建仁寺 (京都市東山区)
Kennin-ji Temple 

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勅使門(重文)











泮(はん)池といわれる左右対称の池に反りのある桁行形式の石橋が架かる。俗世から聖地に入る境界を意味する。








三門「望闕楼」


三門、「望闕楼」の扁額、4代・竹田黙雷(宗淵)筆。













本坊(重文)、庫裏、1818年建立、切妻造。


法堂(はっとう、拈華堂)















法堂内天井画












東の鐘(陀羅尼鐘)




鐘楼


開山堂楼門(宝陀門、宝陀閣)、客殿、経蔵、開山塔がある。(非公開)。


開山堂楼門


浴室(非公開)



















方丈(重文)





方丈前庭


方丈前庭の「大雄(だいおう)苑」
 建仁寺(けんにんじ)は、京都最古の禅寺であり、「けんねんじ」「けんねんさん」とも呼ばれている。京童の囃子言葉として「建仁寺の学者面、学問面」ともいわれた。山内に12塔頭、山外に3塔頭がある。同派寺院は全国に100か寺ある。山号は東山(とうざん)という。  
 臨済宗建仁寺派大本山。本尊は釈迦如来。
 京都五山の第三位。
◆歴史年表 鎌倉時代、1202年、栄西を開山とする。鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の援助を得て、六波羅探題に近接する幕府直轄領(旧平氏館跡地、六波羅探題、四条以南、五条以北、鴨川以東、東山以西)に創建された。建仁寺の寺名は、第83代・土御門天皇の勅許により、禅寺初の年号寺院になった。当初は、真言、止観という二院を置き、天台宗別院とされた。これは、比叡山延暦寺、真言宗に配慮し、建前として真言(密)、天台(止観、円)、禅門の三宗の兼学とされた。(『帝王編年記』『元亨釈書』『沙石集』)
 1204年、武将・佐々木定綱は自ら車を曳き、僧堂の基礎工事に加わる。(『帝王編年記』)。僧堂、重閣講堂、真言院、止観院が建立された。
 1205年、中国百丈山(江西省)を模し伽藍竣工された。官寺の扱いになる。(『武家年代記』裏書)
 1214年、比叡山を下りた道元は建仁寺に栄西を訪ねる。
 1215年、栄西が建仁寺で没する。(『沙石集』)。鎌倉・寿福寺だったともいう。
 1217年、道元は明全につく。
 1228年、宋より帰国した道元が住した。
 1240年、済翁証救8世が入寺、法観寺を禅寺とする。
 1246年、二階堂(講堂)が焼失した。(『百錬(練)抄』)
 1247年、焼失したという。
 1256年、焼失し、荒廃する。(『一代要記』)
 1258年、東福寺開山・円爾(えんに)弁円が10世になり、仏殿、雲堂(僧堂)を復興した。(『元亨釈書』)
 1259年、宋よりの11世・蘭渓道隆の時、兼宗禅から臨済禅道場に改められる。
 1265年、蘭渓道隆により臨済禅寺になる。寺名は、「仁」を避け、「建寧寺」と改名した。
 1278年、焼失する。
 1305年、方丈が再建になる。
 1327年、禅居庵は清拙正澄将来の魔利支天像を祀る。
 南北朝時代、1334年、建武政権により京都五山の第2位の、初の格付けになる。浴室を修造する。清拙正澄は十境を新成する。
 1334-1335年、石梁仁恭が興雲庵を創建する。
 1340年、1341年とも、武将・佐々木高氏により妙法院が放火され、建仁寺の輪蔵、開山堂、塔頭・瑞法庵なども類焼する。(『中院一品記』『太平記』)
 1341年、1342年とも、幕府により京都五山の第4位になる。
 1342年、塔婆が再興された。
 1342-1345年、東海竺源は大中庵を創建する。
 1346年、海雲は高山慈照を開基として霊洞院を創建する。正仲は高山慈照を開基として堆雲軒を創建する。  
 1348年、赤松円心は大龍庵を創建する。
 観応年間(1350-1352)、青山慈永は大統院を創建した。
 1355年、天潤庵が焼失し、「景徳伝燈録」の板の大半を失う。
 1358年、足利義詮により京都五山の第4位になる。
 1362年、中巌円月は万寿寺境内の妙喜世界を移す。
 1363年、43世・青山慈永は、初の法堂を造営し、伽藍の修造も行う。
 応永年間(1368-1375)、聞渓良聡が大昌院を創建する。
 永和年間(1375-1379)、蘭洲良芳が清住院を創建した。
 1380年、僧堂を修理する。義堂周信が住した。京・鎌倉五山の一寺になる。(円覚寺文書)
 1386年、3代将軍・足利義満により京・鎌倉五山位が決まり、建仁寺は京都五山の第3位に列せられた。(「円覚寺文書」)。ただ、延暦寺側は天台別院とした。
 室町時代、最盛期に塔頭50余りあり、黄竜派、諸派の僧が集まり「学問づら」と呼ばれた。
 1394年、一庵一麟が霊源院を創建した。
 1397年、焼失した。(『如是院年代記』)。一庵一麟は祖塔を修復する。
 1407年、仏殿が再建される。
 1410年、「建仁寺法式条々」を制定する。
 1419年、「建仁寺法」「山門条々規式」を制定した。
 1435年、諸塔頭を焼く。
 1440年、塔頭、法観寺八坂塔の落慶法要が催される。
 1442年、祖塔が修造される。
 1443年、塔頭を焼失した。
 1456年、足利義政は雪巌氷嵩らを高麗国に派遣し建仁寺修復の援助を請う。
 1458年、諸堂が修理される。足利義政は、雪巌氷嵩らが請来した高麗蔵経を方丈で閲覧する。
 1461年、足利義政の命により、建仁寺僧が五条橋上で飢餓死者の追善法要を行う。
 1465年、洪水により諸堂が被災する。食事案内の沙弥喝食(しゃみかっしき)が抗議、蜂起する。
 1467年、塔頭、八坂塔が炎上する。
 1469年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失した。再興には町衆が支援する。焼失を免れたともいう。
 1480年、祖塔が修造される。
 1481年、焼失している。
 1488年、清住院が夜盗により焼失した。
 1493年、福聚院が今熊野より移築される。
 1514年、月舟寿桂により開山300年遠忌が修され、諸堂が修理される。
 1521年、一華院が創建された。
 1524年、狩野元信は「仏涅槃図」を寄進する。
 1547年、織田信秀は魔利支天堂を再興した。
 1552年、三好長慶・細川晴元の兵火により仏殿、方丈、法堂、寝堂、三門、三重塔、僧堂、五頭首、維那寮(いなりょう)など多くの塔頭も焼失した。(『読史愚抄』『言継卿記』)
 1554年、方丈再建になる。
 1564年、普光庵が再建された。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)により再興された。
 1586年、豊臣秀吉は寺領820石(825石とも)を寄進した。(『坊目誌』)
 1596年、十如院が再建される。
 1597年、進月正精は禅居庵を再建する。
 1598年、入定塔、法堂、祖塔を修造した。
 1599年、文禄年間(1592-1595)とも、恵瓊は安岐・安国寺より方丈を移築し再建した。海北友松が北条に障壁画を描く。
 江戸時代、1604年、豊臣秀吉の七回忌豊国社臨時祭において、神官は200騎で建仁寺より豊国社に向かった。
 1608年、奥平信昌が三江紹益を開基として久昌院を創建する。
 1614年、徳川家康が寺領820石を安堵する。(朱印状)
 1615年、古澗慈稽、三江紹益、利峰東鋭が硯学になる。
 1616年、1618年とも、織田有楽は正伝院を再興する。
 1619年、浴室の立柱が行われる。
 1628年、三江紹益により浴室が再建された。
 1633年、永源寺が再興された。
 1637年、大統院が再興される。
 1635年、徳川幕府による「五山十刹諸山之諸法度」により、寺院の保護と統制が行われた。朝鮮修文職を、天龍寺などと共に輪番制で務めた。
 1637年、長谷川守尚が古澗慈稽により大統院を再興する。
 1652年、諸塔頭が再興される。
 1653年、「当寺規範」が制定された。清住院が再興になる。
 1661年、「当寺規範」が制定された。
 1664年、顕令通憲は開山塔を修理、開山祖像を新彫し開眼法要を行う。
 1669年、鐘楼が創建される。
 1713年、法堂祖師像の祖師像新彫安座点眼法要が行われる。
 1730年、如是院が焼失する。
 1736年、方丈の屋根瓦を修造する。
 1754年、北かん道爾が祖塔を修復した。
 1765年、法堂が建立される。
 1783年、蛭子社が再建になる。
 1788年、天明の大火では門前から出火した。
 1789年、興雲庵を焼失する。
 1780年、興雲庵が再興される。
 1814年、法堂が修造される。
 1837年、宝蔵を焼失する。
 1850年、鎌倉・寿福寺祖塔再建のため、本山、塔頭が各100両を寄進した。
 1853年、全室慈保は霊洞院を再興する。
 1860年、江戸城本丸再建のために、銀100枚を上納する。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、塔頭の統廃合が行われ、34院が14院になる。皇室へ金100両を献金する。
 上知令(1871、1875)により、寺領の没収により半減(23477坪)している。
 1872年、京都五山、大徳寺、妙心寺は七派と称し、建仁寺派と称した。初代管長には荊叟東玟が就く。京都博覧会(80日間)の会場の一つになる。
 1873年、霊源院、正伝院、福聚院、清住院の境内は上知になる。
 1876年、臨済宗の諸派から建仁寺派が独立し、建仁寺は総本山になった。京都府は建仁寺の福聚院を借上げ、療病院の仮駆梅院を開設した。
 1877年、妙心寺・玉龍院より開山堂客殿を移す。
 1884年、開山堂が竣工される。
 1885年、妙光寺の宝陀閣を移築し、祖塔楼門とする。
 1891年、霊洞院を僧堂常住、護国院を禅堂にする。
 1897年、境内に仏教中学校を創設した。
 1898年、僧堂・大悟堂が再建される。
 1913年、献茶式が始まる。
 1921年、茶席「東陽坊」が開山堂北より現在地に移される。
 1923年、安寧寺の三門を移築、望闕楼を再興する。
 1924年、大統院が焼失する。三門の落成法要が催される。
 1930年、大統院本堂の落慶法要が行われる。
 1934年、室戸台風のため方丈が倒壊する。ほかの伽藍にも被害がある。
 1940年、方丈が再建される。大書院、隠寮が建立される。
 現代、1953年、勅使門の解体修理が行われた。
 1964年、納骨堂の落慶法要が行われる。
 1973年、禅居庵本堂が焼失した。
 1975年、茶室「東陽坊」が解体修理される。
 1976年、茶室「東陽坊」の落慶法要が行われる。
 1991年、放生池の改修が行われる。
 2002年、浴室が修復され、落慶法要が行われた。日本画家・小泉淳作の法堂天龍図「双龍図」の開眼法要が行われる。
 2009年、綴プロジェクト(文化財未来継承プロジェクト)」は、高精細複製の海北友松筆「年雲龍図襖」を同寺に寄贈した。
 2011年、綴プロジェクト(文化財未来継承プロジェクト)」は、高精細複製の海北友松筆「雲龍図襖」「花鳥図襖」「花鳥図襖」、俵屋宗達「風神雷神図屏風」を同寺に寄贈する。
 2012年、綴プロジェクト(文化財未来継承プロジェクト)」は、高精細複製の海北友松筆「竹林七賢図襖」「山水図襖」を同寺に寄贈した。
 2013年、綴プロジェクト(文化財未来継承プロジェクト)」は、高精細複製の「琴棋書画図襖」「山水図襖」を同寺に寄贈する。
◆栄西 鎌倉時代の臨済宗の僧・栄西(えいさい/ようさい、1141-1215)。備中(岡山県)の吉備津神社の社家・賀陽(かや/かよう)氏に生まれた。幼名は千寿丸。千光祖師ともいわれる。天台宗の安養寺の静心につく。11歳で安養寺・静心に師事、1153年、13歳で比叡山に上り、1154年、出家し栄西と称した。1157年、法兄・千命により密教を学ぶ。1159年、比叡山北谷八尾の竹林房、顕教の有弁に学ぶ。比叡山を下り、1167年、故郷の安養寺で灌頂を受け、備前・金山寺、日応寺、伯耆の大山寺で行を行う。1168年、宋船で宋に半年間留学し、天台山、阿育王山で臨在禅に触れる。現地で東大寺の重源と遭う。台密葉上流を開く。1175年より、今津の誓願寺に住した。1185年、第82代・後鳥羽天皇の勅により神泉苑で祈雨修法を行う。葉上(ようじょう)の号を贈られる。1187年、再び南宋に入宋するが、念願したインド行きはかなわなかった。天台山、天童山に入り、大蔵経を三度読破する。臨済宗黄竜派、万年寺の虚庵懐敞(きょあん かいへい)に禅を学び、印可を得た。1191年、帰国し臨済宗を開宗した。1192年、筑前に報恩寺を建てた。平戸の庵(後の千光院)で日本初の臨在禅(禅規)を行う。1194年、栄西、達磨宗の大日能忍らは、延暦寺衆僧により、禅宗弘法を禁じられた。やむなく、1195年、日本初の禅寺・聖福寺を博多に建立した。臨済禅は公家に拮抗する鎌倉幕府、2代将軍源頼家に信を得る。1199年頃、鎌倉に移る。1200年、北条政子発願により鎌倉・寿福寺を開く。源頼朝一周忌の導師を勤めた。1202年、幕府の外護により建仁寺などを建立、重源を継いで、1206年、奈良・東大寺の僧正にも就いた。1208年、法勝寺の再建にも関わる。1211年より、宋より帰国した泉涌寺開山・俊じょうを建仁寺に招き律学を講じさせた。1213年、権僧正。日本臨済宗千光派の祖。鎌倉の寿福寺で亡くなったとも、建仁寺で亡くなったともいう。境内、開山堂に栄西を祀る。建築を学び、『喫茶養生記』(1214)を著し茶を勧めた。門弟2000人、孫弟子1万人にものぼったという。
 栄西の禅は、天台僧として禅を末法の教えとし、禅による天台宗の復興を唱えた。戒律自主厳守の斎戒勧進を勧める。『興禅護国論』(1198)では、末法の世で戒律の重要性、最澄が伝えた禅の復興を主張した。人は仏性を本性とするとした。禅は他宗教義を否定するのではなく、天台の摩訶止観を引き継ぐものとし、天台、密教、禅の統合を試みた。栄西の建仁寺は、天台、真言より禅宗への過渡的な役割を果たしたといわれている。
 栄西は宋留学時代にいくつかの逸話を残した。1189年、栄西は宋の天童山景徳寺で虚庵懐敞に引き続き師事した。当時、疫病が流行っていたという。時の孝宗帝は、中国の僧に命じて疫病退散を祈念させた。だが、効果は出なかった。栄西が祈ると疫病が止み、死者が甦ったという。帝は栄西に千光法師の号を贈った。宋の万年寺、観音院、大慈寺の修造に栄西は勧進を行った。景徳寺の千仏閣修復には日本から材を送ったという。後に、建仁寺建立の際に、その礼として景徳寺より鐘を贈られた。だが、豊臣秀吉は、1590年の小田原攻めの際に鋳直し、武器にしたという。香椎宮には、日本初の菩提樹を宋より伝え、植えたという。
◆明全 鎌倉時代前期の臨済宗の僧・明全(みょうぜん、1184-1225)。伊賀の蘇我氏末裔。号は仏樹房。 8歳で延暦寺横川般若谷の杉井房明融に師事した。16歳で東大寺の具足戒牒を持ち、1200年、比叡山で登壇受戒した。30歳過ぎで建仁寺の栄西に師事した。1223年、弟子・道元、亮照(加藤四郎左衛門景正)、廓然(木下道正)らを伴って宋に渡り、景福寺の妙雲、栄西の師・太白山景徳寺の無際了派のもとで学んだ。だが、天童山で病に倒れ了然院(寮)で亡くなる。
 弟子の道元とは師弟関係が9年あり、天台教学・黄竜派の禅・戒律などを教えた。明全没後、道元が宋より遺骨を持ち帰る。道元は『舎利相伝記』を著し、明全の戒牒に奥書を記して永平寺に納めた。現在、建仁寺開山堂前庭に明全塔(五輪塔)が立ち遺骨が納められている。
◆道元 鎌倉時代の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。承陽大師。父・内大臣源(土御門)通親、母・太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)の間に生まれた。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘という。その後、久我の地に引き取られたとみられる。1203年、父を亡くす。1207年、母を亡くす。1208年、叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺の良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもとで菩薩戒を受ける。1214年、比叡山を下り、園城寺の母方縁者・公胤(こういん、47世長吏)の門を敲く。公胤の勧めにより1217年、臨済宗の建仁寺に移り、栄西、その高弟・明全に学ぶ。1223年、師・明全と共に宋に渡る。天童山・景徳寺で無際了派に学ぶ。杭州、台州を遍歴。1225年、明全が亡くなる。曹洞宗・長翁如浄に師事し曹洞禅を学んだ。1227年、如浄の法統を得て帰国、1228年、建仁寺に入る。建仁寺で日本初の坐禅儀『普勧坐禅儀』を書く。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受け、1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草・極楽寺に修行道場の観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。天台宗の圧力はやまず、1243年、越前に逃れ、1244年、大仏寺(後の永平寺)を開いた。1247年、鎌倉幕府執権・北条時頼に請われ下向、1252年、病になり、翌年、京都の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。
 道元は、無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが最高の修行とする「只管打坐」(しかんたざ)などを唱えた。6篇の禅院での修道規則「永平清規」も定めた。仏法の正門は座禅にあるとした『正法眼蔵』95巻(1230-1252)を著した。
 現在、境内に顕彰碑が立つ。伊達冠石3石からなり、栄西、明全、道元を表す。
◆蘭溪道隆 鎌倉時代中期の臨済宗の僧・蘭溪道隆(らんけい どうりゅう、1213-1278)。南宋の生まれ。大覚派の祖。諡号は大覚禅師。13歳で成都・大慈寺で出家し、江南の無準師範、痴絶道冲、敬叟居簡らに参じ、平江府・陽山尊相禅寺・無明慧性の法嗣。1246年、入宋していた泉涌寺僧・月翁智鏡により門弟とともに来日した。筑前・円覚寺、泉涌寺・来迎院、鎌倉・寿福寺などに寓居した。執権北条時頼の帰依を受け、1249年、時頼が建立した建長寺の開山になる。1259年頃、建仁寺住持となり、兼学から禅の寺風に改めた。1261年頃、鎌倉に戻り寿福寺、鎌倉・禅興寺、1265年、建長寺に再住。文永年間(1264-1274)、蒙古間諜との嫌疑により甲斐・東光寺に配流、赦され寿福寺に住し、1274年頃、再び甲州に配流、その後、寿福寺に戻り、1278年、建長寺に帰り主席、同寺で没した。建長寺・西来院に塔じられる。門流は大覚派と呼ばれた。遺著『大覚禅師語録』など。
◆安国寺恵瓊 安土桃山時代の僧・安国寺恵瓊(あんこくじ えけい、?-1600)。安芸国の守護武田家に生まれた。安芸国安国寺・竺雲恵心に師事、1569年、備後・安国寺の住持、使僧(外交顧問)として毛利氏と京都の調停に当たる。1573年、足利義昭と織田信長の争いでは義昭に付く。1582年、豊臣秀吉の備中高松城攻めでは双方の講和に入る。その後、秀吉の使僧として四国平定により、伊予国に所領を与えられ大名になる。文禄・慶長の役(1592-1598)にも加わる。石田三成に与し、毛利家内の吉川広家と対立、1598年、東福寺224世・住持、1599年、東福寺退耕庵主。1600年、南禅寺住持、建仁寺再興に際して、住持をしていた安芸・安国寺方丈、東福寺仏殿を移し、それぞれ方丈と仏殿にあてた。関ヶ原の戦では西軍敗北に伴い、京都で捕らわれ六条河原で斬首になる。五条橋上の腰輿の中で切腹したともいう。
 首は、建仁寺の僧侶が持ち帰り、当寺に葬ったという。墓は建仁寺の方丈裏にある。辞世の詞「清風払名月、明月払清風(清風は名月を払い、明月は清風を払う)」。
◆東陽坊長盛 安土・桃山時代の天台宗の僧・茶人・東陽坊長盛(とうようぼう ちょうせい、?-1598)。真如堂東陽坊住職。号は宗珍。茶は千利休に学び逸足(いっそく)として詫び数寄に名がある。薄茶の先達とされ、秀吉の臣に初めて廻し飲みを行う。黒茶碗「東陽坊」を所持した。楽の初代・長次郎作であり、長次郎七種の一つ。84歳。
 北野大茶会で建てた茶室「東陽坊」は建仁寺方丈裏庭に移され現存する。
◆海北友松 安土・桃山時代-江戸時代の画家・海北友松(かいほう ゆうしょう、1533-1615)。海北派の始祖。近江に生まれる。父は浅井長政家臣・海北綱親の五男(三男とも)。3歳で家滅び、東福寺で出家、狩野永徳(元信とも)に絵を学ぶ。梁楷(りょうかい)など宋、元水墨画風に影響を受ける。減筆法を拓く。豊臣秀吉に認められた。40歳過ぎで還俗した。1582年、山崎の戦で敗れ、処刑された友人の斎藤利三処刑後、その妻子(子はのちに徳川家光の乳母春日局)の面倒を見た。1602年頃、八条宮智仁親王、第107代・後陽成天皇の御用を受ける。作品は建仁寺本坊方丈「山水図」、妙心寺「花弁図屏風」など。 
◆俵屋宗達
 安土・桃山時代-江戸時代前期の画家・俵屋宗達(たわらや そうたつ、?-1637?)。詳細不明。京都西陣唐織屋の蓮池家分家、また、別家喜多川家の一族の生まれともいう。屋号「俵屋」として絵屋、扇屋を興す。琳派の創始者。烏丸光広、本阿弥光悦 らと親交があった。下絵や扇面画の作画工房「俵屋」を営み、自らも制作した。1602年、『平家納経』の一部の表紙と見返し絵の制作、1621年、養源院襖絵、杉戸絵制作、1630年、法橋の位を得る。金銀泥絵から考案した「たらし込み」、輪郭線を墨の濃淡で表現する「没骨法」などを駆使した。
◆金澤翔子
現代の書家・金澤翔子(かなざわ しょうこ、1985-)。東京生まれ。生後すぐにダウン症と診断される。1990年、母の書家・金澤蘭風に師事、1995年、全日本学生書道連盟展に「花」を初出品する。2001年、日本学生書道文化連盟展で金賞受賞。その後、矢口養護学校に進学する。2002年、日本学生書道文化連盟展で金賞受賞。2003年、ステップアップアカデミー(現・翔和学園)に入学。2004年、号「小蘭」を取得。2006年、建長寺に「慈悲」を奉納。2009年、建仁寺に「風神雷神」を奉納した。2012年、福島県いわき市に金澤翔子美術館を開設、館長となる。
◆小泉淳作 現代の画家、陶芸家・小泉淳作(こいずみ じゅんさく、1924-2012)。鎌倉市生まれ。政治家・小泉策太郎の7男。慶應義塾予科仏文を経て、1943年、東京美術学校入学。1943年、陸軍予備士官学校、応召、1945年、結核で帰郷療養した。1948年、東京美術学校日本画科に復学した。山本丘人に師事した。1952年、芸大卒業後、デザイナー、陶芸家としても活躍する。2002年、建仁寺法堂に天龍図を描く。建長寺の天井画がある。
◆鳥羽美花 現代の染色作家・鳥羽美花(とば みか、1961-)。愛知県生まれ。1985年、京都市立芸術大学美術学部卒業、1987年、同大学院修士課程修了、染織工芸を専攻、「型染」の研究・作品制作した。2002年、京都市芸術新人賞、2003年、都市文化奨励賞受賞。2005年、ベトナム政府より文化功労賞、2007年、京都精華大学芸術学部准教授。2012年、外務大臣表彰。2014年、建仁寺小書院襖絵16面を制作、展示する。
◆仏像・木像・肖像 法堂正面須弥壇の、室町時代作、本尊「釈迦如来坐像」は、16世紀後半に越前・弘祥寺より遷されたものという。江戸時代、1677年に補修されている。禅定印、結跏趺坐する。
 脇侍に「阿難尊者立像」、「迦葉尊者立像」を安置する。脇壇祖師堂に「栄西像」、土地堂に伽藍神の張「大帝(中国廬山・帰宗寺より勧請)」を安置する。須弥檀付近に、中国風の華麗な彫刻が施された前卓(まえじょく)、天蓋(てんがい)が吊り下げられている。
 方丈の「十一面観音菩薩坐像」は、江戸時代作であり、東福門院(1607-1678)により寄進された。結跏趺坐、右手は与願印、左手に水瓶を持つ。
 書院に近代、1923年に山本瑞雲作の「釈迦如来坐像」が安置されている。「十六羅漢像」は、かつて三門に安置されていた。一木造、素地仕上げ。
 開山堂(相の間)の真室に、江戸時代、1664年作の七条仏所・大仏師左京法橋康乗作の「栄西坐像」。その前右壇上に江戸時代、1753年、辰巳蔵之丞作の鎌倉時代幕府2代将軍の束帯坐像の「源頼家像」(1182-1204)、左に碑、手前相の間に祀られる巨石は、栄西が入定(即身仏)した地という。
 南北朝時代作の「中巖円月坐像」(京都府指定文化財)は、霊源院蔵になる。円月(1300-1375)は42世。
 鎌倉時代作の自賛「闡堤正具像」(重文)は大中院蔵。正具(?-1329)は、八坂法観寺4世。
 平安時代作の「薬師如来坐像」(重文)は、本堂の本尊として厨子内に祀られていた。昭和期(1926-1989)、薬師堂に遷された。右手は施無畏印、左掌上に薬壺を載せる。
 三門楼上には「釈迦如来」、「迦葉・阿難両尊者」、「十六羅漢」が安置されている。
◆建築 南の勅使門より北に、三門、法堂、方丈と伽藍が一直線上に建ち並ぶ。仏殿はまだ再建されていない。
 「勅使門」(重文)は、鎌倉時代後期建立の禅宗様式になる。主柱(控柱)は円柱で棟木下まで延び、貫を着き通している。平清盛の六波羅邸の門、または平教盛(重盛とも)の館門を、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後に移築したともいう。柱や扉に戦乱の矢の痕があり、「矢の根(やのね)門」「矢立(やたち)門」ともいう。切妻造、一間一戸、四脚門、銅板葺。
 「三門(望闕楼<ぼうけつろう>)」は、江戸時代末期の創建という。近代、1923年、安寧寺(静岡県浜松市)より移築された。三門とは、空門・無相門・無作門の三解脱門を意味する。望闕楼(ぼうけつろう)とは「御所を望む楼閣」を意味する。禅宗様、入母屋造、3間2間、二重門、三戸、八脚門、本瓦葺、左右に山廊付。
 「本坊」(重文)、「庫裏」は、近代、1818年に建立された。切妻造。
 「法堂(はっとう)」は、江戸時代、1765年に建立された。拈華堂(ねんげどう)とも呼ばれる。仏殿を兼用している。裳階付のため二階建に見える。実際には一階建になる。組物は詰組み。床は敷き瓦四半敷き。側面は2間の桟唐戸。花頭窓。背面は中央1間に桟唐戸を入れた後戸。禅宗様仏殿建築、5間4間(24m、19.4m)、一重裳階(もこし)付、入母屋造、本瓦葺。
 「方丈」(重文)は、室町時代、1487年に建立されている。安土・桃山時代、1599年、文禄年間(1592-1596)とも、安国寺恵瓊が広島の安国寺より移築した。近代、1934年の室戸台風で倒壊し、1940年に再建された。六間取り。天井は二重折上げ小組格天井。室中正面に双折桟唐戸、腰高障子、周囲に縁。禅宗方丈建築、11間8間(27.6m、20.8m)、一重入母屋造、銅板葺。
 「東の鐘(陀羅尼鐘)」は、17世紀中頃に建立された。別項記述。
 西にあるもうひとつの鐘楼も同時代に建立された。
 「浴室」は、江戸時代、1628年に三江和尚(諱紹益)により建立された。2002年に法堂東より現在地に移された。七堂伽藍の一つで、内部は待合、浴室(蒸し風呂)・土間(火炊場)がある。禅堂、食堂とともに「三黙堂」のひとつとされている。(非公開)
◆茶室 茶席「東陽坊(とうようぼう)」は、安土・桃山時代、1587年の豊臣秀吉の北野大茶会で、紙屋川の土手に建てられた副席という。真如堂、上京を経て、近代、1892年頃に建仁寺境内に移された。1921年頃(1924年とも)に、現在地の方丈裏庭に再移築された。
 草庵茶室、ニ畳台目の茶席の規範的な形とされる。安土・桃山時代、利休の高弟で天台宗の僧・茶人真如堂・東陽坊長盛(1515-1598)が担当した副席という。茶室「東陽坊」もその名に因む。利休は東陽坊に、鋳込んだ釜と長次郎作の黒楽茶碗「東陽坊」などを贈ったという。
 席内部は当初の形を残す。炉縁も当初のものという。躙口は西にあり、庭より入る。庇があり、左に刀掛がある。茶席は、堅皮付の中柱が立ち出炉、二重釣棚、風呂先窓、南面の台目床、床框は面取り、取合は縁無襖2枚を立てる。窓は東に色紙窓(上に連子窓、下に下地窓、片引障子)、西に躙口上の下地窓、南に連子窓、片引障子。点前畳上までの天井は床前まで野根竹竿縁の平天井、掛込天井にアシ。
 北の合の間(一畳)との間、取合に二枚襖があり茶道口、給仕口としても使われる。三畳台目向板の控室には南に床の間、丸炉、丸窓が開く。板の間の水屋(二枚の棚板、二段の袋戸棚)からなる。平屋建て、軒の出は深く杮(こけら)葺。
 庭石の一部も席に付いてきたといわれている。茶室の西側には「建仁寺垣」がある。横に渡した割竹に、真竹を縦に隙間なく並べられている。
 南に、秀吉遺愛の烏帽子石がある。
◆建立逸話 寺院の創建に際しては、土御門天皇による勅許が下りた。ただ当初は、禅僧の纏う大袈裟や大衣が都に異風を起こし、大風の被害もそのためとして噂になり、僧の都よりの追放が叫ばれた。実際に、朝廷により追放宣旨が出される。
 栄西は少しも動じず、寺院建立の用材を買い求めるように指示し、抗弁書を提出した。風は天が成すことであり、栄西という人間に風を起こすことは出来ない。もしも、風神ではない栄西が風を起こすのであれば、人以上の存在になる。そうであるならば、その栄西を天子が見捨てることはないと記した。天皇は、栄西が禅寺の建立を願い出るとすぐに許可したという。(『沙石集』)
◆五山 五山は、京都五山・鎌倉五山と呼ばれ禅宗(臨済宗)の主要寺院をいう。
 五山は、京都五山・鎌倉五山と呼ばれ禅宗(臨済宗)の主要寺院をいう。
 五山制度はインドに由来し、中国では五山、その下に十刹、35か寺の諸山が置かれた。日本では鎌倉時代末に、当初は鎌倉五山として採り入れられた。南北朝時代に京都の寺院も入るようになる。1341年に5か寺の定めが崩れ、1386年以降は、京都五山が鎌倉五山より優位に立った。室町時代に官寺の制度として確立した。
 1410年以降、京都五山の第1位は天龍寺、第2位は相国寺、第3位は建仁寺、第4位は東福寺、第5位は万寿寺、五山の「上」に南禅寺が置かれた。
 建仁寺は、鎌倉幕府の五山制度では、鎌倉4寺とともに、建仁寺が「五山」として含まれていたとみられる。京都五山のうち、室町時代、1334年に第1位、1341年に第4位、1358年に第4位、1386年に第3位に列せられた。ただ、延暦寺側は天台別院としていた。
◆五山僧 江戸時代、徳川幕府による「五山十刹諸山之諸法度」(1635)は、寺院の保護と統制が目的とされた。五山僧は碩学と呼ばれ、一定の禄が与えられた。
 僧は、漢文の素養があったため、対州修文職(以酔庵修簡職)と呼ばれ、朝鮮との外交官の役割を担った。五山中の天龍寺、相国寺、東福寺、建仁寺より、対馬に輪番で派遣されている。これらは、対馬太守・宗義調の請に応じて、景徹玄蘇が朝鮮との通講に当たったことに始まる。1580年-1866、87人、のべ126人、建仁寺からは18人が任に就いた。
◆東の鐘 「東の鐘(陀羅尼鐘)」は、京都第3位の大鐘という。平安時代、源融(822-895)の河原院のものだったという。河原院の荒廃後、鴨川七条の南の渕(釜ヶ淵)に沈んでいた。土中にあったともいう。栄西は官に乞い、鐘を引き上げたともいう。
 この際に、鐘が容易に引き上げられなかった。栄西は自らの名と弟子・長音座(ちょうしゅざ)の名を掛け声として呼べと命じた。「エイサイ」「チヨーサ」と掛け声があがると、鐘を引き上げることができた。掛け声は、後に「エッサ、エッサ」のもとになったともいう。(『都名所図会』『都林泉名所図会』)
 また、鐘は陀羅尼(だらに)鐘(陀羅尼の鐘)ともいわれる。修行僧が「観音慈救陀羅尼」を一万回唱えながら、床に就く亥の刻(午後10時頃)に鐘を撞いたことに因むともいう。草の間に独鈷文様がある。ただ、鋳造は鎌倉時代という。
◆庭園 方丈南の前庭「大雄苑(だいおうえん)」の庭は、1940年に作庭された。枯山水式庭園で、白砂地に縁苔、巨岩を配する。中国の百丈山の眺めを模したという。大雄の名も、百丈山の別名の大雄山に因む。
 庭の正面に勅使門、その背後に法堂が借景になっている。勅使門の両側には、植栽と石が組まれている。西南角の茂みの中に七重塔が立つ。1582年、織田有楽斎が、本能寺の変で自害した兄・織田信長の追善のために供養塔として立てた。かつては十三重塔だった。徳川時代には、開山塔南の溝の底に隠されていたという。1898年に開山堂から移されている。
 本坊中庭に四方正面の庭「潮音庭(三連の庭)」がある。小堀泰巌老大師作庭、監修は現代の作庭家・北山安夫(1949-)による。高雄の景石が使われており、法堂の三尊仏に見立てたという三尊石、右に座禅石、紅葉などの植栽があるスギゴケの苔庭で、島と海がともに表現されている。庭は時計回りの渦巻き型の作庭が試みられ、大小二つの島を流れが回る様を表すという。秋に冴える落葉樹のヤマモミジ、ドウダンツツジ、冬に際立つ唯一の常緑樹のヤブツバキが植えられている。
 「○△ロ(まるさんかくしかく)乃庭」は、2006年に北山安夫の作庭による。江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家・仙厓義梵(せんがい ぎぼん、1750-1837)の「○△ロ」の掛軸が元になっている。宇宙の根源的形態、禅の四大思想を表すという。地はロ(井筒の四角)、水は○(白のヤブツバキと苔の円、砂紋、あえて残された景石ひとつ)、火そして風を表すという△(白川砂、形破りといわれる巨大な三角)で構成される。
 北に、茶席「東陽坊」の茶庭がある。
◆茶 茶祖といわれる栄西は、宋に渡った際に茶を喫し、禅寺で行われていた茶の作法についても日本に伝えた。1191年の2度目の天台山滞在の際に、喫茶を習得する。栄西の「喫茶」は禅修行と結びつき、坐禅修行の際の眠気を覚ますものとして茶を用いた。茶は養生の仙薬、喫茶は延齢の妙術と説いた。
 栄西は、南宋江西省の浮梁(景徳鎮)から茶種を持ち帰り、日本での栽培を奨励する。当初は筑前、肥前の間にある霊仙寺の西の谷(霊山寺石上坊とも)、背振山石上(いしがみ、佐賀神埼郡吉野ヶ里町)に種を蒔いた。博多・聖福寺にも植えた。ただ、栄西以前、奈良時代に、すでに遣唐使によって奈良に茶木が持ち込まれていたともいう。当時の茶は、団茶(だんちゃ)と呼ばれ、団子状になっており煎じて飲んだ。栄西は挽いて飲む抹茶法をもたらした。
 茶と桑の効用を説く『喫茶養生記』(茶桑経)上下巻を著す。後鳥羽上皇の命を受けており「初治本」と呼ばれている。1214年、3代将軍・源実朝が二日酔いに臥した際に、栄西は一服の茶を献じ快復させ、本を献上したという。これは、「再治本」と呼ばれている。(『吾妻鏡』)。
 『喫茶養生記』上巻「五臓和合門」には、茶の種類、栽培法、採取法、飲用法、抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用効能、植物誌などが書かれている。肺は辛味、肝は酸味、脾は甘味、腎は鹹味(かんみ、塩味)、心臓は苦味を好むとしてこれらを摂ることを勧めた。日本人は苦味を摂らないために心臓病が多いとし、苦味の茶を飲むことを勧めた。下巻「遺除鬼魅門」には桑の飲用法、効能などについて記している。五種の病、飲水、中風、不食、瘡病、脚気などの病には、諸仏菩薩の樹であるという桑の妙薬が効くとした。
 高山寺開山の明恵が建仁寺を訪ねたという。宮中から帰った栄西は、みすぼらしい身なりの明恵を歓待し、仏教について論じた。栄西は明恵に茶の効用を説いたとも、1207年に5粒(3粒とも)の茶種を明恵に譲ったともいわれる。明恵は、栂尾の深瀬、宇治でも茶の栽培を試み、栂尾本茶のもとになったという。仁和寺、醍醐寺、般若寺、神尾寺でも栽培が試みられた。その後、伊賀、伊勢、駿河、武蔵へと栽培地は及んだ。
 1983年、境内に「栄西禅師茶碑」が立てられた。
◆建仁寺垣 「建仁寺垣」といわれる独特の垣がある。太い4つ割り竹の表を外に密に縦に並べる。これに押縁(おしぶち)といわれる横の竹を渡し、棕櫚縄の蕨縄(わらびなわ)で結ぶ。数奇屋の庭に用いられる。
◆障壁画 方丈には、かつて安土・桃山時代の海北友松(1533-1615)の障壁画があった。いずれも空間構成が絶妙とされた。室中の水墨画「竹林七賢図」16面は、7人の人物画であり、これらを4所に描き分け、間に松竹、岩などを配している。南宋時代の画院画家・梁楷の減筆体による。ほかに「琴棋書画図」、「山水図」、「走獣図」、「花鳥図」(いずれも重文)の5種、50幅は、1934年、室戸台風での被災後に掛軸に改装された。本図は京都国立博物館寄託された。仏壇の間、壁貼付絵は松、飛び立とうとする孔雀を描く。現在は、現代の日本画家・橋本関雪(1883-1945)による4羽の鴎を描いた障壁画「生々流転」がある。
 安土・桃山時代、17世紀の友松筆、紙本墨画「龍雲図」8幅軸装(重文)は、阿形龍(186×133㎝)、吽形龍(198×187㎝)の二龍で、現在は掛軸に改装されている。墨の濃淡により迫力ある筆致で、阿形は口を開く動、吽形はそれを受ける静を表している。かつて、方丈下間二之間(礼の間)に8面の障壁画として飾られ、二龍は対峙していた。1931年の室戸台風で大方丈が倒壊し、その後、軸装された。 
 2014年より小書院襖16面、大書院襖32面に、現代の染色家・鳥羽美花により型染めで染めた四季の風景が描かれている。白基調の湖を描いた「凪」、青基調の水辺の景色「舟出」が対比する。
◆風神雷神図屏風 紙本金地着色「風神雷神図屏風」(国宝)がある。ニ曲一双という異例の形式になる。江戸時代、寛永期(1624-1644)の作という。落款、印章はなく、江戸時代前期の絵師・俵屋宗達の晩年の真筆とされている。
 かつて、建仁寺塔頭・霊洞院に属した建仁寺末寺・妙光寺(右京区鳴滝)に、江戸時代、1639年頃に奉納された。1829年に妙光寺63世・全室慈保により当山に移された。
 左に白い身体の雷神、右に緑の風神を対比させ、二神は両端に寄せている。中央の金他の余白は広く取り、扇面の構図を取り入れた。二神のみを描いた初例といわれている。
 金箔の地に、雲は墨と銀泥による「たらしこみ」の技法を用いている。滲(にじ)み、斑が用いられている。生乾きの水墨に、濃淡の異なる墨を含ませて効果を狙った。銀が歳月と共に黒変することも予想して描かれたともいう。技巧は、尾形光琳など琳派絵師の先駆になった。
 三十三間堂の千手観音眷属の二神(13世紀)を参考にしたともいわれている。「平家納経」中「普門品第二五」の見返し絵、弘安本「北野天神縁起」中、清涼殿落雷の場の雷神を参考にしたともいう。京都国立博物館寄託であり、時に里帰りすると雷鳴響くという。
◆天龍図 法堂内天井画に小泉淳作(1924-)筆、水墨画の「双龍図」(11.4m×15.7m、畳108枚に相当)が描かれている。2002年に創建800年を記念して開眼法要された。龍は仏法を守護し、水の神ともとされ、修行僧に仏法の教えの雨を降らせるとされた。火災から寺を守るという意味もある。
 建仁寺で龍図は、創建以来初めて描かれた。通常は一匹だけ描かれることが多いが、ここでは、宇宙を表す円相はなく、天井一面に二匹の阿吽像が描かれている。麻紙に明時代の程君房の墨で描かれた。天井の高さは12mある。
◆文化財 江戸時代前期の俵屋宗達(生没年不詳)の二曲一双「風神雷神図」(国宝)(複製、陶板、本図は京都国立博物館寄託)、長谷川等伯(1539-1610)「松に童子図」、現代の橋本関雪(1883-1945)の「生々流転」などが描かれている。
 鎌倉時代の「明恵上人消息」(重文)は尼僧・上光坊の好意に対して断る内容となっている。鎌倉時代、1315年の「一山一寧墨蹟 雪夜作」、南北朝時代の良全筆「十六羅漢図」16幅(重文)、鎌倉時代、霊洞院蔵「伏見天皇宸翰 読漢書詩」(重文)、南宋時代の宋拓、石橋可宣筆「三自省察」(重文)、南北朝時代、1338年の「高山慈照墨蹟 福成寺条々規式事」(重文)は霊洞院蔵、規式八箇条を定めた。
 高麗時代「高麗版大蔵経」は、1456年、足利義政の命により高麗から雪巖永嵩が持ち帰った。
 田村月樵(1846-1918)の障壁画「唐子遊戯図」、近代の清水焼陶芸家15人による「陶製十六羅漢像」など。
 塔頭・両足院に江戸時代の伊藤若冲筆「雪梅雄鶏図」、禅居庵に「拾得および鶏図」、久昌院に江戸時代の曾我簫白筆「山水図」。
 霊洞院小書院、大中院に海北友松の水墨画「松竹双鶴図」1面、「人物画」4面、「花鳥図」5面、「草山水図」2面、大中院に「山水図」8面、「芦鷹図」4面がある。
◆塔頭 14院ある。常光院、清住院、正伝永源院、興雲庵、堆雲軒、久昌院、禅居庵、大統院、霊源院、霊洞院、両足院、西来院、大中院、六道珍皇寺。 
◆建仁寺十境 かつて、「建仁寺十境」として、境内、周辺の景勝地が選ばれた。
 ①慈視覚(方丈)、②望闕楼(三門)、③大悟堂(僧堂)、④群玉林(衆寮)、⑤入定塔(開山塔)、⑥楽神廟(鎮守社)、⑦無尽搭(禅居庵)、⑧清水山、⑨第五橋、⑩鴨川水になる。
◆不思議 伝えられる不思議が境内、境外にある。
 「陀羅尼鐘」は別項。/「宋の菩提樹」は、栄西が宋より持ち帰った種により育った。/「楽神廟(堂)」は、鎮守であり明星尊を祀る。栄西の母が祈念し栄西を産んだという。/「矢の根門」は、勅使門をいう。柱扉に鏃跡(やじりあと)が残る。平重盛(1138-1179)邸の門、門脇教盛(1128-1185)の門ともいう。/「長我部盛親の公孫樹(いちょう)」は、南座の裏にあった。盛親(1575-1615)が徳川勢に捕えられ六条河原で斬首になる。その首級が木にかけられた。以来、木には念が残り、葉にはお多福形の痕跡が現れたという。
 ほかに「左女ヶ井」「妙徳石」「焼香橋」などは詳細不明。
◆療病院 近代、1876年、京都府は建仁寺塔頭・福聚院を借上げ、療病院の仮駆梅院を開設した。遊里の梅毒患者の検査、隔離治療施設であり、現在の祇園歌舞練場付近にあった。その後、福聚院は上知により廃される。
 1882年、新駆梅院(花見小路)が開設された。1900年、京都八坂病院となり、京都娼妓検査所を併設していた。1913年、下京区東山通五条上ルに移る。1946年、府立平安病院と改称、1955年、府立洛東病院に発展した。
◆楽神廟 鎮守の楽神廟(らくじんびょう)が祀られている。備中国吉備津社末社を勧請したものという。
 開山・栄西は備津神社の社家に生まれている。栄西母が、楽の社に参詣した後、夢枕に明星が現れて栄西を懐妊したことにより祀られたという。楽の大明神の本地仏は虚空菩薩で、知恵学徳、規約力増進の公徳があるという。11月13日に大祭。丑年生まれ、寅年生まれの守り本尊。
◆文学 1907年4月、夏目漱石は相国寺、同志社、京都御所を経て建仁寺を訪れている。
◆映画 時代劇映画「乞食大将」(監督・田中徳三、1964年、大映)の撮影が行われた。
◆樹木 センダンがある。
 開山堂内木柵内に土饅頭型の巨石が祀られている。栄西が入定(即身仏)した場所という。
 開山堂前庭に、明全塔が立ち、道元が宋より持ち帰った明全(1184-1225)の遺骨が納められている。
 安国寺恵瓊(1539-1600)の首塚が方丈の前庭にある。1600年、恵瓊は関ヶ原の戦では西軍に与したため、六条河原で斬首された。その首は、建仁寺の僧侶が持ち帰り、当寺に葬ったという。
◆四頭茶会 栄西誕生日(4月20日)には、「四頭(よつがしら)茶会(建仁寺茶礼)」の行事が行われる。
 かつては方丈斎の儀式であり、栄西が中国の禅院で学んだ日本最古の茶礼(喫茶法)を伝えている。中国で唐代に盛んになり、栄西により日本に伝えられた。当初は、食事儀礼だった。その後、茶の作法のみが執り行われた。建仁寺では、1954年以来催されている。
 室中飾りは絶海中津の賛による「栄西禅師頂相」、室町時代の秋月等観の水墨画「龍虎図」の3幅が掛けられる。前卓に燭台、香炉、花瓶の三具足、茶湯が供えられる。床には座牌が置かれる。
 会衆(えしゅ)が座すと、僧・侍香(じこう)が栄西の像、龍虎図の前で香を献ずる。さらに左右の客のために、中央卓で香を献じる。4人の頭人(四主頭)(正客、主賓、または主位、賓位、主対位、賓対位の正客4人)に、8人の相伴(しょうばん)客がつき、一席36人になる。
 僧が献香、行盞・行茶に移り、4人の供給(くきゅう)は、浄瓶(じんびん)と茶筅を持ち入室する。水屋と供給の間を取り継ぐ者を提給(ていきゅう)という。予め抹茶が入った天目茶碗茶と菓子器を配る。浄瓶(じんびん)の湯が、客人の持つ茶碗に注がれ茶筅で茶を点てる。正客には胡跪、相伴客には立って行う。その後、一同は喫する。
◆修行体験 写経、坐禅・法話(本坊、毎月第2日曜日、8:00-10:00、10月-3月9:00-11:00、8月休会)。希望により坐禅体験・法話(8:00-10:00・17:00-20:00)。
 千光会(毎月第2日曜日8:00-10:00、お経唱和、茶礼、管長猊下の御法話、予約不用)。
 写経(随時、本坊)。
◆年間行事 改旦祝聖(1月1日)、修正懺法(しゅうしょうせんぽう)(1月2日)、修正満散(1月3日)、雪安吾解制(2月1日)、百丈忌(2月17日)、仏涅槃会(3月15日)、聯燈忌(4月1日)、仏降誕生会(4月8日)、開山降誕会(4月20日)、雨安吾入制(5月1日)、開山忌・献茶式(6月5日)、暁天座山会(7月上旬)、山門施餓鬼(7月15日)、布薩会(ふさつえ)(7月30日)、雨安居解制(8月1日)、頼家忌(8月18日)、大覚忌(8月24日)、達磨忌(10月5日)、瑶甫忌(ようほき)・雪安吾入制(11月1日)、達磨忌(11月5日)、先住忌・祠堂法要(11月15日)、臘八大接心(ろうはつおおぜつしん)(12月1日-8日)、仏成道会(12月8日)、冬夜(12月21日)、冬至祝聖(12月22日)。
 千光会(坐禅)(第2日曜日8:00-10:00、8月休会)。
 

*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都の五山寺院 その歴史と系譜』『旧版 古寺巡礼京都 6 建仁寺』『古寺巡礼 京都 23 建仁寺』『建仁寺』『京都の禅寺散歩』『建仁寺 建仁寺と栄西禅師』『拝観の手引』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都大事典』『日本の仏教を築いた名僧たち』『事典 日本の名僧』『京都府の歴史散歩 中』『日本の古寺大巡礼』『京都・宗祖の旅 道元』『京都 道元禅師を歩く』『京都の寺社505を歩く 上』『別冊太陽 長谷川等伯』『障壁画の見方』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『京の茶室 東山編』『増補版 京の医史跡探訪』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都まちかど遺産めぐり』『京都歩きの愉しみ』『京都で日本美術をみる』『あなたの知らない京都府の歴史』『京の怪談と七不思議』『こころ美しく京のお寺で修行体験』『週刊 仏教新発見 19 建仁寺 東福寺』『週刊 古寺を巡る 44 建仁寺』『週刊 日本の美をめぐる 金と墨の 長谷川等伯』『週刊 日本の美をめぐる 2 奇跡の出会い 宗達と光悦』


  関連・周辺建仁寺開山堂〔建仁寺〕      関連・周辺両足院〔建仁寺〕      関連・周辺大統院〔建仁寺〕     関連・周辺正伝永源院〔建仁寺〕     関連・周辺禅居庵(摩利支天堂)〔建仁寺〕    関連・周辺西来院〔建仁寺〕      関連・周辺霊源院〔建仁寺〕      関連・周辺久昌院〔建仁寺〕    関連・周辺清住院〔建仁寺〕      関連・周辺常光院〔建仁寺〕      関連・周辺大中院〔建仁寺〕    関連・周辺堆雲軒〔建仁寺〕      関連・周辺毘沙門天堂〔建仁寺・両足院〕      関連・周辺霊洞院〔建仁寺〕     関連・周辺興雲庵(陀枳尼尊天、豊川稲荷)〔建仁寺〕      関連・周辺京都えびす神社     周辺      関連釜ヶ淵      関連五条大橋      関連野天満宮      関連高山寺     関連妙光寺             

西南角の茂みの中に七重塔

方丈の西庭

照霊

方丈の北庭

本坊中庭、潮音庭(三連の庭)、三尊石、座禅石(右)

潮音庭

潮音庭

○△ロ乃庭

「風神雷神図」(陶板)(154.5㎝、169.8㎝)

雷神

風神

友松筆、紙本墨画「龍雲図」

書院の襖絵、橋本関雪の「松韻」

橋本関雪「生々流転」

田村月樵筆「唐子遊戯図」

金澤翔子書「風神雷神」

鳥羽美花筆「舟出」

対馬行列輿


茶室「東陽坊」

茶室


田村月樵 遺愛の大硯

安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)の首塚

鎌倉時代、道元禅師(1200-1253)修行の遺跡

栄西禅師「茶碑」

桑の碑

お茶の花(10月)

茶畑

【参照】茶の実

建仁寺垣


楽神廟(らくじんびょう)、栄西の母が岡山吉備津神社末社、楽の社に参詣した後、夢枕に明星が現れて栄西を懐妊したことにより祀られたという。楽の大明神の本地仏は虚空菩薩で、知恵学徳、規約力増進の公徳があるという。11月13日に大祭。丑年生まれ、寅年生まれの守り本尊。

洗鉢池

洗鉢池
綴プロジェクト「雲龍図襖」    綴プロジェクト「風神雷神図屏風」    綴プロジェクト「花鳥図襖」    綴プロジェクト「花鳥図襖」    綴プロジェクト「雲龍図襖」    綴プロジェクト「山水図襖」    綴プロジェクト「琴棋書画図襖」    綴プロジェクト「山水図襖」     綴プロジェクト「琴棋書画図襖」
双龍図と風神雷神の360度パノラマ写真VR
建仁寺 グーグルマッブ・ストリートビュー
建仁寺 〒605-0811 京都市東山区小松町584,大和大路四条下る  075-561-6363  3月1日-10月31日、10:00-16:30 11月1日-2月28日、10:00-16:00

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