鴨川2,Kamo-gawa River 2,Kyotofukoh




鴨川 2
Kamo-gawa River 2

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 歴史の中の鴨川  近世の治水  昭和10年の鴨川大洪水   近代以降の鴨川、京都  次の千年のた
めに 



洛中洛外図屏風、室町戦国期の四条大橋、祇園祭光景(京都市平安京創生館陶板)


祇園祭の神輿洗の神事(7/10、7/28)では、神輿を清めるために宮川(鴨川)から「御神用水」を汲み上げる。


賀茂茄子


六条河原付近、五条大橋の南北に広がる、かつての六条河原一帯は処刑場だった。平治の乱)の藤原信頼、明雲大僧正、木曽義仲、平忠度、平経正、石田三成、小西行長などが、ここで斬首、首渡し、自害などを行った惨劇の場となっている。たとえば、豊臣秀頼の遺児国松は、大坂城落城後、城を脱出し、伏見に潜んでいたのが見つかり、1615年、六条河原で斬首された。


出雲の阿国像、四条大橋


北区、鴨川沿い(加茂川中学校敷地)に
いまも残る御土居(後方の盛り土)、1930年
に国の史跡に指定
現在、市内の9カ所が国史跡に指定されている。 



同上の反対側から見た光景、鴨川に面した
北東隅の御土居として貴重。



上京区、廬山寺境内にある御土居




砂防堰堤、「どんど(どんこ)」


昭和10年の鴨川大洪水」
1935年6月28日深夜から、29日朝にかけての集中豪雨による一日雨量は269.9ミリ、9時間で235ミリ、最大時間雨量は46.5ミリ。洪水流量?/s、「鴨川大洪水」の被害状況はデータにより若干の相違がある。京都府の資料では、鴨川流域のみで、死傷者12名、 流出家屋137棟、 家屋全半壊158棟、床上床下浸水24173棟、桂川や天神川など他河川の洪水も含めた京都市全域では、それぞれ83名、187棟、295棟、43289棟



左京区南禅寺、琵琶湖疏水の水路閣


鴨川で再現されている友禅流し、毎年8月に行われている「鴨川納涼」で、京都染織青年団体協議会が行っている。
友禅染は、絵師宮崎友禅斎(1654生まれ?)が創始した。防染糊を使った染色方法と光琳模様にみられるような斬新な図案に特徴がある。



毎年9月に行なわれている本能寺の放生会、生き物に感謝し鴨川に魚が放される。
 
景観関連のおもな法律、条例

国 
 
都市計画法(1919年)
文化財保護法(1950年)
京都国際文化観光都市建設法(1950年)
古都保存法(1966年) 
景観法(2004年) 

市条例
京都市屋外広告物等に関する条例(1956年)
京都市市街地景観整備条例(1972年)
京都市伝統的建造物群保存地区条例(1976年)
京都市自然風景保全条例(1995年) 
京都市眺望保全条例(2007年)

宣言   
京都市世界文化自由都市宣言(1978年)

府条例
京都府鴨川保護条例(2007年)
 
■歴史の中の鴨川
◆禊 奈良時代-平安時代にかけて二条以北の鴨川は、天皇・貴族の禊(みそぎ)、祓いの行われる神聖な川だった。禊は、「身削ぎ」「水そそぎ」が語源とされ、いずれも水に入って体を清めることに由来している。たとえば814年、神祇官は鴨川を御禊の場として上奏し、嵯峨天皇は水無月の禊を鴨川で行った。816年、宣子女王による斎王の御禊が行われた。829年、醇和天皇の年越しの禊が行なわれる。833年、仁明天皇は鴨川に行幸し、禊をしている。833年、賀茂斎院第三代高子内親王は、鴨社解除所で御祓いを行っている。834年には久子内親王の御禊が行われた。1111年には、鴨社解除御所が建てられている。鴨川と斎王の深い係りがある。賀茂大社には、飛鳥・奈良時代に巫女「斎祝子」(いむこ)が仕えていた。また、平安時代に「忌子」も奉仕した。さらに平安時代に、本宮西から鴨川にかけて女性神職の制度、賀茂斎院御所が置かれた。当時は賀茂の斎王(いつきのひめみこ)は、810年の嵯峨天皇の皇女・有智子(うちこ)内親王から、1221年の後鳥羽皇女・礼子(いやこ)内親王まで、35代、400年にわたり紫野の賀茂斎院に置かれ、賀茂社の葵祭などの祭事に奉仕した。天皇によってト定された斎王は、鴨川での潔斎を行い、大内裏内の初斎院で三年、さらに鴨川での潔斎の後、紫野の斎院(本院)で三年の禊を行った。斎王が葵祭の際に滞在するのが斎院御所だった。斎王は、糺の森・鴨川近くに建てられた神館(こうだち)に入った。ここでは、鴨の河原に設けられた「行宮」(かりのみや、河原屋)で、「河原祓」が行われた。現在では、葵祭にあたり斎王代がみそぎ神事を行う。上賀茂神社を流れる「御手洗川」と、下鴨神社の摂社・御手洗神社前の御手洗池で、隔年交代で執り行われている。 
 平安時代、鴨川の七ヶ所で行なう「七瀬祓い」(川合、一条、土御門、近衛、中御門、大炊御門、二条の末)が毎月か、臨時に行なわれていた。陰陽師が神事を仕切り、天皇が息をかけ、体を撫でた人形(ひとがた)を、七ヶ所の河原に運び祓いを行なった。(『公事根源』)また、死穢を祓うためにも、鴨川が使われていた。後一条天皇の葬送の後に、参列者は身を清めている。(『類聚雑例』)
 なお、鴨川の清浄さを保つために、上流部での遊猟・屠殺の禁止(844、884)。844年、鴨上下大神宮禰宜・賀茂県主広友により、鴨川上流域での狩獲物の解体による水の汚穢に対する願い出をしている。河原・野の禁護令(884)、材木運送の禁止などが出された。
 平安時代の公家・藤原実資(957-1046)は、女児誕生の際に鴨川の水を産湯に使っている。この「湯殿始」は、宮廷の重要な儀礼の一つであり、鴨川の水も使われていた。だが、鴨川が戦乱の場となってからはそれらもなくなった。
◆禁裏御用水 明治期まで、鴨川上流から京都御所にいたる、多目的用水のための特別な水路「禁裏御用水」が引かれ、管理されていた。桃山時代の用水遺構(幅2m、深さ1m)は、相国寺境内で確認されている。禁裏御用水は、1912年に近代的な「御所水道」が完成するまで、御所の生活、防火、庭園用などの用水として使用された。
◆精霊送り 中世から近世にかけて鴨川では、盂蘭盆(旧暦2月16日、6月19日とも)には河原で精霊送りや、「盲人」による積塔会(しゃくとうえ)がおこなわれる広場でもあった。四条河原の西岸で河原の石を積み上げ、先祖供養を行った。963年、洪水などの災害と飢饉、疫病の流行の相次ぐなか、「市の聖」といわれた空也上人の発願により、鴨川に宝塔を建て、600人の僧による般若経による供養と、夜には万燈会があった。(『日本紀略』)。庶民もまた、平安時代から江戸時代にかけて鴨川で祓いを行った。
 また、古くより、庶民の間でも鴨川での精霊送りも行われていた。江戸時代、「精霊送り火」が大文字送り火(8月16日)とともに鴨川の河畔でも行われていた。将軍の死去(1761)、干ばつ(1770)、鴨川改修(1856)などにより、五山送り火の自粛とともに精霊送りにともなう供え物や、灯ろうなどを鴨川に流すことを禁ずるお触れが出されている。
◆埋葬 他方、三条以南の鴨川は、庶民の風葬の地、埋葬地、三昧処(さんまいじょ)だった。天皇や貴族は丘陵地に埋葬されたが、庶民は京内での埋葬が禁じられていたため、鴨川、桂川などに埋葬するか、遺体を河原に放置したり、川に流していた。平安時代、842年、朝廷は右左京職に命じて、島田川(御室川)・鴨河原にあった髑髏5500あまりを埋葬している。(『続日本紀』)。994年、疱瘡の大流行の際には、遺棄された遺骸が川を堰きとめたこともあった。
◆大飢饉 鴨川は、大雨の際には洪水を起こす川であり、逆に旱天の際には渇水し、井戸水も涸れた。たとえば、室町時代の「寛正の大飢饉」(1460)では、前年の鴨川の洪水の翌年には、日照り、長雨により大飢饉となり、8万2000人もの死者が出ている。このため、都は死体で溢れ、四条大橋は遺体で川がせき止められ、洪水が起きている。(『碧山日録』)
◆御霊会 水と疫病、疫病神の関わりは深い。奈良時代末から平安時代、鴨川ほか大小の河川が流れる京都盆地では、たびたび洪水が発生した。これによって、洛中の家々は浸水し、井戸水は汚染し、食中毒やさまざまな疫病、伝染病が発生した。また、梅雨以後の高温多湿な盆地気候や、都市化に伴う人口増加は、衛生環境の悪化もこれらの疫病の大流行を引き起こした。こうした現象は、疫神・疫鬼(行疫流行神、ぎょうやくるぎょうしん)のもたらす災禍として、疫病などを流行らせる元凶とされた。また、これらの疫病から身を守り祓うことにも水が用いられ、ここから平安時代に「水に流す」という言葉も生まれた。
 古くからの農耕守護の地主神の水神、火雷神、鬼神の信仰などとともに、早良親王(祟道天皇、桓武天皇の弟)、菅原道真らなどの政治的に失脚した人々の怨霊による祟りとする怨霊・御霊信仰、除疫の守護神が信仰が起きた。朝廷、庶民を問わず、怨霊を鎮め穢れを祓うための御霊会が、神泉苑、船岡山などで始まり、穢れは水辺に流され、鎮送された。御霊神社、疫神社が創建され祭礼が行われた。やがて八坂祇園社に代表されるように、疫病送りの町衆の祭り・祇園御霊会がやすらい祭、祇園祭などの祭りに展開していく。 
◆信仰 鴨川から東山の山麓にかけては、祇園社、清水寺に代表されるように、信仰、参詣、遊山の場でもあった。また、平安京の「洛外」にあたる葬所・鳥辺野の入り口にあたる鴨川の東岸、五条から七条にかけては、死者が鴨川を渡ることから、冥界への入り口、あの世とこの世の分岐点と考えられていた。
◆漁 京都盆地には原始時代(2万年前、旧石器時代)から人が住み始めており、漁撈も行われていたと見られている。
 後世、鮎などの手網、引き網による漁(河狩り)も行なわれた。鴨川の名産としてはゴリ煮(ゴクラクハゼ)がある。「ゴリ押し」という言葉は、筵と石を使ったゴリ漁から生まれた。
 鵜匠による鵜飼も行なわれていた。「洛中洛外図屏風図」(1574)。ただ、室町時代には普段の魚釣りは禁じられ、許されるの飢饉の際などであった。禁制として「鴨川白川捕魚事」「鴨川堀川の魚をとる事」などがみられる。江戸時代(1776、1796)、京都町奉行所は、アユの不漁により、鴨川、高野川、高瀬川などでの魚釣りによる密漁の禁止令を出している。 
◆田畑 鴨川の河原は放牧の地でもあった。農民は河畔の堤を壊して田畑(『池亭記』982)にし、また、防災の観点から朝廷はそれを度々禁じた(たとえば871)が、あまり成果は上がらなかった。
◆野菜 京都では、さまざまな京野菜が栽培されてきた。江戸時代初期以降、今出川から三条にかけて鴨川の河原(洛東河原)では、賀茂茄子(別名「大芹川茄子」「芹川」「芹川茄子」、もとは「竹田茄子」か)の栽培が行なわれていた。球形の賀茂茄子は品質に優れていた。明治期以降は耕地不足により、栽培地が上賀茂などに移り、賀茂茄子と呼ばれるようになった。なお、現在の主生産地は亀岡市に移っている。 上賀茂特産のすぐき(酸茎)漬けは、400年前から社家に代々伝わる乳酸発酵の漬物。栽培に手のかかるすぐき菜は、「すい菜」「すい茎」「すいぐき菜」「茎菜」「茎」「賀茂菜」「里菜」「屋敷菜」、原始的という意味で「貧乏菜」などとも呼ばれた。すぐき菜は、蕪の一種で、ある社家の一人が、鴨川に自生していたものを発見し、庭に植えたことに始まるという伝承もある。また、諸国(信州か)から御所に献上されたものを、社家が拝受し庭に植えたという説。禅僧が伝えたとする説もある。すぐき菜は、各社家の庭に植えられ、冬に漬け込んでいた。製法は門外不出で、それぞれの家々で味に違いがあった。江戸の末から明治期になって、栽培は近郊の農家にも広がった。明治の頃、深泥池の一村が大火により壊滅し、その復興に漬物が商品開発されたという。明治期、聖護院かぶらと交配され、現在のものに近いものが生まれた。昔は、明神川ですぐき菜や漬樽が洗われる様も見られた。明治期以降、樽を稲藁で包み、また、室(むろ)による加熱補温により、乳酸発酵の促進が行なわれるようになった。また、天秤圧という漬け込みの際の加圧の製法も生まれた。 
◆印地打 鎌倉時代末期以降、鴨の河原では「印地打」(印地)という石合戦がはやった。印地は、祭りの際に神の意志を占う場合に行われ、また、戦場や抗争の場でも行われたが、これは京童同士による石を投げ合う遊びだった。だが、時には死者も出た。1107年、「飛礫」(つぶて)と呼ばれる石合戦が流行し、死者、負傷者があり、検非違使は禁止令を出した。1427年、「京者」と「白川者」の間での衝突で死傷者があり、軍兵が出ている。1496年、大規模な印地打が行われ、多数の死傷者が出ている。
◆刑場 平安末期からは、三条河原、四条河原、六条河原、七条河原、八条河原にかけては刑場となり、首渡しの場ともなった。1160年に、平治の乱に敗れた源義朝、源義平(悪源太義平)は六条河原で打ち首となった。三条大橋東詰は処刑場、晒し場でもあった。1594年、大盗賊・石川五右衛門はここで釜茹にされた。1595年、豊臣秀次の遺児、正室・側室39名は処刑された。1868年、江戸から塩漬けで運ばれた新選組局長・近藤勇の首もここで晒された。そのほかにも、明智光秀の家老・斉藤利三、関が原の合戦(1600)で敗れた西軍の石田三成、小西行長、安国寺恵瓊、大坂の陣で豊臣方についた長曽我部盛親など数多い。幕末天誅の先駆けとなった九条家家臣・島田左近は四条河原で晒されている。1863年、平田派国学者の三輪田元綱らは、等持院の足利尊氏ら三代木像の首を三条河原に晒している。おもに六条河原で斬られ、三条河原で梟首された。このように鴨の河原が刑場となったのは17世紀後半まで続き、その後は粟田口、三条通土居西へと移された。しかし、晒しには相変わらず河原が使われた。また、これらの梟首は、都人にとって「見世物」のひとつともなっていた。江戸時代、1711年の高札には、「死罪に行なわるる者ある時、はせ集まるべからず」と鴨の河原、日ノ岡などでの死刑見物の禁止令が出されている。
◆戦場 中世以降、糺河原、二条河原などの河原は戦場ともなった。保元の乱(1156)では、鴨川東岸にあった白川殿の崇徳上皇・藤原頼長を、後白河天皇・藤原忠通方の軍勢が襲った。平治の乱(1159)などでも鴨の河原が戦場になり、東岸に六波羅の平氏、西岸に六条堀川の源氏が対峙した。承久の変(1221)では三条河原が舞台となった。1335年、1336年、三条河原、糺河原、三条から五条河原などにかけて鴨川でも、新田義貞と足利尊氏・直義の軍勢が戦った。法華宗信徒と延暦寺の宗教戦争「天文法華の乱」(1536)では、二条口に法華宗の城砦が築かれた。戦になると見物人が出た。見物人は、逃げ出した武将に対しては追い剥ぎに早代わりした。
◆投身 平安時代、末法思想の流布となり、現在よりも深かった鴨川に投身する僧尼も相次いだ。
◆邸宅 鴨川沿いには、貴族の邸宅も建てられた。平安時代の白河上皇の院御所(白河北殿、1118)、五条大橋西岸南には、源融(みなもとのとおる)河原院があった。源融は、河原左大臣といわれ、邸宅は、鴨川の水を取り入れた庭園が造られた。その後、宇多天皇の東六条院となり、やがて河原院という寺になり、鴨川の氾濫などにより消失した。鎌倉時代、平清盛の六波羅探題は、鴨川の東、五条から七条河原に広大な邸館を形成していた。
 平安時代の「泉殿」「泉亭」など豊富な井泉を利用した邸宅が流行した。だが、鎌倉時代になり鴨川と堀川の間を流れていた京極川(中川)の水量が減っている。これは、周辺の山林伐採による保水力低下とみる見方もある。
◆窮民 飢饉や戦乱が起こると、四条、五条の河原には窮民が溢れた。鴨川の河原は、国家が貧窮者に物を施す賑給(しんごう、881、1032)の場でもあった。稲穀、塩、銭などが配給された。1461年の「寛政の大飢饉」の際には、僧の願阿弥が、六角堂前で窮民に対して栗粥の施行をしている。願阿弥は、四条、五条橋に多くの餓死者を葬った。また、その後、両橋において五山による施餓鬼も行なわれている。1714年の大凶作の時に、奉行所は4万人以上の流民に粥を配給している。1733年、天明期(1781-1789)の大凶作の際にも、近隣近郊からの窮民が流入している。河原は窮民の避難地であり、埋葬される場所でもあった。
◆墓
 鴨川は遺体の捨て場にもなっていた。鎌倉時代、仁和寺の隆暁上人は、京の町に打ち捨てられた遺体を数え、4月、5月の2ヶ月で4万2000体あまりも確認したという。上人は、遺体の額に「阿」と記した。当時、鳥辺野、蓮台野に埋葬できない遺族は、鴨川の河原にも遺骸を放置していた。
◆京童 「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨」で始まる「二条河原の落書」(1334)は、「京童」による当時の建武政治、世相を批判した。六条河原の落書(1332)は、六波羅探題を揶揄していた。河原はいわば広場の役割も果たしていた。京童は11世紀初め頃から見られる中・下層の商工業者、下人、芸能民などで中世都市市民を形成していた。
◆河原者 9世紀、税のかからなかった河原に住む人々が現れた。もともと河原は、農民が葬送、放牧に利用することが許可されていた。やがて、河原を耕作(「河原田畠」)し、居住する者が現れた。
 「河原人」の文献初見は1016年。平安時代末期から鎌倉初期、さまざまな職業集団(斃死牛馬類処理、皮革製品加工、履物制作、不浄物掃除、作庭、芸能興行関連、検断補助、鷹の餌鳥など)、階層を形成し、社会的身分集団となり、「河原者」「河原法師」とも呼ばれた。室町時代の「川端散所」(1464)は、地方から京都に流入した窮民、貧民が鴨川河畔に住み着いていたとみられている。1633年、「六条村」成立の記録が残る。
 近世の村では、斃死牛馬類の処理、その草場管理を管理地に所有し、皮革類の製造販売特権などにより生計を立てた。また、さまざまな勧進興行の際の櫓銭収入の一部も得ていた。また幕府により、掃除、番役、執行などの公(夫)役も課せられていた。平安時代末、もともとは鴨の河原に住んだ人々が、「犬神人」(いぬじにん)として組織され、祇園社に属してさまざまな職役を執行した。
 古代、中世の鴨川での居住区は、四条河原が一番多く「天部(あまべ)」、一条河原西岸の「河崎」という地区だった。豊臣秀吉のお土居築造に伴い、他所へ移転させられた。
◆山水河原者 室町時代、「山水(せんずい)河原者」(庭者、御庭者)は石組などの技能に優れ、東山文化の枯山水の庭園作庭などに従事した。将軍・足利義政は、「泉石の名主」といわれた庭者・善阿弥を重用した。銀閣寺、竜安寺作庭などにも山水河原者が関わったと見られている。善阿弥の子・次郎三郎、孫・又三郎も作庭にかかわった。また、盆栽や庭石に秀でた次郎五郎・彦三郎、苔の彦六・彦次郎などもいる。また、唐物奉行・相阿弥、連歌・木阿弥、立華・立阿弥なども東山文化を支えた。
◆興行 不課である河原はさまざまな芸能披露の場となった。1347年、四条河原で橋を架けるための勧進田楽が催された。なおこの際に、桟敷が崩れて多くの死者が出た。(『太平記』)。1464年には、鞍馬寺修造費のための糺河原勧進猿楽が、現在の糺の森の南付近で行われた。これらの勧進興行では、寺や橋の修復のために金品を集める手段として、さまざまな芸能が披露され、芸能の場としての鴨の河原の起源となった。猿楽、田楽、謡などを取り入れ独自の能を確立した観阿弥・世阿弥父子は、将軍・足利義満の寵愛を受け、北山文化の一翼を担った。
四条河原は、南北朝以来の市民の歓楽地だった。室町時代前期、勧進田楽や猿楽をおこなう市民の遊散所でもあり、「河原桟敷」(1349)といわれる常設の芝居小屋が現われた。五条河原、四条河原は出雲の阿国歌舞伎に代表されるような芸能、遊興の場ともなった。当時の鴨川の東岸は、現在の大和大路りまで、西岸は現在の河原町辺りまであるという広大な広場であり、そこに芝居小屋などが立ち並ぶ都の一大遊興地だった。
 出雲阿国は、1603年、北野神社で男装した阿国の「歌舞伎踊」が披露され都人の人気を博した。もともと阿国は、五条大橋東詰(いまの松原橋付近)の河原で小屋掛けしていた。その後、豊臣秀吉が伏見城への通行の邪魔になるとして四条河原に移させた。ただ、四条河原で阿国は興行せず、この地は遊女歌舞伎の興行地だったとする説が有力である。阿国、名古屋山三(名護屋山三郎)らは、歌舞伎の創始者とされている。1608年、四条河原で遊女による女歌舞伎が初めて披露された。その後も、遊女歌舞伎、若衆歌舞伎、野郎歌舞伎などが次々に現れ人気を集めたが、幕府により風紀を乱すものとして度々禁止され、やがて女形による歌舞伎へと変化した。
 寛文の鴨川新堤工事(1670)により、それまであった四条河原西岸の茶屋が東岸に移され、櫓が建ち栄えた。また、西岸の新河原町は後の先斗町に発展していく。1615年頃、京都所司代・板倉勝重は七つの櫓(芝居小屋)を許可した。四条通南に三座、北にニ座、大和大路西にニ座、それに現在の南の芝居(南座)だった。この頃から、四条河原は賑わいを増し、さまざまな遊興が繰り広げられる。歌舞伎、操り人形浄瑠璃、能などが演じられた。
◆納涼床 夏場に人々は、四条、五条河原では川遊びをした。納涼床については、室町時代にすでに河原での夕涼みが行われていた。豊臣時代(1580-1590)、裕福な商人が夏に遠来の客をもてなすのに、四条、五条河原付近の浅瀬に床几を置いたのが始まりだともいう。中洲に板の小橋を渡し、浅瀬にも床几が置かれた。寛文年間以降、護岸工事により生まれた東西両岸にも店が出た。
 年中行事の「四条川原涼み」は、疫神送りの祇園会(旧暦6月1-6月17日)の期間中に開かれていた。鎌倉時代後期以降の祇園会は、鴨川の氾濫後に起こる疫病の流行に対して、疫神を退散させるという意図があった。河原といわず陸地にまで所狭しと床が並べられ、茶屋には提灯が灯され、酒、鰻の蒲焼が供された。人々は糸竹を鳴らし、歌をうたい、詩が吟じられた。また、糺河原でも開かれた。
 最盛期は元禄の頃で、三条より松原間の河原に設けられ大いに賑わった。四条大橋東には芝居小屋や見世物小屋が立ち並び、浄瑠璃、操り、猿狂言、辻説法、覗からくり、歌祭文、水襄投げ、放下師、琵琶法師、太平記読みに、麒麟、虎、孔雀などの動物見世物などがあった。櫓茶屋、掛茶屋も立ち、水瓜売り、かば焼き、地黄煎、甘酒、心太なども売られた。最も隆盛した元禄の頃には、三条から松原まで茶店が続いた。(奥文鳴『都林泉名勝図会』、『花洛細見図』『都市名所図会』)
◆花火 江戸時代(1765)、京都町奉行所は手鴨川の三条より北では御所に近いため、大花火を禁ずると口頭で触れた。この頃、鴨川河畔では花火が打ち上げられていた。ちなみに戦後(1954)、二条大橋付近から打ち上げられた大花火により、御所の小御所が焼失している。
◆七夕 江戸時代の7月7日、七夕の日には、市中で七夕飾りが行われていた。6日の夜には笹飾りを鴨川に流す風習があった。(『羇旅漫録』)。ただ、鴨川の改修工事により、1802年には笹飾りを鴨川に流すことを禁じている。
 荒神(近衛)河原、二条、三条、四条、五条河原には市も立ったという。
◆水運 普段の水量がない鴨川は、水運にはほとんど利用されなかった。それでも10世紀末には、鴨川の最下流部、桂川との合流付近には「鴨川河尻」という津があり、舟運があったとみられている。藤原道長などの貴族は、この舟を利用して宇治行していた。939年には、鴨川での水運禁止令が出ている。
 豊臣秀頼による方広寺大仏殿再建工事(1609)の際、材木などの資材は淀川から伏見(鳥羽)へ水路により運ばれ、さらに陸路により京都へ運ばれていた。角倉了以と素庵父子は、三条と鳥羽間の鴨川運河(川床の浚渫工事)(1610)を完成させた。鴨川の河原に水路が掘られ、十数か所の閘(水門)が造られた。水路に材木が運び込まれると、上流の閘が開かれ水が注がれた。水量が調整され、一定の高さになると次の閘へ進んだ。水量が不足している場合には、下手から「竜車(竜骨車)」という人力の水揚器で水を汲み上げ、水量を補充した。また、水路が曲がっている地点、高低差の多い地点などではさらに堰を設け、轆轤を使って材木を引き揚げていた。この鴨川疎通工事により、資材は大仏殿下まで水路を利用して運ぶことができるようになった。これが高瀬川の開削につながり、1614年、京都・伏見・大坂間の水運が確立することになった。
◆京友禅 中世には鴨川の九条河原では藍染が行われていた。紺屋による藍染の水洗いが行われていた。
 鴨川などでは江戸時代中期より、京友禅の色落し、水洗加工(すすぎ洗い)が行なわれていた。水洗加工蒸加工後の繊維に残っている余剰染料、糊分、薬助剤などを除き、染物の定着のために必要な作業であり、江戸中期以降に染色商による「洗い物屋仲間」が行っていたとみられる。江戸時代には、角倉方役場より印札の許可を得え、冥加金の上納が必要だった。なお、明治期以降は、「京都洗物業組合」(後の京都染物同業組合)が引き継ぎ、鴨川の出町、荒神口、丸太町、団栗以南で、大正期には荒神橋以北に限定されていた。なおその後、鴨川の水質の汚染や、染色そのものが水質悪化をまねくとして、1970年を最後に鴨川での水洗いは禁止された。
◆加茂石 鴨川では「加茂川石」「加茂石」が名石として知られ、庭石として重宝された。「加茂の七石」としては、賀茂川上流の「紅加茂石」「雲ヶ畑石」、貴船川の「貴船石」「畚下(ふごおろし)石」、鞍馬川の「鞍馬石」、静原川の「賤機(しずはた)石」、高野川の「八瀬真黒(まぐろ)石」があるが、現在はほとん産しない。
 また、鉄釉薬などに使用される京都で採取される「加茂川石粉」がある。黄土中の珪酸質の石で、酸化鉄を15%ほど含んでいる。黒楽の釉、絵具として使用される。
◆加茂川人形 「加茂川人形」は、木目込人形の原型ともいわれている。江戸時代の元文年間(1736-1741、1739とも)に、上賀茂神社神官の堀川家に仕えていた雑掌(ざっしょう)・高橋忠重が、祭祀に使う柳筥(やないばこ)の余材で人形を彫り、神官衣裳の端切を木目込んで作ったのが始まりとされている。鴨川の畔に生えていた柳の木が材料だったことから、当初は「柳人形」「加茂人形」「加茂川人形」などと呼ばれたともいう。その後、加茂川人形の伝承は途絶えている。
 ただこれらについては裏付ける史資料がなく、明治期以来の通説とされ、「加茂川人形」は鴨川河畔に住んだ仏師の創作とする説がある。
◆塵・汚水 平安京建都以来、鴨川、高瀬川、堀川、西洞院川といわず都、各地の川は、塵、あくたを捨てる場所でもあった。また、汚水、汚物を流す「下水」の機能も持っていた。これらの汚水は、都の南部に広がっていた巨椋池に集まり、自然浄化されていた。
 江戸時代、舟運の支障となることから、各河川で、投棄を禁ずる町触が出された。鴨川でも元禄期に町触が出されている。江戸時代には、洛中に「塵捨場」7ヵ所(今出川口川東長徳寺北川端、二条口川東頂妙寺川端、三条通西土手東側‥)が設けられ、定期的な埋め立てと焼却処分されていた。京都町奉行所のお触れ(1695)では、鴨川川筋、堀川へのゴミ投棄に対して厳罰に処するとの高札が立てられた。
 近代以降もゴミの不法投棄は続き、ついに最初の法制として「京都府違かい(言+圭)式かい違条例」(1876)が制定されている。
◆橋 平安初期までは普段の水深が浅い鴨川にかかる橋はなく、人々は河原を歩いて渡った。橋というのも、木板を渡した程度の仮橋だったとみられている。また、清水寺への参詣道として五条橋(現在の松原橋)、仮橋として四条大橋が架かっていたともいう。
 記録に残っている唯一の橋としては、九条坊門小路辺りの鴨川に、西寺別当・伝燈法師によって造られた唐橋(辛橋、韓橋、からはし)が架かり、887年、902年の二度にわたり、失火から橋を守るための「橋守」が置かれた。(『日本三代実録』の879年、887年、『類聚三大格』の887年)。橋の鴨東には、かつての平城京に通じる法性寺大路があり、後に大和大路となった。この橋も、12世紀頃にはなくなった。なお、この橋については、川の途中までしかなく、対岸へ渡る橋ではなかったともいう。なお、平安京の羅城門の南にも唐橋があったとみられている。
 唐橋について、平安時代に渤海(ぼっかい)国の使節を受け入れ、歓待した施設である鴻臚館(こうろかん)に入る「韓(かん)人」が、この橋を渡って向かったといい、それが唐橋村、唐橋の名の由来ともいう。(『京羽二重織留』)
 江戸時代、三条、五条大橋が公儀橋として幕府により管理されていた。ちなみに、江戸時代(1654)の鴨川に架かっていた橋として確認されているのは、上賀茂(現御薗橋)、鞍馬口(出雲路橋)、大原口(賀茂大橋)、荒神口、二条川原、三条大橋、四条橋、五条石橋、七条口、伏見への車道(竹田橋)、鳥羽道(小枝橋)の11橋。当時の構造橋は三条、五条大橋のみで、ほかは仮橋程度だった。幕末に四条橋も本格的な橋に架け替えられた。なお、牛車は板橋を傷めるとして「車石」(くるまいし)の敷かれた「車道」(くるまみち)を利用し、鴨川を渡っていた。祇園会の際には、神輿渡御のために大坂材木町(堺町三条上ル)の人々によって、丸太による浮橋「四条橋」が架けられた。また、橋上では飢饉の際に施餓鬼が行われた。ちなみに、「京の七橋」とは、葵、丸太町、二条、三条、四条、五条、七条の名が挙げられる。
■近世の治水
◆御土居
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫によって荒地と化した。安土・桃山時代(1212)、九か国守護による鴨川堤防が築城された。
 都の再興を手がけた豊臣秀吉は、1591年、細川幽斉、前田玄以などに命じ、諸国大名らによって、洛中の周囲をめぐらせた堤防・惣構施設「御土居」(土居堀、土居、お土居)を、わずか5か月(2か月とも)の突貫工事で完成させた。
 御土居は、北は上神賀茂、鷹ヶ峰、西は紙屋川、東寺、南は東寺の南、東は鴨川西岸に対して築かれ、当時存在した聚楽第、現在の御所を取り囲むように造られている。その規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmになった。土塁(一定していないが、低幅12m、天端4m)の上は、強度を増すために竹林で覆われていた。この竹薮の伐採は厳禁された。土塁の外には濠(3.6-18m)が設けられている。東北部の鴨川と接する付近では、自然の断崖も利用したため、堤の高さが36mにも達したところもあった。
 御土居は、「掻揚城(かきあげしろ)」という工法により、掘った濠の土を積み上げて土塁を築き、積石や石垣で地盤は固められた。この際に、墓石や地蔵までもが「礎石」として使われた。ただ、これは当時の構築物においては一般的なことだった。なお、この「掻揚」だけでは土塁を築く土量が足りないとする見方もある。
 御土居は、鴨川などの水害対策と軍事的な城壁の役割も兼ね備え、また権勢誇示という政治的な意味合い、「洛中」と「洛外」の区分をさせるなどの意味もあった、小田原城の城下を模したとする見方もある。また、それまでの権力支配(朝廷、公家、寺社)から都の民を分断させ、聚楽第を中心にした新しい都市の再編と支配が強行されたという見方もある。
 平安京以来、九条大路の南以外には羅城の築かれていなかった都は、初めて本格的な城塞によって囲まれた。この堤の築造によって、都の開発は鴨川の間際まで進むことになる。また、散在していた寺院は、御土居の内(西)の鞍馬口から松原間(かつての東の京極通東側、現在の寺町通)に、南北に並べる形で移転させた。また、「天正地割」と呼ばれた、短冊形の町割りが行われた。さらに、家並の裏手には「太閤背割(せわり)下水」と呼ばれた下水道なども整備されていた。
 御土居の保全は、京都所司代の命により、近郊の農民が駆り出されていた。1669年以降は、角倉与一が「土居薮之支配」(奉行)をまかされた。また、御土居に繁茂した竹は民間に払い下げている。
 鴨川沿いには、旧来の鴨川の堤と御土居、さらに新しい土塁も築かれ、これら三重の堤防によって、鴨川の氾濫を防いだところもあった。また、江戸期、御土居の外に造られた濠は農業用水としても機能していた。だが、築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進んだ。堤防の役割を果たしていたものを除いて、大部分の御土居は次々に取り壊され、屋敷用地や道に利用された。
◆七口 土居の出入り口は「七口」といわれた。ただ、秀吉の頃には十口以上だったともいわれ、時代での変遷、呼び名も複数あり、場所も一定していないものがある。鎌倉時代には「七道の辻」、室町時代には「七口の道」の古称もあった。室町時代には、口に置かれた関所で関銭が徴収されていた。 おもなものとしては長坂口(清蔵口、北丹波口)、鞍馬口、大原口、粟田口(三条橋口、大津口)、伏見口(五条橋口)、鳥羽口、丹波口(七条口)、荒神口(今道の口)、竹田口、東寺口など、それぞれが「洛外」へ通じる重要な街道につながっていた。
◆寺院町 また、秀吉は、土居の東の内側に、一部の寺院を強制的に移転させ、南北に連なる寺院町と寺之内町を造らせた。これは、防災の意味と、寺院と民衆の結びつきを分断する意味もあったとする説もある。
◆寛文新堤 1663年、鴨川大洪水が起きた。京都所司代・板倉内膳正矩によって、今出川通から五条通までの鴨川西岸、9km区間に、「寛文新堤」(新土居、1669-1700)の石垣築造が行なわれた。鴨川両岸の石垣は1677年に完成した。
 上賀茂から今出川にかけては、豊臣秀吉の御土居(古土居)の東に、新たな堤が築かれることとなった。三条から五条間の両岸には石垣の堤が築かれた。また、冠水した際に水抜きするための「悪水抜溝」も石垣で補修された。
 さらに、全国令の「諸国山川掟」(1666)が京都でも用いられ、周辺の山林の保護と河川周辺開発の規制、保護にも取り組んだ。この工事によって、鴨川の川幅は以前に較べて狭まり、現在の鴨川景観の原型が完成した。 
■近代 
 明治期、7、8月の鴨川の納涼の賑わいが衰えることはなかった。四条大橋には、河原へ降りるための仮橋「竹村屋橋」が架けられた。三条から松原あたりまで、掛茶屋は中州に店を出し、篝火が炊かれ、夏の風物となっていた。曲馬、曲芸に、メリーゴーランド、ワイヤースライダーまで加わった。しかし、琵琶湖疏水(1894)の完成後、東岸は中止となり、中州も1911年に四条大橋に市電が開通した後は中止となった。昭和10年大洪水(1935)の後は、鴨川の補修工事によって造られた水路の「みそそぎ川」の上に納涼床を設けるようになった。
 「映画発祥の地」「日本のハリウッド」といわれた京都は、日本で最初に映画が上映されたところでもある。1897年2月、四条河原の鴨川の堤防で、実業家・稲畑勝太郎によって映写機械「シネマトグラフ」の試写が行われたともいわれている。
 明治維新の東京遷都(1867)もまた大きな転換点となった。遷都で衰退した経済の復興策として、さまざまな「京都策」が採られ実施された。明治の中期頃から、井戸水の枯渇、地下水の汚染によるコレラなどの伝染病の流行もあり、琵琶湖疏水が計画された。鴨川は安定した水量に難点があり、大堰川には、長大な堰堤工事が必要だった。
 疏水は1890年に完成し、水力発電、路面電車、水運などに利用された。これにより、京都と滋賀間の水運が確立した。さらに1912年の第2疏水の完成により、蹴上浄水場からの上水道による給水が始まり、京都市民が飲料水を井戸水に頼ることはなくなった。その後、伏見まで延びた鴨川運河(1894)の完成により、日本海から琵琶湖、琵琶湖疏水、鴨東運河、鴨川運河、淀川を通じ、滋賀、京都、京都・伏見、大坂の水運が確立し、特に石炭を初めとする物資輸送の要となった。
 1895年に岡崎で開催された第四回内国勧業博覧会・平安遷都千百年紀年祭以降、「歴史観光都市」京都として位置づけられ、「山水明媚風光佳絶」の千年の歴史を持つ帝都の、「国光発揚」と観光事業が着目された。他方、景観保護に向けたさまざま取り組みとして、円山公園(1886)など名勝地の公園化も行われるようになった。1930年、全国で二番目に都市計画法に基づく京都市の風致地区の第一回指定が行われている。
■昭和10年の鴨川大洪水
 「昭和10年の鴨川大洪水」(1935)では、6月28-29日と8月11日の2回の豪雨により、桂川、天神川、高野川、琵琶湖疏水、白川、高瀬川など他の河川の洪水もあわせて、市内の各所が冠水し、多くの橋が流出した。鴨川に当時架かっていた41の橋のうち、三条大橋、五条大橋など32が流された。大破、流出しなかった鴨川に架かる橋は、北山大橋、出雲路橋、賀茂大橋、四条大橋のみという。市内全体で100人弱の死者が出ている。
 被害が拡大したのは、記録的な集中豪雨であったこと。京都盆地の地形的な特性として、流域面積に占める山間部の割合が高く、河川勾配が急なことなどから、集中豪雨の頻度が高くなったこと。前年の室戸台風(1934年10月21日)で大きな被害(死者185人、負傷者849人)があり、山林での倒木が相次ぎ、山の保水力の低下していたこと。それらの流木が河川へ流入し、流木などが橋桁を塞ぎ、氾濫が拡大したことも一因に挙げられている。また、鴨川の河床上昇、お土居の喪失も一因にあるという見方もある。 
 翌年から12年間(1936-1947)にわたる大規模な河川改修工事(「千年の治水」)が、鴨川、御室川、天神川、高野川などで行われた。ただ、戦時中の工事であり、資材、資金不足などにより工事は進まなかった。それでも、1943年に国の援助が得られ、完成を見たのは戦後のことだった。これらの改修工事によって、現在見られるような河床の掘り下げ、砂防堰堤(「床止め」は川底が削られるのを防ぐため。砂防工事では「床固め」と呼ばれ、段差のある「落差工」と段差のない「帯工」がある)、石張り護岸工事、川幅の拡張、橋の改築、みそそぎ川の改良、京阪電鉄軌道の地下化・移設などが行われ、鴨川の景観は様変わりした。1959年、一日雨量289㎜、最大時間雨量60㎜という戦後最大の豪雨が起きた。これは鴨川大洪水(1935)を上回る集中豪雨となったが、大きな被害はなかった。 
■現代 第二次世界大戦後、1954年以降、鴨川下流の高瀬川に挟まれた河川敷に、「40番地」という不法占拠地域が形成された。もともとは旧満州からの引揚者、その後は在日外国人らが住み着いた。国、府、市、自治会による交渉、紆余曲折を経て、1996年以降は公営住宅が完成した。
 1955年頃までは、京友禅の染めの工程で、鴨川、堀川、高野川での友禅流し、さらし作業も行われた。糊と未染着の染料を洗い流すためには、鉄分の少ない清浄な水が必要だった。河原ではそれらの布が干され、鴨川の風物となっていた。ただ、鴨川の水質悪化と友禅流しそのものによる水質汚染を招くとしてその後禁止される。また、出雲路橋付近の河原では、雨の日に、油の塗られた合羽干しが行われていた。
 高度成長期の鴨川は、「鴨川公害」とまで呼ばれた。鴨川に限らず、周辺の川も汚濁水と化し、ゴミが散乱していた。京都の街も煤煙に包まれ、「公害の都」と呼ばれた。ただ、これらは京都、鴨川に限ったことではなかった。「鴨川公害時代」(1961-1970)は、染織関係、金属関係による工場排水、生活廃水、農業関連、ゴミの不法投棄などによる汚染だった。その後、重金属による汚染「複合汚染時代」(1971-1983)が続いた。(『悠久の京の川』)。鴨川の汚染により1977年が最悪の状況だった。
 1964年、二つの市民団体が母体となって、「鴨川を美しくする会」の活動が始まっている。その後、京都市の「水質汚濁防止法」(1971)が公布され、工場等の排水、水質規制と、公共下水道などの整備が急速に進められた。1972年、京都河川美化団体連合会が発足し、「子どもたちに美しい川をのこそう」を合言葉に、現在、「鴨川を美しくする会」など、市内の18の河川美化団体が加盟し、地道な活動を続けている。鴨川の水質汚濁の頂点は1973年で、以後BOD(生物化学的酸素要求量、水質汚濁の指標)の数値は下がり続けている。(鴨川下流の京川橋においては、1984年を底として再び上昇し、1988年を頂点とし再び減少傾向に転じた。)。2004年には、鴨川にアユや、イワナが鴨川に戻ってきた。
 1987年、残されていた鴨川三条・七条間の京阪電車と琵琶湖疏水が地下化し、戦前からの念願であった河道の拡幅改修が実現した。
 1988年、府による鴨川上流の治水のための鴨川ダム(最大貯水量1500万t)建設計画(第二次景観問題)が起きた。1996年、三条と四条間の鴨川に、フランス様式の芸術橋(ポン・デ・ザール)を架ける市の計画が表明され、以後景観論争に発展した。(第二次景観問題)。
 1999年、京都府と京都市により、三条・七条間の「花の回廊」整備事業(1992-1999)が完成し、枝垂桜、山吹などが植栽された。
 2007年、全国初となる河川についての総合的な景観・環境保全のための、「京都府鴨川条例」が発効した。また、鴨川を含む画期的な景観保全のための「京都市眺望保全条例」も制定された。
◆今後 京都市内の過去48年間(1931-1979)における河川総延長距離は、338.8kmから258.0kmとなり、約24%減少している。河川密度も同様に減っているが、これらは都市化に伴う水田の減少、市街地化、治水のための河川整備などが影響している。
 鴨川は、南北の「ビスタ」(見通し線)を確立し、東山は東の「スカイライン」(稜線)を確保している。この二つの視界が、鴨川を取り巻く自然景観、文化、歴史景観を形作ってきた。都を流れ続けている鴨川は、常に人の手が入ってきた川でもある。都鄙、聖俗貴賎と多様な側面を持つ、穏やかで時に激しい川だった。時代とともに、長い時間軸の中をそうした相反する側面を合わせ持って流れ続けてきた川でもある。それは、都が歩んできた変化し続ける歴史とも重なっている。


*参考文献 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『鴨川千年涙川』『京の鴨川 流れよ永遠に』『千年の都と鴨川治水』『京都水ものがたり 平安京一二〇〇年を歩く』アジア古都ものがたり』『平安遷都と鴨川つけかえ』『京の大橋こばし』『京都・山城寺院神社大事典』『平安の都』 
現在の鴨川堤防の基本的な構造、天端は自動車道、遊歩道、公園。高水敷は遊歩道(自転車道)、公園などに利用されている。
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