車石・車道・日ノ岡峠 (京都市山科区)
Kurumaishi,Kurumamichi
車石・車道・日ノ岡峠 車石・車道・日ノ岡峠 
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旧東海道の街並、かつての街道は、現在の道幅よりも広かったという。


車石広場(山科区日ノ岡)、牛車、車石、米俵が再現されている。ただ、牛車の形状、車輪の幅、車石の敷き方にも史実との食い違いがあるという。


車石広場の車石


擁壁の車石(山科区日ノ岡)


擁壁の車石、石垣に垂直方向に組み込まれている。京津国道改修工事の際に出た車石を壁にした。実際に敷設されていた車石の幅を再現しているといわれている。



京津国道改良工事記念碑(山科区日ノ岡)


京津国道改良工事記念碑の台座に使われている車石


京津国道改良工事記念碑、側面の轍跡


亀の水不動尊(山科区日ノ岡坂脇町)
 三条通の日ノ岡峠(標高100m)は、粟田口から山科に通じた峠だった。日ノ岡の地名は、日ノ岡村に由来する。村の東側が開けており、朝日が斜面に一番最初に当たったことに因む。
 周辺には、江戸時代、東海道(三条街道、大津札の辻-三条大橋間)に敷設された車石(くるまいし)の史跡が各所にいまも残されている。車石は車道(くるまみち)に敷かれた2列の石のことで、荷を満載した牛車の交通を容易にするための工夫だった。
◆歴史年表 江戸時代、1654年、竹田街道ではすでに車道(「車ミち」)が設けられていた。(『新板平安城東西南北町並洛外図』)
 1658年、鳥羽街道・羅城門前に牛車が描かれている。(『京童』)
 1695年、東海道・逢坂山の坂道に「車道九尺」の記述がある。(『上片原町絵図』)
 1704年、米の運送をめぐり、牛車(9俵積)輸送の伏見車屋と馬(3俵積)輸送の大津馬借(ばしゃく)との間で争いがあった。京都・伏見の車方4分、馬方6分の比率で裁定が下り、以後、幕末までこの比率になる。
 1706年、日ノ岡峠で改修工事が行われた。蹴上付近には車道が付けられていたとみられている。(「三条海道筋山科郷麁<ごうそ>絵図」)
 1710年以前、鳥羽街道に車道が付けられていた。(『城州鳥羽海道四塚町より淀小橋迄絵図』)
 1734年-1736年、木食正禅が日ノ岡峠の改修工事を行う。
 1797年、逢坂越の上り口に人馬道と分けて2列の車道が描かれている。(『東海道名所図会』『伊勢参詣名所図会』)
 1804年、東海道での車石の本格的な工事が始まる。
 1805年、東海道(大津札の辻-三条大橋間)全面の車石敷設工事が始まる。
 1865年-1866年、逢坂峠の坂を緩やかにするための道の掘下げ工事が行われる。
 1867年、日ノ岡峠で通行停滞を避けるため、京都町奉行所・平塚瓢齊により北に迂回する新道(現三条通)が改修された。この際に、旧来の細道を拡張工事している。
 近代、1873年-1874年、京津街道の改修工事が行われる。車道、車石を据え直す工事が行われた。
 1875年、京津街道の改修工事で近代的な工法のマカダム式道路に変更になる。
 1876年、車石は廃止され、石の撤去が行われる。
 1878年、京津街道の改修工事が終わる。
 1931年-1933年、京津国道改良工事が行われた。
 現代、2003年、車石・車道研究会が発足する。
 2004年、京都市により京阪電鉄京津線線路廃止に伴い、跡地に車石広場が整備される。
◆車石・牛車 車石(車輪形の敷石)は、東海道のほか、竹田街道、鳥羽街道にも設けられていた。
 東海道では安全のため、京都に向かって左に人馬道(往還、歩道)、右に牛車道が併設して設けられていた。人や馬が往来する人馬道が優先され、車道よりも高く、30㎝の段差が付けられた。車道には後に石(車石)が敷かれる。2列の平らな石(車輪通敷石、くるまわどおりしきいし)を車輪の幅にとり、縦に1列に連続して並べた。石は横据えが基本になる。石の大きさは縦50㎝、横40㎝、厚さ20㎝、幅10㎝、深さ2-10㎝ほどの溝が付けられた。溝には磨耗材として砂を入れた。石と石の間には若干の隙間があり、ここに砂利が敷かれた。牛車の車輪はこの石の上を移動する。2列の車石の中央部にも砂利が敷かれ、牛車を牽引する牛はこの砂利道の部分を通行した。坂道では、階段状に長石を縦方向に並べ、中央には3個の小さめの雁木石(階段石)が横に並べられ、牛の足がかりを良くしていた。車石の敷設は、雨天の際に車輪が泥道に取られ牛車の進行が困難になるのを防ぐ。また、牛車の進行速度を速めた。牛の疲労軽減の意味もあった。
 車石の溝は、あらかじめ彫られたものではなく、牛車の通過による自然摩耗により生じたものと考えられている。東海道の大津-京都間(12km)には、5-6万個の車石が使われたという。当初、この間全線での敷石は考えられていなかったという。車石の石材は、滋賀産の花崗岩の木戸石が最も多く、横木、四宮付近では石英斑石の藤尾石、京都近辺の三条、蹴上付近では白川石などが用いられた。また古石といわれる再利用した石も一部に使われている。軌間幅にはさまざまな計測値があるが、車石・車道研究会によると、135-150㎝、より厳密には135㎝-140㎝程度だったとみられる。
 工事には多くの人足が関わった。たとえば、1707年の半年間の三条通での工事には、のべ普請人足1万人、石屋人足680人、用聞き人足370人、庄屋肝煎100人が投じられた。
 牛車には1人か2人の馭者(ぎょしゃ)が付く。空車の際には、馭者が荷台に乗っている絵も残されている。牛車は、1頭の牛で牽き、2つの車輪を付けていた。車と牛は2本の棒で繋がれる。荷はおもに米俵などで、1輌に米9俵(540㎏)を積んだ。これらの米は年貢米であり、琵琶湖を使って大津港に集められ、一端、近江の幕府、諸大名の米蔵に収蔵され、坂本町の米会所で取引後、京都へ移送されていた。三条大橋、白川橋などの橋では、牛車の車輪が橋板を傷めるとして、牛車だけは渡河通行していた。急峻な日ノ岡峠では、牛車による峠越えが困難なことから、坂下に坂仲士(さかなかし)という人足が控えており、牛車の負担軽減のために、米俵3俵は人力により坂上に運び上げ、さらに牛車を後押ししていた。車道は一つしかないため一方通行になり、東海道では午前(上り、京都方面)と午後(下り、大津方面)に通行が決められていた。
 近代以降、西洋式の道路舗装工法の導入により、旧来の車道、車石は廃止される。かつての車石は、旧街道沿いを中心にして京津国道改修工事の際の擁壁、縁石に再利用された。そのほか公共施設、寺社、民家など各所にいまも保存されている。大津港の波よけ石、路面電車の敷石に転用されたともいう。
◆マカダム式 マカダム式道路(マカダム砕石舗装)は、スコットランドの技術者ジョン・ロウドン・マカダム(John Loudon McAdam, 1756-1836)が考案した道路の近代的な舗装工法をいう。道路面に敷いた割石、その上の砂利をローラーで圧し固めて施工した。砕石は表面が鋭角になっており、石が互いに強く噛み合う。マカダム式道路は工費が安価で堅牢な路面が確保されたことから、日本の場合には近代以降の馬車の通行に適していた。 
 近代以降の京津街道改修工事では、1873年に勧業場に雇用されたイギリス人建築士・イルネスト・ウエットンが携わっている。道の形状は排水のために中央部を盛り上げた蒲鉾型であり、道の両側に側溝、縁石も付けられていた。この工法はマカダム式道路に近く、その後、マカダム式道路に変わった。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『車石-江戸時代の街道整備』『車石・車道』『史料京都の歴史11 山科区』『洛東探訪』『京都の地名検証 2』『京都の自然ふしぎ見聞録』


  関連・周辺亀の水不動明王・梅香庵(木食寺)跡       関連・周辺粟田口大名号碑・日ノ岡宝塔       関連・周辺粟田口刑場名号碑       関連・周辺逢坂・逢坂山・逢坂関跡      周辺       関連        

亀の水不動尊の亀の水、日ノ岡峠越えの人、牛馬に水を供していた。黒御影。

日ノ岡宝塔(山科区日ノ岡)、新道(三条通)沿いにあり、車石を利用した縁石がある。

修路碑(山科区厨子奥)、1877年京都府知事・槇村正直により建立された。改良工事では、日ノ岡峠(粟田口峠)の34m(11丈1尺4寸)の切り下げ工事を6kmにわたり行っている。

【参照】閑栖寺(大津市横木)の再現された車石、車石の轍跡は摩耗により生じたといわれている。
 道は2面からなり、車石より一段高い人馬道(歩道)が車道に隣接、並行する形で造られていた。写真では奥の段差部分になる。ここには砂利が敷かれた。二つの車石の間にも砂利が敷かれ、牛はこの部分を通った。

【参照】閑栖寺にある牛車、車石の再現図、牛には日除けの菰を被せている。

【参照】1875年頃の荒神橋付近の牛荷車、京都府の鴨川の掲示板より

【参照】旧東海道沿いに立つ石標(大津市横木)

【参照】旧東海道の峠道、(山科区八軒屋敷町付近)

【参照】京都国立博物館

【参照】東海道車石、東山区九条山付近で出土、江戸時代。京都国立博物館蔵。
 車石・車道 京都市山科区日ノ岡付近 

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