいう。皇位を失った惟喬親王は、858年、大宰師、弾正尹、常陸太守、872年、上野太守などの役職を歴任した。872年、病となり出家、素覚と号し洛北小野に隠棲した。惟仁親王立太子の際に出家したともいう。岩屋山金峯寺に宮を建て住んだともいう。耕雲入道と名乗り、宮を耕雲寺(高雲禅寺)としたともいう。在原業平、紀有常らも親王の元を訪れたという。その後、病に倒れる。死期迫り、御所の川上の地を避け、さらに北にある小野・大森の地へ移り亡くなったという。
 親王は、各地で木地師の祖との伝承が残っている。
◆仏像 本堂に本尊「不動明王(岩屋不動)」が安置されている。弘法大師(空海)作といわれる。不動教の本山として知られている。
 本堂に、平安時代末期-鎌倉時代の仏師・運慶(?-1224)作という「金剛力士像」も安置されている。かつて、楼門にあった。
 根本中院安置の「眼力不動明王」は、平安時代、第59代・宇多天皇(867-931)の勅願により、菅原道真(845-903)が刻み寄進したという。天皇即位の際に限り、勅使を迎え開扉されていたという。
 「神変堂(開山堂)」に役行者を祀る。
 奥之院には、だ枳尼天を祀る。寺鎮守、山の神、農神稲荷であり、病気平癒、五穀豊穣の信仰がある。
◆建築 室町時代に再建された「楼門(仁王門)」が建つ。
 「根本中院」は、懸崖造になっている。
◆飛竜の滝 境内には、鴨川源流の一つ岩屋川の流れを集めた「飛竜の滝」があり、滝垢離(たきごり)の行場になっている。弘法大師(空海)が入山行法の際に、山の守護神が飛竜になってこの滝つぼに入った。以来、飛竜権現の霊が祀られたという。飛竜権現は水を司る神であり祠がある。
 ほかにも、水源を守る天津石門別雅姫神社(あまついわとわけわかひめ)がある。
 本堂南、飛竜の滝の奥に、弘法大師が護摩の行法したと伝えられ、鳴神上人伝説の残る「護摩洞窟」がある。
 本堂北西の崖上に根本中院があり、その傍の岩窟は、菅原道真作の眼力不動を祀る。30mの「神降窟(降神岩、香水窟)」と呼ばれている。岩間より難病も治すという霊水がいまも湧き出す。湧水は、「不動香水」「岩屋香水」「護符の水」などとも呼ばれる。薬王菩薩が水で諸薬をすすぎ洗うと、自然に薫ったという。かつて、正月、5月、9月に朝廷に献上されていたという。病のある人は、水を指につけ、痛むところにつけるとたちどころに治るとされた。現在でも、難病平癒祈願の信仰を集める。
 薬師峠、岩屋山(649m)にかけ、薬師岩、鏡岩、天狗岩、白竜岩、金掛岩、巌谷、岩山、お堂などの霊場が続き、三山に連なる八十八か所の行道場は、全行程1時間ほどになる。
◆鳴滝
 歌舞伎十八番中の傑作といわれる歌舞伎脚本「鳴滝(なるたき、「雷神(なるかみ)不動北山桜」)」の舞台として知られる。7代目・市川団十郎(1791–1859)が定めた。
 鳴神上人は、朝廷の命により岩屋山に籠り、太子降誕のために不動明王に祈願した。効があったにもかかわらず、天皇は約束した山上での戒壇建設を反故にした。上人は怒り、竜神を飛竜の滝壺に封じ込めてしまう。以後、雨を呼ぶ竜神不在により、都は長期にわたり旱魃になる。
 天皇は困惑し、絶世の美姫・雲の絶間姫(くものたえまひめ)を山に遣わした。姫の色仕掛けにより、心惑わされた上人は破戒された。その間に、洞窟に張られた注連縄を断ち切り、竜神を解き放って雨をもたらしたという。
◆文化財 楼門(仁王門)に掲げられていた扁額「岩屋寺」は、平安時代の貴族・能書家・小野道風(894-967)という。(寺伝)。また、室町時代の後奈良院 (第105代、1497-1557)(「拾遺都名所図会」)とも、不詳ともいう。
◆桜 かつて、一の鳥居より楼門に至る参道の両脇、16町(1.7km)には桜並木があったという。
 江戸時代の第113代・東山天皇が、山桜800本を境内に寄進したという。(「拾遺都名所図会」)。寺伝によれば後奈良天皇の寄進によるともいう。
 近代、1868年、境内の山桜の多くが伐採されたという。
◆植生 境内の南側、岩屋山の尾根には、「岩峰植生」が見られる。チャート基盤の薄く、貧栄養の表土壌に、ヒノキ、ゴヨウマツ、さらに約1000本の「ホンシャクナゲ群生地」(一部は京都市の天然記念物指定)、ヒカゲツツジなどの低木林が生えている。ヒノキ、ゴヨウマツなどが天然更新しており、日本でもかなり珍しいという。
 境内には、シャクナゲが植えられている。山門前の古木は、樹齢100年とされる。花には、3年に1度の花の「当たり年」(近年では2009年)があるという。
◆もののけ 寺には不思議な逸話が残る。第二次世界大戦後、進駐軍兵士が寺を訪れ、寺の秘仏を持ち出そうとした。だが、ジープは動かなくなり、兵士も突然の激しい腹痛に見舞われた。兵士は御仏を持ち出すことを断念し、山門へ戻った途端に痛みは消えたという。
 作家の司馬遼太郎は、宿坊に泊まった際の「もののけ」について記している。司馬は、宮崎駿に、平安時代の「もののけ」を題材にしたアニメ映画制作を勧めた。その後、「もののけ姫」の着想に繋がったともいう。歴史家の奈良本辰也は、岩屋山で聞いたという怪音について書いている。
 ほかにも山本素石の『志明院の怪』、長坂秀佳の『彼岸花』などに寺は登場する。
◆桟敷岳 
境内より鴨川の源流になる最高峰の桟敷岳(桟敷ヶ岳、さじきがだけ、標高895.9m)へは、徒歩で2時間ほどかかる。志明院の山門前に登山口があり、頂上は北東方向になる。岩屋山(649.1m)とともに、鞍部の薬師峠、緑坂峠など、京都より丹波に通じる古道が残る。山道の途中には「六体地蔵」、惟喬(これたか)親王が鷹狩の際に立ち寄ったという「鷹の水飲みの清水」などがあり、稜線での眺望はきく。
 桟敷岳の名前の由来は、第1皇子に生まれながら、皇位継承できなかった惟喬親王が、山頂の高楼桟敷から京の都恋しさに眺めていたという伝承による。ここで、帝位を定める角力も行なわれたという。桟敷岳は分水嶺であり、山を挟んで保津川と鴨川に分かれている。
 はるか南西の水尾には、親王の弟・清和天皇陵がある。天皇は第4皇子でありながら幼少で即位を果たしている。
◆ダム
 1988年、府による鴨川上流部に治水のための鴨川ダム(最大貯水量1500万t、予定地は山幸橋上流とも)建設計画が問題になった。
 志明院住職らを中心にした広範な反対運動が起こり、1990年に計画は中止されている。
◆修行体験 4月-11月の毎日曜日、女性限定、座禅、山歩き、法話、禊ぎなど。
◆年間行事 しゃくなげ祭(柴燈大護摩供、さいとうだいごまく)(山伏修験者らによる柴燈大護摩供の後、おき火の上を素足で歩く「火渡り行」は、誰でも体験できる。)(4月29日午後1時)。
 縁日(毎月27日)。
 

*楼門から内への飲食物の持ち込み、植物の採取、カメラ撮影なども禁じられています。持ち物は、寺にあらかじめ預けて入山します。
*京都バス 出町柳-岩屋橋間約一時間、さらに坂道を徒歩20分*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都市の地名』『京都府の歴史散歩 上』『京都の地名検証』『京都のお寺神社謎とき散歩』『史跡探訪 京の七口』『京都大事典』『稲荷信仰と宗教民俗』『週刊 京都を歩く 45 貴船・雲ヶ畑』『京のしあわせめぐり55』『京都の寺社505を歩く 下』『京都 神社と寺院の森』『ダムと和尚』『時代の風音』 


  雲ヶ畑界隈      鴨川源流・支流      福蔵院      高雲禅寺      惟喬神社      厳島神社    関連清和天皇陵     

鴨川の源流の一つ岩屋川

鴨川上流、国の特別記念物オオサンショウウオ?、体長は80㎝くらい。(2011.5)近年、中国種との交雑が進む。すでに鴨川に生息しているものの8割は交雑種という。固有種は茶の体色に黒い斑点が鮮明という。
 志明院 〒603-8861 京都市北区雲ヶ畑   075-406-2061  8:00-17:00

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