賀茂祭・葵祭
Kamo-matsuri Festival (Aoi-matsuri Festival)

50音索引  Home

御所車が京都御所を出発


乗尻、御所


牛車、御所


御所


御所


下社


下社


斎王代の乗る腰輿、下社


斎王代、上社


下社




賀茂川にかかる御薗橋を渡る牛車、後方は北山
御薗橋は、昔は祭りの行列のために仮橋が設けられ、祭りの後には取り壊されていたという。



下社


下社


上社、斎王代


上社


【参照】フタバアオイの花、葉


 日本三代勅祭(葵祭、石清水祭、春日祭)、京都三大祭(葵祭、祇園祭、時代祭)の一つである賀茂祭(葵祭)は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の例祭で、毎年5月15日(近代以前は4月吉日・第二の酉の日)に行われている。 
 葵祭は平安時代初期から続く朝廷の行事であり、宮中の祭。祭りは、神幸列ではなく、天皇の使者・勅使が下鴨神社(下社)、上賀茂両神社(上社)への参向が特徴となっている。
◆フタバアオイ・桂 祭りの当日、参加者の挿頭(かざし)、社殿などを葵の葉(二葉葵、ウマノスズクサ科の多年草)と桂で飾る。この威儀物(いぎもの)としての二葉葵と桂を御葵桂(おんきっけい)ともいう。
 葵については、御神託により「吾に逢いたければ葵を飾り、祭りをして待てば地上に降りよう」(『賀茂日記』)とあるという。神武天皇の先導をした賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の娘・玉依比売(たまよりひめ、玉依日売)は、丹塗矢となって瀬見の小川を流れ下った火雷神(ほのいかづちのかみ)との間に、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を産む。玉依比売は、成長した賀茂別雷命に父は誰かと問うと、「天の神」と答え、雷鳴響き、天上へと上っていった。子に会いたいと思う玉依比売の夢に、賀茂別雷命が現れる。葵楓(あおいかつら)の蔓をつくり、祭事に飾って待てば現れる」と告げる。その通りに営むと、神山(こうやま)に賀茂別雷命が降臨し、再会を果たしたという。以来、葵祭(賀茂祭)にカツラ、フタバアオイの飾りを身につけるようになったという。葵の語源「あふひ」も、わが子に会いたいと願ったこの玉依比売命の神話に由来しているという。
 また、別雷神が生まれたという御形山(御蔭山)に、二葉の葵が生じた故事によるともいう。葵には雷と地震の厄除けにもなるともいう。葵は女性、桂は男性を象徴し、二つの植物が一つになることにより、神の御生(みあ)れを祈るともいう。また、両性和合・子孫繁栄との俗信もある。
 下鴨神社では、神紋二葉葵は、古くは「あふひ」と呼ばれ、「あふ」は「会う」「ひ」は神の力を表し、「神の力にあうこと」を意味していると伝えられている。なお、松尾大社もまた、同じ葵と桂の神紋を用いており、賀茂社との関わりがあるともいわれている。
 葵紋(三つ葉葵)の徳川家は、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後、途絶えていた祭礼の復興のために祭料の支援を行なった。このため葵祭と呼ばれるようになったという説もある。1610年より、上賀茂神社では、徳川将軍にフタバアオイを献上していたいい、1867年に途絶えていたが、2007年より復活した。
◆祭儀 賀茂の祭祀は、賀茂県主によって執り行われていた。
 祭の前儀として、「流鏑馬神事」「斎王代御禊の儀」「歩射神事」「御蔭祭」などさまざまな儀式が繰り広げられる。当日の祭儀は、「宮中の儀」「路頭の儀」「社頭の儀」の三つからなっている。「社頭の儀」は、斎王代が両社に参り、進物を神前に捧げる幣帛(へいはく)、「奉幣の儀」のことをいう。勅使役が祭文と幣物を受け取る「宮中の儀」はいまは行われていない。
 出発地の御所で、列立・進発の儀が執り行われ、「路頭の儀」となる。路頭の儀は、斎王代を初めとする一行が、御所から下鴨神社を経て上賀茂神社に向かう祭列をいう。
 王朝装束を身にまとった総勢約500人、牛馬40頭の行列が進む。約1kmにもなる行列は、京都御所の建礼門を午前10時半に出発し、下鴨神社(正午前)を経て、午後、鴨川の上流を目指し賀茂街道を北上し、上賀茂神社(午後3時半頃)へと到る。現在の列は、鴨川を三度渡る。出町橋、北大路橋、最後は御薗橋を渡って上賀茂神社に到着している。行列は5列からなり、先頭を切る警護列、幣物列、走馬列、勅使列、斎王列と続く。行列の中心は勅使列の勅使役・近衛使となっている。騎馬、牛車、風流傘、女人列、腰輿(およよ)など、それぞれ王朝絵巻に彩りをそえている。
◆歴史 祭りは、古くは「賀茂祭」「みあれ」「北の祭」、または単に「祭」とも呼ばれた。祭りは、四月の中の午後の日に行なわれていた。賀茂県主家を中心とした賀茂氏の豊作祈願のための祭りだったとも見られている。
 飛鳥時代、欽明天皇(539-571)の頃、544年(567とも)に、天候不順で五穀が実らず、農漁業の不作と不漁、飢饉が続き疫病が流行した。卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)が占ったところ、賀茂大神の祟りのためとされ、これを鎮めるために行われるようになったという。4月、馬に鈴をつけ猪頭を被った人が馬を駈けると豊年となり、以後乗馬が始められたという。(『秦氏本系帳』『日本書紀』『賀茂縁起』)
 また、上賀茂神社には、別雷神が神山に降臨した際に、神託により、奥山の賢木(さかき)を取り、阿礼(あれ)に立て、綵色(いろあや)を飾り、走馬、葵楓(あおいかつら)の鬘(かずら)を装い、祭りを行ったことに起源があるという。(『賀茂旧記』)
 また、天皇は賀茂社に使いをやり、武官が馬を馳せ(騎射、流鏑馬)、神人が面をつけ葛をつけて走り、豊饒祈願の祭りを行なったことに始まるともいう。この騎射は、あまりの人出、騒乱などにより、698年には禁じられ、その後も度々禁止された。競馬については、鎌倉時代以降も盛んに行われている。
 奈良時代、711年、賀茂祭には、国司により、祭りが無事に執り行われているかの検察をするようにという勅が下された。
 平安時代、嵯峨天皇(786-842)の頃、819年、中祀に準じられ、伊勢神宮の祭りと同格となる「勅祭」となっている。また、平城天皇の時、807年ともいう。祭りは国家行事となり、賀茂斎院の制(810)も定められた。貞観年中(859-876)には、勅祭としての儀式次第が定められている。
 1191年、後鳥羽天皇により祭りが華美となりき禁止されている。
 臣籍降下し源氏姓を名乗っていた宇多天皇(867-931)は、賀茂の神のご神託により、即位することができたとして、以後秋に「賀茂の臨時祭」が1870年まで続けられたという。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)中は、洛中での戦闘を避けるため、行粧は夜中に下鴨神社の社頭に参向されたという。乱後、室町時代の1503年から江戸時代、1694年まで行粧は中絶している。
 江戸時代、1694年、約200年ぶりの祭の再興に尽力したのは将軍・徳川綱吉だった。双葉葵は三つ葉葵により立ち直る。この時、「葵祭」と呼ばれるようになる。上賀茂神社からは、徳川将軍家にフタバアオイを運ぶ「葵使(あおいつかい)」が行われていた。なお、現在の行列に見られる武家風俗は、元禄期に再興されてから始った。
 なお、行粧の中断はあっても、たとえば下鴨神社社頭の儀は、約1400年間、一度も途切れることなく続けられている。
◆競馬 下社、上社とも馬との関係は深い。
 下社の流鏑馬(やぶさめ)神事(騎射、きしゃ)は、葵祭に先立ち、祭りが平穏無事に行われるように、道中を祓い清める意味がある。騎射の技は、『日本書紀』(457)に古墳時代に「騁射(うまゆみ)」、飛鳥時代、「馬的射(むなまと)」(682)の記述があるという。なお、糺の森からは、古墳時代の馬具が出土している。698年には、賀茂祭での騎射が禁じられたとの記述もあり、すでに行われていたとみられている。(『続日本紀』)
 流鏑馬神事の流鏑馬とは、馬を走らせながら、弓を放つと音がする矢鏑矢(かぶらや)を射ることによる。流鏑馬は「やぶさめ」、「やぼさめ」とも読まれ、「矢伏射馬」とも書かれた。流鏑馬と呼ばれるようになったのは、平安時代から鎌倉時代の後鳥羽上皇による下社への御幸以来ともいう。ただ、近代以前、下社では、流鏑馬ではなく「騎射」と呼んでいた。
 騎射は、平安時代後期(1096頃)に始まったともいう。騎射の武術は、鎌倉時代には武家社会で盛んに行なわれていた。 
 騎射も過去には幾度が中断している。室町時代、1502年の中断後、江戸時代、1694年に再興される。近代以降、東京遷都(1869)にともない中断後、式年遷宮奉祝行事(1973)以降に「流鏑馬神事」として復活し、1976年からは恒例化した。
 上社には、太古、賀茂別雷神が神山に降臨した際に、走馬などの祭りを行ったという伝承がある。朝廷からは、臨時祭、降雨祈願などの折に触れて馬が贈られ、また競馬が催されていた。
 上社の競馬(くらべうま、きそいうま、こまくらべ)は、もとは、宮中の武徳殿で5月5日の節会に、五穀豊穣、天下泰平を祈願して行われていたものだった。その際には、左方、右方に分かれ、二頭(番、つがい)が10番で競っていた。
 上社では、平安時代、1093年、19諸国の20荘園(たとえば東は三河国名島庄、西は周防国伊保庄など)から献上された2頭の馬により、10番の競馳が行われた。以来、乗馬、式、作法などの競馬会一式が宮中より奉納され、上社に引き継がれた。なお、「賀茂競馬」の初出は1203年という。(『賀茂旧記』)
 荘園から贈られた馬は「清い馬」といわれる野生馬だったため、馬術、調教術は上社独自の「賀茂悪馬(あくば)流」といわれた。
 その後も、室町時代の足利義満、義輝、義昭以来、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら武人の観覧、馬の奉納を受け続けた。江戸時代には、京都所司代より、例年、神馬用馬2頭が奉納されていた。当時の競馬の人気は、賀茂祭を凌ぐほどだったという。
 上社は、競馬発祥の地といわれている。なお、競馬の起源として、平安時代の惟喬親王と惟仁親王の皇位争いを競馬で決したという伝承もある。
◆賀茂斎王 古来より、未婚の女性を神の御杖代(みつえしろ)として遣わしていた。賀茂斎王は伊勢斎王に倣って始められている。その後、逆に伊勢斎王の整備も進んだ。9世紀に両者は、ほぼ同日の卜定になっていた。女性神職である賀茂の斎王(いつきのひめみこ)は、810年、嵯峨天皇の勅願により始められ、伊勢神宮の斎宮制に准じていた。以後、伊勢神宮を斎宮、賀茂は斎院(さいいん、いつきのみや)と区別された。
 嵯峨天皇の第8皇女・有智子(うちこ)内親王から、1221年の後鳥羽天皇の皇女・礼子(いやこ)内親王まで、35代、400年にわたり紫野の賀茂斎院が置かれた。斎王は、賀茂社の葵祭などの祭事に奉仕していた。
 810年の平城太上天皇の変(薬子の変)が、賀茂斎王制の契機になっている。嵯峨天皇の同母兄・平城(へいぜい)上皇との皇位争いが起きた。平城上皇は、一度嵯峨天皇に譲った皇位復位のために挙兵した。上皇の寵愛を受けていた藤原薬子(藤原式家種継の娘)と兄の仲成らが、桓武天皇による長岡京放棄・平安京遷都に不満を抱き、平城京復遷都、平城上皇復権を画策した。乱後、嵯峨天皇は旧都平城京と決別するとともに、新都平安京の安定化に向けた施作のひとつとして宮廷文化の賀茂斎王を位置づけた。また、有智子内親王が斎王奉仕となったのも、嵯峨天皇が乱の平定を賀茂の神に祈念して勝ち、事態が終息したことから、約束どおり皇女を神に奉仕させることになった。
 天皇即位にともない、未婚の内親王から賀茂斎王が卜定により決められ、参議以上の殿上人を勅使として遣わされ、賀茂両社に告げられた。原則として天皇の譲位、死去まで続けられた。ただ、必ずしも、代替わりごとに退下することもなかった。
 斎王は、鴨川で禊して御所の初斎院に入る。毎日、潔斎し、朔日には、賀茂神を遥拝していた。3年後の四月上旬吉日、再び鴨川で禊を済ませ、紫野の斎院(紫野院、船岡山の東、現在の櫟谷七野神社付近ともいう)に住んだ。
 年に一度の祭事の際には、斎王は御所車に乗り、勅使以下の行列は、斎院から一条通を東へ進み、下社、続いて上社へ参向した。この「斎王潔斎」(帰りは還立)は見物人で賑わった。下社では糺の森・鴨川近くに建てられた「神館(こうだち、かんだち)」に入った。鴨の河原に設けられた「行宮」(かりのみや、河原屋)で、「河原祓」が行われていた。上社でも、祭儀が執り行われ、御阿礼所前に建てられた神館に宿泊した。翌日、上社を発し、御薗橋を渡り雲林院の前を通って斎院に戻っていた。この還立もまた見物人で賑わった。
 初代の有智子内親王は、漢詩人として知られていた。選子(のぶこ)内親王、みわ(示+其)子内親王、式子(のりこ)内親王なども文学の造型深い斎王だった。
 水と葵祭の関わりとしては、葵祭にあたり斎王代が御禊(みそぎ)神事を行う。上賀茂神社を流れる「御手洗川」で禊、橋殿では祓い、また、下鴨神社の摂社・御手洗神社前の御手洗池南庭でも禊が、隔年交代で執り行われている。かつては、鴨川の水でみそぎが行われたこともあった。それが行われなくなったのは、斎院が廃止されたことによる。また、戦乱の乱世後、鴨川が汚されたからとの説もある。近世には、祭りに先立って一条付近に仮橋が架けられることもあった。また、「鴨河辛橋」も架けられたという。(『三代実録』『日本紀略』
◆斎王の装束 眉は、本眉(天上眉)を描く。髪は垂髪(おすべらかし)といわれ、丸髷(かもじ)が入り、前髪が膨らんでいる。金枝の心葉(こころば)に、銀の梅花の飾金具(釵子、さいし)を簪(かんざし)でとめ、額櫛を上向きに挿す。
 長髪を付け、後ろに長く垂らす。額の左右に、蜷(にな)結びした日蔭糸(ひかげいと)を付ける。
 装束は、上は単衣(ひとえ)の上に、五衣(いつつぎぬ)、打衣(うちがさね)、表着(うわぎ)、唐衣(からぎぬ)を重ねる。
 下は長袴に、単衣を着る。その上に、腰には裳(も)を付け、大腰、小腰で締める。持ち物は、飾り花のついた桧扇(ひおうぎ)、懐には紅色の帖紙(たとうがみ)を差す。
◆前儀 葵祭の前儀としては下鴨神社の流鏑馬神事(5月3日)、斎王代御禊、また東游(あずまあそび)の奉納で知られる御蔭祭・切芝の神事(5月12日)、上賀茂神社では、最も古い神事で秘儀の御阿礼(みあれ)神事(5月12日夜)が丸山で行なわれる。
◆伊勢斎宮 「斎宮」(斎王)は伊勢神宮に仕えた内親王をいう。その歴史は、飛鳥時代(白鳳時代)、壬申の乱(672)にまで遡るという。賀茂の斎王より歴史は古い。
 天智天皇没後、大海人(おおあまの)皇子(後の天武天皇)と大友皇子による皇位争いの際に、大海人皇子が伊勢神宮に戦勝祈願している。その御礼に娘の大来皇女(おおくのひめむこ)を伊勢神宮に送ったことに始まるという。以後、南北朝時代までの約660年に60人以上が選ばれた。
 斎宮は宮中での一年間、洛西の野宮で一、二年の潔斎の後に伊勢神宮に赴いた。斎宮は、御所大極殿で天皇より黄楊櫛(6cm)を髪に挿され、別れの言葉を述べた。斎宮の行列は群行と呼ばれ、出発は深夜に行われた。伊勢まで5泊6日、総勢500人の大行列となった。
◆源氏物語 『源氏物語』第9帖「葵」巻、一条大路での葵上と六条御息所の「車争」は、葵祭の見物場所を巡る諍いの場面としても知られる。『枕草子』五段でも、祭り前の人々の様が取り上げられている。『今昔物語』には、東国武士が慣れない牛車に車酔いして見物する様がある。
◆近代以降 戊辰戦争期(1871-1884)、東京遷都に伴う混乱により、1869年から1885年の間も中断している。この間は、奉幣使のみが参向していた。岩倉具視の「賀茂祭・石清水祭再興の建言白」(1883)により、翌年
1884年に、官祭として祭りの再興につながった。この際に、それまでの氏神信仰に関わる儀式は分離された。現在も行われている祭りの関連行事はこの時以来のものとなった。
 第二次世戦中・戦後(1943-1952)と戦火により中断があった。戦後は、財界、学者、市民により再び復活している。
 斎院の廃止にともない、以後の祭りでも斎王不在のままで続けられた。祭りの復興の後も、主役不在という状況が長らく続いた。現在の「斎王代」については、1957年より始まっている。斎王の代理という意味であり、毎年、京都在住の民間、未婚の女性から選ばれるようになった。

おもな列立 *順番は重複しているもの、資料により違うものもあります。読みについても、複数あるものもあります。

 警護列  乗尻(のりじり、騎馬で競馬会神事の乗尻)  素襖(すおう、先払い、江戸時代より)  看督長(かどのおさ)・火長(かちょう) 検非違使志(けびいしのさかん、騎馬、弓矢)、 童、調度掛(ちょうずがけ)、鉾持(ほこもち)、如木(にょぼく)、白丁(はくてい)  検非違使尉(けびいしじょう、騎馬、弓矢)  山城使(やましろつかい、騎馬、国司長の次官) 馬副、手振、童、雑色、執物舎人、白丁

 幣物列(内蔵寮の官の列)  退紅(たいこう)  衛士(えじ)  御幣櫃(ごへいびつ)  内蔵寮史生(くらのりょうのししょう、騎馬、内蔵寮の役人)

 走馬列(馬寮の官の列)  馬部使(めりょうづかい)  走馬  馬寮使(めりょうづかい、騎馬、牽馬の担当役人) 

4 勅使列(勅使舞人倍従の列)  牛童(うしわらわ)、口付(くちつけ)、車方  牛車(御所車)  大工職、雨皮(あまかわ)、掛竿、橋持、榻持(しじもち)  替牛、 和琴(わごん)  舞人(騎馬)  走雑色(はしりざつしき)、朧(くとり、有+龍)  勅使(近衛使、騎馬、四位近衛中将、現在は宮内省掌典職役人)  馬副、随身(ずいしん)  居飼  手振(てぶり)  朧(くとり)、牽馬、(替馬)  小舎人童(こどねりわらわ)  風流傘、執物舎人(とりものとねり) 陪従(べいじゅう、騎馬、雅楽を奏する近衛府五位の武官)  内蔵使(くらづかい、騎馬、内蔵寮の次官、勅使の奏上する御祭文を棒持する)  馬副、随身、居飼、手振、童、風流傘、執物舎人  ほかに前導(神職)

 斎王列女人列 蔵人所倍従(くらうどところのべいじゅう、斎院蔵人所の雅楽を奏する役人)  火長(かちょう)  命婦(みょうぶ、一般女性)、女嬬(にょじゅ、食事を司る) 童女(わらわめ)、 斎王  輿長(よちょう)、輿丁(よてい)  采女(うねめ、斎院の神事を司る、地方豪族の娘)  騎女(うまのりおんな、むなのりおんな、むまのりおんな、騎馬、神事を司る)  女別当(にょべっとう、おんなべつとう、女官を監督する)  内侍(ないし、貴族の娘出身の女官)  蔵人所陪従(くろうどどころべいじゅう) 牛車(女房車)


京都御所から上賀茂神社までの道のりは約8キロ、行列は700m、人は総勢500人、馬36頭、牛4頭、行列の経費は3500万円


*参考文献 『下鴨神社今昔 甦る古代祭祀の風光』『日本の古社賀茂社 上賀茂神社・下鴨神社』『神の游庭(かんあそひのゆにわ)』『葵祭の始原の祭り 御生神事 御蔭祭を探る』『葵祭(賀茂祭)』『京都の三大祭』『京都・山城寺院神社大事典』『意外と知らない京都』
 

             上賀茂神社     下鴨神社     御蔭神社    七野神社      葵祭・前儀式     嵯峨天皇皇女・有智子(うちこ)内親王墓
社頭の儀

下社、社頭の儀
 賀茂祭当日、両社では「社頭の儀」が行なわれる。神事のほとんどは、一般には非公開で行なわれる。
 神事には多くの仔細な手順がある。下社では、近衛使以下の一行は第二鳥居から徒歩で参道を進む。検非違使、山城使は楼門の内外で警護に就く。楼門内での社頭の儀は、勅使によって行なわれる。勅使は舞殿で祭文と幣物を奉ずる。「牽馬(ひきうま)の儀」、舞人の「東游」(あずまあそび)の奉納、馬場での「走馬の儀」などが行なわれる。
 上社の社頭の儀は、第二鳥居前の内外で、検非違使、山城使は警護に就く。勅使は、一の鳥居から二の鳥居を練歩し、橋殿(舞殿)に向かいここでも祭文と幣物を奉ずる。その後、「牽馬の儀」、「東游」が奉納される。その後「走馬の儀」が行なわれ、一の鳥居から二の鳥居までを一頭ずつ疾走する。  さらに、一部の馬10頭ほどが、社殿北にある御阿礼野(みあれの)で、神事の後、御阿礼所まで「山駆」(やまがけ)を行なう。これらは賀茂県主一族により執り行われる。走馬奉行が神籬に向い祝詞を奏上、乗尻も祈り、その後乗尻は乗馬し、一頭ずつ神籬(ひもろぎ)の手前までの山道を疾走する。御阿礼所には3mほどの榊の木が植えられているという。

 *両社の「社頭の儀」、上社の「山駆」は非公開。


下社、「走馬の儀」


上社、社頭の儀

上社、「走馬の儀」

上社、社頭の儀斎王代、女人は神館(こうだて)という仮屋に入り、神事を見守る。神館は「こうたち」ともいわれて、御生野(みあれの)の斎王の仮屋を意味した。

上社、「山駆」(やまがけ)の神事

上社、「山駆」

上賀茂神社の北に丸山(149m)があり、さらにその北に神山がある。丸山の西麓にみあれ所(御阿礼所、御生所、御生野、御生所野)がある。小円山は、137m。蟻が池は阿礼ヶ池とも書かれていたという。
50音索引  Home   50音索引  Home  
© 2006- Kyotofukoh,京都風光 http://www.kyotofukoh.jp