鴨川1,Kamo-gawa River 1,Kyotofukoh




鴨川 1  
Kamo-gawa River 1

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賀茂大橋から北方向
鴨川、周辺一帯は、風致地区に指定されている。左手は鴨川(賀茂川、加茂川)と出町橋、右手は高野川と可合橋。この合流する地点は、三角州を意味する「只洲」(ただす)」と呼ばれ、糺(ただす)の語源になったともいわれている。また、その形から「剣先」と呼ばれた。中央の森が府立鴨川葵公園、さらに奥に下鴨神社・糺の森。遠景が北山の峰。


鴨川源流部(北区)

京都盆地の各河川概略図
鴨川は、京都市北区の桟敷ヶ岳を源流とし、上賀茂神社、下鴨神社沿いを流れ下り、三角州・糺の森で高野川と合流後、桂川(総延長110km)に注いでいる。 主な支流は、 岩屋川、祖父谷川、雲ヶ畑川、 中津川、 鞍馬川、 高野川、岩倉川、(琵琶湖疎水)、 白川、 堀川、西高瀬川。分流は、御手洗川(明神川)、みそそぎ川。


「鴨川起点」の表示板は、京阪バス「白梅橋」近くの雲ヶ畑川に設置されている。写真の上から二段目の堰の中ほどにある。       


鴨川(左)と鞍馬川の合流点、京都市北区十三石橋上流,洛北発電所付近


鴨川の終点、京都市伏見区羽束師橋付近、左の桂川、右の鴨川の合流点   


鴨川のおおまかな勾配の変化、左が起点 2006-
床止工  河床安定のため、川の勾配を緩和させる工法。鴨川では落差のある「落差工」(堰)を採用。
掘込河川 周辺の土地よりも河床が掘り下げられている工法。
築堤河川 川の両岸に堤防が築かれている工法。


『山城国風土記』逸文
山城国風土記に日はく、賀茂大神の御杜、賀茂と称すは、日向(ひむか)の曽の高千穂峯に天降り坐しし神、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、神倭磐余比古天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)の御前に立ち上り坐して、大倭(やまと)の葛城山(かつらき)の峯に宿り座し、彼より漸に遷りて、山代国の岡田の賀茂に至りたまひ、山代河に随(そ)ひ下り坐し、葛野河(かづぬ)と賀茂川と会ふ所に至り坐し、迥(はるか)に賀茂川を見て、言(の)りたまひけらく、狭く小かれども、然も石河の清き川なりとのりたまひき。仍りて名を石河の瀬見の小川と号ふ。彼の川より上り坐して、久我国(こがのくに)の北の山基(やまもと)に定(しづま)り坐しき。その尓時より、名づけて賀茂と
へり。賀茂建角身命、丹波(たにはの)国の神野神(かみぬの)、伊賀古夜日売(いかこやひめ)に娶(みあ)ひて生みませる子、名を玉衣日姫命と曰し、次を玉依日売と曰す。玉依日売、石河の瀬見の小川の辺に遊為す時に、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃ち取りて床の辺に挿し置きしかば、遂に感(かま)け孕みて、男子を生みたまひき。人と成る時に至りて、外祖父(みおほじ)賀茂建角身、八尋屋を造り、八つの戸扉を堅め、八しほをり(酉+囚+皿)酒を醸みて、神集へ集いへて、七日七夜楽遊したまひき。然て子に語らひ言りたまひけらく、汝が父と思はむ人に、此の酒を飲ましめよとのりたまひしに、即ち酒杯を挙げ天に向ひ祭を為して、即て屋の甍を分け穿ちて天に昇りましき。乃ち、外祖父の名を因みに取りて、賀茂別雷命と号す。謂はゆる丹塗矢は乙訓郡の社に在す火雷神に坐す。賀茂建角身命丹波の丹波国の伊賀古夜日売と玉衣日売と、三柱の神は蓼倉里(たでくらの)の三井社に座せり。
       
 『山城国風土記』逸文などの伝承によれば、賀茂氏(鴨氏、カモ氏)は、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を奉じて、日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)峯より、大倭葛木(やまとかつらぎ)山に来た。さらに、淀川を遡り、山代(やましろ)国岡田、久我(こが)国北山の基(もと)に到った。その娘・玉依日売(たまよりひめ)は、小川の辺で得た丹塗矢(にぬりや、火雷神<ほのいかづちのかみ>)に感じ、賀茂別雷神(かもわけいかづちのみこと、天神御子<あまつかのみこ>)を産む。この天神御子は、一端天に上がり、御祖神(みおやのかみ、祖父神・賀茂建角身命、生母神・玉依日売)の願いに応え山本(やまもと)に鎮座した。
 豪族の賀茂氏(鴨氏)は、かつて大和葛城にあり、大和政権(大和朝廷)の京都への伸張に伴い古代の京都の北部へ進出した。愛宕郡賀茂郷を本拠地とし、上賀茂神社、下鴨神社の神事に奉仕した
 経路は、日向国曾の峰(高千穂)→大和国葛城(葛木山、かつらぎ、奈良県御所市)地方→山代の国の岡田の賀茂(相楽郡加茂町)→山代河(木津川)→「葛野河(かどのがわ、桂川)と賀茂河の会ふ所」→鴨川上流の愛宕(おたぎ)賀茂(久我の国の北の山基、京都市北区の久我神社付近)



下鴨神社での夏越神事(8/7)・矢取神事は、丹塗矢の伝説に由来している。


左京区河合神社境内の、再現された鴨長明
の「栖」



上京区鴨川沿いにある、頼山陽の「山紫水明処」




(左)方形縦板組み井戸、平安京左京三条ニ坊七町で発見された平安時代(11世紀)の井戸。井筒は20-30㎝の板が縦に並べられている。(地下鉄東西線二条駅) 
(右)石組み井戸、神泉苑東隣、平安京左京三条ニ坊ニ町で発見された鎌倉時代の井戸。井筒上部には鴨川の河原石(30-40センチ)で組まれ、底部には径1mのくりぬいた丸太を置いている。(地下鉄東西線二条駅)


規模は、東西4.5㎞、南北5.2㎞、推定人口12万人


平安時代の鴨川、平安京の外(東)を流れている。(京都市平安京創生館の復元模型)


東悲田院
があった地、河原町御池下ル、西側、もともとは鴨川河原近くにあった。


鴨川のゲンジボタル、画面左に1匹(蛍光色の点)、右に2匹いる。この日、この付近で7匹ほど確認できた。個体数は多くはないが鴨川に生息している。(鴨川中流域某所、2008.6)


鴨川のゲンジボタル、この付近では1匹のみ確認。鴨川中流某所(2008.7)


【参照】糺の森のゲンジボタル(2008.6)


カワセミ、鴨川の何ヶ所かで繁殖している(2007)


ユリカモメ(冬羽)の成鳥
チドリ目 カモメ科 学名 Larus ridibundus, 英語名 Black-headed Gull 体長 40㎝、翼開長93㎝の小型のカモメ。成鳥は赤いくちばしと足、幼鳥は黄色味がかっている。冬羽はほぼ全身白い。夏羽は、頭部が黒くなる。鳴き声 ギューイ、ギーィッ。名前の由来は、「入江(いりえ)のカモメ」からユリカモメに転じたとする説、百合を当て字にしたという説もある。
ユーラシア大陸の中緯度地方(鴨川に飛来しているユリカモメの繁殖地は、カムチャツカ州都ペテロバブロフスク・カムチャツキー近くのアバチャ川河口の三角州)に繁殖。冬鳥として日本各地に現れ、本州以南で越冬する。海岸、港、河口部、川の中流域、湖沼で群れで見られる。魚、水辺の小動物、屍肉、残飯なども食べる。京都では、10月頃-5月頃まで見られる。鴨川、桂川などに早朝、琵琶湖より飛来し、ねぐらの琵琶湖には夕方に戻る。飛来のコースは、浜大津、小関越、山科盆地、東山山系、鴨川と浜大津、如意ヶ岳、大文字山、鴨川の二つがある。


鴨川で見られる鳥類、カモ、サギなど



鴨川で見られる魚類、オイカワ、フナ、ハエ、ヤツメウナギなど(賀茂川漁協団栗詰所、団栗橋)


鴨川源流で見つけた体長70㎝あまりのオオサンショウウオ、この個体は残念ながら傷ついて死んでいた。近年では、源流域でも外来種との交雑が問題となっている。(2007)


オニヤンマ(2007)


釣り人が釣り上げた50㎝ほどのナマズ(2007)


トノサマガエル(2007)
 京都市内を北から南へに流れる鴨川は、都市を流れる河川にもかかわらず、いまも清らかな流を保っている。鴨川は、「京都の顔」として、自然と歴史、文化を象徴する存在になってきた。鴨川には、年間300万人もの国内外の観光客が訪れているという。
 「王城の地」として、千年もの間、同じ場所で都が続いた。それは、京都が天然の要害を形成し、山紫水明の地であったこと、豊かな水の都であったこと、借景としての自然の山並みと鴨川の流れだったことなども一因に挙げられている。
◆歴史年表 飛鳥時代、652年、鴨川の大氾濫が起こる。
 平安時代、794年、平安京遷都にあたって第50代・桓武天皇は、「此の国は山河襟帯、自然に城を作(な)す。この形勝に因みて、新号を制(さだ)むべし。宜しく山背国を改めて山城国となすべし。また、子来の民、謳歌の輩、異口同辞し、号をして平安京と曰す」(「日本紀略」)と詔を公布した。
 824年、鴨川、桂川(西河)の治水のための役所である防鴨河所(ぼうがしょ)が設けられ、官職、防鴨河使(ぼおうかし、ぼうかし)と桂川には防葛野河使が置かれた。
 841年、大氾濫になる。
 842年、島田川(御室川)、鴨川の髑髏を焼却してもよいとの命令があり、5500余りの髑髏が処分された。(「続日本後記」)
 871年、葛野郡、紀伊郡の河原が百姓の葬送、放牧の地なになる。(「三代実録」) 
 1017年、鴨川の洪水により、東悲田院の病人300人が流される。(「左経記」)
 1100年頃、白河法皇(第72代)は、鴨川治水の困難さについて「天下三不如意」と呼んだ。
 鎌倉時代、1212年、鴨長明は、『方丈記』の冒頭で、世の流れを鴨川にたとえ無常観に触れる。
 1262年、90歳で没した親鸞は、「わが骨灰は鴨川に撒け」との遺言を残した。
 1284年、大氾濫になる。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉は、洛中の周囲をめぐらせた堤防・惣構施設「御土居」を完成させた。
 江戸時代、京都所司代・板倉内膳正重矩により護岸の「寛文新堤」(新土居、1669-1700)の石垣築造が行なわれた。
 1677年、鴨川両岸の石垣が完成した。
 1740年、大氾濫になる。
 1778年、大氾濫になる。
 1846年、大氾濫になる。
 近代、1892年、鴨川運河が疏通する。
 1908年、京都市産大事業の起工により、第二琵琶湖疏水開削などが行われる。
 1913年、四条大橋、七条大橋が竣工される。
 1935年、「昭和10年鴨川大洪水」により多大の被害が出る。
 1936-1947年、大規模な河川改修工事(「千年の治水」)が、鴨川、御室川、天神川、高野川などで行われた。鴨川は深さ2-3m開削される。
 第二次世界大戦中には、鴨川の河川敷で食糧増産のための開墾が行われ、畑が作られたこともあった。
 1951年、鴨川、高野川の合流点に葵公園が整備される。後に、拡大され鴨川公園になる。
 現代、1955年頃まで、京友禅の染めの工程で、鴨川、堀川、高野川での友禅流し、さらし作業も行われた。
 1979年-1987年、京阪電車、琵琶湖疏水(鴨川運河)が地下化される。
 1987年、鴨川三条・七条間の京阪電車と琵琶湖疏水が地下化し、戦前からの念願であった河道の拡幅改修が実現した。
 1988年、府による鴨川上流の治水のための鴨川ダム(最大貯水量1500万t)建設計画(第二次景観問題)が起きた。
 1996年、三条と四条間の鴨川に、フランス様式の芸術橋(ポン・デ・ザール)を架ける市の計画が表明され、以後景観論争に発展した。(第二次景観問題)。
 1992年-1999年、京都府と京都市により、三条・七条間の鴨川河川改修、鴨川公園再整備、「花の回廊」整備事業により、枝垂桜、山吹などが植栽された。
 2008年、京都府鴨川条例が施行された。
◆鴨川の概要 鴨川の流域面積は200.7㎡あり、その7割が山地であり、総延長は23km、淀川水系(10水系、232河川)の一級河川(指定区間)になる。河川法の適用を受ける一級河川は、国土交通省の直轄管理になる。一級河川「指定区間」である鴨川は、京都府知事が管理者であり、鴨川に関する改修なども行う。2000年の河川法の一部改正により、京都府との協議に基づき、京都市が鴨川の河川管理者となる可能性も出ている。
 一般的に、鴨川の源流部は鴨川支流の祖父谷川の源流、桟敷ヶ岳(北区)東とされる。京都府による鴨川の起点の表示板は、出合橋よりさらに上流、厳島神社より上流部、京阪バスのバス停、「白梅橋」近くの雲ヶ畑川下流に設置されている。以前は、 この地点より下流の、雲ヶ畑川と中津川の合流点・出合橋付近から、東方向、中津川上流よりへわずかに上った地点にあった。
 付近の鴨川源流域の支流のひとつは、志明院(北区)の東を流れる岩屋川で、薬師峠南麓が鴨川源流になる。もうひとつの鴨川支流・祖父谷川は、桟敷ヶ岳(北区)の東を源流としている。二川は、下流の岩屋橋下流付近で合流する。この地点から、雲ヶ畑出谷町、中畑町(北区)を雲ヶ畑川(小野川)と名を変えて南へ流れ下る。
 さらに下流の出合橋付近、雲ヶ畑中津川町で、雲ヶ畑川は鴨川支流・中津川と合流し、鴨川になって南流し始める。中津川は、鞍馬山の北西、鞍馬の滝谷峠直谷(左京区)と貴船山樋ノ水谷(左京区)が源流になる。鴨川はさらに下流の十三石橋上流付近で、鴨川の支流・鞍馬川と合流している。
 鴨川の支流は、岩屋川、祖父谷川、雲ヶ畑川、中津川、さらに鞍馬川、高野川、岩倉川、(琵琶湖疎水)、白川、堀川、西高瀬川などになる。分流は、御手洗川(明神川)、みそそぎ川、高瀬川などがある。鴨川は、桂川と合流後、淀川と名前を変え大阪湾に流れ下る。
 鴨川は意外にも急流で、山地部の勾配は30分の1、平地部150分の1、上流部から七条までは170分の1になる。標高は、北山通と東寺五重塔・九輪の塔先端(57m)がほぼ同じ高さになる。
 現在の河川形態は、上流域は渓流河川、上賀茂よりは、石積護岸と床止工による掘込河川、七条大橋付近より下流は築堤河川の三種に分けられる。
 鴨川の流路については時々で変化している。かつては現在よりもはるかに広い河原域が形成されていた。西は現在の寺町通付近、東は縄手通付近まで広がっていた。ちなみに縄手とは堤のことを表し、河原町通もかつては河原だったことを意味している。
◆平安時代の鴨川、治水 平安京遷都(794)にあたって桓武天皇は、「此の国は山河襟帯、自然に城を作(な)す。この形勝に因みて、新号を制(さだ)むべし。宜しく山背国を改めて山城国となすべし。また、子来の民、謳歌の輩、異口同辞し、号をして平安京と曰す」(『日本紀略』)と詔を公布した。鴨川などの扇状地である京都盆地、山背国葛野郡宇太村に新しい都を定めた。
 「山河襟帯」とは、山が「襟」のように立ち、「帯」は川の流れるさまを表し、自然の要害を形作っているといることを指す。山と水の要件が、都の造営において重要な意味を持っていた。ただ、この「河」は鴨川ではなく、山背国を取り囲む周辺の木津川、宇治川などを指すという説もある。
 なお、京都盆地をさす「山背」(やましろ)とは、大和から見て奈良山の北にあたることを意味している。ただ、7世紀までは「山の樹を育てる土地、山の代」の意の「山代」(『古事記』~、『万葉集』には「開木代」)、奈良時代は「山背」(『日本書紀』~)、平安遷都後に「山城」となった。また、都を意味する同義語を重ねた「京都」は、天平の頃にすでに使われていたともいう。鎌倉時代-室町時代に一般的には「京師(けいし)」「京」と呼ばれていた。いずれも都を意味するこれらの言葉は、もとは中国からもたらされた。
 「京都」の文献初出は『中右記』(1098)とも、使用例としては北条時政の初代「京都守護」(1185)以降ともいう。一般名詞としての「京都」が、固有名詞として定着するのは平安時代末-鎌倉時代にかけてとみられる。これは鴨川の東に広がった白河殿を含む都全域を意味する「京・白河」から、拡大された京域を包括するための「京都」が生まれたとみられる。 
 なお、平安京以前の京都盆地には、すでに先住豪族秦氏の開発があり、当初の新都建設に当たっては水利・土木工事、それに資金面での支援があったとみられている。またこれには、新興貴族・藤原氏の政治的な協力もあった。河内の百済王氏の影響力があったとする見方もある。
 中国唐の都、長安(右京)と洛陽(左京)の都城制を参考にして創建された平安京では、条坊制がしかれた。鴨川は都の外側・東側を流れている。これは風水の四神相応の思想が、都の造営に影響した結果といわれている。四神は、方位を守護する神であり、諸説あるが、東(左)の青龍が鴨川(流水)、西(右)の白虎が山陽・山陰道(大きな道)、北(後)の玄武が船岡山(丘)、そして南(前)の朱雀が巨大な遊水池・巨椋池(おぐらいけ、1933-1941年に干拓された)と見られている。
 また、東山、西山、北山、水朱雀の巨椋池に、それぞれの守護神が鎮座し、中央の黄龍(皇帝を意味する)に気を注ぎ続けている、五行でいう「吉の地」ともされる。これによって、都の安定を維持することができると考えられた。平安京は、風水、五行説、陰陽思想、易経、道教など当時の最新の思想、技術を元に形作られた。 平安時代は、南北に現在よりも多く、12(10以上とも)の河川、水路が流れていた。また、大路、小路に沿って、縦横に小川である「溝」が走っていた。川は、鴨川、東京極川(二条以北は後の中川)、東洞院川、西洞院川、堀川、大宮川、耳敏川、西大宮川、西堀川(紙屋川)、西洞院川(佐比川)、西室町川などである。平安京造営によって、各大路の河川は整備され、鴨川の改修工事も行われている。ただ、鴨川の付け替え工事まではなかったというのが現在の通説となっている。鴨川付け替えとは、かつての鴨川は、現在の堀川付近を南進していたとし、平安京の建都の際に、鴨川を現在のように東京極の東に移し、人工的に高野川に合流させたとするもの。この付け替え説については、藤田元春『都市研究平安京変遷史』(平安遷都千百年記念京都府発行『平安通志、巻之一』、1930)以来、塚本常雄『京都市域の変遷と其地理学的考察』(1932)、吉田敬市の論証などがある。反論としては1979年、京都新聞紙上で発表された藤岡謙二郎以来、論争が再燃した。横山貞雄『平安遷都と鴨川つけかえ』(2004)により、地質調査の結果から付け替え工事はなかったとの説が確定的となった。
 平安時代の河川としては、運河の東堀川(現在の堀川)や西堀川、生活排水路の役割を果たした富小路川、東洞院川、烏丸川、室町川などがある。大内裏を挟んで造られた東堀川と西堀川は、幅が12m、その他の河川は、1.5~3mあった。これらの河川を整備する技術は、すでに6世紀、秦氏族が葛野川(桂川)の水田整備をしたことで獲得されていたとみられている。
 鴨川は過去にたびたび洪水を起こす川でもあった。『貞信公記』(938)、『日本紀略』(989)などにも鴨川氾濫の記述がある。平安時代の799年から1935年までの過去1324年の間に起きた記録に残る洪水は164回、およそ8年に一度の頻度で発生していたことになる。(『京都水害史』)。その原因として、巨大建築の用材として鴨川、桂川などの水源部の山林が伐採されたこと。貴族の造邸(たとえば摂政藤原忠通邸宅)によって、引き入れられた鴨川の水による堤防決壊もあった。有史以来の記録に残る主な鴨川の大氾濫としては、652年、841年、1284年、1740年、1778年、1846年、1935年などがある。
 平安時代(824)、鴨川、桂川(西河)の治水のための役所である防鴨河所(ぼうがしょ)が設けられ、官職、防鴨河使(ぼおうかし、ぼうかし)と桂川には防葛野河使が置かれた。861年には、山城国司に所管が一度移され、その後復活している。防鴨河使は、検非違使の佐(すけ)を長官としていた。堤防の決壊後に任命され、使、判官、主典(さかみ)の三等官制だった。彼らの調査結果に基づき、朝廷が諸国に修造を命じ、工事後に審査があった。問題がなければ覆勘文を作成して完了した。ただ、あまり成果はあがらなかった。1105年の大雨、1142年の台風と豪雨などにより被害が出ている。公家は、賀茂下社あたりから下流(二条、六条以南)に向けて鴨川の堤を「巡検」したが、物見遊山の形式的なものだった。 *葛の「匂」は「L」に「人」 
 1017年、鴨川の洪水により、東悲田院の病人300人が流されるという惨事の記録が残る。(『左経記』)、悲田院は、病人や孤児を収容した平安時代のいわば福祉施設で、当初は東西二つの悲田院があった。東悲田院は河原町御池付近にあった。
 平安時代の白河法皇は、鴨川の治水の困難さについて「天下三不如意」(1100頃)と呼んだ。『平家物語』によると、「鴨の水と双六の賽と山法師、是ぞ朕が心にしたがわぬ者」として、鴨川の洪水、さいころの目、比叡山延暦寺の僧衆による強訴(ごうそ)の三つを挙げている。これは、鴨東への都の開発の進展によって、鴨川氾濫の危険が増していたことを示している。 平安遷都後、特に中期から末期にかけて鴨川の氾濫が相次いだ。その理由として、大規模な建築が相次いだことで、鴨川上流部の森林が伐採され、朝廷による植林の保護も行なわれなかったことが考えられる。建材の伐りり出しと、瓦を焼くための燃料にも使われた。森の乱伐によって、鴨川はその後150年間にわたって「暴れ川」になったという。ただ、これについては、当時の気候変化の影響と見る説もある。また、氾濫原への都市開発の影響もあるとの見方もある。
 平安京での飲料水は、井戸に頼っていた。ただ、都の西の右京は、低湿地帯で水の質もあまり良くなかった。そのため、都は次第に鴨川を越えて左京(東)へと移動していった。(慶滋保胤『池亭主記』、982)。かつて大内裏が位置したところもまた、地下水脈が深く、水質も良くなかった。その後、南北朝時代(1331)に、良質の地下水を求めて、鴨川の西にあたる現在の御所の地へ移転したともみられている。ただ、鴨川に近いため、鴨川の洪水のたびに御所はその氾濫原となっている。  
◆「かもがわ」の地名由来 「かもがわ」という地名の由来については、鴨川上流部の上賀茂一帯は、古代より賀茂(鴨)氏の本拠地であり賀茂郷があったことから、「かも」「かもがわ」と呼ばれるようになったとの説がある。賀茂氏は「葛野鴨県主」(かどのかもあがたぬし)、「葛野主殿(とものり)県主」と呼ばれた氏族で、倭王に同盟、服属して葛野県の県主になり、大和政権(大和朝廷)県の支配と管理を担った。また、大和国から移住してきた賀茂氏と、先住していた葛野主殿県主部の各氏族が融合し、新たな氏族、鴨神社を形成したとの有力説もある。鴨県主は、奈良、平安時代には、薪炭、氷室の氷の調達や賀茂社の神事になどに関係したと見られている。
 また、神川(かむかわの)神社(伏見区羽束師鴨川町)では、「かもがわ(加茂川)」の呼称は、この「神川」が転じたものであるともいう。(『神名帳考証』)
 「かも」は文献により、「迦毛」(『古事記』)、「鴨」「賀茂」「甘茂」(『日本書紀』)、「加茂」「可茂」「賀毛」「賀茂」(『風土記』)、「賀母」「鴨」「賀茂」(『続日本紀』)、「加毛」(『和妙抄』)、「賀茂」(『万葉集』)など様々な字があてられている。「かも」は、「カミ(上)」、「カミ(神)」の転意で、鳥の「カモ(鴨)」に因るとする説がある。奈良時代以前は、「上」「神」「鴨」の三語は同じ語源だった。これらは「カモという神が川上へ遡る」とも解釈され、水辺に寄る鴨は神の使者とも見られていた。また、「神山」(カムヤマ、コウヤマ)、「神尾」(カムヲ)から「カモ」への新転訛化説もある。「かも」を鴨氏族との関係ではなく、地名に由来するとするもので、カモ神は各地に見られる境界神とみる。「かも」がアイヌ語の「カムイ」(神)に由来するという説もある。ちなみに「カミ」の古形は「カム」で、隠身(かくれみ)の隠とする説が有力になる。なお、「川」は動詞の「変わる」「替わる」と係わりがある。
 鴨川の表記について、古代では「賀茂川」と「鴨川(河)」が用いられていた。公文書では鴨川(河)とされた。『日本紀略』814年6月19日には、すでに「鴨川」と出てくる。『日本書紀』829年12月24日には「賀茂川」とある。『山城国風土記』逸文(釈日本紀、713)にも「賀茂川」とある。『三代実録』(860)9月15日では「東河」とある。いくつかの別の呼び名もある。平安時代には「東川(河)」「宮川(河)」「羽川」、また、「(石川の、石川や)瀬見の小川」(瀬がよく見える浅い川の意、川原、川底に石の多くある、石にこされて清く澄んだ川の意。『山城国風土記』。なお、「瀬見の小川」は下鴨神社糺の森の中を流れており、鴨川源流の一つになる。)。
 平安時代末期には「朱雀河(川)」とも呼ばれた。右京で繰り返された洪水、水質の悪化から、マラリアなどの疫病の流行により衰微した。そのため、平安京の東端だった鴨川を越えて都が東へ広がった。やがて、鴨川が朱雀大路のように都の中心を流れる川になったことによる。ほかにも「多田須(糺)川」「みたらし川」「石川」「堤河(川)」「近き川、ちかき川」「鴨羽川」「清(すみ)川」「みそそぎ川」などともいわれた。
 ちなみに万葉集(7世紀後半-8世紀後半)にある「鴨川の後瀬静けみ後も会はむ妹には我は今ならずとも」の恋歌は、現在の鴨川ではなく、南山城の木津川(泉川)を指している。岡田鴨神社もあるが、こちらの鴨川がその後定着することはなかった。
 鴨川は、「賀茂川」「加茂川」とも表記される。この表記については、鴨川と高野川が合流する地点より上流部を「賀茂川」(あるいは「加茂川」)、下流部を「鴨川」と分けて表記されることもある。この使い分けについて、「賀茂川」は上流域にある上賀茂神社の「賀茂」、「鴨川」は下流域の下鴨神社の「鴨」に起因しているとされる。鴨川の上流にある神社が上賀茂神社であり、下流にある神社が下鴨神社と呼ばれた。または、御所より上と下の社で区別したともされる。さらに、その中間に「中賀茂」も存在した。(中賀茂、中の御社は下鴨のことを指すともいう。河合神社が下の御社とされた)「賀茂川」「鴨川」は、両社の位置に由来し、川の上流を「賀茂川」、下鴨神社以南の下流を「鴨川」と使い分けたとも説明される。ただ、逆に合流点より上流を「鴨川」、下流を「賀茂川」「加茂川」と記述している例もある。
 ちなみに、上賀茂神社の正式名称は「賀茂別雷神社」、下鴨神社は「賀茂御祖(かもみおや)神社であり、さらに下鴨神社は、かつては上賀茂神社との総称で「賀茂社」、または「下社」「賀茂下社」と呼ばれていた。なお、ここでの「上」は北、「下」は南を意味しており、かつては御所を起点にした使用法ともいわれている。(正確には、両社とも御所の北に位置している)。現在では、混乱を避けるために、両社を意味する場合には、「かも」「カモ」とも表記されることもある。なお、現在の下鴨には、平安遷都以前にすでに賀茂氏が居住していた。「下賀茂(下鴨)」の表記が出てくるのは、後の中世後期(1336『梅松論 下』、1343大徳寺『順恵文書預ヶ状』)になってからのことである。現在の、「賀茂」と「鴨」の使い分けについては、両社の話し合いにより、江戸時代中期に始まったとみられる。(『賀茂社注進雑記』)。結論として、「賀茂川」、「鴨川」の使い分けも、意外に歴史は浅く、少なくとも江戸時代中期以降のことと考えられる。
 「賀茂川」と「加茂川」の使い分けも不明という。ちなみに『源氏物語』では、「加茂川」の表記で統一されている。「加茂川」については、日本各地にみられる河川、地名であり、それらのなかには京都を地名の由来にしているものがある。『山城風土記 逸文』の「岡田の賀茂」の記述は、相楽郡加茂町の現・岡田鴨神社周辺になっている。この地も、賀茂氏の居住地だった。かつて「賀茂」の字を当てていたが、江戸時代、1712年の大洪水以後、「加茂」と改名された。ここに「加茂川」の由来があるかについては不明という。
 近代、1896年の河川法では、高野川との合流点から終点・桂川との合流点までの17.256mを「鴨川」とした。その後、1965年3月14日付の政令による河川法改正により、北区雲ヶ畑の河川の「起点」から「終点」の桂川との合流点までの23.45m、全河川を「鴨川」と統一して定めた。
 現状として、「鴨」「賀茂」「加茂」の表記は混在している。
◆鴨川と賀茂社 『山城国風土記』逸文(釈日本紀、713)の神話には、「賀茂」のことが出てくる。それによると、神武天皇とともに天降った賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は、日向国曾の峰(高千穂)から大和国葛城(葛木山、かつらぎ、奈良県御所市)地方、山代の国の岡田の賀茂(相楽郡加茂町)、山代河(木津川)と北上し、最終的に「葛野河(かどのがわ、桂川)と賀茂河の会ふ所」、その鴨川上流の愛宕(おたぎ)賀茂(久我の国の北の山基、こがのくにのきたのやまもと、京都市北区の久我神社付近)に辿り着いたという。
 いくつかの川が登場している。「葛野河(かどのがわ)は桂川、「賀茂河」は鴨川、「会ふ所」とは鴨川と桂川の合流する羽束師・久我(こが)神社(伏見区)付近とみられる。「石河(川)の清き川」「石河の瀬見の小川」も、鴨川を指しているとみられる。なお、下鴨神社境内糺の森にも「瀬見の小川」が流れている。
 時期は、4世紀中頃までと考えられている。これを史実とみるかについては諸説がある。賀茂神を信奉する賀茂(鴨)氏の移住の軌跡と考えられている。なお、奈良県御所市には高鴨神社、鴨都味波八事代主(かもつみはやえことしろぬし)神社、京都府相楽郡加茂町に岡田鴨神社など、賀茂にまつわる社が残されている。
 賀茂建角身命の伝承は、神武天皇(神倭石余比古、かむやまといわれひこ)の東征の際、三本足の八咫烏(やたがらす)になって皇軍を導き、勧降神として平定に功をなし、この地の開発に当たったという伝承がある。賀茂建角身命は、丹波国神野の伊加古夜日女(かむいかこやひめ、神伊可古夜比売命)と婚姻し、兄・玉依日子(たまよりひこ、玉依彦、賀茂県主)と下鴨神社祭神・妹の玉依日売(たまよりひめのみこと、玉衣日姫命、玉依媛姫、玉依比売命)の一男一女を産む。
 玉依日売は、貴布祢神の本殿から流れ出る貴布祢川を水源にする瀬見の小川(石川の清川、鴨川)で、丹塗(にぬり)の矢が流れ着いたのを見つける。床の傍らにさしておくと身ごもり、男児、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷神(かもわけいかずちのみこと)を産む。賀茂別雷神の成人を祝う神集いの際に、祖父・賀茂建角身命が「汝の父と思う人にこの酒を飲ませよ」と言うと、賀茂別雷神は甍を破り昇天した。丹塗りの矢は、乙訓の火雷命(ほのいかずちのみこと)であり、父が天上の雷神であることがわかり、賀茂別雷神と名づけられた。
 賀茂別雷神もまた火雷神であり、雷の光は害虫を殺し稲の生育を助けると信じられていた。火と雷の神は雨をもたらし稲作、農耕の神、水を司る神になった。玉依日売もまた水の聖、鴨川の水の精といわれる。いずれの神も、雷、火、水と関連し、稲作と深く関係している。なお、夏季の京都盆地には3種の雷雲が発生した。丹波で発生し京都盆地に進むものは「丹波太郎」、奈良の北部から南山城に進むものは「山城次郎」、さらに近江から西進するものは「比叡三郎」と呼ばれた。
 同じような丹塗矢の逸話は、『古事記』の大物主神(おおものぬしのかみ)と勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)との間にもある。
 なお、古代の京都盆地の開拓に先駆的に関わった、5世紀頃渡来したとされる秦氏と賀茂氏の姻戚関係が成立したとする説もある。松尾大社の祭神・大山咋神(おおやまくいのかみ)と火雷神との関連を指摘するが、これには異説もある。(『古事記』)。賀茂氏と出雲氏との関わりを指摘する説もある。また、記紀では、大和葛城の賀茂と山城の賀茂を別のものとしている。賀茂氏とゆかりの深い上賀茂神社と下鴨神社は、奈良時代の中頃に分立している。平安時代に両社は、山城国の一宮になっている。
 鴨川と賀茂社の関わりは深い。中世において、鴨川の水は京都御所の池に引かれ、近隣の水田への灌漑用水にも利用されていた。中世の上賀茂社境内六郷(河上、岡本、大宮、小山、中村、小野)の利水権も上賀茂社にあり、上賀茂社川奉行の支配下にあった。鴨川の水の引水・配水、止水、水争いの際の仲裁などは、上賀茂神社の裁量によるものだった。川奉行は、水支配をになう役人であり、奉行1人、下役人2人の人員で、川の管理と祭り供を掌っていた。(『上賀茂のもり・やしろ・まつり』) 
◆鴨川の変遷 鴨川の姿は時代により様々な変遷を見せている。たとえば、現在、最も鴨川の川幅が広い賀茂大橋付近の川幅は141mだが、平安時代には1800m、三条大橋付近では現在が73mだが、平安時代には800mと、現在よりも10倍以上も川幅が広かった。河岸も河原も現在より広いため、普段の水深は浅く、川筋は網状になり幾条にもなって流れていたとみられる。平安時代の鴨川の川幅は、たとえば四条付近での河原は、東は大和大路(縄手通)から西は東京極通(寺町通)付近まで広がっていたとみられている。豊臣秀吉のお土居築造により、東は川端通付近、西は河原町通と寺町通の中間付近まで狭められた。高瀬川開削(1641)、寛文の新堤の築造により、現在見られるような川幅になった。
 平安時代以降から現代に至る鴨川扇状地の地形は、大きく5段階に分けられる。鴨川の河床の高さと鴨川の洪水氾濫には相関関係があり、河床が上昇すると扇状地での洪水氾濫が増加する傾向があった。
 8-10世紀は、河床は高く、扇状地面と鴨川の河床の差が小さいため、洪水氾濫の影響を受けやすい環境だった。こうした状況下で平安京建都が行なわれた。
 11-14世紀、10-11世紀に河床低下が進行した。新しい氾濫原と2mほどに段丘化した扇状地帯に区分され、洪水氾濫は新しい氾濫原に集中し、扇状地帯は安全性が増した。
 15世紀、再び河床の上昇した。自然堤防(新しい扇状地)が形成され、洪水氾濫の起こりやすい状態となった。
 16-20世紀前半は、自然堤防(新しい扇状地)が形成され、河床の上昇、さらに天井川化が起こり、洪水氾濫の増加と規模も拡大した。
 20世紀後半以降は、鴨川大洪水(1935)以後の大規模な河川改修工事により、15-20mもの河床の低下、河道断面積の増加などにより、洪水氾濫の危険性は減少した。
 また、鴨川洪水氾濫のピークは、平安時代の850-900年、室町時代の1450-1500年、江戸時代の1750-1800年の3つにみられる。(『京都地図絵巻』2007)
 これらと関連して、堆積物量と堆積域も変化している。堆積量が増えると河床も低下し、洪水氾濫の頻度も高くなる。平安時代-鎌倉時代には、堆積物の厚い地域が部分的に見られた。鎌倉時代-室町時代には、ともに減少した。室町時代-江戸時代には堆積域が拡大した。江戸時代-現代は、ともに増大、拡大し、歴史上最も数値が高い。(『京都地図絵巻』2007)
◆文学 幕末期の頼山陽が造語した「山紫水明」という言葉は、「ふとんきて 寝たる姿や 東山」(江戸時代前期の俳諧師・服部嵐雪)といわれた、東山三十六峰の緑の美しさを言い表している。この「紫」は、山のかすみの色であり、翠色に映えた山の紫のことである。また、「明」とは透明な鴨川の流れを意味している。
 『源氏物語』『枕草子』『古今和歌集』『新古今和歌集』と例を挙げるまでもなく、風光明媚な京都の景色が、独自の文学・文化を醸成させ、鴨川、鴨河原は歌枕になった。たとえば、平安中期の公家・歌人の藤原良経は、「霜うづむ 加茂の川原に 鳴く千鳥 氷に宿る 月や寒けき」と詠んだ。後撰集には作者不詳の「鴨川の 水底澄みて 照る月の 行きて見んとて 夏祓する」がある。鎌倉時代の歌人藤原基忠は、「みそぎする 行く瀬の波も小夜ふけて 秋風近し 賀茂の河水」(風雅集)がある。ただ、中世以降は詠まれることが減っていった。なお、「万葉集」のなかの「鴨川」は、「泉川」(現在の木津川、相楽郡加茂町付近)のことであり別称になる。 
 平安時代末期-鎌倉時代にかけての歌人・随筆家の鴨長明は、「石川や 蝉の小河の清ければ 月も流れを 尋ねてや澄む」(新古今集)と鴨川を詠んだ。また、『方丈記』(1212)の冒頭で、「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」と、鴨の流れにたとえて無常観に触れる。鴨長明は、下鴨神社境内にある摂社、河合神社に深いゆかりがあった。
 1262年、90歳で没した親鸞は、「わが骨灰は鴨川に撒け」との遺言を残した。だが、それは守られなかった。
 安土・桃山時代-江戸時代にかけて日本に滞在したポルトガル人神父・ジョアン・ロドリゲス(1561?-1639) は『日本教会史』のなかで、「都という都市にはきわめて広い道路がついていて、この上なく清浄である。その中央を流れる小川と、泉のすばらしい水が全市に及んでいて、道路は日に二度清掃し水を撒く」と書き残している。この「小川」とは堀川とも見られているが、清潔な水の都・京都の様を称えている。
 江戸時代の京都の案内書『京羽二重』(1685)には、「清水十景」の中に鴨川の名も挙げている。
 松尾芭蕉は、「川風や薄柿着たる夕涼み」(1690)と詠んだ。1789年、京都を訪れた江戸時代の絵師で蘭学者・司馬江漢は、「京は婦人よし、神社仏閣をかたどり景色よし」と記した。
 『南総里見八犬伝』で知られる江戸時代後期の読本作者・滝沢(曲亭)馬琴も、1802年の『壬戍羇旅漫録』(じんじゅつきりょまんろく)の中で、「夫皇城の豊饒なる三條橋上より頭をめぐらして四方をのぞみ見れば。緑山高く聳て尖がらず。加茂川長く流れて水きよらかなり。人物亦柔和にして。路をゆくもの爭論せず。‥京によきもの三ツ。女子。加茂川の水。寺社。」と記した。ちなみに「あしきもの三ツ。人氣の吝嗇。料理。舟便。」としている。幕末の喜多川守貞は、『近世風俗史』に、「京都は水性清涼、万国に冠たり。故に飲食の用みな必ず井水を用ひ、然も河水もまた万邦に甲たり。鴨河の水、衆人の称する所也」と書いた。江戸時代の尊皇思想家・ 高山彦九郎は「京師は水大によし、鴨川の水は夏に宜し、白川の水は秋によろし、せみの小川は冬によろし、清水音羽の水は春に宜し」と記した。
 絵も多く残されており、たとえば「町田家旧蔵本洛中洛外図」(室町時代)、「舟木家旧蔵本洛中洛外図」(17世紀初)、「賀茂川納涼図屏風」(17世紀初)、「都名所図会」(1780)、「都林泉名勝図会」(1799)、「花洛名勝図会」(1864)、安藤広重「四条河原夕涼」(19世紀)などがある。
 井泉神信仰が古くからある。山城国には「三井神社」があり、もとは「御井神社」と呼ばれた。祭神は不詳だが、高野川の西蓼倉の里にあった井泉で祭祀が行なわれていたと見られている。また、そのほかの井泉神として「大井神社」「貴布禰神社」「出雲井於(いのうへ)神社」「大井神社」などがある。
 京の名水・名井について、平安中期の女流作家・清少納言は『枕草子』のなかで、「井は、ほりかねの井。走り井は逢坂なるがをかしき。山の井、さしも浅きためしになりはじめけむ。飛鳥井「みもひも寒し」とほめたるこそをかしけれ。玉の井、少将ノ井、櫻井、后(きちき)町の井。千貫の井。」と紹介している。室町時代の東山流書院茶儀の開祖・能阿弥は、茶の湯の「七名水」として、御手洗井、常盤井、醒ヶ井、水薬師の水、大通寺の井、中川井、芹根井(亀井が入る場合もあり)などを挙げている。江戸時代には、利休井、菊水の井、柳井、晴明井、三斎井、豊園井、梅の井などが加わる。そのほかにも、「都七名水」(作者不詳)として県井、和泉井、少将井、常盤井、鴨井、飛鳥井、石井などの名が挙がる。江戸時代にも、数多くの名水が紹介されている。たとえば狐松子『京羽二重』(1685)には、京の7つの名井と20の名水が記されている。ちなみに、堀井の技術が中国よりもたらされ発達したのは、7世紀の頃とみられている。
 江戸時代、京の都の路上にも、各種の井戸が設けられていた。祇園祭などの際に使う「手洗水」、通行者の喉を潤す公共的な「功徳井戸」などがあった。また、町人が共同で使う井戸には、踏石(洗濯石)が置いてあり、物洗い、洗濯に利用していた。こうした井戸は、古代、中世以前もあったとみられている。
 江戸時代、大坂嶋の内に「京都賀茂河水弘所」が2か所が設けられ、鴨川の水が樽詰めで売られていた。これは上京の夷屋平蔵という人による商標「賀茂川の水」の販売であり、茶用、化粧水、薬としても用いられた。
 江戸時代後期の儒学者で『日本外史』で知られる頼山陽(雅号・東山三十六峰外史)は、鴨川の河畔、東山の峰を望む三本木の地に寓居を構え「水西荘」と名づけた。1828年にその隣に書斎「山紫水明処」を建て、ここから「山は紫にして水明(あけらか)し」という鴨川と東山の美しさを形容する「山紫水明」という言葉が次第に広まった。  
 山紫水明の地、京の鴨川の景観を称え、書画作品の舞台とした例は数知れない。近代以降の文人では、島村抱月、泉鏡花、長田幹彦、夏目漱石、吉井勇、薄田泣菫、梶井基次郎、大仏次郎、与謝野晶子、室生犀星、土田杏村、志賀直哉、水上勉など数多い。また特に、夏目漱石、永井荷風、谷崎潤一郎、川端康成、谷川徹三などは、失われていく京都の景観についてすでに警鐘を鳴らしている。
◆遺跡 京都盆地の北部から西部には、3万年前の旧石器時代の遺跡が残されている。北白川扇状地には、縄文時代全時期(8500年前からとも)にわたって遺跡が残っている。紀元前300年前後、鴨川、桂川沿いには弥生時代の水田跡も見つかっている。古墳時代には、上賀茂、北白川、山科から深草、伏見、嵯峨、太秦、桂、久世一帯に遺跡群が広がった。飛鳥、奈良時代には、太秦、上賀茂、北白川、八坂、久世、鳥羽、伏見、山科などに分布している。しかし、京都盆地の中央部では、出町の出雲寺跡、西院などを除き遺跡は見つかっておらず、空白地帯になっている。その理由として、平安京遷都以前の盆地の中央部は、低湿地で住居には適さず、湖沼や水田が広がっていたのではないかと見られている。
◆地勢・気候 京都市内の東に、比叡山(大比叡岳848m)と東山三十六峰。北に、京都府の最高峰皆子山(971m)と北山山系があり、その背後には平均海抜600mの丹波山地が日本海まで続いている。西には、愛宕山(924m)と西山山系といったように、三方を山々に囲まれた京都盆地である。これらの豊かな自然が、鴨川、高野川、桂川などの複数の河川の水を集め、扇状地として、唯一開けた南へ向けて一筋の流れをつくっている。鴨川、高野川の扇状地は、傾斜が緩やかであり、地下水が浅いことを特徴としている。
 京都盆地が形成されたのは、今から200万年前と考えられている。準平原が沈降し、周囲の山が隆起して形成された。洪積世(第4紀更新世、181万年前)、京都盆地は湖底だった。その後、湖底が隆起し、河川の堆積作用で台地状の盆地が形成された。京都盆地には、130万年前-50万年前まで、7回にわたって大阪湾から海が浸入したと考えられている。京都盆地に鴨川、白川、天神川の複合扇状地が形成されたのは、4-5万年前の氷期のことだった。盆地の南端には、鴨川、桂川、宇治川、木津川が流入し、巨大な遊水地・巨椋池(おぐらいけ)をつくり、淀川へと流れ下った。鴨川の川筋は変化している。1万年前は、高野川と一つになり、御所付近を流れていた。その後、東よりに変化し、さらに数千年前に現在のような流れになったと推定されている。
 30-50万年前、京都盆地を南北に走る活断層により、山地の隆起、低地の沈降が急速化した。南北に連なる東山、南北に流れる河川地形、平安京の都の造営もまた、これら活断層の活動による地形の影響も受けている。また、名水の形成にも、花折断層系、西山断層系などの活断層が関係し、断層の破砕帯、断層の上下運動で生まれた扇状地に数々の名水が分布しているという見方もある。 
◆気候 内陸性盆地である京都の気候は、夏の「油炒り」「油照り」、冬の「底冷え」など、厳しい自然環境下にある。ただ、その一方で、それが独特の風土と風物を育んできた。そこには、名水の文化(茶の湯、水菜などの京野菜、京友禅、紙漉、神泉苑・朱雀院以来の庭園など)、水にまつわる食の文化(京料理、京菓子、醸造、白味噌、豆腐、湯葉など)が花開いたといわれている。
 京都では良質の地下水が豊富に湧いた。鉄分が少なく、硬度が低いことが特徴であり、平安時代以来、井戸はわずか0.5m-1.5m(1.5-2mとも)掘り下げれば水が出たという。それらの地下水は、京都盆地に広がる洪積層に含まれる、厚い砂礫層を潜った鴨川をはじめとする河川の伏流水である。良質の水脈は市内の北東から南西に向けていまも流れ続けている。それらを結ぶのは、下鴨神社、京都御所、神泉苑と、それに沿って名井が北東から南西方角に一線上に存在しているという説もある。
 また、近年、「京都水盆」という地下水の存在が注目を集めた。今から3億年-1億5000万年前に形成された、古生層といわれる地下岩盤の窪みに水が蓄えられているという。その大きさは、南北33km、東西12km、最深部は巨椋池の下で800mの深さがあり、体積は125立方kmある。注ぎ出ているのは天王山と男山間の幅1km、深さ30mの一箇所のみと推定されている。その貯水量は211億t、琵琶湖の270億tに匹敵すると推定されている。
鴨川の生物 鴨川の水質は一時悪化し、多くの生き物の姿が見られなくなった。だが、近年は水質が改善されてきている。水質調査結果によれば、三条大橋付近の1966年の鴨川の水1リットル当たりのBOD値は、28.7㎎だった。2001年は、0.8㎎、2002年は0.6㎎と改善されている。ただ、科学的な水質改善のデータが、生物の多様性復活に直結していない現状がある。(京都新聞「環境を考える 鳥の目 虫の眼 」)
◆魚類 鴨川に生息している魚類として、確認されていたのは、アユ、アマゴ、アブラハヤ、オイカワ、カワムツ、カマツカ、カジカ、ギギ、ギンブナ、クチボソ、コイ、ゴリ(カワヨシノボリ)、フナ、サギシラズ、ジモロコ、タナゴ、タモロコ、ドンコ、ドロマナズ、ドジョウ、ナマズ、ニゴイ、ハエ、ヒガイ、ボテジャコ、ムギツク、メダカがある。また、外来種・アメリカナミウズムシ、琵琶湖疏水よりテナガエビ、シジミ、ブラックバス、ブルーギル、カダヤシも流入している。また、ブラックバス、コクチバスなどの密放流もある。(釣りの未来と自然保護)。1988年時点で確認されていたのは、メダカ、タウナギ、カジカ、ドンコ、ヨシノボリ、ムギツク、モツゴ、コイ、ニゴロブナ、ゲンゴロウブナ、ギンブナ、ドジョウ、シマドジョウ、ギギ、ウナギ、アマゴ、アユ、タカハヤ、カワムツ、オイカワ、カマツカなどである。(『京都の動物Ⅱ』)。 京都府レッドデータブックによれば、絶滅寸前種としてアジメドジョウ(京都府南部地域個体群)、絶滅危惧種として、スナヤツメ、カワヒガイ、アカザがある。準絶滅危惧種としてアブラボテがある。絶滅危惧種のメダカは、京都市内ではほぼ壊滅状態にある。
 鴨川のゴリ(石伏、いしぶせ、サギシラズとも)は古くから知られていた。このゴリの独特の漁法から、「ごり押し」の言葉が生まれている。幕末-明治期には、鴨川のゴリの佃煮が京都の名産として土産に使われていた。サギシラズとは鷺も知らないという意味で、鷺が見逃す鴨川の小魚のことをいう。ただ、サギシラズとはゴリ(ヨシノボリ)ではなく、ハエジャコ(ハイジャコ)との説が有力になる。
 京都府の資料では、鴨川の魚類は27種が確認されている。
 そのほか、水生生物としては、シマイシビル、ヒラタビル、ミズムシ、サホコカゲロウ。カワニナ、外来種のアメリカザリガニがいる。(京都鴨川の魚たち)
 鴨川上流部では、1988年に国の天然記念物の両生類オオサンショウウオが発見されている。
 2007年4月から7月にかけ、岩滝川、高野川、鴨川で、京都成安高校生物部(現・京都産業大学附属中学高校生物部)の調査により、外来種のプラナリアの一種アメリカナミウズムシが定着していることが確認された。ナミウズムシは 鴨川水系では、上流から中流域にかけて分布する。アメリカナミウズムシは中流・下流域に生息する。アメリカツノウズムシの生息域は、在来種やアメリカナミウズムシよりもさらに下流にある。イズミオオウズムシも鴨川にも生息するが、まだ詳細は不明
◆昆虫 
鴨川の昆虫層は、「きわめて貧相」(『京都と周辺の山々』)とされる。セミは、ニイニイゼミ、アブラゼミ、クマゼミ、ツクツクボウシ、ミンミンゼミ、ヒグラシなどが見られた。最近は、ニイニイゼミが減り、クマゼミが増えている。1965年頃までは、ゲンジボタル、ヘイケボタルが見られた。現在でも、ゲンジボタルが確認されている地点もある。草むらには、キリギリス、トノサマバッタ、コバネイナゴ、ショウリョウバツタ、オオカマキリ、コカマキリがいる。だが、いずれも減少傾向にある。
 鴨川の蝶としては現在、34種類が確認されている。珍しい蝶としては、ムラサキツバメ、アカシジミ、そのほかにアオスジアゲハ、アカタテハ、アゲハ、イチモンジセセリ、ウラナミシジミ、オオウラギンスジヒョウモン、キアゲハ、キタテハ、キマダラセセリ、クロアゲハ、コミスジ、ゴマダラチョウ、チャバネセセリ、ツバメシジミ、ツマキチョウ、ツマグロヒョウモン、テングチョウ、トラフシジミ、ナガサキアゲハ、ヒメアカタテハ、ベニシジミ、ミドリヒョウモン、モンキアゲハ、モンキチョウ、モンシロチョウ、ヤマトシジミ、ルリシジミ、ルリタテハなどがいる。(『京都の蝶』)
 京都自然教室調査(2007-2008)によれば、50種以上が確認されている。モンキチョウ、ツマグロヒョウモン、キタテハ、ヒメアカタテハ、アオスジタテハ、ハグロトンボ、コオニヤンマ、ミヤマアカネ、セスジイトトンボ、ナガメ、キリギリスなど。みそそぎ川にはゲンジボタルも確認されている。
 ちなみに生態学者・今西錦司は、1935年3月-7月、鴨川中・上流域、貴船川などの源流部における水生昆虫カゲロウの生態調査(『採集日記 加茂川』)を行ない、ヒラタカゲロウ類4種の「棲みわけ」、つまり一定の順序をもって各種が配置されていること発見し、「棲みわけ」論展開の契機になった。
◆鳥類 日本野鳥の会京都支部により、鴨川で確認されている鳥類は約150になる。留鳥のスズメ、ハシボソカラス、ハシブトガラス、コサギ、ダイサギ、アオサギ、ゴイサギ、カルガモ、トビ、キジバト、カワセミ、ヒヨドリ、セグロセキレイ、キセキレイ、シジュウカラ、メジロ、カワラヒナ、ムクドリ。夏鳥はツバメ、コシアカツバメ。冬鳥はマガモ、オナガガモ、ヒドリガモ、アオサギ、ハクセキレイ、ツグミ、ジョウビタキ、ウグイス、アオジ、シメ、イカルなどがいる。京都府の資料では鳥類は55種が確認されている。(散歩道の鳥しらべ)
 京都自然教室調査(2007-2008)によれば、コサギ、ツバメ、アオサギ、ユリカモメ、ヒドリカモ、ノビタキなど52種が確認されている。
 ユリカモメ保護基金による、ユリカモメの鴨川への飛来調査(1987-2008)によれば、飛来数は年々減少傾向にある。1987年は7479羽(鴨川6528羽、高野川951)を頂点として、2008年は最低の971羽(鴨川968羽、高野川3羽)になった。(ユリカモメ保護基金 「数量調査」)。この要因として、生息地のカムチャツカ半島の営巣地で、近年乾燥化が進行し、ヒグマがユリカモメの卵やヒナを大量に捕食していることも一因に挙げられている。(『いのちの森』2005年) また、2008年は調査以来初めて1000羽を下回った。1年前に比べても340羽減っている。その原因については、繁殖地のロシア・カムチャツカ半島での生息数減少、地球の気候変動の影響による越冬地や越冬時期の変化などが原因としているとみられている。
 近年、鴨川で確認された野鳥数は増えている。例えば1980年代末から、鴨の仲間としてはオナガガモ、次いでカルガモ、コガモ、コアシガモなどが増えている。1970年代後半からはコサギが越冬し、1990年代からアオサギ、ダイサギなどのサギ類、カイツブリ、カワウが越冬するようになった。 これらの鴨川での「都市鳥」(urban birds)増加の要因はいろいろと挙げられている。鴨川が野鳥にとって安全であ.ること。市民による餌付け効果。鴨川の自然環境の回復とともに、本来の生息地であった周辺の自然環境の悪化による鴨川への退避などもあると見られている。(京都新聞「環境を考える 渡り鳥の生息域変化」)
 なお、鴨川の一部の中州、寄州では、野鳥の生息域確保のために、府京都土木事務所により草地を刈り残す試みが行われている。
 古典文学で度々取り上げられてきた「都鳥」は、ユリカモメのことであり、本来は京都にはいなかった。『伊勢物語』のなかで、都を発ち隅田川に着いた在原業平は、「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」と望郷の思いを歌った。和泉式部の古歌にも登場する。ただ、1974年以来、ユリカモメはカムチャツカ半島から鴨川にも飛来するようになった。10月頃-5月頃まで滞在し、ねぐらは琵琶湖である。また、先斗町の意匠「鴨川千鳥」として知られているのは、かつて鴨川でよく見られたチドリの仲間、イカルチドリではないかとみられている。
◆植物 鴨川河川敷に見られる樹木は、山城盆地にかつてみられた自然植生のエノキ、ムクノキ、ケヤキ、アキニレなどの落葉樹の大木、カエデなどの落葉樹、シダレヤナギ、サクラ、クロマツなどの植栽が主に見られる。京都府の草花は、河原撫子(かわらなでしこ)になっている。ナデシコ科の多年草で、3月-11月に、緋紅色、桃色、白色などの花が咲く。古くより鴨川の河原に自生し、古典にも数多く詠まれてきた。また、ヤマブキ、レンギョウ、ミゾソバ、ネタデなども植栽されている。京都府の資料では植物は15種が確認されている。
 京都自然教室調査(2007-2008)によれば、281種が確認され、その41%が外来種となっている。中州、堤防にはツルヨシ、ニオンハッカ、シャクチリソバ、アカツメクサ、セイヨウカラシナ、カラスノエンドウ、ネジバナ、オオオナモミ、アメリカネナシカズラ、ハキダメギク、樹木のオニグルミなどが見られる。 
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