五条大橋・六条河原  (京都市下京区-東山区)
Gojo-ohashi Bridge,Rokujokawar River

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五条大橋

北東方向、青銅製の擬宝珠高欄は、第二次世界大戦中も金属の供出を免れた。現在、江戸時代のものが復元されている。遠景は比叡山


北方向、室町から江戸時代までの六条河原、奥の橋は松原橋、右手は比叡山


五条大橋から南方向、正面橋までは江戸時代以降の六条河原になる。


擬宝珠


擬宝珠


牛若丸と弁慶決闘の石像1961年作。


大田垣蓮月の句碑「あすも来て見んと 思へば 家づとに 手折るもをしき 山さくら花」、牛若ひろば


五条大橋西詰北にある牛若ひろば内の五条大橋の橋脚、天正17年(1589年)の刻銘が入る。


五条大橋東岸南にある石柱


【参照】五条大橋石材、橋脚3本、刻銘、安土・桃山時代、「津国御影 天正拾七年五月吉日」。橋桁2本、安土・桃山時代。京都国立博物館蔵。


【参照】京都国立博物館蔵、五条大橋石柱2本(左右)、安土・桃山時代


西詰北にある扇塚京都扇子団扇商工協同組合により1960年に建立。花崗岩類、土台は班れい岩。


【参照】エノキの大木の元にある源融(みなもとのとおる)河原院址の碑、西詰南、木屋町通下ル


【参照】河原院址の碑
邸宅は、北は五条通、南は正面通、西は柳馬場通、東は鴨川に接していた。籬(まがき)ノ森と呼ばれていた。貞観年間(859-877)、八幡宮が建立される。首途八幡、舟八幡といわれ、高瀬川開削後は、川の鎮守になった。1864年に焼失し、1869年に廃社になる。



【参照】江戸時代、1619年、徳川秀忠は63名のキリシタンを捕らえ、獄死した8名以外の52名を、六条河原に立てた十字架にかけて火あぶりの刑に処した。このうち13歳以下の子供10人が含まれていた。正面橋東のたもとにある「元和キリシタン殉教の地」の碑



【参照】祇園祭の橋弁慶山、謡曲「橋弁慶」にちなみ、牛若丸と弁慶が黒漆塗反り橋の五条大橋で戦う姿を表している。

  五条大橋の東は「京の七口」の一つで、「五条橋口」伏見町にいたる「伏見街道」「竹田口」「木幡(こわた)口」とも呼ばれ、伏見、宇治、大和、伊賀など、「洛外」へ通じる重要な街道口として開かれた。
 安土・桃山時代以前の五条大橋とは、現在の松原橋をいう。以後、「大仏橋」とも呼ばれた。五条通(六条坊門小路)も、「橋通」「大仏橋通」「大仏通」「五条通」などと変化した。現在も、東西交通の動脈である国道一号線が走っている。 
◆歴史年表 平安時代、嵯峨天皇(810-824)の勅命により橋が架けられたともいう。すでに五条大橋と呼ばれた。
 1139年、清水橋(五条橋)架橋の記録がある。橋長64間、幅員4間8寸あった。(「百錬抄記」)。かつての五条橋は、現在の松原橋付近にあり、清水寺参拝道であり、鴨川氾濫のたびに流出したことから、参拝者の喜捨(寄付)により寺が架橋する勧進橋だった。
 1159年、平治の乱で、六条河原では初の源平合戦が繰り広げられた。六波羅邸より平清盛が西行し、東行してきた源義朝の20騎に、平氏方に寝返った源頼政も北行して加わる。義朝は敗れ東国へ逃れる途中、尾張国で自害する。
 1188年、大勧進沙弥印蔵は法然の説話を聞き、五条橋の造営勧進の願主になる。清水寺阿弥陀堂の常行念仏も開く。
 平安時代末、石橋が架けられていたという。(『梁塵秘抄』)
 鎌倉時代前期、清水橋、清水寺橋と呼ばれていた。(『明月記』『東大寺要録』)
 鎌倉時代、五条橋下に流灌頂を行い、死者を供養する乞食僧・「いたか」が住していた。
 1228年、風雨洪水により、四条大橋、五条大橋が流された。(『百錬抄』)
 1233年、囚人を預かる大番衆が召人を逃した罰として五条橋修造が課せられた。
 1235年、幕府は京都大番役を怠った西国御家人に清水寺橋の修理を命じた。(鎌倉幕府法、追加法第69条)
 1245年、五条橋の修造費は幕府が負担した。(追加法)
 1263年、清水橋(五条橋)、鴨川川防用途を近国御家人に賦課する。
 室町時代、1408年、浄財の寄付により修架されている。
 1409年、京都の住人・慈恩が浄財を集め、僧・慈鉄が設計し、長さ86丈、幅24丈の長大な橋を架ける。(『本朝高僧伝』)
 1427年、洪水により四条橋、五条橋が落ち、河原在家といわれる庶民の家が流された。
 1441年、洪水により四条橋とともに落ちる。
 1461年、「寛正の大飢饉(山城大飢饉)」の際、飢饉と疫病、戦乱により、8万2000人もの餓死者が出ている。時宗の僧・勧進聖の願阿弥は、四条橋の河原、五条橋の河原、油小路の空地で多くの餓死者を葬り塚を作った。(『碧山日録』『大乗院寺社雑事記』)。鴨川には遺体が溢れ、川の流れを塞いだという。この後、五条橋で万寿寺の僧による施餓鬼が行なわれた。
 1486年、勧進聖・願阿弥は、五条橋中島の堂で亡くなったともいう。(『大乗院寺社雑事記』)
 1544年、大風、洪水により四条大橋、五条大橋が落ちる。京中で被害がある。(『言継卿記』) 
 1547年頃、五条大橋が描かれている。(『洛中洛外図屏風』上杉本)
 1573年、五条橋が古く頽廃しているとの記述がある。(『耶蘇会日本通信』)
 安土・桃山時代、1589年(1590年とも)、豊臣秀吉は奈良東大寺大仏殿を模して方広寺大仏殿を造営した。その際に、五条坊門通から六条坊門小路にあたる現在の位置に、増田長盛、前田玄以により橋を架け替えさせ、五条大橋と改めた。かつての「五条大橋」は現在の松原橋になる。通り名も六条坊門小路から五条橋通(近年になって五条通)へと変わる。新たな五条大橋は、伏見城の玄関口、方広寺、豊国神社への参道になる。伏見城から御所への参内のための役割も果たした。当時、豊国神社には能舞台が設けられ、花見客で賑わう。五条河原は、興行地にもなり、初めの頃、出雲阿国らも踊ったとされる。異説もある。
 1591年、豊臣秀吉は京を取り囲むお土居を築造している。
 江戸時代、1610年、角倉了以は鴨川疎通の工事を行い、五条大橋まで川船が航行するようになる。大仏殿の造営工事の資材運搬のために、鴨川で筏が利用された。
 1643年、朝鮮使節団入洛のために補修される。
 1645年、五条大橋は公儀橋として、総石造りの橋(長さ116m、幅7.3m、青銅擬宝珠16基)に架け替えられた。(『京都坊目誌』)
 1654年、五条大橋は鴨川に架かる11橋の一つとして記されている。(「新板平安城東西南北町並洛外之図」)
 1662年、大地震により橋は20間が崩壊、再び木橋(長さ126m、幅7.9m)に付け替えられた。
 1669年、五条大橋が架け替えられる。
 1669年-1670年、鴨川新堤(車坂-五条橋)の工事が始まる。
 1682年、朝鮮使節団入洛のために補修される。
 1688年、架け替えられる。
 1687年-1690年、五条大橋が架け替えられる。奉行は後藤重貞、角倉与一による。(「京都役所方覚書」)
 1711年、朝鮮使節団入洛のために修造される。奉行は平岡良久、角倉与一が任じられた。
 1719年、朝鮮使節団入洛のために補修される。(上方所々橋新造御修復共年数之覚」)
 1788年、天明の大火により一部焼失する。
 1852年、洪水により五条大橋が落ちた。
 近代、1868年、橋は京都府の管轄になった。
 1869年より、京都府は橋の修繕費として地車1両につき50文の通行料を徴収した。
 1877年まで、橋は鴨川と高瀬川を跨いでいたという。
 1878年、擬宝珠は取り払われ、欧風の木造橋となり橋は白く塗装された。
 1894年、擬宝珠高欄のある現在の形に戻された。
 1935年、「昭和10年鴨川大洪水」の際、橋は大部分が流出した。橋下流の護岸改修工事が行われ、石垣は高く築き直された。
 1945年、太平洋戦争末期、京都大空襲に備えた建物の強制撤去により、五条通の50m道路が生まれている。
 現代、1959年、国道一号線開通とともに現在の橋が架けられている。
◆五条大橋 五条大橋の架設年は1959年であり、橋種は、3径間連続鋼プレートガーター、橋長67.2m、幅員35mになる。高欄は石造、擬宝珠は江戸時代のものが復元された。
 
擬宝珠は現在も16基ある。欄干は花崗岩になる。銘は「明治十年(1877年) 橋之際除 本年重修 壊二珠因新 改修五條 擬實珠当 復舊形偶 造補之云 明治二七年一月 京都府」「洛陽五条石橋正保二年乙酉十一月吉日 奉行 芦浦観音寺舜興 小川藤左衛門尉正長」、「昭和十年(1935)六月の洪水に流出した六個を補充鋳造する 昭和二十七年(1952)五月 京都市」とある。鴨川大洪水(1935)の際には、安土・桃山時代、明治期のものなど11基の擬宝珠が流出したという。
 1897年に、「本願寺水道」が橋下に吊り下げられている。琵琶湖疏水により防火用水確保という目的があった。
◆河原院 五条大橋西岸南には、平安時代、源融河原院があった。紫式部『源氏物語』の主人公とされる嵯峨天皇皇子源融(822 - 895、みなもとのとおる)は、河原左大臣といわれた。
 邸宅は、鴨川の水を取り入れた庭園が造られ、池は奥州塩釜ノ浦の沖合いにある籬(まがき)ノ島を模していた。海人の塩屋を造らせ、難波から毎日塩水三十石を運んで焼かせた。邸には人が絶えず、在原業平も訪れた。
 その贅を尽くした庭園の半分は、その後、宇多天皇の東六条院(六条院)となり、寛平年間(889-898)、融の子・仁康上人により河原院という寺に変わり、鴨川の氾濫などにより消失した。
◆願阿 室町時代の時宗の僧・願阿(願阿弥、?-1486)。越中国に生まれた。時宗の勧進聖になり、五条大橋の架け替え、南禅寺仏殿の再興も行う。8万人の餓死者が出た1461年寛正の大飢饉では、8代将軍・足利義政は、願阿に飢民への施食を命じた。願阿は興福寺により清水寺の勧進僧の役を与えられる。1478年清水寺の鐘を勧進により鋳造、1479年清水寺本願職に補任された。1481年奈良・元興寺極楽坊曼荼羅堂の千部経勧進を行い供養する。1482年清水寺本堂を上棟している。その後、その功により「成就院願阿」と呼ばれた。五条橋中島の堂で亡くなったともいう。
◆牛若丸 五条大橋(現在の松原橋)は、武蔵坊弁慶が牛若丸と戦い、打ち負かされたという伝承がある。
 牛若が、侍千人斬りをしていた弁慶を打ち負かし、主従の誓いをしたという伝承は、謡曲『橋弁慶』、御伽草子『橋弁慶』、『義経記』などにあり、それぞれ手合いの場所、話にも違いがある。謡曲、御伽草子では五条大橋が立ち合いの場になった。『義経記』では弁慶が刀を千組集めようとしていたところに牛若丸が現れる。五条天神で出合い、清水寺で斬り合う。『じぞり弁慶』『橋弁慶』では、牛若が五条橋で仇の平家方千人斬りを行い、弁慶がこれを止めようとして斬り合う。『弁慶物語』では弁慶が書写山円教寺再建に充てる釘料のために、北野神社、法性寺、清水寺を経て五条橋で千本目の刀を求めて牛若と斬り合う。
 現在、五条大橋に牛若丸・武蔵坊弁慶像がある。牛若丸と弁慶決闘の場面であり、御所人形風になる。笛を手にした牛若丸、長刀を持った弁慶像であり、1961年、京人形師「面庄」の13世・岡本庄三作になる。牛若丸は81㎝、1mの欄干にのる。黒御影石製。弁慶は1.22m。台座は班れい岩、土台は玄武岩になる。花崗岩製、
◆京の七口 五条大橋の東は「京の七口」の一つで、「五条橋口」「伏見街道」「竹田口」「木幡(こわた)口」とも呼ばれ、伏見、宇治、大和、伊賀など、「洛外」へ通じる重要な街道口に当たっていた。
 「京の七口」について、「七口」とは定まらず「十口」ともいう。実際にはそれら以外の複数の間道もあったという。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉の御土居築造の際に七口は、「粟田口(東)、東寺口(坤)、丹波口(西)、清蔵口(北)、鞍馬口(艮)、大原口(北)、荒神口(東)」とされた。
 江戸時代には、「山陽道(摂津道)東寺口、東海道(伊賀伊勢道)五条橋口、西海道(九州道)四条大宮口、南海道(紀州道)竹田口、東山道(近江道)三条 橋口、北陸道(若狭道)大原口、山陰道(丹波道)清蔵口」の呼称があった。また「鳥羽口、伏見口、丹波口、粟田口、八瀬口、若狭口、長坂口」、「東寺口、 竹田口、五条橋口、大原口、三条橋口、千本口、七条口」ともされた。
◆刑場 平安時代末期より、三条から七条河原にかけては刑場になり、首渡しの場になった。五条大橋の南北に広がるかつての六条河原一帯は処刑場になった。六条河原は、現在の五条大橋から正面橋にかけての鴨川の河原をいい、河原は現在よりも広大だった。
 保元の乱(1156)の源為義、平忠正、その長男・新院蔵人長盛、二男・皇后宮侍長忠綱、三男左大臣勾当・正綱、四男平九郎道正、平治の乱(1159)の源義平、藤原信頼、木曽義仲による法住寺殿焼き討ち(1183)の明雲大僧正、宇治川の戦い(1184)の木曽義仲、一の谷の合戦(1184)の平忠度、平経正、源義経を襲った土佐坊昌俊(1185)、「18人の群盗」(1186)、安土・桃山時代、信長に謀反を起こした松永久秀の人質(1577)、同じく荒木村重一族妻子ら30数人(1578)、本能寺の変(1582)の斎藤利三、聚楽第落書事件(1589)の尾藤次郎右衛門入道道休の妻子、関与した60余人、関ヶ原の戦い(1600)の西軍の石田三成、小西行長(四条河原とも)、安国寺恵瓊、江戸時代、大坂の役(1614-1615)の長宗我部盛親、仙石宗也、豊臣国松らがここで斬首、首渡し、自害などを行った。処刑後は三条大橋のたもとに首が晒された。
 たとえば、豊臣秀頼の遺児国松は、大坂城落城後、城を脱出し、伏見の農人橋の下に潜んでいたのが見つかり、1615年六条河原で斬首された。
 宗教弾圧も行なわれた。1609年、日経子弟らが宗論の末に処刑された。1619年、「京都大殉教」が行なわれた。63名のキリシタン町人が捕えられ、獄死した8人以外の52人を六条河原(七条河原とも)に立てた十字架にかけて火あぶりの刑に処した。このうち、13歳から2歳までの子供は11人だったという。
 こうした六条河原の処刑場の役割は、後に粟田口、三条通土居西に移るまで続いた。
◆法城寺 五条橋中島にかつて法成寺という寺が建てられていた。寺号は「水(さんずい偏)を去りて土(土偏)と成す」の意味という。大黒堂ともいわれ、本尊の大黒天を安置した。五条橋の管理のための寺で、勧進聖が通行税を参詣者より徴収していた。安倍清明が建立したともいう。鎌倉時代、元弘・建武の乱(1331-1338)で焼失したという。(「清水寺参詣曼荼羅」「雍州府志」)。寺は自然居士、声門師ら芸能者の拠点にもなっていた。
◆河原者 9世紀、税のかからない河原に住む人々が現れた。平安時代末期から鎌倉時代初期、さまざまな職業集団を形成し、社会的身分集団となり、「河原者」「河原法師」とも呼ばれた。室町時代、山水河原者は石組などの技能に優れ、庭園作庭などに従事した。江戸時代、1633年、六条村成立の記録が残る。村は、「新地」開発によって三度移転させられている。村では、五条大橋、三条大橋などの維持管理、治水も担っていた。
◆埋葬地 飢饉や戦乱が起こると、四条、五条の河原は、餓死者などが埋葬される場所にもなった。
◆芝居小屋 安土・桃山時代、五条河原では常設の芝居小屋が建てられた。一時期の五条河原は、出雲の阿国に代表されるような芸能、遊興の場にもなった。
◆遊郭 江戸時代の初め、島原ができる以前は、現在の五条通の南付近、六条柳町(六条三筋町)に遊郭があった。出雲の阿国(1572 -?)は、五条大橋の東詰めで「ややこ踊り」を踊ったともいわれている。その後、阿国の踊りを真似た、遊女による遊女歌舞伎という総踊りが四条河原の小屋で演じられるようになった。
◆朝鮮通信使 江戸時代、李氏朝鮮よりの使節団は1607年から1811年までの12回来日している。大坂より淀川を船で遡り、淀・納所で上陸、陸路で淀小橋から淀城、京都を経て江戸に向かっていた。これに先立ち、要所に架けられた橋の修復が行われた。復路もぼぼ同様の道筋を辿ったが、たとえば1719年には三条大橋ではなく五条大橋より本圀寺に入っていた。
◆扇塚・新善光寺 橋の西詰北にある「扇塚」は、京都扇子団扇商工協同組合により、1960年に立てられた。扇は日本で発明され、この地は扇発祥の地とされる。五条界隈には多くの扇職人が住んだという。また、付近には僧尼が扇を製作していた新善光寺(御影堂町)があった。いつかの逸話がある。  
 平安時代、平敦盛(1169-1184)の室は、夫没後にその菩提を弔うために出家し、蓮華院尼と称した。五条西詰にあった「平時宗御影堂」に入り、寺の僧と共に扇子を作った。扇は「阿古女扇(あこめ おうぎ)」と呼ばれ、女性が正装の際に手に持つものだったという。
 平安時代、第52代・嵯峨天皇(786-842)が病の際に、寺の住職・祐寛阿闍梨(ゆうかく あじゃり)は、呪文を封納した扇を献上した。天皇の病が平癒したことから、扇は世に知られたという。
 南北朝時代、鷹司通(下長者町通)の駒井氏は「城殿扇(きどの おうぎ)」を製作し、名が知られた。その近くに、真言宗の新善光寺御影堂(春日東洞院)があったという。寺では、駒井氏に扇の技術を学び、寺の僧尼が扇を製造していたという。(「雍州府志」)
 中世(鎌倉時代-室町時代)以来、寺の僧は「御影堂扇(みえどうおうぎ、阿波祈り)」を折った。室町時代、都の名物になる。鎌倉時代、寺の周辺に塔頭が多数存在し、副業として「御影堂扇」を作り販売していたという。
 安土・桃山時代、寺門前の町人も扇を製造したため、製造差止が命じられたという。江戸時代の「京町鑑」に、御影堂前町に扇を売る商人があり、「御影堂扇」と呼ばれたと記している。
 明治期(1868-1912)まで、新善光寺の僧が扇を製作していたという。
◆近代・景観論争 江戸時代から近代、明治初期頃まで、五条大橋の美しさは虹にたとえられた。そりの高い木製の橋だったという。
 近代、1868年に橋は京都府の管轄となる。1877年までは、橋は鴨川と高瀬川を跨いでいたという。
 1878年に擬宝珠は取り払われ、欧風の木造橋となり、橋は白く塗られた。だが、市民の不評により、1894年に擬宝珠高欄のある現在の形に戻された。
 現在の橋は1959年に架けられている。この際にも、擬宝珠をめぐる混乱があった。地元は昔通りにすることを要望し、建設省、学者側は「近代橋」を主張した。結局、高欄は石造りとし、擬宝珠も残されることになった。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『京の橋ものがたり』『京都の治水と昭和大洪水』『京都隠れた史跡100選』『史跡探訪 京の七口』『京都時代MAP 平安京編』『京都の自然ふしぎ見聞録』


  扇塚・新善光寺跡      松原橋      五条天神社      蓮光寺      四条大橋      豊国神社       「元和キリシタン殉教の地」の碑      正面橋        鞍馬寺            
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